「もうこれは世界大恐慌」朝倉慶著
  * あの債権は、何処にいったのか?
  不思議でたまらないのが、リーマンショックの原因となった不良債権の行方である。バージン、ケイマン諸島は、世界の金持ちが
金融口座をつくって脱税をするものと思っていたが、不良債権を塩漬けにする基地でもあった。そこに飛ばしておけば、鉄の塊に金粉を
塗装して置いておくようなもので、実際の金か鉄の塊かの調査権が及ばない。 永久に隠しておけば良いが、そうはいかない。
もしかして永久に抹殺して封印して置くことも可能なのだろうか。どうだろう?? そうすると、6京円の不良債権は大変だと
不安がっている私たちの方が無知ということになる。 どうなっているのか金融の世界は? ーその辺の記載をコピーしてみるー
≪20年前のバブル期に大損した損失は今だ表に出てこない。このオリンパスの粉飾はたった一社特有のことなのだろうか?
オリンパスが使ったタックスヘイブン、バージン諸島、ケイマン諸島には大金持ちの資金だけでなく、隠れ借金が膨大に隠されている。
日本のバブル崩壊の100倍のスケールといわれたリーマンショックの後、巧みに封印され隠されてきた欧米金融機関の膨大な不良債権も、
やはりこれらタックスヘイブンに眠っているのではないか? ジェットコースターのように激しく上下したオリンパス株は、
なぜあれほどまでに上下に動いたのでしょうか?、裏に何かあるのでしょうか? すべての矛盾が複合的に絡み合っています。
様々な点が線に結ばれる時、いよいよ資本主義という世界の屋台骨が怒濤のごとく崩れ去るのです。恐ろしくも激しい、驚愕するような
大変化のドラマが始まろうとしています。一体昔の損失はどこに消えたのでしょうか? リーマンショックの後、欧州では大々的に
会計制度を変更しました。当時レベル3と呼ばれた証券化商品でしたが、このレベル3の商品に関しては時価評価をする必要がない、と
欧州当局はお墨付きを与えたのです。通常サブブライムローンを含んだ証券化商品は当時ではほとんど無価値と判定されていたのですが、
いわゆる金融破綻を避けるための当局の緊急措置として時価評価したら欧州のほとんどの金融機関は実は債務超過となるからです。≫
 ▼ 世界中の政府が口裏を合わせて、地下深く隠して表に出さないと合意していたら、短・中期的は表に出ないで済む。
  要は、金メッキをした金と分かっていても、それを本物の金として認め、金庫を開けない約束を国家単位で決めれば、それで
  通ってしまうのが金融の世界ということなのか。1千兆円の日本の国債も永久国債にして塩漬けにする手がある。金利が上がったら、
  その分の永久国債を刷ればよい。何せ永久に返済無用。何時か破綻が来るというが、そんなのは知ったことはない、というのが
  その時点時点の権力者である。日本のバブル崩壊は、大部分の都銀と、幾つかの証券会社と、多くの会社が倒産か、吸収合併で
  消えて無くなった。やはり何時までも隠し通せる訳がないのが現実である。 私も既に世界は恐慌に入っているという論である。
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 2011年07月31日(日)
 3779, ユング ー11
  * 箱庭療法 ー2
   ☆ ゲニウス・ロキ <その場所や土地に宿る「精霊」>
 どの村、国にも聖地があるが、殆どの家に仏間と祭壇がある。家だけでなく、守護霊が、それぞれの人間の魂にいるという説がある。
それを箱庭の中に表出させるのだから、興味がわいてくる。人間の脳は、20億年以上の生物の進化が創り出した得体の知れない機能の塊。
 箱庭の作品の写真をネットで見ると、底知れぬ人間の潜在意識の奥行きの深さの一端を見ることができる。
≪ ーつづきー 「箱庭療法」では、「ゲニウス・ロキ」を重要視する。 古代ローマの思想では「ゲニウス」は「精霊」、
「ロキ」は「土地」を表していた。「ゲニウス・ロキ」で、<その場所や土地に宿る「精霊」>という意味になる。
その時その場に宿った力(精霊)が、無意識の深層心理の神話的な力と結びつき、それが創造力となって「箱庭」に表現される。
この「ゲニウス・ロキ」を実現することが、治療者の「見守る」行為。実際になにもしないが、大きな精神力が必要になる。
「見守る」とは言っても、治療者ではない一般の人が「見守る」のとは、異なる。「箱庭」になにも表現されないセッションでも、
治療者が作り出した「ゲニウス・ロキ」のなかで、患者の内面では変化が起きてくる。それが、二回以降のセッションで現われてきます。
初めの数回のセッションでは落ち着きがない被験者も、その数を重ねることで、徐々にまとまりのある箱庭を作るようになる。
箱庭という守られた空間に自分の気持ちを繰り返し表現することで、その課題が浮かび上がる。
それは、あくまで遊びの中で行われる。遊びの中には、成長をするための要素が多く含まれている。≫
