<反・幸福論 佐伯啓思
   * 死とは自己のうちから出てくる
 リタイア後の日々の生活で、毎日が‘絶対的な無意味’かつ‘ニヒリズム
の果てしない海に私という舟が漂っている感覚にある。老いの心理状態とは、
こんなものかと。目先を楽しむか、何か新しいことに近づくしか手立てはない。

≪  ☆ ‘絶対的な’無意味
 たとえば、展覧会などでただ真っ白なキャンパスだけが置いてあれば、
怖ろしいとか、嫌悪感というより、不気味な感じをするのではないか。
それは、製作者の意図がわからないからです。製作者の意図とは、絵の持つ
意味です。その意味が見いだせないから、何か不気味なものを感じるのです。
もっとも、これらは「生」のなかの話なので、いずれ相対的なもので、あえて
意味を剥奪するすることで逆説的に「意味」を与えようとしているが、本当に
壮大な「無」に向合ったとき、恐怖や不安やおかしいなどというより、まずは
「不気味」な感じを持つでしょう。では、その不気味さから逃れるために、
どうすればよいか。さしあたり答えは簡単です。意味を求めないことです。
意味の無いことに意味を求めるから不気味になるのであって、意味ない、答えの
ないものについて、意味を求めることをやめることです。…
   ☆ ニヒリズムからの脱出
「死の観念」は、われわれをただ不安のまま宙づりにするだでなく、「死」に
ついての何の解決も与えるものではない。いくら「死」について考えてみても、
「死に方」一つ容易に糸口さえもつかめないのです。窓のない暗室のような部屋
に我々を誘導していく。その部屋で、われわれは、苦しい呼吸の中で出口を探し
もがくだけでしょう。「死」という必然によって「生」が囲まれ、脅かされると
いう感覚は、確かに「死」こそ恐ろしい、といった恐怖を与える。
 「死は恐ろしい」のではなく、「死について考えること」が、われわれに恐怖
を与えるのです。「死について考えているにかかわらず、全く何の解決が得られ
ないこと」が恐怖を与えるのです。「死の恐怖」といった問題は何を示している
のでしょうか。窓のない狭い部屋に誰が閉じこめたのでしょう。われわれ自らが
部屋に入りこんだのです。そうだとすればどうすればいいか? 「死」を考える
ことをやめればいいのです。相対的な限界の人間が、「絶対的なもの」について
考えることをやめることです。「‘絶対的な’無意味」について土台、考える
ことは無理だった。…われわれ人生が最後が「無意味」であれば、その無意味の
ゴールを目指し続けている「生」も無意味ではないか、という疑念が沸いてくる。
 であれば、「無意味なもの」に向けて走り続けているこの人生も、ただただ
苦痛の連続だ、ということになる。 しかも、このマラソンの最後の方には、
「老」と「病」が出てくると、これはもう本当に「生は苦である」になる。
そのゴールがただ「無意味」では、一体、何のための「生」かになる。
生・老・病・死、すべてが苦ということになる。
こうして「死」の問題は、われわれを深くニヒリズムに誘い込むのです。
 どうせ、みんな死んでしまうのだから、人生なんぞに特別の意味を求めても
しょうがない、ということです。これに続いてでてくるのは、「どうせ死ぬの
なら、死ぬことなど考えてもしかたない。それよりも、ただ楽しんだ方がいい
じゃないか」ということになる。やがてニヒリズムは、たいていの場合、現生で
の刹那的な快楽主義をもたらし、まれに現生からの「隠遁」への傾きをもたらす。
 さて、それでは、このニヒリズムからの脱出は、「死などないことにしよう」
として快楽の中に陥るか、あるいは樽の中に、陥るしかないのでしょうか。
実は、この問題を論じた人がいます。トルストイです。 ≫

▼ 早朝に、上記の文章を独り、一時間以上かけ、味わいながら書き写した。
 夜半の0時に4時間の熟睡から目が覚めて、やはり4時間、ヨガの死者のポーズ
(といっても、仰向けのウツラウツラの状態)と、右下にして丸まるポーズを、
交互に繰り返す。これに近いのは誰もすることだが、問題は、ニヒリズムの極み
の心理状態に陥った時。 余命数ヶ月の宣言を受け、夜半に悶々と、灼熱砂漠に
取り残された流離人の「生への渇望を味あい」。多くの作家が、リアルに描写
しているが… ニヒリズムの極みである。絶対的‘無意味’といっても、その時、
真正面から向き合うしか他にはない。そして、諦念に独り辿り着くしかない。
だから元気なうちに、ニヒリズムを内側に飼っておいて、快楽を、忙中の閑に
味わうしかない。これを飼っておかないと、最期の悶えの苦しみが深刻に…
その前に、「世人」の群れの「世間」に同化され、万年窒息状態に。本人が、
それに気づいてないから、それはそれで… アッ、自分の事ですか、これは!

