<本を読む人だけが手にするもの>藤原和博
  * とにかく乱読でいいから、読みなさい
今さら読書効果論でもないが、著者は平易に、丁寧に、解明している。
 背表紙の説明文に、『これからは、身分や権力やお金に‘階級社会’
ではなく、「本を読む習慣がある人」「そうでない人」に二分される
‘階層社会’がやってくる』と述べる。
情報化社会では、膨大な情報の中から、選択し、読み解く力が必要。
「本を読む層の人」は、「本を読んでない階層」の人を直ぐに識別する。
教養のあるなしより、「読んでる層、読んでない層」の階層分類の表現
の方が分かりやすい。私のように半世紀以上、欠かすことなく毎日、
読書を続けても、教養が身についたかと問われれば、返事に窮すが、
「本を読む層か」と、問われれば、イエスといえる。
 〜まず目に付いたのが、以下の内容〜
≪ ・‘ヘビー読者層とは月に3冊以上読む読者と言われる’
 ヘビー読者層が全国に1,654万1千人いるが、この人達がライト読者層と
 共に出版業界を支えてきたと言ってもよい。
・ ‘両親が読まないと子供も読まない’
 全体で『読まない』と回答した比率が46.1%で、年代別で目立つのは
 10歳代と60歳代以上。本当の本好きと考えられる『5冊以上読む』と回答
 している人の比率は60歳代であろうと10歳代であろうと年齢層でも大きな
 開きは無いことが読み取れる。『朝の10分間読書』や『本の読み聞かせ』
 などで、読書の楽しさを知って もらおうと全国の小・中・高校で取り
 組んでいるが、これらの読書運動は、やらないよりはやった方が良いが
 アンケートでは、両親が読まないと子供も読むことが長続きしないとの
 結果も出ている。『子供は親の背中を見て育つ』と言うくらいで家庭の
 習慣が良く出てくると言われている。 ≫
▼「読んでいる人」は「読まない人」を直ぐ識別するが、読んでない人も、 
識別されていることに何となく気づくが、その意味の深さを理解できない。 
知的コンプレックスを持つが、次の段階の読書習慣を持つことなく一生を
終える。世の中には言葉の持つ重要性が理解できない人が多く存在する。
なぜ出来ないか? 読書の習慣化で言葉を読みとく能力を持たないため。 
「聞く力」と、「話す力」のベースが、読書にあることに気づいてない。
著者は、そのことを明快に提示している。次回から、各章単位で考えてみる。

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5368,世間、社会、会社の意味とは ー?
2015年11月25日(水)
        ーなぜ日本人は「世間」を気にするのかー三浦朱門
   * 日本の世間は稀有な条件下で育まれた人間関係である。
 自然発生の「世間」は馴れ合いで、「社会」は厳格な原則がある。
その辺りが、分かれ目となる。日本は島国で、異種混合が少ない世界。
そのため、「郷に入っては郷に従え」の馴合いになっていく。
≪ 世間というのは、馴れ合い同士の人間的つながりが、社会というのは、
一定の利害を共にする人間集団で、そこでは個々人の思想や行動の自由、
あるいはメンバーの行動規範の違いが前提となっているといってよい。
日本の世間は、千年余にわたって外国からの侵略もない、海に囲れた地域の
中で育ってきた人間関係。
 しかし社会とは、歴史的にさまざまな過去を持ちながら、たまたま利害を
共有する面があって同じ地域で一緒に生活する、といった人間関係です。
そこには他者と自分の間にシキリを設けるというか、あくまでも他人と自分
との間の越えてはならない障壁があることが前提となっているようです。
 世間には、人と人を隔てる障壁があろうとも、それを取り除こうとする
動きがあるように見えます。そのような形で、人と人を結びつける世間ですが、
それは無限のものではありません。具体的には、外国人に接するとき、日本の
世間の延長のつもりでいると、相手は妙な顔をするし、第一、言葉が通じません。
 岩手の人と鹿児島の人は、自分たちの日常の言葉では意味の通じないことが
あるかもしれませんが、それでも、NHKテレビの言葉にできるだけ似せて話せば、
まず、会話が成立しない、ということはないでしょう。
 しかし、相手が外国人であれば、どうもなりません。
つまり、世間というものには一定の範囲があって、それは別の言い方をすれば、
日本という地域、そして日本人という顔ぶれの範囲、ということになりましょう。
私がこの本で書いてきたことは、一言でいえば、「日本、そして日本人とは?」
ということなのかもしれません。つまり、日本人は世間を通じて一体となって
いるのです。≫
▼ 都会で、「田舎もの」という地方出身者を馬鹿にした言葉がある。
 都会に出て初めに意識するのが「田舎もの」の自覚。そこには、地方に
存在してない様々なタイプの存在に、孤独の群集に馴染めず、孤独に陥る。
そこで、都会という身近な「世間」に、まずは同調せざるを得なくなる。
そこには、契約で結ばれた部分と、暗黙の契約の存在がリアルにある。
それを逸早く察知できるかどうかが、当面の問題になる。今では、社会?の
隅々まで、外国人が存在しているため、「世間的側面」より「社会的側面」の
必要性が大になる。資本主義社会が世界の主流のため、価値基準が、お金と、
有効利用でリアルに判断される。「隣の人は何する人よ?」など論外になる。
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5003,河合隼雄 ー私が語り伝えたかったこと 〜?