 ▼ その箱庭が、玩具の配列で、精霊が浮かび上がってくる。 箱庭の解釈は、大ざっぱにいうと、左半分が内面を、右半分は外面を、
  手前から上に向かって現在から未来へと向かう。ところで、聖地は典型的なゲニウス・ロキが在るところに存在している。
  その周辺には必ずといってよいほど、岩場が存在している。ピラミッド、中南米の古代の聖地、ギリシャの神殿、エルサレムなどは、
  その典型である。 もう一つは立地上、民族の存続上に大きな戦略的拠点でもあるが。箱庭療法、一度は、やってみたいものだが。
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2010年07月31日(土)
3414, 「憎国心のすすめ」
 18年の海外生活から帰国した著者が大分の山中に居を構えて5年、変わり果てた祖国・日本を憂えている。 
ここで、ひとりの地元青年とのやり取りを通して、日本再生には愛国心ではなく、憎むという感情、いわば「憎国心」が必須と説く。
最近は著者の見方にかなり感化されてしまったが、老化からくるマイナーの見方でもある。しかし「憎国心のすすめ」は極論になるが、
それで日本人にアメリカの間接統治を知らせたいのである。それを前提にしないと国家改革など不可能である。 日本は、いまだ
長年にわたった洗脳で思考停止状態にある。その実態に憎悪心を滾らせないと、真の己の姿が見えないというのは至極当然のこと。
  ―印象的な部分をランダムに書き出してみた―
《 愛ではない。この日本を救うのはむしろ、憎むという感情、いわば憎国心だ!・・・ 愛するために憎む。
 想うために考える。この日本を。「俺の仕事の動機はいつも怒りと愛だ」と私は無理に続ける。
「悶死したくなるような怒りの先に愛が見える。そのとき、仕事をする情熱が生まれ、行動の意味が完結する」「ははぁ・・・」
「日本に帰ってきてから、怒りはほとんど極限に達している。でも、その先の愛は見えない。
 だから、もっと、徹底的に憎国心を高ぶらせる」「ゾー・コ・ク・シ・ン・・・ですか」「無論そんな日本語はない。
 いま、とっさに考えついた。愛国心の相対だ」「ははぁ・・・」「憎国心さえもっと鍛えれば、もしかすると、死ぬ前に、
 もう一度この国を愛することができるかもしれない」》
《 日本人を一言で要約すれば<考えない>ということであり、―ジャップ(日本人の蔑称)は考えないという特殊能力を持っている、
 ということになる。人間が考えないでいられるというのは、ムズカシイ以上に実にありえない不思議な才能であり、
 特殊の才能である、特異能力とも呼べるものであり、貴重な力となりうるからである。<考える>という根本は、
 まず疑問が無くてはならない、それからしてジャップには無い。次に推理、次に分析、最後は統合。この4段階、どれもない。
 疑問がないのは、比較感覚がないからということになる。比較がないから、考えない。・・・・ 》
《 中村元「日本人の思惟方法」の引用からー
 (日本人は)西洋人の目には、シナ人などよりはるかに浅薄な印象を与える。日本人自身は世界の文化を
 総合したつもりでいるが、じつは単なる便宜主義的な無反省な折衷混合状態に陥っているおそれが少なくない。》
更に著者は日本人を嘆く。
《 「一言で言えば日本人は他律的な民族だということである。それは縄文から続くわれわれの本性だったのだ。
 他律とは、(自分の意志によるのではなく、他からの命令や束縛によって行動すること)であり、カントの用語(ヘテロノミー
 によれば、意志が理性の命令でなく、感性の自然的欲望(傾向性)によって規定されること、である。」
「すべて。そして誰かが操作している。このにほんじんの本性を、骨の髄まで他律的であることを知っている誰かが、どこかの国が、
 どこかの民族が、その欠点をたくみにつき、利用し、一層助長させ、推進させ、摂取し、操っている。
 そして、これほど歴然としている数々の証拠実例を、なぜ人々は気づかないのか?」》
  ー著者の視点で人生を振り返ってみると、アメリカの属国としての価値観を疑いもせず、あくせく生きてきただけ?になる。
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2009年07月31日(金)
 3039,「自信を与えてくれた人」
 何気なく見ていたブログに紹介してあった一文。世の中には心を打つ色いろな出会いがあるもの。本人にとって何にも替えがたい
自信になったろうし、前向きにさせてくれる出会いである。ネットで調べたら、この人の漫画は何度も目にしたことがあったが、
軽妙な暖かい人物像を描いている。その「元気を与えてくれた人」は、数寄屋橋の絵の中の何かに共振をしたのだろう。
その絵に感動し十五年後に買い求めた人と、その絵を見てみたいものである《 あれは今から二十年も前、私が二十二歳のときです。
