* 「大恐慌 入門」朝倉慶著
 一昨年の9.15のリーマンショック以来、多くの恐慌関連の本を読んで事態の大きさに呆然としたが、
ここにきて少し小康状態を保っている。 冬季オリンピックが終わる頃から本格的な波が押し寄せてくる。 
既に恐慌は起こったのである。現在は、緊急措置で平静を保っているだけ。 そこで数日前から、
数年前から去年にかけて読んだ金融恐慌関連の本を重ねて読み返している。
 当時は読み過ごしてしまった内容にハッとすることしばしば。 その一冊の「大恐慌入門」朝倉慶著がある。
読んだ時は、「色いろな学者の論をダイジェスト的に纏めたもの」と気に留めてなかったが、一年後になって
読み返すと簡明だからこそ納得する。 表紙裏に < これまでは「春の散歩道」。これからデバティブ6京円という
スーパーバブルが破裂する。 世界を覆う「百年に一度の津波」にどう備えるか。> とある。 
 9.15から一年半経つが、アメリカの投資銀行は瞬間的にホボ消滅、GMとクライスラーシティバンク
日本では日本航空が破綻した。 それ以外は、あまり目立った動きはなかったが、これからCDSの破綻が表面化してくる。
これに比べたらサブプライム問題は公園の散歩みたいなもの。 一昨年の大晦日に発刊されたが、著者の予告していた通り、
世界各国に国家破綻が現実に問題になってきている。 アイスランドギリシャと深刻な問題が表面化してきた。
・このスーパーバブルの崩壊は誰も止めることが出来ないし、アチコチで火山の噴火のように吹き出るのは時間の問題。
オバマは、処理など出来ないで、その責任を問われる悲劇の大統領になる。置き土産は、新ドルへのデノミか、大幅なドル安誘導。
・資本主義の崩壊は、これから始まりCDSを抱えた金融機関や、企業の淘汰が表面化する。
 CDOは、まだ300兆円だが、これから5400兆円のCDSの問題が出てきざるをえない。
 それを解決するのは、世界各国が現在の貨幣量を果てしなく増加して、ハイパーインフレにし、
 その結果、新たな貨幣への切り替えを世界中が一斉に実施、CDSをチャラにするしか方法は残されてない。
 まず、ハイパーインフレに転じるに、あと一年はかかるから来年から再来年の2012年末辺りに標準を絞っているようだ。
・失業は欧米で9パーセントを超えているが、日本は救済処置で5パーを維持しているが10パーは時間の問題。 
 〜 まあ、そういうこと!  これらを読む限り楽観論は、この数年は考えられない。    〜 つづく
                         
・・・・・・・・・
2877, 自分らしくあれ!
2009年02月19日(木)
 クリントン女史が慌ただしく日本を駆け抜けていった。大学生との対話の中で、ある女子大生の質問 
「女性なのに、どうして、そんなに強くなれるのですか」に、「自分らしくあることよ」と、答えたのが印象的だった。 
 ーそこで「自分らしくある」ことを、哲学的に考えてみるまずその「自己」を考えると「他者」の問題にぶつかる。
他者の中の「これ」は時間の経過と同時に発生?する。 さっき向こうから歩いていた「これ」が現在、橋に立っている。
その時に、さっきの「これ」が「自分」になる。生まれて今まで他者の間で生きてきた。その他者との境界線の内側が「私」である。
「自分らしさ」とは、それまでの人生で他者との接点の「あり方」、あるいはその内側の蓄積である。
その時点時点で、何かを追求している在りようが「自分らしさ」である。何かに没頭していて我を忘れている姿に
「自分らしさ」が生まれてくる。初めから「自分らしくあろうと振舞ってはならない」ということである。
役者が仮に信長を演じていたとすると、役者が自分の個性を意識した時、大根役者に陥ってしまう。
我を忘れて信長を演じた時に出てくる味が「自分らしい」のである。クリントン女史は、民主党の大統領候補、
クリントン元大統領夫人、弁護士、上院議員等々の顔がある。その役をこなしているプロセスで出来上がった個性が
「自分らしい」ということである。彼女の場合、どの役をこなしていても、肩書きよりクリントン女史そのものが前面に出ている。
これこそ、名優の証拠である。 言葉づらだけを捉えると「自分らしさ」を、多くの人は誤解する可能性がある。
自分らしくとは、取り組んでいる役割りや、目標、そして遊びに自分を忘れること。
小林秀雄の「無私の精神」に達することこそ、「自分らしく」なることである。
「何ごとも、魂をこめてすること」で、自分らしさが生まれ出てくる。
・・・・・・・・・
2008年02月19日(火)
2512, iPod nanoを買ってみた!
