閑話小題 ~大相撲も終わってしまえば

  

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      * 大相撲も終わってしまえば
 当初の予測どおり、白鵬が43回目の優勝。もう一人のモンゴル人横綱鶴竜
直前に休場。 白鵬とタッグで交互に休み、片方が優勝を狙うパターン。
休場しても罰金をとられるでなし、横綱特権を利用するのは至極当然。翌場所は
2人以外に優勝を譲り、翌々場所はどちらかが… 相撲協会としては、次の世代が
育つまで興業としての体制維持をするしかない。その時節が来年いっぱい。
貴乃花が相撲道とか訳の分からない?問題提起をしたお陰でガチンコ(真剣勝負)
が大勢を占めて、面白くなった反面、怪我が激増してしまった。
 ――
  
   * 映画観賞 :ゾンビランド:ダブルタップ   評価85点
 前作を見たような見てないような、如何だろう? 滅茶苦茶に残酷にゾンビを
殺していく内容に、直に慣れてしまうから恐ろしい。親しくしていた人が嚙まれた
瞬間、ゾンビに変身する。それを非情に殺すのだから、正視できないが、それも
演出の味付けにしてしまう。  
  ~内容といえば~
<2009年に起きた爆発的なウィルス感染で人類がゾンビと化して10年。当時、学生
だったコロンバスは「二度撃ちして止めを刺せ」「人を見たらゾンビと思え」など
独自に編み出した「生き残るための32のルール」を守り、数少ない仲間と共に
ゾンビ社会を生き抜いてきた。だが、10年が経ち、ゾンビたちもパワーやスピード
が増した新種へ進化。新たな生存者の仲間を加えたコロンバスたちはルールを
さらに強化、生き残りを懸けた戦いに挑んでいく。>
 ―
▼ 上映開始から30分は、あまりの残酷な内容に、<判断ミスで失敗した!>と
 思いきや、その時間を過ぎると、その残虐性に慣れてしまっている自分が…。
「人間でなくなったゾンビを非情に切り捨る社会そのもの」の比喩と考えると
末恐ろしい。己の老化で解ることは「生の質の止ることなきゾンビ化の自覚」。

 ――

   * この年齢ともなれば
 第二の人生に入ってから8年半も経過したが、同年代も含めた第一の人生には、
生きてきた訳ありが、それぞれある。あと50日で74歳。1年と50日で、後期高齢者
の仲間入り。御迎えが来ても追い返す必要もない。 とはいえ、日々が面白くて
仕方がない少年のような気持の領域が限りなく残っている。…同年代には歪んで
いる人が多いように思われる。 加齢はゾンビ化への道というが… 値引商品に
「訳あり」と表示されるているが、それは、キズモノの意味もある。まあ、肉体
だけでなく、精神も歪むのは生命なるが故。

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6465,つれづれに哲学 ~平等と公平の違い ~1
2018年11月25日(日)
   * 平等と公平論 ―平等実験、公正実験国家―
「平等」と「公平」、この似ている言葉には、実は大きな違いがある。
その違いの認識が曖昧のまま使われていることが、世の中を悪くして
いる大きな原因の一つとなっている。資本主義と社会主義の違いが、端的な
事例であり、数千万、数億単位の殺戮に至った。その残物が国家形態として、
国家理念として存在している。その背景には数日前に記した、「公正世界仮説
の妄想が根太く、深く根付いているためである。 

