〜ネット検索〜より 
 ネット検索によると、この原作が、『後妻業』(文春文庫) 黒川 博行(著)で、
小説が現実を凌駕した話題作が文庫化と映画化!  結婚相談所の男と、結婚
した老人の相手と死別を繰返す女につきまとう黒い疑惑。世間を驚愕させた実際
に存在した『後妻業』を描いた問題作!  ―アマゾンの内容紹介は―
《 91歳の耕造は妻に先立たれ、69歳の小夜子を後妻に迎えていた。
 ある日耕造が倒れ、小夜子は結婚相談所の柏木と結託して早々に耕造の預金
を引き出す。さらに公正証書遺言を盾に、遺産のほぼすべてを相続すると耕造の
娘たちに宣言した―。高齢の資産家男性を狙う“後妻業”を描き、世間を震撼
させた超問題作。》
 =ネット上の【読書感想】2014-11-29  【後妻業 琥珀色の戯言】
≪『金が欲しいんやったら爺を紹介したる。1千万でも2千万でも、おまえの
手練手管で稼げや。妻に先立たれ、結婚相談所で出会った22歳歳下の小夜子と
同居を始めた老人・中瀬耕造は、脳梗塞で倒れ一命を取り留めたものの意識不明
の重体に。だが、その裏で、実は小夜子と結婚相談所を経営する柏木は結託、
耕造の財産を手に入れるべく、周到な計画を立てていた。病院に駆けつけた
耕造の娘・尚子と朋美は、次第に牙をむく小夜子の本性を知り…。』
 京都府向日市の連続不審死事件を想起させる、ということで、最近はワイド
ショーで話題になっている。 この本の記述から、弁護士や司法書士の世界、
結婚相談所などでは、「後妻業」の存在は、「公然の秘密」であることが伺える。
『柏木は金井の相談所で会員から金を吸いあげるノウハウを学んだ。
ターゲットは女より男。それも妻に先立たれた老人だった。彼らはイベントや
パーティーにせっせと参加し、紹介された相手の容貌や気立てがどうあろうと、
一言優しい言葉をかけられれば、ほぼ例外なく交際を望んで安易に金を出す。
子供や孫に資産を残してやろうという考えは薄く、老い先短い現世に固執し、
孤独が癒やされさえすれば、あとはどうでもいい。たとえ老人でなくても、
主導権と選択権は常に女の方にあり、寂しい男ほど騙しやすいと思い知った。』
 警察も「高齢者の事故死や急病死についても、保険金がかかっていなければ、
積極的に犯罪であることを疑うことはない」と書かれています。≫
▼ もし、家内に先立たれ、近くに頼れる縁者が居なければ、こういうプロに
 騙されるのだろう。それも、お金が目的なら、幾らでもサービスが出来る。
警察もファジーの部分が多く、無罪の可能性があり、なかなか立件が難しい。
現実にあった【後妻】は、かなりの不細工。その分、きめ細かい心配りが
あったようだ。この役、10年前の樹木希林が映画で演じたら絶妙だったろうに。
 ところで、ネット社会では、子ども達だけでなく、老人、いや熟年のチャット
もあるのだろうに? で、・・・

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5287,閑話小題 〜子どもたちの世界に何が〜大阪中1遺体遺棄事件〜
2015年09月05日(土)
   * 子どもたちの世界に何が  〜大阪中1遺体遺棄事件〜
 普通の中一の男女二人が、夏休みとはいえ、夜半に街中を彷徨う姿が何とも
不思議で、奇妙に感じられた。その疑問の一つが、出会い系のアプリと、
TVの‘クローズアップ現代’で紹介していた。 そこで、ー出会い ご近所ー 
で検索したところ『ダレログ』などのチャットが出てきた。ご近所の友達との
出会いをサポートするサイトで、例えば「12歳、今から夜どうし遊びたい、」
という絞込みのキーワードを入れると、近くの条件にヒットする人が、写真付で
画面に羅列して出てきて応答する? 「合コン、居酒屋名、性別、年齢」を
発信すると、ある場に見知らずの人が、目的に応じて出会うことが出来る。
危険だが、居酒屋位ならと、集まってくるという。
≪ 〜9月2日(水)放送のNHKの「クローズアップ現代」に関するブログより〜
・8月13日に大阪府高槻市の運送会社の駐車場で中学1年生の平田奈津美さん
の遺体が見つかった事件。平田さんと行動をともにしていたと見られる同級生の
星野凌斗くんの遺体も大阪府柏原市内で見つかり事件は最悪の結末を迎えた。
 近年、全国で子どもを巻き込んだ殺人事件や連れ去り事件が相次ぐ中、
今回の事件は各地の教育委員会が子どもの安全を重点政策に掲げる中で起きた。
少年と少女は、夜に自宅を出て、朝まで街中で過ごし、事件に巻き込まれた。
番組では、インタビューやアプリでの直接対話などを通じて、数多くの子ども
