* 民主308議席の衝撃 ー朝日新聞ーオピニオン高橋源一郎 9月4日

 朝日新聞のオピニオンのコーナーの高橋源一郎の「父は疲れてしまった」の例えが言い得て妙。
  ー概略とは
《 今回の政権交代は、自民党が古いタイプの家父長で、国民がその「妻」、民主党自民党から生まれた「子」
と考えとわかりやすい。 要するに「熟年離婚」なんですね。「妻」である国民は、「夫」の自民党に何度も裏切られても、
なかなか別れることができない。 離婚など出来ないと思い込んでいたからです。「夫」も、浮気をしても喧嘩をしても
「妻」は自分のいうことを聞く、過半数は取れると思い込んでいた。両者とも「離婚」という発想がなかった。
でも、05年の選挙で、投票で政治が変えられると気づいてしまった。それなのに定年に近づいた「夫」がまだ威張っている。
そこで「妻」は離婚届を突きつけた。 一方で自民党も、実は離婚を無意識で望んでいた?。 一種の自殺願望。
小泉が自民をぶっ壊すといい、安部、福田の二代の総理が政権を投げ出した。 もう死にたいという自殺願望である。
半世紀以上も政権にいたことで金属疲労を起こし、当人たちは、もうやめたいと思うようになった。
国民は「戦後」的な関心を失っているのに、自民党だけが旧言語で話している。
彼等はそのことを体感としてわかっていても、あまりにずれていて、自分ではどうしようもない。
「子」である民主党は、自民党から脱皮した形で生まれた政党。だから、いち早く「戦後」から脱皮できたのです。
自民党の大物議員に「小沢チルドレン」の女性をぶつけたのは、「家父長的な老人と若い自立した女性の戦い」
という構図を見せつけたかったからです。 民主党は、この選挙が過去と現在の戦いということを知っていた。
「いま」や「変化」を掲げて、「現在」という時空間に適応したからこそ、大勝できたのです。
自民と民主党は、いわば違う時空間に存在している、だから、「現在」の中での価値の争いとはなりにくい。
恐らく、自民はこのまま自壊していくんじゃないか。 民主党は、自民党という「父」を敵にすることで結束してきた。 
一度「父殺し」が成功してしまえば、兄弟げんかが始まり、分裂しかけない。それをどう防ぐかが大きな課題になる。》
 = 作家とはいえ、全く上手い例えを思いつくものである。ギリシャ神話から、持ち出すとは。
このように一度、殺されてしまえば、父への思いは何だったのか?、ということになる。
森、安部、福田、山崎拓などの権威が元に戻ることは無い。 「自民党パージ」である。
社会党の残党が隠れ住んでいるが、これらも森、山崎拓と同じ穴の狢。 
一度、分裂した後に再編成のプロセスが必定だが、少し勝ちすぎたのが時期を遅らせてしまう。
 自民党という父は疲れただけでない、殺されてしまったのである。困ったのは、本人たちが解ってないこと。

 ・・・・・・・・・・
2710, 今東光の話題
2008年09月05日(金)