 ~ 先ずは、ネットで定義を検索すると…
≪ ・「平等」 個人の資質、能力、努力、成果に関係なく一定の規則通りに
 遇するシステムとなっていること。
・「公平」 すべての人に対し、機会が均等に与えられており、成果を上げた者が
評価され、報われるシステムとなっていること。
 人間社会は「公平」でなければなりません。これを「平等」と勘違いをして
いる愚か者が社会システム造りに参画すると、とんでもないことになります。 
世界では100年あまり前に国家レベルで、「すべての人間は平等でなければ
いけない」ということで共産主義という考え方が生まれ、かなりな数の国で
「平等実験」が行われました。結果はそれらの国すべての経済体制が破綻し、
人間は「平等」という考え方で集団をつくると殆どの人が
<最も低い能力の者に合わせた力を発揮する集団になる>
ということが判りました。考えてみれば当然でしょう。うんと働いても少ししか
働かなくても報酬が同じならば、多くの人間はだんだん働かなくなる方向へ行く
のは目に見えている。 これに対して資本主義では、働きの良い者と悪い者の報酬
には多大の格差があります。この格差があるからこそ人は、「自分ももう少し
頑張って報酬を増やそう」と考え、社会システム全体が進歩してきました。
人間社会、否、生物の社会では格差が生じるのは当然のことであり、むしろ、
格差が社会を進歩させる原動力となるわけです。 それでは、全く自由に放任
すれば、社会システムは良い方向へどんどん進化するのでしょうか。
そうでないことは過去の歴史を見れば明らかです。私たちは正常な格差が生じる
ようなルールを見つけねばなりません。この考え方の基礎となるのが「公平」です。
公平の定義にあるように、人間すべてに「自らの努力次第でどんなに大きくも
成長出来る機会」が均等に与えられている事が必要です。人種、国籍、家柄、性別
等による活動制限を合理的ルールで極力取り除き、どのような人でも、どのような
方向にも挑戦することが出来、成果があればきちんと評価されるシステムとなって
いる必要があります。公平なシステムが機能すると社会は良い方向へ進化します。≫

他にも、シンプルに…
≪「平等」= 個人の資質、能力、努力、成果に関係なく一定の規則通りに遇する
   システムとなっていること。
「公平」= すべての人に対し、機会が均等に与えられており、成果を上げた者が
   評価され、報われるシステムとなっていること。≫がある。

▼ 考えてみれば分かることだが、自然原理からして、平等、公正など存在して
 ないはず。建前として、それを掲げないと、社会が維持できない難しい存在が
人間の本質。ネアンデルタール人が滅び、ホモ・サピエンスが生延びた理由。
姻戚集団から抜け出せなかった前者から、ホモ・サピエンスは、違った血筋の家族
が寄添って集団生活を過ごす他者との融合が、人類にとって最大の境目になった。
敵は野生動物、自然災害の猛威だけでない。他部族、他民族の攻撃、殺戮に対する
猛威もある。                    ~つづく

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6100,閑話小題 ~チョイト哲学、「死」について -2

2017年11月25日(土)

                   <反・幸福論 佐伯啓思
   * 死とは自己のうちから出てくる
 リタイア後の日々の生活で、毎日が‘絶対的な無意味’かつ‘ニヒリズム
の果てしない海に私という舟が漂っている感覚にある。老いの心理状態とは、
こんなものかと。目先を楽しむか、何か新しいことに近づくしか手立てはない。