私は数寄屋橋で風景画を描いていました。ええ、まだ数寄屋橋の下にはチャンと川が流れていたころです。 私の描いた油絵を、
大勢の人が見て通るんですが一人だけ、三十分も一時間もそばで見ている人がありました。そして最後に私の住所と氏名をきいたんです。
そのときはそれっきりでしたが、五年前にその人から手紙をもらいました。「あなたは忘れているかもしれないが、私はあのとき
住所をたずねたものです。あのときとてもあなたの絵がほしかったのだが買えなかった。こんどようやく家を新築したので、
ぜひあのときの絵を売っていただきたい」そういう内容でした。その頃のぼくの絵なんか売れっこありません。その絵はチャンと
ぼくの手もとにあったんです。しかも、何度もぼくは住所を変わったんで、その人は苦労して見つけてくれたに違いない。
 ぼくは感激しましたね。さっそくその人といっしょに〃ガクプチ〃を買いにいったりしました。》 ー鈴木義司
鈴木義司=読売新聞の夕刊の4コママンガを描いている漫画家、2004年7月17日午後2時45分に死去。享年75歳。
   むかしテレビ番組「四コママンガ道場 お笑いマンガ道場」に出ていた》
▼ 享年が75歳で、この文章は42歳の時の文章とすると、亡くなる33年前の1971年頃の文章になる。絵を描いていたのが、
 その20年前というから1951年ということになる。 岸恵子の『君の名は』が1953〜54年だから、その二年前に数寄屋橋で絵を
 描いていたのである。 新築の家の絵に欲しいというところが良い。この逸話の中から、それぞれの人生が浮き上がって見えてくる。
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2008年07月31日(木)
 iPoneについて
いずれにしても、これは凄い。少しオーバーに言えば1〜2ヶ月で、私の中の何かが変化するだろう。
 情報機器を幾つか持っている。 そのお陰で
・パソコンでインターネットを楽しみ、「お勉強」もしている。・デジタルカメラを常時、鞄に入れて歩いているし、散歩にも持っていく。
・2千曲入力してあるiPodも持ち歩いている。        ・携帯電話を身につけている。
・会社の机の前と、自宅の居間の机にもiMac(机上型のパソコン)が置いてある。
 それが全て、携帯電話を少し大きくした、このマシーンに入っているである。「それなら、携帯電話があるじゃないか」というが、
これはパソコンを基点としている。 超小型パソコンに、多くのデジタル機器の機能が入っているのが凄いのである。
更に、GPSナビゲーションまで入っている。 新聞や、マックのHPで、このデモンストレーションの映像を見たり、モーニングショーで
キャスターが操作をしているのを見たが、自分の手にとって腹を据えてみると、その凄さと深さが見えてくる。 
半年前にiPodを実際に使ってみて驚いた。 手持ちの200枚のCD(2000曲)が、マッチ箱位の薄いマシーンに、全て入ってしまった。
パソコンに一度入力をしてしまえば、何時でもマッチ箱に出し入れ自由である。ところが、それさえも、このマシーンは機能の一部として
入っている。 いま一つ、タッチパネル+ワイヤレス+超小型の総合効果が、パソコンのストレスを大幅に減らしている。
このストレス・フリーが最大のネックである。携帯電話が、固定電話から我々を解き放ってくれた。それと同じことが、
今度はパソコンでも起きている。大型コンピューターがパソコンになり、ノートパソコンになり、モバイルパソコンになり今度はこれである。
 これには母機のパソコンに対する子機という位置づけは殆どない。(iPodなどの機能を使う時はあるが)これも三年もしないうちに、
古くさい原始的なマシーンになっているのだろうか。まずは、これを使いこなすことから始めないと。何かSFの世界を垣間見ているよう。 
 若者が、モバイルパソコンに、如何反応するか楽しみである。
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2007年07月31日(火)
2310, また地震!どうなっている?まったく!ー 9      才ノヽ∋? (゚▽゚*)♪
田中真紀子様が、この参院選挙に中越長岡駅で堂々と車の上から選挙応援ができるか、見ものであった。
TVでは映像を出なかったので、さすがに度胸が無かったのか、警察からでも忠告を受けたのか、どちらだろう。
昨日の朝のTVのニュースでコッソリと個人演説会に来ていた映像があった。「下手に話すとマスコミに何を言われる
かもしれないから、街頭演説はしない」だと。この角栄の嬢様は、柏崎・刈羽原発を強引に誰が持ってきたか、ご存知なのだろう。
いくら越後人が人が良いとしても、そろそろ誰が危ない原発を誘致したか、気が付かないはずはない。 
しかし誰も口にしないから呆れてしまう。原発で??されかけたのに、何で怒らないのか? 不思議でならない!娘だから関係ない?