たちの肉声をあつめ、子どもたちの“リアル”をひもといていく。
 謎が多い事件の深層を最新情報とともに伝えるとともに、大人からは
見えなくなった子どもたちの心を描き出していく。≫ 
▼〈「そういう趣味?」の前科8犯の変態男が、12年の刑期を終えて出所。
 そして、ことに及んだ〉。たまたま、あどけない12歳の男女が、わけも
分からないで、繁華街で彷徨っているうちに獲物になったという事件。今では、
携帯に位置情報があるため、普通の子供同士が、気楽に出会うことが出来る。
その対応は、本人同士の同意のため、コントロールは、非常に難しくなる。
子供だけでなく、大人の世界は、こんなものではないのだろう。情報化が
投げかける問題は、イスラム国の宗教の世界だけでなく、全ての分野で
根底から大きく変化を始めている。思いもよらない子供、若者の実態の
話を、身近から聞こえてくるが、これでは、仕方がない!ということか。
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4922,音楽を愛でるサル
2014年09月05日(金)
   『音楽を愛でるサルーなぜヒトだけが愉しめるのか』正高 信男 (著)
  * 「孤人」の誕生  
 これは「ウォークマンiPodが、グーテンベルグの印刷に匹敵する
インパクトを世界に与えた」という説。読書は目からの視覚情報手段になるが、
ウォークマンは手軽な音楽の手段になった。それまでは、ラジオ、レコードや、
公共の場で集団で聞いていた音楽を、コンパクトな情報端末として個々が持ち
運び可能になった。それが一般大衆の「孤人」化の傾向を劇的に進むことになる。
それが今ではPCの携帯化とネット化である。  
  ー内容をまとめると、以下のようになる。
≪:何気なく音楽を聴いているが、実は音楽に喜びを見出せるのは人類だけ。
他の霊長類には音楽への感性が備わってない。なぜこのような違いが生じたか。
人類出現とともに社会的なコミュニのツールとして誕生した音楽が、言語と
分化し、ウォークマンiPod、「ひとりカラオケ」など個人で愉しむものに
変わるまでの音楽の起源と歴史、機能から、人類の進化の謎を解明かしている。
 :グーテンベルク以前は、書物という代物はたいへん重いもので、移動する
のはほとんど困難。手書きのオリジナル版が僧院や図書館に保管されていて、
読むためにはそこに出かけるしかない。借り出すことはできないので、気になる
記述に遭遇すると筆写するのが常だったが、活版印刷で状況は一変する。
薄い紙にぎっしりと文字をつめ込み、大量に製作することで、安価でハンディ
な活字本ができあがった。時期を同じくして、ヨーロヅパ世界では英国を
皮切りにして(乗り合い馬車という世界初の公共交通機関が出現。 乗客たちが、
この使い慣れないシステムを活用するにあたり、活字本を持参して移動中の
所在ない時間をつぶすという行為を思いつき、それが普及したとき読書という
習慣が社会に流布した。 まず最初は貴族が始めた。
彼らがとりたてて知的欲求が高かったと考えるのは、やや早計だろう。
乗合い馬車のなかの狭い空間で、身分の異なる見知らぬ者同士が顔をつき合わす、
その気まずさに平民よりも貴族が耐えられなかったことが、大きく影響した
のかもしれない。しかし本を持ち込んで、読書をすれば(または読んでいるふり
をすれば)、良い。
 :グーテンベルクに遅れることと五百年で、かつて中世で起こったのと同じ
ことが音楽でも見られるようになった。 ポータブル・オーディ・プレーヤー
の最大の特徴は、いつでもどこでも、セットをすれば一人で音楽と向き合える
という点に尽きるだろう。なるほど当人の視線は拘束を受けていない。だが
本人の注意が視線の先にないことは、誰にも見てとれる。耳から伝わってくる、
その源に行っているのだ。結果として「私の今の関心は、目の前にはありません。
文字通り、「心ここに在らず」の状態ですよ」というメッセージを強烈に発信
する機能を果たす。しかも機能的には書籍より格段にすぐれている。
手をふさぐこともないし、電車に乗っているときばかりか、通りを歩いて
いようと、あるいは走っているときでさ、彼らは公共の場にいないことに
されてしまうのである・・ ≫
▼ 視覚だけでなく、音楽を手軽に楽しめる視覚活用に、大衆がウォークマン
で気づく。数年前から、更にパソコンが手の平サイズの携帯に収まって世界的に
普及を始めた。それで、ネットで孤人が結ばれたのだから、孤人は、それまでと
違った「?人」に変わろうとしている。「?」は「弧」「拠」「壺」?