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5733,なぜ本を読むといいか? 〜?
2016年11月25日(金)
        <本を読む人だけが手にするもの>藤原和博
  * とにかく乱読でいいから、読みなさい
今さら読書効果論でもないが、著者は平易に、丁寧に、解明している。
 背表紙の説明文に、『これからは、身分や権力やお金に‘階級社会’
ではなく、「本を読む習慣がある人」「そうでない人」に二分される
‘階層社会’がやってくる』と述べる。
情報化社会では、膨大な情報の中から、選択し、読み解く力が必要。
「本を読む層の人」は、「本を読んでない階層」の人を直ぐに識別する。
教養のあるなしより、「読んでる層、読んでない層」の階層分類の表現
の方が分かりやすい。私のように半世紀以上、欠かすことなく毎日、
読書を続けても、教養が身についたかと問われれば、返事に窮すが、
「本を読む層か」と、問われれば、イエスといえる。
 〜まず目に付いたのが、以下の内容〜
≪ ・‘ヘビー読者層とは月に3冊以上読む読者と言われる’
 ヘビー読者層が全国に1,654万1千人いるが、この人達がライト読者層と
 共に出版業界を支えてきたと言ってもよい。
・ ‘両親が読まないと子供も読まない’
 全体で『読まない』と回答した比率が46.1%で、年代別で目立つのは
 10歳代と60歳代以上。本当の本好きと考えられる『5冊以上読む』と回答
 している人の比率は60歳代であろうと10歳代であろうと年齢層でも大きな
 開きは無いことが読み取れる。『朝の10分間読書』や『本の読み聞かせ』
 などで、読書の楽しさを知って もらおうと全国の小・中・高校で取り
 組んでいるが、これらの読書運動は、やらないよりはやった方が良いが
 アンケートでは、両親が読まないと子供も読むことが長続きしないとの
 結果も出ている。『子供は親の背中を見て育つ』と言うくらいで家庭の
 習慣が良く出てくると言われている。 ≫
▼「読んでいる人」は「読まない人」を直ぐ識別するが、読んでない人も、 
識別されていることに何となく気づくが、その意味の深さを理解できない。 
知的コンプレックスを持つが、次の段階の読書習慣を持つことなく一生を
終える。世の中には言葉の持つ重要性が理解できない人が多く存在する。
なぜ出来ないか? 読書の習慣化で言葉を読みとく能力を持たないため。 
「聞く力」と、「話す力」のベースが、読書にあることに気づいてない。
著者は、そのことを明快に提示している。次回から、各章単位で考えてみる。

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5368,世間、社会、会社の意味とは ー?