 以前に、今東光の毒舌の味と凄みについて書いてある本を紹介したが、インターネット上の検索で見つけた
「極道辻説法」の一部抜粋してみる。自分の年齢が、この人物の年齢に近づき、若い人に対する視点が似てきたのに
驚いているが、今東光の足元すら届いていない己との距離も見えてくる。
今の時代が、この馬鹿な質問者よりもレベルが下になっているのか?。
彼が現代の日本に対して曰うとしたら、こんなものだろう!
「この馬鹿野郎!手前ら、ここまで成り下がったのか、エエ〜! アメ公の毒饅頭をまだ食べてんのかよ〜!
ブチ殺すぞ、この野郎。 頭と尻尾から腐るというが、あのパンダのようなキャスター上がりのようなオナゴが
次の首相に立候補だと、何をぬかしあがるか。馬鹿野郎! 面を見な、面構えがなってないじゃねえかよ、わかんねえのか!
程度の低い二代目が続けて首相だと、あいつらに国家が任せるしかない、日本がよ哀れでしか思えね〜よ。たくも〜!
どれもこれも腑抜けた奴ばかりじゃねえかよ、あの中曽根も、まだ生きてやがる!それもしたり顔をしてよう。
今度は、吉田茂の孫かよ、そして何をするかとみたら、またバラマキかよ。なんなもの。
一度な〜、明治維新のことを考えてみなよ。 今の日本の危機は、あんなものじゃねえんだ。解ってんか!」
大体こんなものか。 今度、今東光を私の脳に呼び寄せて娑婆批判をしてみる。「今東光語る」とかいうシリーズで!
    〜〜〜
  ー「極道辻説法」etc よりー
(相談者)「キャバレーの女に魅力を感じるのだが、結婚しようと考えると親や兄弟の手前抵抗があるがいかに?」
(回答) 「ただ職業だけで、商売の女はどうだとか、堅気の女はどうだろうかというけれど女に区別なんてありゃあせん。
      またおめぇみたいな奴に言っておきたいことがある。男でも女でもそうなんだが、
『結婚したら幸せになれるだろうか』という質問。おれんとこへ娘さんで相談に来るのいるよ。
     『ここへ嫁に行って、私、幸せになれるでしょうか?』っていうと、オレ怒鳴りつけるんだ。
     『相手の家族に幸せを自分が与えてやるために嫁に行くならいい。
      それを、あそこへ行ったら幸せになれるでしょうか、と言ったらきりないよ』と言うんだ。
      行ってみたら、財産が少ねぇとか、チンポが小せえとか、だんだん文句が出てくるにきまてっるんだ。
      だからおめえも、素人女よりキャバレー女のほうが魅力的だが、親父が反対するだろうからとかいっているんじゃだめ。
      カタギの女でも水商売の女でも愛している。そして一緒になって魅力的にして彼女も自分も幸せになってやるという
      自覚に立たない限り、幸福もクソも論ずる資格はないよ。』   続極道辻説法 94ページより抜粋
(相談者)「親友はどのようにしたら出来ますか?」
(回答) 「そういうことを質問するテメエぐらいバカはいねえんだよ。
      なぜテメエがだよ、テメエ自身がいい友達になってやるっていう覚悟をしないんだよ。」
 〜〜〜
(相談者)「男の生きがいとはなんですか?」
(回答) 「男の生きがいってもんはな、生きてて満足だっていうのが生きがいだよ。
      なにとぼけたこと言ってんだコノヤロウ」
 〜〜〜
(相談者)「人間はなぜ人を好きになるんですか?」
(回答) 「じゃあ、なぜ嫌いになるんだい? オレなんかやっぱり人間好きだもんな。
      人間が好きだからこう文学も絵も書けるんで、嫌いだったら出来ないよ。しかし、人間には欠点がある。
      逆にこの欠点があるからこそ愛せるんだよ。欠点がなかったら神様や仏様みたいなもんで、これは彼岸の人だ」
 〜〜〜
(相談者)「人生とは何ですか?」
(回答) 「いい言葉を教えてやろう。それは「遊戯三昧(ゆげざんまい)」という言葉だ。
      遊んで遊んで遊び尽くせば何かに突き当たって掴むものがある。何もやらない戯無よりも、
      たとえ失敗しても傷心の方がはるかに貴いものなんだ。空々寂々たる人生なんて糞食らえと思うべし」
 〜〜〜
(相談者)「仕事が忙しくて友達ができない」という悩みを抱えた22歳の左官
(回答) 「オレはおめえの言うこと聞いてて、もっとも情けなくなるのは、どうしてそんなに友達が欲しいのかっていうことだ。
      友達なんて要りゃあしないよ。自分が立派になりゃあ、向こうが友達になってくれと来るんで、友達なんてものは、
      いくらたくさん持っていたところで、いざとなって役に立つっていったら、一人もいないもんだ。
      友達なんてものはそんなもんでね。バカこくな!  (中略)
      何もつまらん女をひっかけたり、友達作ってストリップを見に行ったりせずとも、ひたすら壁を塗りまくれ!
      金を使うひまがないんならなお結構な話じゃないか。 塗りまくって金を貯めまくりゃあ、
      いくらでもいい嫁をもらえるじゃねえか。  何をぐだぐだ言いやがる。しっかりせえ!
 〜〜〜
(女に嫉妬する男に対して)
(回答)  その女、オレに紹介せい。なかなか面白そうな女じゃないか。
      結婚なんてさせちゃあいかん。てめえもヤキモチ焼くようじゃ、そんないい女とする資格なんかありゃあしねえ(中略)
      糞ったれ野郎!彼女が美しければ美しいほど、ボーイフレンドはいるだろうし、 てめえなんぞはもう脈ねえよ。

