<文芸春秋 令和元年6月特別号/新連載 第一回 「醜」>
◉ <…だから、「何かに憧れたり、ひととき、我を忘れる時間を作ろうとする。
それによって、醜い自分や居心地の悪さから飛躍できる>
芸術家は、己の醜さからの解放を求め、結果的に美を生み出すことになる。
「憧れる」の語源は、「あくがる」だ。「あく」とは、場所を指し、「かる
(がる)は「離れる」を意味する。つまり、ある場所から「離れる」を意味する。
肉体は、その場に止まっても、想念は飛躍する。そんな想いが、憧れを醸成する。
玉三郎の舞踊は、立ち姿から一挙手、一投足に魂が籠っている。肉体のみならず、
衣裳の隅々までが、生を得たようにその場を支配する。
それは、やがて、劇場をのみ込み、その時空をまるごと無我の境地に誘う。
その舞踊も、また憧れにある。
◉ <人間は、常に何かに縛られている。きちんと座っていなくてはならないなど
の日常の小さなことはもちろん、社会のしがらみにもがくとか、日本という国
から抜出せないとか。それは肉体的、現実的な縛り。本当は魂は自由なはずですが、
日々の拘束によって魂も縛られいく。そこから、一瞬飛躍するというか、飛ぶ、
あるいは飛ぶことによって解放される。舞踊とは、ある種の引力からの解放です。>
◉ <頭脳明晰の優等生が美を語る時は、とても理論的で多弁だ。その上、何でも
褒めちぎる。まるで自らがその現象に美のお墨付きを与えるかのようだ。
そして、彼らが語れば語るほど、聞く側には美が直感できなくなる。
おそらく、美というものを類型的で相対的に理解してしまうからだ。
だが、美は絶対的なものであり、直感的なものだ。 だから玉三郎は、
「魂でしか感じ取れない」と断言する。
<魂がなくなる時代が来ていると思います。心のあり方を情報化あるいは
数値化してしまい、醜いも、美しいも、見分けがつかない社会になって
しまったからです」
それは美の世界だけに限らないのではないか。21世紀人類は、非人間的、すなわち
自然の中に存在する生き物であることを自覚できない社会にひたすら進んでいる。
インターネット、AI,自動運転など… 利便性と万能なる科学に依存し、能動的に
生きることを放棄している。美を魂で感じると言えば笑われる時がくるのだろうか。
… 「現代社会はh情報があふれ、表層的になってしまった。なのに、情報の本質を
掴めないでいる。なぜなら『実』を見てないから。でも、そんなことさえ気にしなく
なった」 …魂が希薄になる時代の到来―― それは、絶望の時代の到来でしょうか。
―
▼ 何度も、自己超越について書いてきた。美を感じとる直感と酷似する。
その魂の本質は、自己超越である。フランクルは、死の収容所で、その醜く、
居たたまれない環境の中で、人間が持ちうる「愛の実<実>を見つめた。
―フランクルのー自己超越のための3つの意味(価値)ーである。
1・創造価値: 創造行為を通して得られる意味 =仕事・子育て・学問・芸術
2・体験価値: 体験を通して得られる価値・意味 =自然・芸術・愛
3・態度価値: 運命に対し模範的な態度を取ることで得られる価値・意味=
極限状況の中での尊厳ある態度。 <よく働き、よく遊び、よく学ぶこと>
ー人生には発見されるべき価値や意味があるー
何でまた、<玉三郎、かくかたりき> にフランクルか? 死と生の境目の劣悪の
環境で「人間の愛の美」と、「究極の精神の飛躍」を見出していたのである。
人間は本来、自由のはず。日々の拘束によって縛られた魂が、トリップすることで
美を感じとる。美と醜の混濁の中でこそ、実感できる跳躍。人生の本質である。
――――
2003/09/20
《V・E・フランクル》について
十数年前にフランクルの「夜と霧」を読んで感銘した。
そして数年前、春秋社の以下の彼のシリーズをむさぼり読んだ。
人生丁度まがり角であったためであろう。
その意味の深さー絶対的人生の肯定に魂を揺さぶられた思いであった。
彼の「意味」発見のための3つの問い
「私は、この人生で,今何をすることを求められているか」
「私のことをほんとうに必要としている人は誰か。
その人は、どこにいるのか」
「どの誰かや何かのために、私のできることには、何があるか」
この3つを常に念頭において生きることが,『なすべきこと』
『満たすべき意味』を発見するための手がかりになると、
フランク心理学では考えている。
特に以下の分析のは深く納得をした。
ー自己超越のための3つの意味(価値)ー
1・創造価値: 創造行為を通して得られる意味
=仕事・子育て・学問・芸術
ー力への意志
2・体験価値: 体験を通して得られる価値・意味
=自然・芸術・愛
ー愛への意志
3・態度価値: 運命に対し模範的な態度を取ることで得られる価値・