2015年11月25日(水)
        ーなぜ日本人は「世間」を気にするのかー三浦朱門
   * 日本の世間は稀有な条件下で育まれた人間関係である。
 自然発生の「世間」は馴れ合いで、「社会」は厳格な原則がある。
その辺りが、分かれ目となる。日本は島国で、異種混合が少ない世界。
そのため、「郷に入っては郷に従え」の馴合いになっていく。
≪ 世間というのは、馴れ合い同士の人間的つながりが、社会というのは、
一定の利害を共にする人間集団で、そこでは個々人の思想や行動の自由、
あるいはメンバーの行動規範の違いが前提となっているといってよい。
日本の世間は、千年余にわたって外国からの侵略もない、海に囲れた地域の
中で育ってきた人間関係。
 しかし社会とは、歴史的にさまざまな過去を持ちながら、たまたま利害を
共有する面があって同じ地域で一緒に生活する、といった人間関係です。
そこには他者と自分の間にシキリを設けるというか、あくまでも他人と自分
との間の越えてはならない障壁があることが前提となっているようです。
 世間には、人と人を隔てる障壁があろうとも、それを取り除こうとする
動きがあるように見えます。そのような形で、人と人を結びつける世間ですが、
それは無限のものではありません。具体的には、外国人に接するとき、日本の
世間の延長のつもりでいると、相手は妙な顔をするし、第一、言葉が通じません。
 岩手の人と鹿児島の人は、自分たちの日常の言葉では意味の通じないことが
あるかもしれませんが、それでも、NHKテレビの言葉にできるだけ似せて話せば、
まず、会話が成立しない、ということはないでしょう。
 しかし、相手が外国人であれば、どうもなりません。
つまり、世間というものには一定の範囲があって、それは別の言い方をすれば、
日本という地域、そして日本人という顔ぶれの範囲、ということになりましょう。
私がこの本で書いてきたことは、一言でいえば、「日本、そして日本人とは?」
ということなのかもしれません。つまり、日本人は世間を通じて一体となって
いるのです。≫
▼ 都会で、「田舎もの」という地方出身者を馬鹿にした言葉がある。
 都会に出て初めに意識するのが「田舎もの」の自覚。そこには、地方に
存在してない様々なタイプの存在に、孤独の群集に馴染めず、孤独に陥る。
そこで、都会という身近な「世間」に、まずは同調せざるを得なくなる。
そこには、契約で結ばれた部分と、暗黙の契約の存在がリアルにある。
それを逸早く察知できるかどうかが、当面の問題になる。今では、社会?の
隅々まで、外国人が存在しているため、「世間的側面」より「社会的側面」の
必要性が大になる。資本主義社会が世界の主流のため、価値基準が、お金と、
有効利用でリアルに判断される。「隣の人は何する人よ?」など論外になる。
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5003,河合隼雄 ー私が語り伝えたかったこと 〜?
2014年11月25日(火)
            ー「私が語り伝えたかったこと」河合隼雄
  * 先住民の老人たちの品格ある姿
ユングがみた先住民の品格ある老人たちは「自分の生の価値」を確信していた。
人生を自信を持っていく抜くためには、「生の価値(意味)」を知っておかな
ければならない。それを知り得るかどうかで、人生は大きく分かれてくる。
その一番手っ取り早いのが読書。 ー以下は、考えさせられる内容であるー
≪ 民俗学者柳田國男は、自分の近所の人で、いつも落ち着いて人間が