≪  ☆ ‘絶対的な’無意味
 たとえば、展覧会などでただ真っ白なキャンパスだけが置いてあれば、
怖ろしいとか、嫌悪感というより、不気味な感じをするのではないか。
それは、製作者の意図がわからないからです。製作者の意図とは、絵の持つ
意味です。その意味が見いだせないから、何か不気味なものを感じるのです。
もっとも、これらは「生」のなかの話なので、いずれ相対的なもので、あえて
意味を剥奪するすることで逆説的に「意味」を与えようとしているが、本当に
壮大な「無」に向合ったとき、恐怖や不安やおかしいなどというより、まずは
「不気味」な感じを持つでしょう。では、その不気味さから逃れるために、
どうすればよいか。さしあたり答えは簡単です。意味を求めないことです。
意味の無いことに意味を求めるから不気味になるのであって、意味ない、答えの
ないものについて、意味を求めることをやめることです。…
   ☆ ニヒリズムからの脱出
「死の観念」は、われわれをただ不安のまま宙づりにするだでなく、「死」に
ついての何の解決も与えるものではない。いくら「死」について考えてみても、
「死に方」一つ容易に糸口さえもつかめないのです。窓のない暗室のような部屋
に我々を誘導していく。その部屋で、われわれは、苦しい呼吸の中で出口を探し
もがくだけでしょう。「死」という必然によって「生」が囲まれ、脅かされると
いう感覚は、確かに「死」こそ恐ろしい、といった恐怖を与える。
 「死は恐ろしい」のではなく、「死について考えること」が、われわれに恐怖
を与えるのです。「死について考えているにかかわらず、全く何の解決が得られ
ないこと」が恐怖を与えるのです。「死の恐怖」といった問題は何を示している
のでしょうか。窓のない狭い部屋に誰が閉じこめたのでしょう。われわれ自らが
部屋に入りこんだのです。そうだとすればどうすればいいか? 「死」を考える
ことをやめればいいのです。相対的な限界の人間が、「絶対的なもの」について
考えることをやめることです。「‘絶対的な’無意味」について土台、考える
ことは無理だった。…われわれ人生が最後が「無意味」であれば、その無意味の
ゴールを目指し続けている「生」も無意味ではないか、という疑念が沸いてくる。
 であれば、「無意味なもの」に向けて走り続けているこの人生も、ただただ
苦痛の連続だ、ということになる。 しかも、このマラソンの最後の方には、
「老」と「病」が出てくると、これはもう本当に「生は苦である」になる。
そのゴールがただ「無意味」では、一体、何のための「生」かになる。
生・老・病・死、すべてが苦ということになる。
こうして「死」の問題は、われわれを深くニヒリズムに誘い込むのです。
 どうせ、みんな死んでしまうのだから、人生なんぞに特別の意味を求めても
しょうがない、ということです。これに続いてでてくるのは、「どうせ死ぬの
なら、死ぬことなど考えてもしかたない。それよりも、ただ楽しんだ方がいい
じゃないか」ということになる。やがてニヒリズムは、たいていの場合、現生で
の刹那的な快楽主義をもたらし、まれに現生からの「隠遁」への傾きをもたらす。
 さて、それでは、このニヒリズムからの脱出は、「死などないことにしよう」
として快楽の中に陥るか、あるいは樽の中に、陥るしかないのでしょうか。
実は、この問題を論じた人がいます。トルストイです。 ≫

▼ 早朝に、上記の文章を独り、一時間以上かけ、味わいながら書き写した。
 夜半の0時に4時間の熟睡から目が覚めて、やはり4時間、ヨガの死者のポーズ
(といっても、仰向けのウツラウツラの状態)と、右下にして丸まるポーズを、
交互に繰り返す。これに近いのは誰もすることだが、問題は、ニヒリズムの極み
の心理状態に陥った時。 余命数ヶ月の宣言を受け、夜半に悶々と、灼熱砂漠に
取り残された流離人の「生への渇望を味あい」。多くの作家が、リアルに描写
しているが… ニヒリズムの極みである。絶対的‘無意味’といっても、その時、
真正面から向き合うしか他にはない。そして、諦念に独り辿り着くしかない。
だから元気なうちに、ニヒリズムを内側に飼っておいて、快楽を、忙中の閑に
味わうしかない。これを飼っておかないと、最期の悶えの苦しみが深刻に…
その前に、「世人」の群れの「世間」に同化され、万年窒息状態に。本人が、
それに気づいてないから、それはそれで… アッ、自分の事ですか、これは!