 ・・・・・・・・・・
2007年09月05日(水)
2346.エーゲ 永遠回帰の海ー2

この本を読むまでエーゲ海の周辺に無数の遺跡があることを全く知らなかった。
ギリシャ本土はもとより、エーゲ海に点在する島々に、そして対岸のトルコのアナトリア地方に数知れないほどの遺跡がある。
素晴らしい神殿があっても、その由来が全く解らないために、神殿A,B,C,Dなど記号で呼ばれているものもある。
序章の中で、シチリアのセリヌンテ神殿群を訪れた時のことを、以下のように書いている。「なぜそんなにまでして
遺跡を見て歩いたのかと問われると答えるのは簡単でない。ほんものの遺跡と自分自身で出会った事のない人に
その理由を説明するのは、ほとんど不可能に近い。」
「遺跡=滅びた跡。そこに必ず、繁栄と栄華ののち、その時代の大戦に敗北して破壊され滅亡した都市の歴史が刻まれてる」
「知識としての歴史はフェイクである。学校の教壇で教えられた歴史。
史書の中の歴史。歴史家の説く歴史。記録や資料の中に遺されている歴史。
それらはすべてフェイクである。最も正統な歴史は、記録されざる歴史、
語られざる歴史、後世の人が何も知らない歴史なのではあるまいか。」
「いま自分の前にあるこれらの神殿。これだけの見事な神殿が、これだけ立派に保存されているのに、
この神殿がいかなる神殿であったか、誰も知らないのだ。記録された歴史などというものは、記録されなかった
現実の総体にくらべたら、宇宙の総体と比較した針先ほどに微小なものだろう。
宇宙の大部分が虚無の中に呑みこまれてあるように、歴史の大部分もまた虚無の中に呑みこまれてある。」
「時間は一つの方向に不可逆的に流れるものではない。円環をなしているのだ。
時が円環であるなら、初めもなければ終わりもない。過去は同時に未来で、未来は同時に過去である。
現在は永遠に過ぎ去りゆく一瞬ではなく、永遠そのものである。
現在はすでに過去に無限回くり返されたことがあり、未来においても無限回くり返される。
人はまさにこの現在の一瞬において、過ぎ去りゆく時を生きているのではなく、永遠を生きている。」
人気(ひとけ)のない海岸にある遺跡で、黙ってしばらく海を眺めていると、
これが永遠なのだということが疑問の余地なく見えてくるような気がするという。
他にも、シチリアのセリアンテ神殿群、トルコのペルガモンの大劇場、ディディマのアポロン神殿、
エフェソスの大劇場・アルテミス像、聖山アトス、リキアのサルコファガス、ヒエラポリスのネクロポスなどがある。

・・・・・・・
2006年09月05日(火)
1981, 歩行とダンスー2

「歩行とダンス」というて、テーマで文章を書いて、はや12年も経つ。12年ぶりに引き継いでの文章化も面白い!
と思い立ち書いている。 当時、転勤で大手商社の新潟支店に来ていた大学時代の友人と、この話を酒のツマミにして
酒を飲んだことを思い出す。  その友人が、ダンスをフォーク・ダンスと喩えたのは面白かった。
その後「一人踊りでドアに行くとしたら何だろう?」と誰かにいったら、「鼻歌を歌いながらスキップすることじゃないか」
と答えた。なるほど、そのとおりである。 この話、よく酒のツマミにするが、けっこう受ける。
「ドアはドアでも、どの部屋のドア?まさかベッドルームじゃ、話が落ちるか?」と、言った人もいた。
ダンスの相手も色いろ考えられる。「困難」と考えると面白い。困難を嫌がらず、むしろ踊りの相手として一緒に楽しむ? 
まあ、かなり難しいが、それがゲーム化ということになる。事業の立ち上げも、ダンスの相手と思うとよい。 
人生の全てを賭けてのダンスだからスリルとサスペンスがあり命がけである。人生、ストリッパーの裸踊りのようなもの
と言うと、例えが悪いか? 隠すべきところは隠しておかなくては、色気も面白みも無いところが同じ。
手段の目的化と、目的の手段化、そしてその融合化と言ってしまえば話はつまらなくなる。
たまたま去年の同月同日に『楽しく生きる』というテーマが書いてあった。この文章を引き継ぐのに丁度よいテーマである。
12年前の文章である。
ーー
H0609 歩行とダンス-1
 丸山圭一郎と黒鉄ひろしの対談集で“歩行とダンス”という二人の対話が面白かった。
“ドアにむかって歩いていくのが歩行、これは手段である。ダンスはドアに向かわないし、その行為そのものが目的である。
それではドアに向かってダンスをおどって行く事はありうるか! ありうる!”という。 非常に含蓄のある面白い内容である。
人生、仕事、学問すべてにあてはまる内容である。今回の仕事(第二新館増築)の最中にこれをよみ、
“よしこの仕事とチーク・ダンスをして、ドアまでいってやれ”と、一人笑った。
私の学生時代の大手商社に勤めている友人と、酒をのみながら右の話をした。 
本人いわく “私はさしずめ、それはホーク・ダンスだな!。好きな奴もいやな奴も次々と仕事仲間でまわってくる。
それも楽しそうな顔をしながら手に手をとっておどる妙味!” 当意即妙であった。
ドアに向かっての歩行なら誰でもできるが、それをダンスとしてリズムをとりながらパターンをマスターし、
かつ楽しみまで高めてドアに向かう事となると誰にでもできない。ついついドアを忘れたり、ダンスを忘れてしまう。
ダンスを忘れある年令に達して愚痴を言っている人が何と多い事か。 そしてその反対に逆の人も。

