* 理性とは何か
 学生時代のゼミで何気なく私が発した言葉が。「理性とは何ですか?」
あまりに唐突だったので、誰もがポカンとしていたが、それを簡潔に解釈した
内容を47年後にネットで見つけた! ネットと暇な時間は便利である・・
≪ カントやヘーゲルによって展開された「ドイツ観念論」を理解するためには、
 まず、感性と悟性と理性という三つの能力を区別する必要がある。
 主体としての人間が対象に働きかける仕方である。
・「感性」は「直観」の能力であり、時間と空間という形式を持つ。
(「直観」とは、カントの場合、見たり、聞いたりする感性的(=感覚的)
な直接知を意味する。)我々が何かを見たり聞いたりする際には常に、その条件
として、時間と空間という形式が先行しているはずである。我々は物(あるいは
何かのイメージ)を空間(および時間)なしに考えることは出来ないのだから。
・「悟性」と訳される「フェアシュタント(Verstand)」というドイツ語は、
「解る」「理解する」という意味の動詞(verstehen)から来ていて、
「理解する力」「常識」(英訳は、"understanding")を意味する。
その純粋な形式が、カントが「カテゴリー」と呼ぶ、判断の論理的形式である。
(これには、肯定や否定という判断の「質」、存在や全称という判断の「量」、
実体や因果性という判断の「関係」、必然や可能という判断の「様相」がある。)
・これに対して、「理性」は、より高次の、悟性の判断を総合的に関係づける、
推理の能力である。例えば、「人間は死ぬ」という命題は、「生物」という
媒概念を介して、「人間は生物である」「生物は死ぬ」という二つの判断を
総合したものである。英語でいうと、リーズン。つまり、「理由」「根拠」
「道理」を意味するのが「理性」である。なぜ?と問いかけたとき、
「なぜなら〜だからだ」と答える力が理性になる。≫
▼ 「感性」は直感能力、「悟性」は理解能力、「理性」は高次の推理能力、
 つまり高次の理由づけ、根拠づけになる。世間の噂話は、身近な世界
の空間・時間が先行するため、現象世界に埋没した人たちの戯言レベル。
理性の真逆になる。理性を高めるには、「ぼんやり時間」を意識的に持たねば
ならない。「ぼんやり」とは、闇の世界で迷子になっている状態。その5文字は
1、「闇」―蛍と星とダークマター
2、「独」―独りでいること
3、「閑」―逆茂木に囲まれて
4、「怠」―「1日4時間労働」の夢
5、「懶」―心の余白 である。
 いっけん、理性の世界とは真逆のようだが、この状況から、感性も、
 悟性も、理性も研ぎ澄まされる。高次の道理の追求ということ!
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4790,閑話小題 ー父親のこと
2014年04月26日(土)
   * 父親のこと
 これまで母親について語ってきたが、父親について殆ど書いてなかった。
父親が42歳時の時に8人の末っ子として生まれた為、父親が孫のように特別扱い
され育った。それもあって、直ぐ上の兄に陰湿に虐められてもいた。 御陰で、
気が強く、常に自分の身を守ることに、人一倍の知恵が身についていた。
今回の一連も含めた危機管理などの用心深い性格は、この辺りからきている。
 大家族の中、父親が絶対的存在で、母親も、兄姉たちも、常に緊張の中で
父の顔色を伺っていた家庭環境であった。父親は骨董商の二代目。祖母が
婿取りで、母が結婚した時には、当時の資産で七万ほどあったと、母の晩年に
なって、語っていた。母が結婚当時、父に「うちは金持ちなの?」と、聞いた
ところ、「金持の目安が10万で、どうだろう?」と答えたというが、その後、
数倍に増やしたというから、資産家の部類だったようだ。プチブルレベル?