   (字数の関係でカット10年07月31日)
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2006年07月31日(月)
 1945, 満水の阿賀野川河口でカヌーに乗る       (。^0^。)オッ(*^○^*)ハ? ヨウ
豪雨で満水の阿賀野川河口でヨットカヌーに乗った。大学時代のゼミの後輩Mさんが、最近ヨットカヌーに凝っていて、
「今度、是非カヌーを乗ってみませんか」と誘われていた。先日行われた「新潟県活性化の会」を仕掛けている人だ。
来県の前日の27日に電話があり、「車の上にカヌーを乗せて東京の自宅から来たい」という。
天気予報では豪雨注意報が出ていたので「カヌーなど絶対に無理」と言ったが、それでも車の上にカヌーを乗せてやってきた。
「出来ないとしても、帰りの道すがら何処かの河で浮かばせるから!」という。 好きな人はそういうものだ。
天気予報では豪雨、絶対にこんな時にカヌーなど不可能と、服装などの準備は全くしていなかった。
一昨日の29日の朝、どういうわけか打って変わった穏やかな天候になった。(前夜半はかなり降ったようだが)
前回にMさんが来て一緒に飛行場周辺を見て回った時に、阿賀野川の河口がカヌーの最適の場所と目を付けていた。
当日そこに行ってみると、数日の豪雨のため河は溢れていた。しかし、Mさん「平気で大丈夫です、乗りましょう」という。    
この玩具みたいなカヌーでこの数百m、いや1キロ以上?もある河口を乗りまわるなど、とんでもないと思ったが、
本人は「平気、平気、何でもないですよ」という。 そして、ドンドンカヌーを組み立て始めた。 岸沿いを漕ぐのかと思いきや、
どんどん河の真ん中の主流に出て、そして対岸まで行ったしまった。\(゜ロ\) 当然この満水の中、他のボートは1隻も見当たらない。
沿岸にはモーター・ボートが20艘ほどあったが、この洪水一歩手前の中、誰も乗るはずがない。 (///>_<;////)ノ
始めは少し恐怖があったが乗っているうちに、恐ろしさが全くなくなってきた。地元の人からみたらとんでもことであろうが、
それにしても、面白い!豪雨のため大きな流木が彼方此方流れてくるが、それを避けながらボートを操るのだ。
ふと気づくと2時間近くたっていた。そして、午後は寺泊の海岸に移動、再びカヌーを浮かべた。また河とは違ったスリルがある。
風が不意に舞うのと、海流の動きをみながら操る。河とは全く違う面白さがある。Mさん、「このカヌーあげましょうか」というが、
私が乗りこなせるものではない。丁重にお断りをした。Mさん、ヨット歴をいれると30年は舟に乗っているという。
そりゃそうだろう。あの川幅のある阿賀野川の満水の中、流木を避けながらヨットカヌーを乗りこなすには長年の経験が必要だ。
Mさん、その日は遅くなったので急遽、長岡に宿泊。殿町を深夜まで飲み歩いた。そして、翌日の15時過ぎまで、再び寺泊で、
午前・午後にわたりカヌーをして、16時に東京にある自宅に帰っていった。 やってくる前日、知人の通夜があり、
数時間しか寝ないで新潟にきたというから、凄いエネルギーである。こういうのも、能力というのだろう。 
28日の活性化の会を含めて、この三日間は、刺激的であった。 ー阿賀野川の満水の河渡りは、一生ものの思い出になった!