・・・・・・・
2005年09月05日(月)
1616, 楽しく生きる−1

「楽しく生きる」を、私流に「面白おかしく生きる」というコンセプトにして自分に課してきた。
それも20歳代の頃からである。むしろ「楽しみを見つけだす」という生き方であった。
私の行蔵の中の「楽しい時間」の中には、溢れんばかりの行蔵が詰まっている。
(他人からみたらガラクタだろうが、私にとってお宝である)
楽しいときは、どういうときであろうか。
・自分のしたいことをしているとき     ・何かを期待してワクワクしているとき
・感動をしているとき           ・自分の望んでいたことが実現しているとき
・人に褒めてもらえたとき         ・自分の生き方に自信を持ってるとき等々、上げられる。
いずれも肯定的な感情に包まれ、自分の欲求が満たされたときである。
一度だけの人生、肯定的な感情で、かつ自分の欲求を満たさなかったら、人生を浪費していることになる。
特に人生の後半は前半ほど単純ではない。多くの過去を背負っているからである。
ならばこそ、その中で「楽しく生きる」喜びも深くなる。 文筆家(哲学者)池田晶子
「楽しく生きるためにどうすべきか」という文章がよい。彼女は、哲学することの意味を平易な言葉で語ることに定評がある。
ーまずは、彼女の文章をそのまま書き写してみる。
人生は短い。と、どうしてもやはり思いますよね。 平均寿命は80とは言われますが、歳をとってからできることは
当然若い頃より制限されますし、ましてやその歳まで生きるかどうかの保証はどこにもないわけです。
ひょっとしたら、明日、心臓発作で死ぬかもしれない。縁起でもないと、普通はやはり思いますよね。
しかし、よく考えてみると、いやよく考えるなどしなくても、生きている限り人が死ぬのは当たり前で、この当たり前を
当たり前として認識しているかどうかで、人の人生観は全然違ったものになるようです。
今のここに死はあるからこそ今のここの生はあるのだと思えば、人生は長いとか短いとか言いようもなくなるはずだからです。
 (以下字数の関係でカット2008年9月05日) 
             ーつづく
−−−− 
2004年09月05日(日)
1251, オーストリア旅行記 −2
  ーウィーンー