2014年11月25日(火)
            ー「私が語り伝えたかったこと」河合隼雄
  * 先住民の老人たちの品格ある姿
ユングがみた先住民の品格ある老人たちは「自分の生の価値」を確信していた。
人生を自信を持っていく抜くためには、「生の価値(意味)」を知っておかな
ければならない。それを知り得るかどうかで、人生は大きく分かれてくる。
その一番手っ取り早いのが読書。 ー以下は、考えさせられる内容であるー
≪ 民俗学者柳田國男は、自分の近所の人で、いつも落ち着いて人間が
 できていると感じさせる人が あったので、その人に話しかけてみた。
そして、その人の安定した生き方の秘密を発見した。その人は自分は死ぬと
「御先祖様」になると確信していた。死んでも自分の霊は御先祖様の一員と
して迎えてもらい、それを子々孫々が祀ってくれる。柳田は、このように
「遠い将来」のことについて確かな見とおしを持っている人が、落ち着いた
生活をしているのは当然のことと思う。まったく異なる例をあげてみよう。
 スイスの分析心理学者カール・ユングは1929年頃に、アメリカ先住民の
プエブロ族を訪ねる。彼が非常に心を打たれたのは、その品格のある姿。
ヨーロッパの老人たちと比較すると、そのたたずまい、容貌などがまったく
異なっていて、犯し難い尊厳性を感じさせる。そのうちにその秘密がわかる。
ブエブロの長老たちは高い山に住んで、自分たちの祈りの力により太陽の
運行を支えていると信じているのだ。 彼らの存在感のスケールが大きい。
彼らが祈りを怠ると、世界中のすべての人々が太陽を朝に上ることができなく
なるのだろう。あの老人たちの品格が高いのも当然と納得する。 
自分の生のスケールが今生きていることのみではなく、死後や宇宙にまで
拡大される。この話を知って、高齢者の生き方について考えさせられるが、
さりとて、現代人として、高齢になると太陽の運行はおろか、家計の運営
にも関係なくなるのではなかろうか。現代人のなかのどれだけの人が、
御先祖の一員になることを確信したり、祈りによって太陽の運行にかかわる
と信じたりできるだろう。・・ ≫
▼ この老人の信念が宗教の原点だろう。”井の中の蛙大海を知らず ”とは、
 『狭い世界に閉じこもっているものには、広い視野や考え方はできない。』
の意味だが、以下の意味もある・・
 �井の中の蛙大海を知らず  されど 空の深さ を知る
 �井の中の蛙大海を知らず  されど 天高き  を知る
 �井の中の蛙大海を知らず  されど空の蒼さ  は知る
 �井の中の蛙大海を知らず  されど空の広さ  を知る
 �井の中の蛙大海を知らず  されど井戸の深さ を知る(ネットより)
とすると、世間様も、あながち否定はできないことになる。品格ある人は、
時間軸と空間軸がきっちり出来ているから、自分の価値に確信出来るのである。
少し考えれば、137億年のビッグバン以来の歴史に、この自分がつながって
いることが分かる。
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4636, 年齢(よわい)は財産
2013年11月25日(月)
  * 年齢と財産の結び目から見える女の一生
           ー「年齢(よわい)は財産」日本ペンクラブ
 以前、この瀬戸内寂聴の以下の文章を読んで、何もかも洗いざらいに曝け
出す作家の覚悟に圧倒されてしまった。「作家は、大道に素っ裸で大の字に
なる覚悟がなければ」という彼女の言葉を思い出していた。(他の作家も
似たような、言葉を残している)両親の創業時の修羅の姿に似ている。
生きることが、だいたい大道に素っ裸で寝ているようなもの。 
で、自分の姿は見えないが、他人の素っ裸の姿を囁いているが、その実、
それが自分への猛毒になっていることが解らない!