                          おっはぁ〜。:.+.:*w(′┏▽┓`●)w
先日、長男が帰省のおりに、ソニーウォークマンを見せてもらってビックリした。
そこでiMacのパソコンを導入したので、iPodを買ってみようと思い立った。
iPodの機種にはtouch、classic,nano,syaffleがあるが、その中で何を選定するか、
迷った末に、一番小型のnanoに決めた。アマゾンから注文したが、2時間ほど夢中になって時間を忘れるほどであった。
選定の最後の決め手は小ささであった。直ぐに分かったことはタッチとプッシュで簡単に操作でき、何よりシンプルなのが良い。
Macのパソコン同様に、売り場を何気なく遠くからみるだけで、難しそうで近づきがたかった。
どのように数千曲もの音楽を、小さな器械に入力できるのかが、まず不思議であったが、iMacを入れたおかげで、
CDを差し込むだけで入力できることが分かった。まずはミュージック、そしてライブラリーと開いて、iPodとコードを
つなぐだけで、自動的に入力をしてくれる。 だから若者を中心に多くの人が飛びついたのである。
iMac(パソコン)のライブラリーのコーナーにCDや、インターネットで購入した曲を記憶させる手間が少しかかるが、
これはいたし方がない。驚いたのは、CDで入力した曲の情報を自動的にテーマや、作曲者、入力順、聞いた順に分類し、
羅列してくれることだ。さらに流れている音楽の広告も出てくる。これはアマゾンやグーグルと同じである。
それと音質が非常に良い。この複合の機能のついたものが、iPaod touch、電話機能付きがiPod ifhon、
そのモバイルパソコンが、Macbook airということになる。この小さな中に2000曲も入るのだから驚きである。 
最近の進学のお祝いが、ソニーウォークマンか、iPodというのが流行になっているとか。面白い時代になったものである。
.........
2007年02月19日(月)
2148, 幸福に驚く力 −1
 オッ(*^○^*)ハ〜ヨウサン!
大雑把に言ってしまえば{人は子供の本と物語の力によって、日常の中にある幸福に驚き、
人生を肯定的に生きることができる}が柱である。 幼児期、少年期の生活環境の重要なポイントが
見えてくる内容である。今回はテーマそのものの[幸福に驚く力]についての、要点を抜粋してみる。
 −−−                 
ー幸福に目を凝らすー
 大人の文学は、よくもまあ、これだけ不幸に目を凝らすものだと思われるほどに、重箱をつつくようにして
 不幸をえぐり出しますね。それはそれで面白いんです。では児童文学は何をやっているかというと、幸福に目をこらしているな〜
 と思うんです。一見不幸と見えるなかに、よく目を凝らすといっぱい喜びが潜んでいることを、ちゃんと取り出して書いている。 
 不幸に驚くことは放っていても誰でもする。 不幸に目を凝らすことは放っておいてもみんなする。
 でも、子供の文学はずっと幸福に目を凝らしたり、幸福に驚いたりする心を持った人によって、書かれてきたんじゃないか
 と思うようになりました。だから幼いときに昔話や優れた児童文学に出会うことは、非常に大事です。 
 「昔話を聞いたり読んだりして育った人は、それだけで人生に対する抵抗力がつく」 とはよく聞くが、
 そのことをやっと最近になってわかるようになった気がします。まあ昔話は人生のイメージ・トレーニングをすることである。
 ー人生を肯定する生き方
「昔話を聞いたり読んだりして育った人は、それだけで人生に対する抵抗力がつく」とはよく聞くことですが、
そのことが最近やっとわかってきたような気がします。昔話はだいたい、主人公が一人いて、いつも前進し続けていて、
最後には幸福になるという筋書きですね。これが繰り返し繰り返し、いろんな物語に出てくる。
これらに出会うことによって、なるほど人はひとつのイメージ・トレーニングができてくるのだろうなと思います。
 それから、必ず善が勝つのも昔話の特徴でしょう。善が勝つ、善が生きのびるということは、とにかく小さい時にはこれでもか、
これでもかと伝えてやらなくちゃいけないんでしょうか。そうやって生きるということを徹底的に肯定的に肯定してやること。
それをしなかったら、すぐ「どうせ人間なんて」ということになってしまう。「どうせ生きたって」「どうせ大人なんて」
ということになる。私は児童文学とか昔話は、人生を肯定的に見る下地をしっかり子供の中に作ってくれるのではないかという気が