オーストリアといえば、ウィーンである。ウィーナーワルツ、ウィーンナーコーヒー等の軽やかなイメージがわいてくる。
飛行場から街に入るまでの道路で、何か変った感じがした。広告看板が一切無いのだ。街に入っても、広告看板が小さく
殆ど目立たない。郊外は一切広告看板が禁止されており、街中でもかなりの規制があるという。
ウィーンはハプスブルク王朝の帝都として発展してきた。17世紀以来、中欧都市として多くの文化の集積地として
東西南北・欧州の核ー交差点となっていた。音楽やワルツ、食に建築、多大な富、優れた人材が流入し混在していった。
そこにはゲルマン、スラブ、ラテン、ユダヤのどれでもない独特の国際性豊かな文化があった。
その結果として、国民の民度は最高度のようだ。一見華やかに見えるが、生活は質素で堅実な国民性である。
さほど大きくないないこの街に、一ヶ月間いても飽きることがないほど多くの見所が詰まっている。
たった数日の滞在でそれを感じさせる何かがある。学生時代、私の寮の隣室の河路という先輩と、
一年後輩の南波嬢がこのウィーンに留学したのだ。彼らは三十数年前に、この街に数年住んでいたのだ。
この街にいるだけで、いやこの国にいるだけで、多くのことが学べそうな雰囲気が満ちていた。
ウィーンでは、まずは「王宮」である。ハプスブルク家が640年間、帝都として代々の皇帝が住居としてきた。
13〜19世紀の間、増築を繰り返し、現在みられるような壮大かつ華麗な建物になった。
皇室の22室の部屋と、家具などが展示されていた。旧王宮内にある「王宮銀食器等コレクション展示室」には
ヨーゼフ?世夫妻が使用した銀食器をはじめ、多くの陶器などが展示されていたが、その豪華さに驚いてしまった。
次に[[美術史博物館]である。世界の博物館でも所蔵する絵画及び美術工芸品のコレクションは最大級である。
1857年にハプスブル家の美術品を収蔵するために建てられたものでリング状に部屋が創られ、
多くの作家ごとに部屋が割り当てられており、ブリューゲルの[青い花瓶の花束]や、ルーベンスの[古代の四大河川」や、
ベラスケスの「バラ色のドレスの王女マルガリータ]などが、所狭しと展示されていた。
「シェーンブル宮殿と庭園群」の美しさも見ごたえがあった。
                                   つづく
・・・・・・・・
2003年09月05日
(金) 884, マンション事情

 先日、新潟市内のマンションを見てまわった。 モデルルームを見るかぎり、
マンションはなるほどすばらしい。ここで住んでもよいかな〜というのが幾つかあった。
 マンションは宝石を買うのと同じで、買った時が一番の高値のとき。買った後は、急カーブで価値が限りなく落ちていく。
一戸建て住宅にもいえるが、デフレの時代は更にこれが加速される。純朴な庶民に夢を売っているのだということが、
よーく解った。結婚に似ているが、全てにいえることだ。マンションの売れ行きを見ているかぎり、恐慌の世界とは
程遠いようだ。新潟市内に、いつの間にか多くのマンションが建っていた。そして殆どのマンションの完売には驚いた。
一戸建てなら、数十?の頭金が必要だが、マンションならそれが必要がない。
ローンで三十数年の延払いが可能で、アパートの家賃を考えれば目先安く感じる。
売る方からみれば、最高の営業ネタになる。払う方は30年以上縛られてしまうことになる。
以前はやったジュエリーの世界に似ている。売りつけてしまえば、10年・20年以上経った時の商品価値に責任ない。
20年以上経ったマンションを見れば、それが良くわかる。マンションも毎年のように、ドンドン進化していくのだ。
 しかし、マンションの良さもある。一戸建住宅のメンテや町内の付き合いやゴミ掃除などから開放される。
また比較的良い立地に住むことが可能になる。 何事も 一長一短である。
結婚相手と同じで、そう簡単に変えられないから事前調査が十分に必要だ。実際住んでみないと解らないことが多い。
 しかし、私みたいなマンション嫌いでも、実際住んでみたいと思うのだから若い人にとっては魅力があるのだろう。

・・・・・・・
2002年09月05日(木)
510, イルカの話

最近癒しという面でイルカが話題になっている。先日NHKでブラジルの漁村で野生のイルカと漁民の共同のボラの漁を
ドキュメントで放送していた。湾の浅瀬でイルカが追い込んだボラを漁民が投げ網でとる。
イルカは、そこより逃れたボラを待っていて取るのだ。イルカが浅瀬に逃げ込まれる前に人間の処に逃げ込んだ
ボラのおこぼれを取るのだ。何代にわたって親娘のイルカにそのノウハウが受け継がれている。
その湾の60頭のうち20頭がそのノウハウを持っている。面白い内容だった。
猿と犬の中間位の能力があると云われている。特に彼らの出す音波言語は、かなりのレベルの情報の交換が行われている。
人間との言語交換は不可能といわれているが、もし可能になった時は、コペルニクス的大転換がおこるといわれている。
いかなる状況においても遊びを忘れず、また人間に気持ちに対して、非常に敏感に反応するという。
検索で調べた「イルカのホームページ」の内容をコピーしておく。

                              • -

(以下字数の関係でカット2008年9月05)
[イルカは病人を特別扱いする ][イルカの不思議な力]