意味ロゴスの覚醒=対象との一体化
※自身が何らかの喜びに満たされていること
ー知への意志
人生には発見されるべき価値や意味がある
(1)意志への自由 (いかなる境遇でも自由意志を持つことができる)
(2)意味への意志 (意味と目的を発見し充足するのは人間の努力である)
(3)人生の意味 (創造・体験・態度生きる姿勢の中に意味を見出す)
ー生きることは価値判断(学習)と選択の連続である
ー私が読んだ本は以下であるー
・「夜と霧」:ドイツ強制収容所の体験記録
V・E・フランクル 霜山徳爾(訳) みすず書房 1985年
・「それでも人生にイエスと言う」
V・E・フランクル 山田邦男・松田美佳(訳)春秋社 1993年
・「宿命を超えて、自己を超えて」
V・E・フランクル山田邦男・松田美佳(訳) 春秋社 1997年
・「<生きる意味>を求めて 」
V・E・フランクル 諸富祥彦(監訳)
上嶋洋一・松岡世利子(訳) 春秋社 1999年
・「フランクル回想録:20世紀を生きて」
V・E・フランクル 山田邦男(訳) 春秋社 1998年
・「どんな時も、人生に‘YES’と言う
諸富祥彦 大和出版
ー印象的なところを「検索」で調べてコピーしたー
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『夜と霧』(みすず書房、1971年新版)
収容所での体験を描写することによって語っているのは
「人は変えようのない運命に直面したときでも、それに対して取る゛態度゛と
いうのは自ら選ぶことができる」という真実です。
「精神的自由、すなわち環境への自我の自由な態度は、この一見絶対的な強制状態
の下においても、外的にも内的にも存しつづけたということを示す英雄的な実例は
少なくないのである。強制収容所を体験した人は誰でも、バラックの中をこちら
では優しい言葉、あちらでは最後のパンの一斤を与えて通って行く人間の姿を
知っているのである。そしてたとえそれが少数の人数であったにせよ
――彼等は、人が強制収容所の人間から一切を取り得るかもしれないが、しかし
たった一つのもの、すなわち与えられた事態にある態度をとる人間の最後の自由、
をとることはできないということの証明力をもっているのである。「あれこれの
態度をとることができる」ということは存するのであり、収容所内の毎日毎時が
この内的な決断を行う数千の機会を与えたのであった。その内的決断とは、人間
からその最も固有なもの――内的自由――を奪い、自由と尊厳を放棄させて外的
条件の単なる玩弄物とし、「典型的な」収容所囚人に鋳直そうとする環境の力に
陥るか陥らないか、という決断なのである。」
生きていれば、誰しも避けがたい苦悩に直面するわけですが、そういったときに、
「どのような゛態度゛を取るのか」というコトが問題となってくるのだと思います。
変えられない運命に絶望しニヒリズムに陥ることや、責任を転嫁して他者を恨む
こと、現実逃避のために自暴自棄になることは簡単だけれども、フランクルは、
そういった態度は人間としての自由と尊厳を放棄した態度だと言っているのだ
と思います。
「~生命そのものが一つの意味をもっているなら、苦悩もまた一つの意味をもって
いるに違いない。苦悩が生命に何らかの形で属しているならば、また運命も死も
そうである。苦悩と死は人間の実存を始めて一つの全体にするのである。
一人の人間がどんなに彼の避けられ得ない運命をそれが彼に課する苦悩とを
自らに引き受けるかというやり方の中に、すなわち人間が彼の苦悩を彼の十字架
としていかに引き受けるかというやり方の中に、たとえどんな困難の状況にあって
もなお、生命の最後の一分まで、生命を有意義に形づくる豊かな可能性が開かれ
ているのである。」
変えようがない事実そのものをそのまま認識し、そこから自分はどうするのか
・何が出来るのか、といった自らの可能性を考える態度。それは、苦しみを受け入れ、
苦しみに耐えながら、苦しみと共に生きていこうとする態度。人はこのような
苦悩を正面から受け取る態度を取ることによって初めて、その苦悩を乗り越え、
自己をさらなる高みに引き上げることが出来るのだと思います。ここにおいて、
苦悩の持つ意味・価値が創り出されるのでしょう。
フランクルは、このように苦悩を超えることによって生み出された価値と
いうのは、他の価値とは次元の違うものであるとしています。
彼は、それは如何なる外的状況(例えば、傍から見れば「失敗」であったり
「不幸」であったり「悲惨」であったりするような状況)に関係なく得る
コトの出来る価値だと述べています。