 できていると感じさせる人が あったので、その人に話しかけてみた。
そして、その人の安定した生き方の秘密を発見した。その人は自分は死ぬと
「御先祖様」になると確信していた。死んでも自分の霊は御先祖様の一員と
して迎えてもらい、それを子々孫々が祀ってくれる。柳田は、このように
「遠い将来」のことについて確かな見とおしを持っている人が、落ち着いた
生活をしているのは当然のことと思う。まったく異なる例をあげてみよう。
 スイスの分析心理学者カール・ユングは1929年頃に、アメリカ先住民の
プエブロ族を訪ねる。彼が非常に心を打たれたのは、その品格のある姿。
ヨーロッパの老人たちと比較すると、そのたたずまい、容貌などがまったく
異なっていて、犯し難い尊厳性を感じさせる。そのうちにその秘密がわかる。
ブエブロの長老たちは高い山に住んで、自分たちの祈りの力により太陽の
運行を支えていると信じているのだ。 彼らの存在感のスケールが大きい。
彼らが祈りを怠ると、世界中のすべての人々が太陽を朝に上ることができなく
なるのだろう。あの老人たちの品格が高いのも当然と納得する。 
自分の生のスケールが今生きていることのみではなく、死後や宇宙にまで
拡大される。この話を知って、高齢者の生き方について考えさせられるが、
さりとて、現代人として、高齢になると太陽の運行はおろか、家計の運営
にも関係なくなるのではなかろうか。現代人のなかのどれだけの人が、
御先祖の一員になることを確信したり、祈りによって太陽の運行にかかわる
と信じたりできるだろう。・・ ≫
▼ この老人の信念が宗教の原点だろう。”井の中の蛙大海を知らず ”とは、
 『狭い世界に閉じこもっているものには、広い視野や考え方はできない。』
の意味だが、以下の意味もある・・
 �井の中の蛙大海を知らず  されど 空の深さ を知る
 �井の中の蛙大海を知らず  されど 天高き  を知る
 �井の中の蛙大海を知らず  されど空の蒼さ  は知る
 �井の中の蛙大海を知らず  されど空の広さ  を知る
 �井の中の蛙大海を知らず  されど井戸の深さ を知る(ネットより)
とすると、世間様も、あながち否定はできないことになる。品格ある人は、
時間軸と空間軸がきっちり出来ているから、自分の価値に確信出来るのである。
少し考えれば、137億年のビッグバン以来の歴史に、この自分がつながって
いることが分かる。
・・・・・・
4636, 年齢(よわい)は財産
2013年11月25日(月)
  * 年齢と財産の結び目から見える女の一生
           ー「年齢(よわい)は財産」日本ペンクラブ
 以前、この瀬戸内寂聴の以下の文章を読んで、何もかも洗いざらいに曝け
出す作家の覚悟に圧倒されてしまった。「作家は、大道に素っ裸で大の字に
なる覚悟がなければ」という彼女の言葉を思い出していた。(他の作家も
似たような、言葉を残している)両親の創業時の修羅の姿に似ている。
生きることが、だいたい大道に素っ裸で寝ているようなもの。 
で、自分の姿は見えないが、他人の素っ裸の姿を囁いているが、その実、
それが自分への猛毒になっていることが解らない!
《 私は二十六歳の真冬、夫と子供の家を出奔した。その時、夫は私の着て
 いるオーバーもマフラーも脱いで行けと路上に追いかけてきていった。
尤もだと思い、その場ですべてを脱ぎ、着のみ着のままで歩きだした。
夫の声が追った、財布も置いて行けと言う。 ちょっと考えたが、やはり
尤もだと思い、それをきちんと畳んで路上に置いたオーバーの上にのせた。