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2005年07月31日(日)
 1580, パンセについて
昨日の随想日記の昨年の同日分に、パスカルについて書いてあった。
その中の格言を読み返してみて、現時点の考えを書きたくなった。学生時代に感じたこととは自ずから違ってくる。
・人間は一つの極端にあるからといって、その偉大さを示しはしない。
 むしろ同時に二つの極端に達し、その中間を全て満たすことによって、それを示すものである。
 ▼ 二つの極端とは、善と悪・神と野獣・観念と実践、等々あるが、中庸こそ偉大さがあるということか。
 偉大さも所詮は人間の価値観の判断でしかない。
・人間は偽装と虚偽と偽善にほかならない。 自分自身においても、また他人に対しても
 ▼ 偽装・虚偽・偽善と気づくかどうかだ。
・もしクレオパトラの鼻がもっと低かったなら、世界の歴史は変わっていただろう。
 人間のむなしさを知ろうとするなら、恋愛の原因と結果とをよく眺めるがよい。
 恋愛の原因と結果とを眺めてみて、男とは他愛のないものである。 それだけ若き性欲は昇華して恋愛を促進する。
   (字数の関係でカット09年07月31日)
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2004年07月31日(土)
 1215, 「世界の名著をあらすじで読む」         
        ー読書日記
最近、本屋の平積みのコーナーで、古典などのダイジェスト版が目立つ。文庫本も出始めているからブームになっているのだろう。 
先日、図書館で「世界の名著をあらすじで読む」と、「子供に読ませたい世界の名著」を借りてきてさっそく読んでみた。
振り返ってみて、世界の名著はあまり読んでない。古典的なものとして、「罪と罰」「大地」「赤と黒」「魔の山」「旧約聖書
新約聖書」・・・それと、ロマンローランの数冊と、最近ではソルジェニーツェンの数冊と、あと数人の作家の本ぐらいである。
ノンフェクションが好きなためだ。「子供に読ませたい世界の名著ーベスト26冊」の中に挙げてある本は殆んど読んでいたので
安心はしたが。読んでみて、名著といわれるものはダイジェストでも非常に面白いことが解った。
それと過去に読んだ本でも99?は忘れているのには驚いた。それを思い出すだけでも充分に価値があった。
トルストイの「戦争と平和」やモーパッサンの「女の一生」や、ショーロフの「静かなるドン」などダイジェストでも面白い。
   (字数の関係でカット09年07月31日) 
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2003年07月31日(木)
 848、10の小法
ホームページのネットサーフィンをしていたら「10の小法」が出てきた。
  なかなか含蓄のある内容である。
    小食多噛 小肉多菜 小塩多酢 小糖多果 小煩多眠
    小衣多浴 小車多歩 小言多行 小念多笑 小欲多施
それでは「10の多法」と大と小を入れ替えてみた。『成人病への近道?10の多法』というとピッタりだ。
 逆も真なりである。下記が私の自己評価であるが、一番悪いのが多食少噛である。これさえなおせばよいが、
終戦直後の生まれのせいか腹が膨れないと食事をした気にならない、それも早食いのため小噛になる。
20歳なら80?、40歳なら60?、60歳なら40?と歳に応じて胃に収める量を減らしていかなくてはならないという。 
半分以上バツなら成人病間違いなしである。  ○ー無し、△ー普通、×ー傾向あり 
  『10の大法』  
    多食小噛  ×  多肉小菜  ○  多塩小酢  △  
    多言小行  △  多念小笑  ○  多欲小施  △ ・・・・
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2002年07月31日(水)
 473,一言タレント
小泉首相が大衆に人気がある大きい要素に毎日だす一言コメントがある。すべてをこめていると言ってよいほど簡素で鋭いし、
いいえて妙だ。?ワンバイト(一言)化というらしい。それで気が付いたが、随想日記も「一言コメント」に似ている。
テーマが一言コメントで、文がその解説と言えよう。そういう面では時代に適しているのかもしれない。
テーマの決定にエネルギーをつかうが、それなりに出てくる。小泉首相の場合、そのプロのコピーライターが側近にいるだろう。
時代が一言タレントを求めているのだろう。これも情報化社会の一現象である。TVの色々の分野の専門的な番組を初心者向けに
放送すると、よい番組が出来上がるという。簡単に、特化して、編成すると内容が芯をつくという。田中真紀子女史もその事をしって、
批判をしているから人気の大きい要素になっている。つまらない時代になったのか、面白い時代になったのかどちらであろうか?
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2001年07月31日(火)
 [93] 旅行で出会ったー普段会えない人         
日本生産性本部の元トップとおぼしき人          ・NHK幹部
・いつもお付きと来るが今回は一人できている山の手の奥様、 ・天下ったばかりの元官僚、
日本興業銀行本部のキャリアウーマン           ・遠い親戚が亡くなりおもわず数億の現金を相続した人
・ツアーを2重がさねで続けて、現地でおち合った80台半ばの見た事がないくらい品の良い老夫婦、
・TVの経済解説でよく見る人               ・えげつない関西のおばちゃん  
まあ彼等から見たら、反対にどうみられているのだろうか?