このように、苦悩を自己の飛躍へと転化することというのは、きっと誰にでも
可能なことなのだろう、とわたしは思います。わたしたちの苦悩が収容所での
経験を凌駕するほどの悲惨なものでないのなら、この、人間が運命に対して
挑むことの出来る唯一のやり方、「事実を受け入れ、そこから生きていくという
姿勢を取るコト」は、わたしたちにも可能だろうと思うのです。フランクルも
本の中で、このような態度を取ることが出来た人が過去において一人でもいたと
いう事実そのものが、「人間がその外的な運命よりも内的にいっそう強くありえる」
ということの証しとなると述べています。
わたしたちはともすれば、自分を取り巻く様々な運命的な制限(生まれや能力、
容貌、環境などなど)に落胆し、成す術もなく空虚な気分になりがちなワケですが、
しかし、これらの変えようのない事実をしかと受けとめ、その苦しみに塗れ
ながらも、どうにかして何かをしていこうという姿勢こそが、わたしたちを
内的な成長へと導いてくれるのだとフランクルは言っています。収容所の中でさえ、
そのような偉大な所業を成し遂げた人間がいるのなら、現代に生きるわたしたちに
出来ないはずがないでしょう。全ての苦しみをかかえる人が、それぞれ立っている
場所から自己と自己に与えられたモノを見つめることによって、それぞれの意味を
見出し、苦しみを乗り越えることが出来るはず。わたしはそう思っていたりします。
「真の運命を正しく耐え、率直に苦悩することは、それ自身、行いであり、まさに
人間に許される最高の成就であり業績である。」(『神経症の理論と治療』より)
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「夜と霧」からの抜粋
ー内面化と内的豊かさ
人間が強制収容所において、外的のみならず、その内的生活においても陥って行く
あらゆる原始性にも拘わらず、たとえ稀ではあれ著しい”内面化への傾向”があった
ということが述べられなければならない。
元来精神的に高い生活をしていた感じ易い人間は、ある場合には、その比較的繊細
な感情素質にも拘わらず、収容所生活のかくも困難な、外的状況を苦痛ではあるに
せよ彼等の精神生活にとってそれほど破壊的には体験しなかった。なぜならば彼等に
とっては、恐ろしい周囲の世界から精神の自由と内的な豊かさへと逃れる道が
開かれていたからである。”かくして、そしてかくしてのみ繊細な性質の人間が
しばしば頑丈な身体の人間よりも、収容所生活をよりよく耐え得たという
パラドックスが理解され得るのである。”
若干の囚人において現れる内面化の傾向は、またの機会さえあれば、芸術や自然に
関する極めて強烈な体験にもなっていった。そしてその体験の強さは、われわれの
環境とその全くすさまじい様子とを忘れさせ得ることもできたのである。
~中略~
あるいは一度などは、われわれが労働で死んだように疲れ、スープ匙を手に持った
ままバラックの土間にすでに横たわっていた時、一人の仲間が飛び込んできて、
極度の疲労や寒さにも拘わらず日没の光景を見逃せまいと、急いで外の点呼場まで
来るようにと求めるのであった。そしてわれわれはそれから外で、西方の暗く燃え
あがる雲を眺め、また幻想的な形と青銅色から真紅色までのこの世ならぬ色彩とを
もった様々な変化をする雲を見た。そしてその下にそれと対照的に収容所の荒涼と
した灰色の掘立小屋と泥だらけの点呼場があり、その水溜りはまあだ燃える空が
映っていた。感動の沈黙が数分続いた後に、誰かが他の人に「世界ってどうして
こう綺麗なんだろう」と尋ねる声が聞こえた。
ー運命としての苦悩を受け入れる
かかる人々は、著しく困難な外的状況こそ人間に内面的に自らを超えて成長する
機会を与えるものだということを忘れているのである。収容所の外的な困難さを
内的な試練の試みに変える変わりに、彼等は現在の存在を真面目に受けとらず、
それをある重要でないものに貶め、過去の生活に思いを寄せることによって現在
の前では目を閉じるのが最も良いと考えるのである。
ところで具体的な運命が人間にある苦悩を課する限り、人間はこの苦悩のなかにも
一つの課題、しかもやはり一回的な運命を見なければならないのである。
人間は苦悩に対して、彼がこの苦悩に満ちた運命と共にこの世界でただ一人一回
だけで立っているという意識にまで達せねばならないのである。
何人も彼から苦悩を取り去ることはできないのである。
”何人も彼の変わりに苦悩を苦しみぬくことはできないのである。
”まさにその運命に当たった彼自身がこの苦悩を担うということの中に独自な
業績に対するただ一度の可能性が存在するのである。
・『 人間など,いくら優秀でも大したことはできない.