私はふり向かず、電車の線路づたいに、ひたすら歩きつづけた。 
私の人生再出発はこうして無一文で始まった。線路を一時間ばかり歩いて、
東京に嫁いでいた故郷の女学校の友人の家にたどりつき、彼女が柱に
ぶっつけて割ってくれた素焼きの桃の形の貯金箱から、座敷にあふれ散った
銅貨を全部借りた。かき集めて、東京から京都まで鈍行の汽車賃になった。
京都で東京女子大の友人の下宿に転りこみ、下着から靴まで借りて職を探した。
ようやく勤めた小さな出版会社がつぶれ、京大の付属小児科病院の研究室に
移った。そこで少女小説を書き、投稿したところ、みんな採用され「ひまわり」
の懸賞も当選した。正式に離婚出来たのと、故郷の父が死んだのをきっかけに、
背水の陣を敷いて上京した。 すべては行き当りばったりの身の処し方で、
いつでも経済を度外視していた。家を出たのが二十六歳で、京都暮しから上京
したのが二十九歳であった。 少女小説で食べつなぎ、「文学者」で小説の
勉強をさせてもらい、小田仁二郎と同人雑誌「Z」を出し、新潮社同人雑誌賞を
受賞したのが、三十五歳であった。大人の小説でお金を貰ったのは、これが
初めてであった。 この賞のおかげではじめての本を出してやるといってきた
出版社があり、私は大喜びで原稿を渡した。『白い手袋の記憶』という本は、
再版までしたが、印税は一銭も貰えず、かえって社長に騙されて、五万円だか
十万円だか取られてしまった。ちょっと二・三日貸してくれといわれて出した
のが返って来ない。それでも本が残ったからいいと私は喜んいた。 ・・  
 四十二歳の末、中野本町通りの質屋だった蔵つきの家に引越した。
ここも借家だったが日白台のアパートより高い家賃がとどこおりなく払えた。 
四十四歳で京都に家を買つた。西ノ京原町で、西大路御池通りだつた。
どの引越にも、男の問題がからんでいた。京都の家はお金がなく、すべてを
銀行で惜りた。信用貸しの形で銀行が金を貸してくれるほど、私自身が財産
になっていた。その時の保証人になっくれたのが、祇園の女将で、私は二度
しか会ったことのない人だった。五十一歳の時、さすがにタフな私もつくづく
疲れて、その生活を一挙に破壊するには死ぬか出家をするしかないと思いつめ、
出家を選んだ。五十二歳の時、御池の家を売って、足りない分は銀行で
借りて、嵯峨野に寂庵を結んだ。」・・・ 》
▼ 寂聴の人生の粗筋が、それぞれの年齢と財産の網目で垣間見れる。
 三谷佐知子のペンネームで、ポルノまがいの小説を書き賞を貰うが、
「子宮作家」とまで呼ばれるようになる。当時の彼女の顔の写真を憶えている
が、手練手管の水商売女という感がした。純粋な反面、それが自分の衝動に
素直であるため、激しい人生になってしまう。それを小説のネタにする。
自作自演の人生を純粋に生き抜いた結果が、死ぬか、出家の選択になる。
そして、あの穏やかな寂聴が、そこにいる。何人、男を潰したのだろう? 
潰すというより、食べてきた、が本当だろう。家族からしたら、
『何が寂聴。悟りすまして、よく言うよ!』である。でも人生は激しく活きた
もの勝ち!寂聴名言集で「どんな悲しみや苦しみも必ず歳月が癒してくれます。
そのことを京都では『日にち薬』と呼びます。時間こそが心の傷の妙薬。」
「私の悪口を言った人はみんな死にました。」「子どもは、悪口を言われて
伸びることはありませんよ。悪口は他人が言いますからね、肉親は褒めて
やらなきゃいけない。どこ褒めようかなって探すのが親の努めと思いますね」 
これでも林芙美子の激しさと比べれば・・誰も人生、助けてくれないが
「地獄に佛」はいる!