 現実世界の上にネット社会が出来て、世界を激変させている。
グローバル・ネット社会の住人の呼称は?孤独の群集、孤独の流離い
人が、気楽に、それぞれ結ばれる面白い社会になってきた。
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4555,横尾 忠則の老人論 ー2
2013年09月05日(木)                    
  * 人生の目的 ―バルザックの場合   
              「猫背の目線」横尾 忠則 (著)  
ー良く遊び、良く学び、良く働く。その他に「空白=虚」の領域を持つことー 
これが私の人生の目的。その虚の領域が、バルザックの人生の目的の「休息」
になるのか? 生前、死後に取り囲まれた『自分』の外(虚空)を常に意識を
するため、休息が必要ということか? 欧州のバカンスで1〜2ヶ月も休暇を
とり、生活圏から離れ、ただボッとする。それが彼らの休息。
日本にも湯治というシステムが昔からあった。軽井沢や那須などの別荘地は、
娑婆から隠れるためにある。  ーまずは、その部分からー
《 彼は「芸術家にとって暇が労働なのだ」と言う。つまり芸術家は常に規則
 に従うことを拒絶し、自らが自らの規則に生きることを本懐としている。
世の中の潮流や流行は意に介さず、無頓着でいなければならない。社会や他人の
支配に従うのではなく、その時の気分(そう、この気分が大事である)に従う
のを第一義にしなければならない。バルザックも「芸術家は自分の好きなように、
またはやれるように生きる」と語っている。「人生の日的は休息にある」という
バルザックは、芸術家は例外としてもこの彼の目的は万人に通じる。先に彼は
「芸術家にとって閑暇が労働であり、労働が休息なのだ」と言ったが芸術家は
何もしないでボーッしている瞬間にも、作品の構想を頭の中で練っている。
 だか休息中でも働いているのだと言っているのである。働くといえど肉体労働
ではない。知的というか創造的労働を体を休ませると同時に行っている。
「芸術家は休む時がないですね」と言われそうだが、確かにそうだ。
でも画家の立場からすれば描いている時は結構休んでいる。考ているようで
考えてない状態、三昧世界に入っているのである。
バルザックが「人生の目的は睡眠にある」と言ったらヤバイが「休息」と言う
ところがさすがである。つまり休息こそわれわれが無意識になれる最もベスト
の状感だからである。またこの無意識の状態こそ最も健康な状態といえるのでは
ないだろうか。常に頭を使ったり過度な肉体労働をすることは健康を害すること
に結ぴつくことがある。バルザックが人生の目的を「休息」と言ってのけた
ところには人間の究極の幸せがあるように思う。大半の日本人は人生の目的を
手に入れるためには多忙を極めなければならないと考えているのではないか。
「休息」を目的にしたらきっと落ちつかないに決まっている。「休息」の
背後には芸術家バルザックの優雅な生活というのが存在しているのである。
貴族趣味で家中を金目の物で飾り付けるという優雅さでなく、自由に心の向く
ままに生きることこそ優雅な人生の目的であるということを「休息」を通して
学び直す必要があるとぽくは思うのです。》
▼「休息は死後にすればよい」というが「激しく生きた後の死こそ人生の目的」
 と言いたいのか? 先日、新しいCDを出すと、ツアーで同行した
ミュージシャンから販促を兼ねた手紙がきた。西アフリカのバスツアーで
ひたすら海岸線を南下する日程だったが、そこで「この旅行は、私にとって仕事。
異国のツアーが私に創造を喚起する。税務署は、これを経費と認めてくれない」
と言っていた。芸術家にとって休んでいる時が、創造状態にあり、それをカタチ
に移行する状態が、むしろ休んでいる、遊んでいる状態というのは、納得できる。
・・・・・・・
4180, 復讐するは我にあり
2012年09月05日(水)
復讐するは我にあり』は、キリスト教の言葉で、‘我’というのが神様
(イエス)のこと。復讐はまた新たな復讐を呼び”憎悪の連鎖”が生まれてしまう、
それを断ち切るために復讐は神に預けて神の裁きにまかせると言う意味。