しています。またそうあって欲しいと思います。『夜と霧』を書いたフランクルが「それでも人生にイエスと言う」を出している。
何だかんだと言っても、それでも人生を肯定しようと、彼は言っています。その姿勢を昔話とか、子供の本は子供たちに、
いえ、広く私たちに伝えてくれているのではないか。そういう思いをぶち壊そうという力がどんなに大きいか。
そう思えば思うほど、せめて小さい時にそれに耐えうる下地を、と思うのです。
「なんだかんだあっても、でもあの人はこういきてきたじゃないか」とか、「でもあの子は、こういうふうに生きたじゃないか」
とか、「周りはそうじゃないかもしれないけれども、でも周りだけが全世界じゃないわけだし、世界のあちこちに人は暮らしていて、
しかしこれまでだって、あんなふうにも、こんなふうにも生きてきたじゃないか」そういういくつかの「モデル」を持っている
ことの大切さを思うのです。小さいときにたっぷりとそういうものに出会わせてやえば、せめては思春期ぐらいまでは
生きのびられるんじゃないか、それを絶えず強化し、補強していくということは必要でしょうけれでも。
(解)毎日の経験の中で、どれだけ幸福に気づくかが人生を豊かにするかどうか、である。
その訓練を童話や昔話を子供の時に読んだり聞いたりする中で培われるというのも肯ける。
幼児期に親戚のオバアチャンに聞いた昔話や御伽噺の積み重ねが、人生の初期段階でハッピーエンドへの物語の刷り込みになって、
その人の人生のベースになっていたのだ。また人生の日々の中の幸福に如何に気づくかが、そのためには、
幸せに目を凝らす必要があり、それはイメージ・トレーニングで培われる!のである。
 幼児期には昔話をジックリ聞かせてあげる、
 少年期には少年世界文学全集、
 青年期にはあらゆるジャンルの小説、
 中年期は自分の好きな小説、
などなどが、人生の基幹を作っていたのである。1ヶ月前から「ファンタジー180冊紹介本」を新幹線の中で読んでいる。
これが、本を開くと異次元の世界にドップリ引き込まれる。 今度その内容について書くが、まあ面白い。
異次元世界のそれぞれ幻想世界がユニークに描いているからだ。 
            ヽ(*´∀`*)ノ.+゜ホンジャ〜バイ♪.+゜
ーーーーーーーーーーーー
2006年02月19日(日)
1783, インディアンの心  
         オハ (´・ω・`)(ω・`)(・`)(´・ω)(´・ω・`)ヨ〜
「インディアンの教え」は今まで何度か書いてきたが、ある書物の中で有名な手紙に出くわした。
1854年ネイティブ・アメリカンのドウワミン族長シアトルが、アメリカ大統領に出した手紙である。
インディアンの崇高な魂が伝わってくる。 数千年の純粋な経験の積み重ねの深い教えがある。
この数千年、人類は何をしてきたというのか? あのラージXとかいう神の名の元で!   ( ノω-、)
 −−−
水のささやきは私の父の父の声です。 川は我々の兄弟であり、我々の渇きを癒してくれます。
川は我々のカヌーを運び、我々の子供たちを養います。
もし、我々のこの土地をあなた方に譲るとするなら、その時あなた方は、川とは我々の、そしてあなた方の兄弟であり、
どの兄弟にも示すその親切を川にも示さねばならぬということを、必ず思い出してください。
白い人の死者は星の間を歩き始めると生まれ故郷を忘れます。我われの死者は決してこの楽しい大地を忘れることはありません。
なぜならそれは、赤き人々の母だからです。我われは大地の一部であり、大地はわれわれの一部です。
香りたかき花は我われの姉妹であり、鹿や馬は大きな鷹は我われの兄弟です。
岩場の山頂、野原の露、ポニーの温かい体、そして人間みな、一つの同じ家族に属しています。
あなた方はご自分の子供たちに、足の下の大地は我々の祖先たちの遺骨の灰であることを教えねばなりません。
彼らが大地を尊ぶためです。子供たちに、地球は我々の親族の命、すなわち、大地は我々の母である、
ということをあなた方の子供たちに教えてやってください。大地にふりかかることは、大地の子らの上に降りかかります。
地上に唾を吐くことは、自分自身に唾を吐くことです。我々は知っています。
大地は人に帰属せず、人は大地に帰属する、ということを。血が一つの家族を結ぶように、そのように結び合っていることを。
            ∵ゞ(>д<)ハックシュン!( ̄^^ ̄)ズルッ…
ー後記ー
近代文明が果して、進化を遂げてきたというのだろうか?