 太平洋戦争前まで、当時のトップセールスを思い立ち、津上製作所社長や、
野本互尊など上客を持って、年に数回の取引で、かなりの利益を上げていた。
そして、大戦の勃発で、骨董は売れなくなり、地元からも多くの戦死者が
出ていた。その中、仏壇販売で戦中の生活を凌いでいた。それも終戦を向え、
次に考えたのが古着販売。食えなくなった人の古着を他より高い値で買取り、
欲しい人に、安い値で販売することを思いつく。それが拡大したのが、
衣料量販店である。これも、問屋からの仕入れでは安く売れないため、岐阜、
名古屋、岡山、広島などの生産地に直接行き、仕入れることを考えついて、
繁盛店として、全国的に知られるようになった。商売人の基礎の質実剛健
モットーに、明治気質の、真面目な人であった。顔つきも、性格も、私が、
そのまま、受け継いだが、酒は、殆ど飲まないところが、私とは違う。 
趣味は、旅行と、骨董収集と、茶道と、住宅の建設。自宅や、姉たちの新築
建設に金も口も出して、そのプロセスを楽しんでいた。家も、店でも、チリ一つ
でも落ちているのを嫌い、徹底的に掃除をさせていた。学歴コンプレックスが
強く、自然に娘婿には高学歴の人がなっていた。 友人の持てない人で、
株屋や、保険屋の営業などしか、傍には寄せ付けなかった。兄姉も、怖れて
近づかない中、末っ子の私だけが何時も父の傍にいて、何かペットのような
存在であった。法事などは、何時も私だけが出席をしていた。父親は、太平洋
戦争を挟んだ激動期を、乗り切ったが、私は、結局は、飲み込まれてしまった
甘い三代目になる。 この随想日記も〈売り家と唐様で書く三代目〉の
‘唐様で書いた’で、しかないのか。 ゙(。ノω<。)ァチャ- (-_-)ウツタ
【(後記)これを書いて、分類の<堀井誠作・シマ ワールド>を開いた
 ところ、父親の命日などに、多く取り上げていた。今さら、我ながら
 驚いてしまった! 結局、父親は私の大きな後楯の人だった、ということ。
 それにしても! 呆けか 】
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4423, 老後の不安で天引き預金、の良し悪し 
2013年04月26日(金)                     
 両親を近くでみて、お金について多く学ぶことができた。そして、このザマ? 
で、まあ、聞いて!額は小さいとしても、三十年近く給与の範囲で使い切ってきた。
また増築も含めてビル建設八棟と古ビル購入で35〜6億はつかった。土地仕入れを
含めたビル建設の面白さは何にも変えがたい。これらを現在も所有していれば
オーナーだが、手から離れれば、使い果たしたことになる。大金持ちがヨットに、
車に、別荘に、買物に35億使ったのと、35億のビル建設の道楽?と大して違わない。
それらを所有していようがいまいが車と同じ。ある期間を過ぎれば下手に所有して
ない方が良い。 父が死ぬ直前いっていた言葉が今でもハッキリ残っている。
『数千万の貯金通帳の数字と、この紙に書いた数字と何処が違う。何にも違わない。
買い集めた骨董が倉庫にあるが、これも同じ。二度と箱を出さないものばかり。
あるのは持っているという満足感だけ。だから、使える時に使っておくべき。 
金は商売を楽しんだ後のカス。カスを目的にするから失敗をする。そのカスで
自分を飾り立てたりしないこと。』と。
 それでも、茶道を楽しむため新たに自宅を建て、茶道具を中心にした骨董品
集め楽しんでいた。しかし無駄と、見栄のための出費はしてなかった。その家を
建てること自体、見栄でもあったが。それを見ていたこともあり、40歳過ぎから
収入は家内への給与分以外の全額は、使うようにしていた。酒、海外旅行、投資
の失敗位だが。しかし秘境旅行などは10年、20年続けると、なかなか良い思い出
が蓄積されていく。それもあって現在、あまりしたいことはないし、金もさほ