《 私は二十六歳の真冬、夫と子供の家を出奔した。その時、夫は私の着て
 いるオーバーもマフラーも脱いで行けと路上に追いかけてきていった。
尤もだと思い、その場ですべてを脱ぎ、着のみ着のままで歩きだした。
夫の声が追った、財布も置いて行けと言う。 ちょっと考えたが、やはり
尤もだと思い、それをきちんと畳んで路上に置いたオーバーの上にのせた。
私はふり向かず、電車の線路づたいに、ひたすら歩きつづけた。 
私の人生再出発はこうして無一文で始まった。線路を一時間ばかり歩いて、
東京に嫁いでいた故郷の女学校の友人の家にたどりつき、彼女が柱に
ぶっつけて割ってくれた素焼きの桃の形の貯金箱から、座敷にあふれ散った
銅貨を全部借りた。かき集めて、東京から京都まで鈍行の汽車賃になった。
京都で東京女子大の友人の下宿に転りこみ、下着から靴まで借りて職を探した。
ようやく勤めた小さな出版会社がつぶれ、京大の付属小児科病院の研究室に
移った。そこで少女小説を書き、投稿したところ、みんな採用され「ひまわり」
の懸賞も当選した。正式に離婚出来たのと、故郷の父が死んだのをきっかけに、
背水の陣を敷いて上京した。 すべては行き当りばったりの身の処し方で、
いつでも経済を度外視していた。家を出たのが二十六歳で、京都暮しから上京
したのが二十九歳であった。 少女小説で食べつなぎ、「文学者」で小説の
勉強をさせてもらい、小田仁二郎と同人雑誌「Z」を出し、新潮社同人雑誌賞を
受賞したのが、三十五歳であった。大人の小説でお金を貰ったのは、これが
初めてであった。 この賞のおかげではじめての本を出してやるといってきた
出版社があり、私は大喜びで原稿を渡した。『白い手袋の記憶』という本は、
再版までしたが、印税は一銭も貰えず、かえって社長に騙されて、五万円だか
十万円だか取られてしまった。ちょっと二・三日貸してくれといわれて出した
のが返って来ない。それでも本が残ったからいいと私は喜んいた。 ・・  
 四十二歳の末、中野本町通りの質屋だった蔵つきの家に引越した。
ここも借家だったが日白台のアパートより高い家賃がとどこおりなく払えた。 
四十四歳で京都に家を買つた。西ノ京原町で、西大路御池通りだつた。
どの引越にも、男の問題がからんでいた。京都の家はお金がなく、すべてを
銀行で惜りた。信用貸しの形で銀行が金を貸してくれるほど、私自身が財産
になっていた。その時の保証人になっくれたのが、祇園の女将で、私は二度
しか会ったことのない人だった。五十一歳の時、さすがにタフな私もつくづく
疲れて、その生活を一挙に破壊するには死ぬか出家をするしかないと思いつめ、
出家を選んだ。五十二歳の時、御池の家を売って、足りない分は銀行で
借りて、嵯峨野に寂庵を結んだ。」・・・ 》
▼ 寂聴の人生の粗筋が、それぞれの年齢と財産の網目で垣間見れる。
 三谷佐知子のペンネームで、ポルノまがいの小説を書き賞を貰うが、
「子宮作家」とまで呼ばれるようになる。当時の彼女の顔の写真を憶えている
が、手練手管の水商売女という感がした。純粋な反面、それが自分の衝動に
素直であるため、激しい人生になってしまう。それを小説のネタにする。
自作自演の人生を純粋に生き抜いた結果が、死ぬか、出家の選択になる。
そして、あの穏やかな寂聴が、そこにいる。何人、男を潰したのだろう? 