アメリカは、米国本土への侵略を現在も行っているのではなかろうか。アラブ人の怒りは間違ってはいないのでは?
                 ~~ヾ(´ω`●)バイ(●´ω`)ノ~~
・・・・・・・
2005年02月19日(土)
1418, アメリカの強さとは
アメリカの強さに対して、疑問がでている。それが、ドル安や国債の安値の不安定要素になっている。
先日、保険代理店の社長と話す機会があったが、「アメリカの強さは当分揺るがない」と言って、
次の4つの要素をあげていた。
・世界の基軸通貨がドルである       ・軍事力が世界でずば抜けている
・金の世界での保有率が70?を占めている  ・世界の共通言語が英語であること
これがアメリカの強さであり、当分の間は崩壊することはない。
その上に、イギリスと日本の一枚岩の同盟も大きいという。
英国民は6000万だが、英国連邦など国外に出ている英国人は6000万人も存在している。
日本は12600万だが、400万人しか外国にいないとか。実質的な力は日本を圧倒している。
アメリカは、イギリスと日本と固い同盟を結んでいる限り、基盤は揺るがない」というのも理屈は通っているが。
反面、アメリカ国債やドルなどの紙切れを印刷をして、相手国の資源や商品を騙し取る?商法が(空手形手法)
何時までも続くわけがないことも確かである。その両方とも正しいが当分は安泰であろう。
最後は恐慌か世界大戦で清算すればよいが、もう世界規模の戦争は不可能である。とすると、世界恐慌清算するしかない。
アメリカの土台にはユダヤの数千年の歴史がある。
・・・・・・・
2004年02月19日(木)
1051、TVが面白いー銀座ホステスの面接
先日、BSTvで放送した「ニューヨークのデート・カウンセラー」を取り上げたが、
翌日も面白い人間模様を見ることができた。銀座の有名クラブのママ三人が[銀座ホステス]
希望者との面接であった。現役ホステスや女子大生と面接をして、気に入ればその場で採用をする。
三人の応募者とも採用をされたが、なかなかの迫真の内容であった。
 銀座ママの質問内容はやはりシビアである。
 ・何故銀座ホステスになりたいのか ・どういうスキルを持っているか
 ・男(ひも)がいるかどうか    ・本人の頭の回転と品性 等々を、質問をしながら見ている。
生き馬の目を抜くような世界で生きてきているママは、華やかな背後にあるドロドロした激しい
競争社会を知り尽くしている。そして、その華やかさを求めてきた女達の行く末を多く見ている。
その一人のママに、最近本を出した[双子屋]の妹の方の「ますいさくら」が出ていた。
その本を図書館で借りてきて読んだが、虚飾は虚飾でしかなかった。希望者の三人というと、キャバクラのナンバーワンの、
見るからに「お水の女」の人と、32歳の子持ちホステスと、現役女子大生(現在京都でアルバイトでホステスをしている)
が面接希望者であった。面接を通して、それぞれの人生がだんだんと浮かび上がってくる。
水の世界は、好きで入る人、生活の為に入る人、自己逃避の為に入る人、興味本位と色いろある。
やはり水の適正というのがあるのだろう。夜の世界ほど虚と実がはっきり分かれている世界も珍しい。
店サイドは一夜の虚を売るのが仕事。お客は、その虚を解っていて買いに来る。
身体を売るわけでなし、男女の微妙な遊びを売る「クラブ」という商売は世界中で日本しかない特殊のものだという。
銀座の高級クラブといえば、座って5〜10万?という世界。そこで満足をさせて帰ってもらうのだから、
ホステスの人選も非常に難しいはずだ。その面接を(演出部分もあるとしても)TVの番組みに仕上げるから驚きである。
これも情報化の一つであろうか。こんなの見て感心しているのだから、自分の程度が知れるが!