欲しいと思わないし、買いたいものもないし、遣り残した思いも少ない。 
 で、仮りに徹底した節約をして年に400万ずつ30年、毎年積み立てをして
いたとする。30×400=1億2千万。投資で二倍として2億4千が残る。
しかし長期的事業の個人保障で万一のことが発生すれば、この程度は数年でゼロ。
ということは、その範囲で、その時節に使っておいて正解だったことなる。
人間は収入減に比例し支出を落とせないのは、現在の日本国家を見ればわかる。
そこで「別名義で一割程度は積み立てをしておくべき」ということになる。
 その長年かけて積み上げた金も信用も、失うのは一瞬。これは事業と同じ。
あの世に持っていけるのは行蔵だけ。こつこつ貯めるのと、こつこつ使って
楽しむことの両立は難しい。何と金は使えるうち。後悔先に立たず、である。 
その辺を巧妙に仕掛けてくるのが保険屋と株屋。長年のスパンで積み上げた金を、
彼らは狙ってくる。都会の年金暮らしのリタイア組みは、収入の7〜8割しか
使わず、残りを預金しているとか。その殆どが亡くなった後、子供に相続される。
老後の不安で使うことが出来ないため。彼らは理詰めで考えないで、ただ不安に
流されているだけ。その不安は、「今・ここ・私」が確立されてないため
生じている。まず、それに気づくこと。直ぐに泣く時が来るなら、今、笑うしか
ない!腹から笑えるのは訓練で出来る。笑うから可笑しい。人生、笑って何ぼ!
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4049, 一時停止 ー7
2012年04月26日(木)                  
 * 公共広告「あなたが大切だ」について  (ふくろう通信一2008年春) 
            「一時停止」谷川俊太郎ー自選散文ー1955〜2010
≪ 命は、たいせつだ。命を、たいせつに。そんなこと、何千何万回言われる
 より、「あなたが、大切だ」 誰かがそう言ってくれたら、それだけで生きて
行ける。不思議ですね。このコピーは不特定多数に向けられた言葉なのに、
まるで誰かが私に向かって言っているかのように感じられる。この短い文章の
中で「命は大切とい一般論が、「あなた」という、ただ一人の人間に向けられた
言葉に変換されたからでしょうか。コピーに添えられた写真の少女は、もう
何かを訴えかける元気もなく、孤独で病的な表情でこっちを見つめています。
この少女にとっては、一対一で自分と向き合ってくれて、自分のことを本気で
気に向けてくれる誰かが言う「あなたが大切だ」という言葉が、「魔法の言葉」
なのではないでしょうか。「元気になる魔法の言葉」は、もしかすると本や
雑誌やテレビ番組の中にも見つかるかもしれませんが、何よりも身近な人の
言ってくれたこと、書いてくれたことにひそんでいるのではないかと思います。
たとえば大切な人と別れなければならないとき、別れの悲しみと苦しみが
深ければ深いほど、どんな言葉も自分を元気づけてはくれないし、慰めても
くれないと思いがちです。でも、もう言葉が何の役にも立たないと感じられた
ときにも、私たちのこころとからだの奥底で言葉はもがきながら生きています。
だから言葉にならない自分の悲しみ、苦しみが言葉になったとき、私たちは
元気になるきっかけをつかむことができる。同じように、誰かが苦しみ、
悲しんでいるとき、私たちはその人のこころとからだにひそんでいる言葉と
共振する言葉を探します。それはとても微妙で繊細な作業ですから、場合に
よっては言葉を探さずにただ黙ってその人のそばにいて、その人を抱きしめる
だけのほうがいいこともあるでしょう。辞書には載っていない「魔法の言葉」
は、変幻自在ですから。   ≫
▼ 本を読むということは、書き手の意図を、自らに対する言葉に切り替える
 作業でもある。一人も「あなたが大切だ」と、言ってくれなくても、著書を