・・・・・・
4271, 法則は思考のショートカット −3
2012年11月25日(日)
      「知っているようで知らない法則のトリセツ」水野俊哉(著)    
  * 明日できることを今日やるな
 マニャーナの法則とは、「仕事を洗い出し、明日以降でよいものは
とりあえず先送りにし、今日やると決めたことだけをやること」仕事で、
やるべきことをリスト化し、いつまでやるかをコミットメントするとよい。
英国のビジコンのマーク・フォスターが提唱した法則。明日やる仕事をリスト化
すると、今日の仕事は、昨日リスト化した仕事だけをすればよい。
リストを明確にして、優先すれば、今日すべき仕事だけに集中できる。
明日の仕事をリスト化できれば、一週間、一ヶ月と計画のリスト化が可能に
なる。逆に、下手に明日以降の仕事をすると、今日の仕事がおろそかになる。
やるとしたら、明日以降の計画を考えていた方がよい。的を得た法則である。
今日やるべきことを確実にこなす事こそ一番重要である。我われは、今日の
仕事を中途半端にして、明日以降の仕事をしていまいがちになる。
明日の仕事のリスト化は改めて考える行為である。成るほど理に適っている。
   * ハロー効果
 学生時代に知った法則で、いやに鮮明に記憶として残っている。
一つのことで顕著な特徴があると、他の評価まで歪んでしまう心理状態。
人は美人というだけで性格まで良くなってみえたり、言葉遣いが丁寧という
だけで誠実な人と思い込んでしまう。その心理傾向は、背中から、まるで
光がさして見えるため、背光効果=ハロー効果といわれる。一流企業の業績や
人事制度についての評価がいかに、このハロー効果で歪められているかが問題。 
一流大学を出ているだけで優秀とは限らないのと同じ。
   * ピーターの法則
 これも学生時代に知った法則。Aさんは平社員に能力を発揮、係長になり、
そこでも活躍し、課長、そして部長になる。しかし、その能力は、それが限度。
そして、そこに留まり続けると、ハツカネズミが回転の輪を何時までも回り
続けるのと同じで、ロボットのような限りない無能化に陥ってしまう。それが、
すべての階級で同様なことが起こり、やがて無能なA部長、無能なB課長・・と、
能力の限界に応じた最終段階に達したバカばかりになってしまう。いずれの
会社も、よく見れば無能者の群れ。これを「ピーターの必然」と言い、
「やがてあらゆるポストは職責を果たせない無能な人間によって占められる」
ことになる。いずれの破綻原因は、その果て。それもあり10年転職、
10年転業説が出てくる。その度、悪くなるのが殆ど?だが・・・
 ・・・・・
3896, デフレの最近事情
2011年11月25日(金)
 先日、鎌倉に日帰りで行ってきた。JRの期間限定の特別料金で新幹線往復
も含め昼飯付きで一万円。大よそ半額である。その数日前に家内がディズニー
ランドに遊びに行った時、義妹と御台場のホテル日航に泊まったが、交通費と
宿泊代を含めて一万八千五百円。割引パックの場合、景色が良くない格下の部屋
になるが、「今日は特別、良い部屋にしておきました」と、東京湾が一望できる
部屋に泊まったという。デジカメで撮った東京湾の景観と部屋からして二人で
三万はする部屋。ホテルには客が少なく、家内がいうに「 サービスをして
くれたのでは?・・」とか。 これも大よそ半額割引。それとシネマが60歳
以上が千円、これも充分価値がある。また毎月の一日が、年齢に関係なく全て
千円で、その日に客が殺到する。何度か書いているが、最近ランチを週二回は
食べに行っている。(そのうち、一回は家内と一緒)家内が情報を仕入れ、
ついていく。それもあってランチとはいえ十分満足できる内容である。 
牛肉も、高級魚も、不況のため、居酒屋や、回転寿司のネタになるほど、
値下がりをしているためである。鎌倉コースは行きも帰りも新幹線の自由席は
満席に近い状態。行きは旅行客と通勤客が半々。寺から鎌倉駅までのタクシーの
運転手に、「景気は、どうですか?」と聞くと、「大震災直後の売上は半分まで
落ち込んだが、現在は、それでも回復してきたが、元に戻ってない」という。 
このデフレの中、事業主はギリギリの状態。その上、資産デフレも重なり、
経営資源の枯渇が激しく経営を圧迫している。これにTPPの参加問題もある。
これは農業だけでなく輸出関係も影響してくる。デフレに大きく関係している
のが情報化である。ここで携帯電話がスマートフォンに変わりつつある。
それが、少しでも安くて、良いものを提示してくれる。 お客にとって
ベストだが、売り手にとっては常にベストを維持しなくてはならない。
消費者は収入が減っている上に、情報だけは過剰に?流れ込んでくる。
事業側はコストがかかる反面、お客の目は厳しくなっている。
 デフレ以上に恐ろしいのが、次にやってくるハイパーインフレ。 
二年前の同日(下にある)に、偶然、デフレについて書いていた。