何でも見てやろうというのがモットーと思いつつ、真剣にみてしまった。
・・・・・・・
2003年02月19日(水)
686, まれに見るバカ−読書日記−5
ー バカの定義ー
 バカの定義をこの本の中から抜粋してみた。
小谷野敦「バカのための読書術」の中で「当面、哲学とか数学とか、抽象的なことが苦手、というような人のことである」
勝谷誠彦「バカとの闘い」で、「バカとは人間に与えられた志を追うという能力を捨てて、馬や鹿のように、
 本能のまま目先の欲望のためだけに生きている輩をいう」 と書いている。で、何故かくもバカが多くなったかというと
「戦後のアメリカ軍の洗脳教育で、 バカをバカと指摘する美しき日本の風習が否定されたからだ」といっている。
立花隆東大生はバカになったか」で基本的知的能力を欠くというのでなく
 「教育の目的とは現制度の賛美者をつくることでなく、制度を批判し改善する能力を養う事である」と書いている。
 そこでまたー人間、教養がないとどうなるかというと、幅が狭い近視眼的人間になる。
 教養とは、幅広く全体を見る巨視的能力を身につけることをいう。
吉野敬介「やっぱしおまえはバカじゃない」本当のバカというのは、すべてを要領よくこなし、何ひとつ
 本物に行き着けない奴の事をいっている。要領のよさや、要領だけで世渡りのうまさを吹聴するヤツはバカの第一条。
 自分だけの小さな規準で満足しているヤツ。これが第二条。
  ーー
 以上がバカ規準として書いてあった内容だ。 わたしがバカと信じてきたのは吉野敬介にほぼ近い!
「誰もがバカであるから、あまりいわれても気にしない事だ」と気休めを考えているのが一番バカということだ。
「つくづく自分てのは、バカだな~」が結論!              ー 終わり
・・・・・・・
2002年02月19日(火)
 336,ある時間の断面−2
 −1968年8月31日日記帳より
今日雲頓庵(禅寺)に来る。卒論の勉強の為だが、予想どうりのところだ。 早速座禅をくんでみる。
足が痛くなり無我の境地にさほど遠い。しかし現在の自分が求めていたもののヒントを与えてくれそうだ。
ここに慶応大学を卒業して弁護士の試験勉強をしている高橋さんと、立教女学院の短大生が
10人位いる。面白い人ばかりで明日帰ると言う。帳面を忘れてきた。これから当初の目標の計画立てだ。     
  ー9月1日
朝5時に目が覚める。6時半に起き、早速掃除をする。朝食前に高橋さんと裏山に登ってみる。
たった今鐘の音が聞こえてくる。深夜の鐘もいいものだ。昼、彼女らが帰る、何か寂しい。
昼飯時にこの寺の後見人という人と話す。午後は離れの一室で「流通革命」を100ページと「流通機構の話し」を60ページを
繰り返し読む。勉強の集中力が足りないのがいらだつ。明日より気を入れなおさなくては。夜は10時にうとうとしてしまった。 
後記ー独りで夜30分禅堂で座禅をくんでみる。ロマンチックな感がする。 誰も見ていないので自分との闘いだ。
ーーー
捜し物をしていたら「日記帳」が紙袋の底より出てきた。半年分が書いてあった。過去の自分との対面である。
ー2004年02・19日記
もう終わったので、コピーするのを躊躇ったが?