潰すというより、食べてきた、が本当だろう。家族からしたら、
『何が寂聴。悟りすまして、よく言うよ!』である。でも人生は激しく活きた
もの勝ち!寂聴名言集で「どんな悲しみや苦しみも必ず歳月が癒してくれます。
そのことを京都では『日にち薬』と呼びます。時間こそが心の傷の妙薬。」
「私の悪口を言った人はみんな死にました。」「子どもは、悪口を言われて
伸びることはありませんよ。悪口は他人が言いますからね、肉親は褒めて
やらなきゃいけない。どこ褒めようかなって探すのが親の努めと思いますね」 
これでも林芙美子の激しさと比べれば・・誰も人生、助けてくれないが
「地獄に佛」はいる!
・・・・・・
4271, 法則は思考のショートカット −3
2012年11月25日(日)
      「知っているようで知らない法則のトリセツ」水野俊哉(著)    
  * 明日できることを今日やるな
 マニャーナの法則とは、「仕事を洗い出し、明日以降でよいものは
とりあえず先送りにし、今日やると決めたことだけをやること」仕事で、
やるべきことをリスト化し、いつまでやるかをコミットメントするとよい。
英国のビジコンのマーク・フォスターが提唱した法則。明日やる仕事をリスト化
すると、今日の仕事は、昨日リスト化した仕事だけをすればよい。
リストを明確にして、優先すれば、今日すべき仕事だけに集中できる。
明日の仕事をリスト化できれば、一週間、一ヶ月と計画のリスト化が可能に
なる。逆に、下手に明日以降の仕事をすると、今日の仕事がおろそかになる。
やるとしたら、明日以降の計画を考えていた方がよい。的を得た法則である。
今日やるべきことを確実にこなす事こそ一番重要である。我われは、今日の
仕事を中途半端にして、明日以降の仕事をしていまいがちになる。
明日の仕事のリスト化は改めて考える行為である。成るほど理に適っている。
   * ハロー効果
 学生時代に知った法則で、いやに鮮明に記憶として残っている。
一つのことで顕著な特徴があると、他の評価まで歪んでしまう心理状態。
人は美人というだけで性格まで良くなってみえたり、言葉遣いが丁寧という
だけで誠実な人と思い込んでしまう。その心理傾向は、背中から、まるで
光がさして見えるため、背光効果=ハロー効果といわれる。一流企業の業績や
人事制度についての評価がいかに、このハロー効果で歪められているかが問題。 
一流大学を出ているだけで優秀とは限らないのと同じ。
   * ピーターの法則
 これも学生時代に知った法則。Aさんは平社員に能力を発揮、係長になり、
そこでも活躍し、課長、そして部長になる。しかし、その能力は、それが限度。
そして、そこに留まり続けると、ハツカネズミが回転の輪を何時までも回り
続けるのと同じで、ロボットのような限りない無能化に陥ってしまう。それが、
すべての階級で同様なことが起こり、やがて無能なA部長、無能なB課長・・と、
能力の限界に応じた最終段階に達したバカばかりになってしまう。いずれの
会社も、よく見れば無能者の群れ。これを「ピーターの必然」と言い、
「やがてあらゆるポストは職責を果たせない無能な人間によって占められる」
ことになる。いずれの破綻原因は、その果て。それもあり10年転職、
10年転業説が出てくる。その度、悪くなるのが殆ど?だが・・・
 ・・・・・
3896, デフレの最近事情
2011年11月25日(金)
 先日、鎌倉に日帰りで行ってきた。JRの期間限定の特別料金で新幹線往復
も含め昼飯付きで一万円。大よそ半額である。その数日前に家内がディズニー
ランドに遊びに行った時、義妹と御台場のホテル日航に泊まったが、交通費と
宿泊代を含めて一万八千五百円。割引パックの場合、景色が良くない格下の部屋
になるが、「今日は特別、良い部屋にしておきました」と、東京湾が一望できる
部屋に泊まったという。デジカメで撮った東京湾の景観と部屋からして二人で
三万はする部屋。ホテルには客が少なく、家内がいうに「 サービスをして
くれたのでは?・・」とか。 これも大よそ半額割引。それとシネマが60歳
以上が千円、これも充分価値がある。また毎月の一日が、年齢に関係なく全て
千円で、その日に客が殺到する。何度か書いているが、最近ランチを週二回は
食べに行っている。(そのうち、一回は家内と一緒)家内が情報を仕入れ、
ついていく。それもあってランチとはいえ十分満足できる内容である。 
牛肉も、高級魚も、不況のため、居酒屋や、回転寿司のネタになるほど、
値下がりをしているためである。鎌倉コースは行きも帰りも新幹線の自由席は
満席に近い状態。行きは旅行客と通勤客が半々。寺から鎌倉駅までのタクシーの
運転手に、「景気は、どうですか?」と聞くと、「大震災直後の売上は半分まで
落ち込んだが、現在は、それでも回復してきたが、元に戻ってない」という。 
このデフレの中、事業主はギリギリの状態。その上、資産デフレも重なり、
経営資源の枯渇が激しく経営を圧迫している。これにTPPの参加問題もある。
これは農業だけでなく輸出関係も影響してくる。デフレに大きく関係している
のが情報化である。ここで携帯電話がスマートフォンに変わりつつある。
それが、少しでも安くて、良いものを提示してくれる。 お客にとって
ベストだが、売り手にとっては常にベストを維持しなくてはならない。
消費者は収入が減っている上に、情報だけは過剰に?流れ込んでくる。
事業側はコストがかかる反面、お客の目は厳しくなっている。
 デフレ以上に恐ろしいのが、次にやってくるハイパーインフレ。 
二年前の同日(下にある)に、偶然、デフレについて書いていた。
・・・・・・
3531, 専門家を疑ってかかれ!