通して書き手から、私にとって自分自身が最も大切だと受け止められれば良い
のではないか。とはいえ、それが出来る人は僅かとすると、やはり直接、
誰かに言われたいもの。幼児期に両親から愛情を多くそそがれた人は、
「あなたが、大切だ」という気持ちがシッカリと根付いて、その人の人生の
土壌になる。 両親の愛情は大切である。
 ・・・・・・・
3683, 自己を見つめる −7
2011年04月26日(火)
                 「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
 昔ほど生甲斐という言葉を言わなくなったが、そのかわり、「好きなことを
見出し楽しめ」というようになった。生き甲斐は、それなりの覚悟と追求の
エネルギーを要するが、「好きなことはを楽しむ」には、それほどの重さはない。
 生き甲斐について、著者は以下のように納得できる説明をしている。
  * 生き甲斐の探究
【 私たちは、この世の中を生きるとき、なんらかの形で、生き甲斐を
 求めている。生き甲斐のない人生を好んで求める人は、考えることができない。 
生きるということは、みずからが、そこに意味を見出し、なんらかの有意義性
の成り立つことを信じることのできる道程を発見して、そこに自分の人生の基盤
を据えて、自己の時間的な生成過程と、振幅を含んだ多様な遍歴の道を、辛苦や
労苦を越えて、歩み進もうとする覚悟にもとづいて初めて成立する。それを可能
ならしめるものが、生き甲斐にほかならない。むろん、その生き甲斐という問題
は、さまざまな局面を含んでいて、けっして単純ではない。けれども、生きる意味
を信じ、自分の人生を肯定できる道程を発見し、そこで自分の人生の充実を図って
生きる、という構造を含まないような人生設計や人間活動というものは、人間の
生き方として、考えることができない。意味や有意義性は、ディルタイがすでに
指摘したように、私たちの生を構成する最も基本的なカテゴリーなのである。 
そうした生き甲斐とは、それを最も強い形で言い表せば、自分の死に場所を発見
することと同じだと言えるであろう。 その道を突き進んで、その果てに自分は
もう死んでもよいと言えるような生き方とその内実を発見したときに、その人は
自分で自分の人生の充実を図って生きる、こういう構造を含まないような人生
設計や的活動というものは、泰然自若、自己であることに安らうはずである。 
たしかに、「人生、いたるところに青山あり」である。 しかし、ほんとうに
死んでもよいと思える場所と生き方を、最終的に見出すことは、けっして容易
ではない。何人も迷いを免れがたいもの。けれども、人間は、最後には、自分
を捨て、そこに自分を埋めてもよいと覚悟できる人生の住処を求めている。】
▼「生き甲斐とは、自分の死に場所を発見することと同じ。その道を突き
 進んで、自分はもう死んでもよいといえる生き方と、その内実を発見したとき、
泰然自若、自己であることに安らう」は、納得する。本当に自分の好きなことを
見つけ、全霊を傾けて自分のエネルギーを叩きつける時に、生甲斐が生じる。 
それがない人生は、空虚な喪失感が付きまとう。しかし生甲斐は、そう簡単に
得ることはできない。極限の中にこそ、生じてくる。生甲斐を感じているときが、
自分の心の芯にいる時であり、自分である時である。家族の為に我を忘れて
必死に働いている時、振り返ってみた時に、生き甲斐を見出すのである。
そこには、意味も意義も充分にある。 全身全霊をかけて対象に取り組んで
いる中に生き甲斐が生まれてくる。
・・・・・・・・
3318, 悲しみ、苦しみは人生の花
2010年04月26日(月)
 「悲しみ、苦しみは人生の花だ。悲しみ苦しみを逆に花咲かせ、楽しむ
ことの発見、これはあるいは近代の発見と称してもよろしいかも知れぬ。」
これ坂口安吾の言葉である。それなら喜び、楽しみは果実というところか? 