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5733,なぜ本を読むといいか? ~①
2016年11月25日(金)
        <本を読む人だけが手にするもの>藤原和博
  * とにかく乱読でいいから、読みなさい
今さら読書効果論でもないが、著者は平易に、丁寧に、解明している。
 背表紙の説明文に、『これからは、身分や権力やお金に‘階級社会’
ではなく、「本を読む習慣がある人」「そうでない人」に二分される
‘階層社会’がやってくる』と述べる。
情報化社会では、膨大な情報の中から、選択し、読み解く力が必要。
「本を読む層の人」は、「本を読んでない階層」の人を直ぐに識別する。
教養のあるなしより、「読んでる層、読んでない層」の階層分類の表現
の方が分かりやすい。私のように半世紀以上、欠かすことなく毎日、
読書を続けても、教養が身についたかと問われれば、返事に窮すが、
「本を読む層か」と、問われれば、イエスといえる。
 ~まず目に付いたのが、以下の内容~
≪ ・‘ヘビー読者層とは月に3冊以上読む読者と言われる’
 ヘビー読者層が全国に1,654万1千人いるが、この人達がライト読者層と
 共に出版業界を支えてきたと言ってもよい。
・ ‘両親が読まないと子供も読まない’
 全体で『読まない』と回答した比率が46.1%で、年代別で目立つのは
 10歳代と60歳代以上。本当の本好きと考えられる『5冊以上読む』と回答
 している人の比率は60歳代であろうと10歳代であろうと年齢層でも大きな
 開きは無いことが読み取れる。『朝の10分間読書』や『本の読み聞かせ』
 などで、読書の楽しさを知って もらおうと全国の小・中・高校で取り
 組んでいるが、これらの読書運動は、やらないよりはやった方が良いが
 アンケートでは、両親が読まないと子供も読むことが長続きしないとの
 結果も出ている。『子供は親の背中を見て育つ』と言うくらいで家庭の
 習慣が良く出てくると言われている。 ≫
▼「読んでいる人」は「読まない人」を直ぐ識別するが、読んでない人も、 
識別されていることに何となく気づくが、その意味の深さを理解できない。 
知的コンプレックスを持つが、次の段階の読書習慣を持つことなく一生を
終える。世の中には言葉の持つ重要性が理解できない人が多く存在する。
なぜ出来ないか? 読書の習慣化で言葉を読みとく能力を持たないため。 
「聞く力」と、「話す力」のベースが、読書にあることに気づいてない。
著者は、そのことを明快に提示している。次回から、各章単位で考えてみる。