この言葉を知らしめたのは、第74回直木賞を受賞した佐木隆三の小説で、
5人を殺害した西口彰事件を題材にした作品【復讐するは我にあり】。
1979年に映画化したストーリーとは、≪ 昭和38年。当時の日本はたった
一人の男、榎津巌に恐怖していた。 敬虔なクリスチャンでありながら
「俺は千一屋だ。千に一つしか本当のことは言わない」と豪語する詐欺師
にして、女性や老人を含む5人の人間を殺した連続殺人犯。延べ12万人に及ぶ
警察の捜査網をかいくぐり、78日間逃亡したが、昭和39年に熊本で逮捕され、
43歳で処刑された。≫ である。
 この「復讐は神に預けて神の裁きにまかせること」の意味を知って以来、
怒り心頭になると、この言葉を呪文のように唱え、気持ちを収めてきた。
逆に、私の逆鱗で多くの人の心を傷をつけてきたが、それ故に何倍も返り矢で
傷ついてきた。その時も、この言葉の意味を痛いほど実感した。年齢を重ねる
につれ、この言葉の重みを感じている。 要は因果応報で、報いは一番、
当人が受けているから、あえて怒りの感情に支配されることもない。
怒りの感情は、相手を毒する以上に自分を害する。復讐となれば更に毒が
自分に向かう。とはいえ、家族が殺されたり、致命的な裏切りの怒りは
癒しのしようがない。この言葉を唱えるしかないことになる。逆に祝福を
積み続けた人に神は幸運を与える。「積善の家に福来る」である。
しかし、この言葉こそ、ニーチェは弱者の怨念の原因となるという。
領土を奪われた国民が『復讐するは我にあり』と信じ、他力に頼ろうとしたら、
国は滅びる。人を恨めば穴二つ、という格言があるが、復讐は長期的潮漬け
にするしかない。「江戸の仇を長崎で討つ」ということ。
グローバル化は弱肉強食の世界になっていく。怨念が世界に満ちることになる。
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3815, 哲学人 ー�
2011年09月05日(月)
               ー「哲学人」ブライアン・マギー著より
* ー経験の裏側には、常識ではまったく感知できない真理と現実が数多くあるー
 人生の比較的前半で、経験、そして現象の裏側に一般では感知できない真理と
現実があることを、垣間見てきたつもり。私たちは表側の一部だけの事象を見て
判断している。知りえる範囲でしか見えない。旧約聖書の世界の創世の物語は
7千~8千年前。当時は、そこまでしか想像が出来なかったのである。
それも我々が住む地球が球形で、宇宙に無限に近い星があることも分るはずない。
現在の我々は、現象の中にある真実を知ろうともしないで日常を流れている。 
その範囲のイメージ内でしか生きるしかないのである。 
  ー以下の部分が、その辺のことを明快に表現している。
【 現代科学によって明らかにされつつあるように、日常の世界における、
 そのときどきの経験の裏側には、常識ではまったく感知できない真理と現実が
数多くある。それはしばしば人を愕然とさせるうえに、直観に反したものである
ことが少なくなく、真実であるとわかったところで、納得できない場合もある。  
 ー例を挙げると、
・私たちの周囲にあるどの物体も、分子と原子から成立しており、その原子を
 構成する素粒子の一部は不規則に運動している。これらはすべてエネルギーに
 変換可能なのだが(あらゆる物体は力に満ちた空間である)、こうしたことは
 常識的なものの見方とは全く相容れない。
・私たちのまわりの空気は、テレビやラジオの微量の電波など、情報を運ぷ
 見えない波動に溢れており、そのほかにも数々の分析可能の属性を
 有している、という事実にしても同様である。 
・私たちは巨大な球体の表面で暮らしており、その球が表面上では時速千六百
 キロで自転していると同時に、空間を驀進しているといった、ごく基本的な
 事柄でさえ、(私としてはどうしても言っておきたいのだが、猛烈に)直観に
 反しており、真理であるとわかっていても見たり触れたりすることはできない。
 この事実はあまりに常識はずれであるため、これを最初に発表した人々は、
 いまからほんの数百年前のことだというのに、ふざけた空想家か危険な嘘つき