60数年の人生を振り返り肯定的に眺めれば、そうかもしれない。 
私の実感は、悲しみ、苦しみ人生のレッスン=学びである。近代の発見とは、
目標の発見と解釈できる。また花咲かせるとは、目的、目標の達成である。 
目的達成のプロセスこそ人生の花というのも肯ける。「花も嵐も踏み越えて」
という歌の文句があるが、人生とは挫折を乗り越えてこそ、その先の喜びも
大きくなるもの。「悲しみ、苦しみは人生の花!」は、なかなかいえない
言葉だからこそ、心に響くのである。自分の子供に先だたれた親に、この言葉が
当てはまるのだろうか。それも運命と割り切って受けとめることも人生だろうか。
「災い転じて福と成す」これが人生の真髄というが。 大きな時代のウネリの
中でこそ、味わいたい言葉である。過去を振り返ると、一番のどん底の時ほど、
周囲の人の苦しみや悲しみに対して鋭敏になり、優しい言葉をかけていた。 
その時ほど多くの人と心が通いあっていた。言い換えると「どん底の時期は
人生の花の時期」。「一番苦しかったけれど、一番楽しい時だった」と、
気づくかどうかである。 私の場合は「人生、面白かった〜!」が実感だが。
「喉ぼと過ぎれば熱さを忘れる」で、それなりに人生、色いろある。
 「人生、当たり!」と自己暗示するしかないか〜 
「悲しみ、苦しみは人生の花」と、心の底から思えたら、
それは一種の悟りだろう。 あれが花?
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2943電動式ステッパー
2009年04月26日(日)
 スーパーやホームセンターで、「自力式のステッパー」を見ていたが、
知人が毎日使っているが、非常に良いとは聞いていた。ところが電動式
ステッパーを家電店でみつけたので売り場で使ってみたが、なかなか良い。 
足の部分が勝手に動くものだが、しかし13万円もする。数ヶ月前に電気
ウエーブ・マッサージを見つけたが、12万円もする。そこでネットで廉く
小さいのを探したら1万4千円のものがあった。さっそく買って使っているが、
これが大当たり。 朝晩使っているが腰と胃腸と血流に非常に良い。 
それなら電動ステッパーも廉い簡易式のがあるはずと「電動ステッパー」
と検索を入れたら、アマゾンやビックカメラのネットで、29800円のものが
あった。さらに価格ドット・コムで調べたら最低価格が7665円(送料別)
があったので、さっそく注文した。
(字数制限のためカット 2011年4月26日)
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2579, 連鎖する大暴落 -2
2008年04月26日(土)      (p≧w≦q)オッ☆ o(≧▽≦)o ハァァァァァァ♪
 サブプライム問題は、予測できることであった。だから、逆張りも出来た
はずだが、それも振り返ってみればの話。オバマが大統領になると断じている
ところが面白い。民主党は(クリントンは新鮮味がないので)オバマとしても、
共和党のマケインとは互角だろう。しかし民主、共和党が10年ごとに交代する
ことに話がついている、というのも肯けること。この本の通り、日本がアメリ
の属国と割り切ってみると、日米関係が改めてシビアに見えてくる。世界中の
物資を、ドル、アメリカ国債などの偽札モドキで交換しているに過ぎない。
特に日本などは、それで高い兵器を言値ねで買わされているのだから哀れなもの。
この本を読むと、ドルが60円台、株が3000ドルも、なんら不思議ではない。
ー前著同様に、この目次だけでも内容が充分に要約されている。
[目次]
第1章 私の予言はなぜピタリと的中したか
 ・サブプライムローンの破綻はすでに2007年の5月にははっきりしていた
 ・アラン・グリーンスパンFRB議長は2005年に警告を発していた 
 ・ニューヨークもこれから三ヶ月ごとに大暴落していく
 ・返せそうもない人々に無理矢理お金を貸し付けたのがサブプライム  
第2章 大暴落がこれから3カ月ごとに襲い来る
 ・専門家と称する詐欺師たちが金融の八百長をやってきた
  (字数制限のためカット 2011年4月26日)