・・・・・・
5368,世間、社会、会社の意味とは ー③
2015年11月25日(水)
        ーなぜ日本人は「世間」を気にするのかー三浦朱門
   * 日本の世間は稀有な条件下で育まれた人間関係である。
 自然発生の「世間」は馴れ合いで、「社会」は厳格な原則がある。
その辺りが、分かれ目となる。日本は島国で、異種混合が少ない世界。
そのため、「郷に入っては郷に従え」の馴合いになっていく。
≪ 世間というのは、馴れ合い同士の人間的つながりが、社会というのは、
一定の利害を共にする人間集団で、そこでは個々人の思想や行動の自由、
あるいはメンバーの行動規範の違いが前提となっているといってよい。
日本の世間は、千年余にわたって外国からの侵略もない、海に囲れた地域の
中で育ってきた人間関係。
 しかし社会とは、歴史的にさまざまな過去を持ちながら、たまたま利害を
共有する面があって同じ地域で一緒に生活する、といった人間関係です。
そこには他者と自分の間にシキリを設けるというか、あくまでも他人と自分
との間の越えてはならない障壁があることが前提となっているようです。
 世間には、人と人を隔てる障壁があろうとも、それを取り除こうとする
動きがあるように見えます。そのような形で、人と人を結びつける世間ですが、
それは無限のものではありません。具体的には、外国人に接するとき、日本の
世間の延長のつもりでいると、相手は妙な顔をするし、第一、言葉が通じません。
 岩手の人と鹿児島の人は、自分たちの日常の言葉では意味の通じないことが
あるかもしれませんが、それでも、NHKテレビの言葉にできるだけ似せて話せば、
まず、会話が成立しない、ということはないでしょう。
 しかし、相手が外国人であれば、どうもなりません。
つまり、世間というものには一定の範囲があって、それは別の言い方をすれば、
日本という地域、そして日本人という顔ぶれの範囲、ということになりましょう。
私がこの本で書いてきたことは、一言でいえば、「日本、そして日本人とは?」
ということなのかもしれません。つまり、日本人は世間を通じて一体となって
いるのです。≫
▼ 都会で、「田舎もの」という地方出身者を馬鹿にした言葉がある。
 都会に出て初めに意識するのが「田舎もの」の自覚。そこには、地方に
存在してない様々なタイプの存在に、孤独の群集に馴染めず、孤独に陥る。
そこで、都会という身近な「世間」に、まずは同調せざるを得なくなる。
そこには、契約で結ばれた部分と、暗黙の契約の存在がリアルにある。
それを逸早く察知できるかどうかが、当面の問題になる。今では、社会?の
隅々まで、外国人が存在しているため、「世間的側面」より「社会的側面」の
必要性が大になる。資本主義社会が世界の主流のため、価値基準が、お金と、
有効利用でリアルに判断される。「隣の人は何する人よ?」など論外になる。
・・・・・・
5003,河合隼雄 ー私が語り伝えたかったこと ~③
2014年11月25日(火)
            ー「私が語り伝えたかったこと」河合隼雄
  * 先住民の老人たちの品格ある姿
ユングがみた先住民の品格ある老人たちは「自分の生の価値」を確信していた。
人生を自信を持っていく抜くためには、「生の価値(意味)」を知っておかな
ければならない。それを知り得るかどうかで、人生は大きく分かれてくる。
その一番手っ取り早いのが読書。 ー以下は、考えさせられる内容であるー
≪ 民俗学者柳田國男は、自分の近所の人で、いつも落ち着いて人間が
 できていると感じさせる人が あったので、その人に話しかけてみた。
そして、その人の安定した生き方の秘密を発見した。その人は自分は死ぬと
「御先祖様」になると確信していた。死んでも自分の霊は御先祖様の一員と
して迎えてもらい、それを子々孫々が祀ってくれる。柳田は、このように
「遠い将来」のことについて確かな見とおしを持っている人が、落ち着いた
生活をしているのは当然のことと思う。まったく異なる例をあげてみよう。
 スイスの分析心理学者カール・ユングは1929年頃に、アメリカ先住民の
プエブロ族を訪ねる。彼が非常に心を打たれたのは、その品格のある姿。
ヨーロッパの老人たちと比較すると、そのたたずまい、容貌などがまったく
異なっていて、犯し難い尊厳性を感じさせる。そのうちにその秘密がわかる。
ブエブロの長老たちは高い山に住んで、自分たちの祈りの力により太陽の
運行を支えていると信じているのだ。 彼らの存在感のスケールが大きい。
彼らが祈りを怠ると、世界中のすべての人々が太陽を朝に上ることができなく
なるのだろう。あの老人たちの品格が高いのも当然と納得する。 
自分の生のスケールが今生きていることのみではなく、死後や宇宙にまで
拡大される。この話を知って、高齢者の生き方について考えさせられるが、
さりとて、現代人として、高齢になると太陽の運行はおろか、家計の運営
にも関係なくなるのではなかろうか。現代人のなかのどれだけの人が、
御先祖の一員になることを確信したり、祈りによって太陽の運行にかかわる
と信じたりできるだろう。・・ ≫
▼ この老人の信念が宗教の原点だろう。”井の中の蛙大海を知らず ”とは、
 『狭い世界に閉じこもっているものには、広い視野や考え方はできない。』
の意味だが、以下の意味もある・・
 �井の中の蛙大海を知らず  されど 空の深さ を知る
 �井の中の蛙大海を知らず  されど 天高き  を知る
 �井の中の蛙大海を知らず  されど空の蒼さ  は知る
 �井の中の蛙大海を知らず  されど空の広さ  を知る
 �井の中の蛙大海を知らず  されど井戸の深さ を知る(ネットより)

とすると、世間様も、あながち否定はできないことになる。品格ある人は、
時間軸と空間軸がきっちり出来ているから、自分の価値に確信出来るのである。
少し考えれば、137億年のビッグバン以来の歴史に、この自分がつながって
いることが分かる。