真に偉大な業績は,宇宙の力を借りて行う.』
・『 人間は近くに,神は遠くに幸福を見る.
神の視点は,人間よりも常に遠いところに置かれている.』
・『 虚栄と誇りは違う.虚栄を満たすには他者を必要とするが,
誇りは他者を必要としない.』
・『 人生に何かを期待するのは間違っている.
人生が,あなたに 期待しているのだ.』
・『 信じてもダメかもしれないが,
信じなければ,実現するものもしなくなる』
・『 絶望とは,
もうすぐ新しい自分と新しい希望が生まれてくるという
前兆である.』
・『 運命は何のために訪れるのか、本当の自分に目覚めるために.』
・『 名優は,いかにさえない役を演じても輝き,大根役者は,いかに
輝かしい役を 演じてもさえない.輝きこそが人生の幸福を決める.』
・『 人生の幸福は,どれだけ快楽を得たかではなく,
どれだけ感動を得たかによって決まる.』
・『 愛の喜びは,捕まえようとすると逃げていく.
愛を表現するときにのみ,それはやってくる.』
・『 自分を忘れ,仕事や人間に愛を傾ける人.そんな人にはすべてが
ひとりでにやってくる.成功も楽しみもである.』
・『 あなたがいるだけで世界は意味をもつし,生きている意味があると
思わせる人生こそ最高だ.』
・『 いくらすばらしい技術があっても人は癒せない.人間的な
触れ合いと愛の交流がなければ.』
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【それでも人生にイエスという
(春秋社,V・E・フランクル)】
『 私たちが「生きる意味があるか」と問うのは,はじめから誤っているのです。
つまり,私たちは生きる意味を問うてはならないのです。
人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。
私たちは問われている存在なのです。私たちは,人生がたえずそのとき
そのときに出す問い,「人生の問い」に答えなければならない,
答えを出さなければならない存在なのです.
生きること自体,問われていることにほかなりません.』
『 生きるということは,ある意味義務であり,たったひとつの重大な責務なのです.
たしかに人生にはまたよろこびもありますが,そのよろこびを得ようと努める
ことはできません… よろこびはおのずと湧くものなのです.しあわせは,けっして
目標ではないし,目標であってもならないし,さらに目標であることもできません.
それは結果にすぎないのです.』
『 私たちは,いつかは死ぬ存在です.私たちの人生は有限です.私たちの時間は
限られています.私たちの可能性は制約されています.こういう事実のおかげで,
そしてこういう事実だけのおかげで,そもそも,なにかをやってみようと思ったり,
なにかの可能性を生かしたり実現したり,成就したり,時間を生かしたり充実
させたりする意味があると思われるのです.死とは,そういったことをするように
強いるものなのです.ですから,私たちの存在がまさに責任存在であるという裏には
死があるのです.』
『人生に重みを与えているのは,ひとりひとりの人生が一回きりだということだけで
はありません.一日一日,一時間一時間,一瞬一瞬が一回きりだということも,
人生におそろしくもすばらしい責任の重みを負わせているのです・
その一回きりの要求が実現されなかった,いずれにしても実現されなかった時間は,
失われたのです.「永遠に」失われたのです.しかし逆に,その瞬間の機会を
生かして実現されたことは,またとない仕方で拾われて現実になったのです.』
『 肉体がなくなってもなくならず,私たちが死んでもなくならないもの,
私たちの死後もこの世にのこるのは,人生のなかで実現されたことです.
それは私たちが死んでからもあとあとまで影響を及ぼすのです.』