 として糾弾され、そんな途方もない嘘を人々が信じたとしたら、あらゆる真の
 宗教と(それゆえ)真の道徳にとって害になると非難されたほどである。
 このように、常識は私たちの置かれている状況を適切に解き明かすどころか
 忠実に説明してくれそうもないということを、私たちは事実として知っている。
 さらに、特殊および一般相対性理論によって明らかになったもろもろのことや、
 量子物理学によって明らかになったもろもろのことが示しているように、
 私たちがじかに触れている物理的環境は、近年まで人間には想像もつかな
 かったほど奇怪であり、あまりに常識とかけ離れているため、どれだけ聡明な
 研究者だろうと、こうした問題を理解するのは至難のわざ。このような状況の
 なかで常識的な世界観の擁護を試みても、やる前から結果はわかっている。
 この試みはきわめて想像力を欠いたアナクロニズムと蒙昧主義にほかならない。
 それは最も粗悪な時代錯誤なのである。 なるべく失礼にならないよう控えめ
 に述べるなら、常識的な世界観は思慮の浅い人々の形而上学にはなりうるだろう。
 ラッセルは、それを「野蛮人の形而上学」と呼んだ。ラッセルの言葉で私が
 何よりも頻繁に引用してきたものは、つぎに挙げる『哲学の諸問題』
 (『哲学入門』社会思想社)の一節の最後の文である。
 「・・そうなると常識はも、もう役に立たなくなり、私たちは物理的対象の
 本性について、五里霧中におちいりざるをえない。そこで物理的対象を正当な
 理由で心的なものとみなせるとしたら、ただ奇妙に思われるというだけでそう
 いう説を否定することは正しいはずがない。物理的対象に関する真理は、
 奇妙であらざるをえない」 】
▼ 歳を重ねると、軽くなっていくか、重くなっていくかである。
 私の知る限り、教養を積んできた人ほど軽くなっていく。生きてきた月日の
 出来事が所詮は粟粒、チリの様に消え去っていく事象でしかなかったことを
 知っているからである。
 ・・・・・・・
3450 秘・異郷の旅、よもやま話 -7
2010年09月05日(日)
 * アフリカに魅せられて
 私がアフリカに興味を持ったのは、私の高校の友人がケニアのサファリ
から帰ってきて、その写真を見せてもらったことに始る。100枚以上の、
ライオンや象、ヌー、そしてチーターの写真が数多くあった。それだけの
写真が、その男が実際に写真に撮ってきた事実が受け止められないのである。
そこには、バルーンから動物を撮った写真もあった。なんで一回のツアーで、
これだけ多くの写真が撮れるのだろか? 実際に彼が撮った写真だろうか? 
狐に摘まれる感覚であった。 どれもこれも、これまで見たことのない
活き活きした野生動物のエネルギーが写真から溢れ出ていた。
丁度、カナダのロッキーに行って、大自然に魅せられたばかり。なら、
アフリカの大地と、野生動物が次のターゲットとして良いだろうと考えた。 
しかし、17〜8年前にケニアのサファリというと、大きな抵抗感がある。
とはいえ、あの写真を見せられた上には、行かない訳にはいかない。
そして、初めてケニアのマサイマラの平原にサファリカーで乗入れたのである。
平原をしばらく走っていると、遥か彼方に動物が走っているのが見えてきた。
事前知識は全くないので、期間中にせいぜい数匹のライオンか、シマウマを
見れれば儲けもので、テレビで撮影された動物は、普通は見れないものと、
信じきっていた。それが、シマウマが走っているのである。 そして、
その後は、次々と、ヌー、ガゼルの姿を見ることができるのである。
現地のドライバーが、無線とか、行きあう仲間同士で、何処にライオンの群れ
がいるとか、チーターがいるかを連絡しあっている。そして、夕刻に象の
20頭位の群れが一列になり寝ぐらに帰っていくのに出くわした。夕陽の中に、
黙々と隊列を組んで進む姿が何とも絵になっている。そして、翌朝は、早朝
サファリである。この時の参加者が4名に添乗員が一人。我われ夫婦に40歳
ぐらいの中年の男の一人参加が、二人のため、ペースは我われ夫婦になる。 
これほど、都合の良いサファリのツアーは今だかってない。どの場面も、
強烈な印象が残っている。最初のサファリは、誰にとっても、そうらしい。