2010年11月25日(木)
  * 「ローゼンハン実験」 ー専門家の先入観を疑え―
 先日の朝日新聞勝間和代「人生を変える法則」のシリーズに、
以下の実験に関する法則の紹介があった。医学など、こんなものだろうが、
アメリカ的で何とも面白い。 まずは、その内容から・・
【 精神分析学に、「ローゼンハン実験」という有名な実験があります。
 これは、1973年に米国の心理学者のデービッド・ローゼンハン博士が
友人7人を募り、8人で12の病院に「幻聴が聞こえる」と訴える偽(
患者を装って診察を受けに行ったところ、診察にあたった医者がそれを詐病
見抜けず、全員入院させられて、薬物治療を受けることになったというもの。
この実験は、医学界から大変な反論と反響がありました。ある病院は、偽患者
はかならず見分けられると主張し、ローゼンハンに、好きなだけ偽患者を
よこせと勝負を挑みました。 じつはこのときも、ローゼンハンの完勝でした。
なぜなら、この病院は、3カ月間で診察した193人の患者のうち、
41人が偽患者だと見抜いたと発表しましたが、なんとローゼンハンは
この病院に一人も偽患者を送りこんでなかった。もちろん、当時と現在では、
精神疾患に対する診断基準が違うため、いま、偽患者を装って受診しても
即入院とはならないでしょう。しかし、経験則に重きをおく医学では、医者が、
短時間で患者の訴えの虚実を見分けることは大変、難しく、なんらかの病気の
診断を下そうとしてしまいがちだというのです。現代で、同じような偽患者に
よる追試を行うと、入院こそさせられませんが、念のため、ということで薬が
処方されることがあるでしょう。これも、医者が、患者の期待に、なんとか
応えようとするためです。この実験の教訓は、専門家たる医者の立場から
みると、先入観にとらわれてはいけない、ということです。さらに、患者が
嘘をつく可能性を念頭に置き、物事を熟知していると自負するあまり、ある
パターンに押しこめて理解しようとしていないか、常にチェックすることです。
また、患者の立場からみると、こちらからの情報が正確に伝わらないと、
誤診を犯す可能性があるということを理解しておくべきでしょう。
しかし、この実験から、「専門家はあてにならない」と即断すべきではない
と思います。専門家も間違える可能性を念頭に置きながら、互いに信頼関係を
築き、ベストな情報を交換し合うことが必要でしょう。
勝間和代ー経済評論家)ー2010年11月22日 】
 ー 医者も間違えることをことを患者サイドは、常に意識しておかなければ
ならない。要は、医者も能力の差があり、正確な診断を下せるとは限らない。
それが精神疾患となれば、尚更である。これは、医者だけでない。
社会一般にも言えること。専門家と称する人が言うことが、常に正しいとは
言えないということだ。引退近い力士が、負けが込むと医師から色いろな
病気の診断書の墨付きをもらい休場する。見ているほうからすれば、力の衰え
からくる実力で負けが込んだのは一目瞭然。医者も阿吽の呼吸で診断書を書く。 
考えてみれば、人間の認識ってのは、全てが先入観でしかないのでは?