つれづれに

イメージ 1

今日のYoutube
http://www.youtube.com/watch?v=e4XupAQLYUs&feature=related

 今日も歯医者、まだまだ通院は続きそうだ。
これまで使っていた電波歯ブラシ、寿命がきたので店頭に見に行ったところ、
これまで見たことがないような機種があった。早速、価格COMで値段を調べると、三割安。
 値段が歯ブラシにしては驚くほど高いが、売れ行きNO.1とあった。
電動歯ブラシから、電波歯ブラシに、そして・・・ 
要は、今までの歯ブラシ部分が大きく中央が歯型にあわせて括れていて、
これでは、従来のものより短時間で歯垢がとれるはず。日進月歩である。

 ー 今朝のブログに載せきらなかった過去分の随想日記 -
・・・・
1981, 歩行とダンスー2
2006年09月05日(火)
「歩行とダンス」というテーマで文章を書いて12年も経つ。
12年ぶりに引き継いでの文章化も面白い!と思い立ち書いている。
当時、転勤で大手商社の新潟支店に来ていた大学時代の友人と、この話を酒のツマミにして
酒を飲んだことを思い出す。その友人が、ダンスをフォーク・ダンスと喩えたのは面白かった。
その後、「一人踊りでドアに行くとしたら何だろう?」と誰かにいったら、
「鼻歌を歌いながらスキップする」と答えた。
なるほど、そのとおりである。この話、よく酒のツマミにするが、けっこう受ける。 
「ドアはドアでも、どの部屋のドア?まさかベッドルームじゃ、話が落ちるか?」と言った人もいた。
ダンスの相手も色いろ考えられる。「困難」と考えると面白い。
困難を嫌がらず、むしろ踊りの相手として一緒に楽しむ?まあ、かなり難しいが、
それがゲーム化ということになる。事業の立ち上げも、ダンスの相手と思うとよい。
人生の全てを賭けてのダンスだからスリルとサスペンスがあり命がけである。
人生、ストリッパーの裸踊りのようなものと言うと、例えが悪いか?隠すべきところは
隠しておかなくては、色気も面白みも無いところが同じか。手段の目的化と、目的の手段化、
そしてその融合化と言ってしまえば話はつまらなくなる。
たまたま去年の同月同日に『楽しく生きる』というテーマが書いてあった。
この文章を引き継ぐのに、丁度よいテーマである。
・・・・・
2005年09月05日(月)
1616, 楽しく生きる-1
 「楽しく生きる」を私流に「面白おかしく生きる」というコンセプトにして自分に課してきた。
それも20歳代の頃からである。むしろ「楽しみを見つけだす」という生き方であった。
私の行蔵の中の「楽しい時間」の中には、溢れんばかりの行蔵が詰まっている。
(他人からみたらガラクタだろうが、私にとってお宝である)楽しいときは、どういうときであろうか。
・自分のしたいことをしているとき  ・何かを期待してワクワクしているとき
・感動をしているとき  ・自分の望んでいたことが実現しているとき  ・人に褒めてもらえたとき
・自分の生き方に自信を持ってるとき  等々、上げられる。
いずれも肯定的な感情に包まれ、自分の欲求が満たされたときである。一度だけの人生、
肯定的な感情で、かつ自分の欲求を満たさなかったら人生を浪費していることになる。
特に人生の後半は前半ほど単純ではない。多くの過去を背負っているからである。
ならばこそ、その中で「楽しく生きる」喜びも深くなる。文筆家(哲学者)池田晶子 の「楽しく生きるために
どうすべきか」という文章がよい。彼女は、哲学することの意味を平易な言葉で語ることに定評がある。
ーまずは、彼女の文章をそのまま書き写してみる。
 人生は短い。と、どうしてもやはり思いますよね。平均寿命は80とは言われますが、
歳をとってからできることは当然若い頃より制限されますし、ましてやその歳まで生きるかどうかの
保証はどこにもないわけです。ひょっとしたら、明日、心臓発作で死ぬかもしれない。
縁起でもないと、普通はやはり思いますよね。しかし、よく考えてみると、いやよく考えるなどしなくても、
生きている限り人が死ぬのは当たり前で、この当たり前を当たり前として認識しているかどうかで、
人の人生観は全然違ったものになるようです。今のここに死はあるからこそ今のここの生は
あるのだと思えば、人生は長いとか短いとか言いようもなくなるはずだからです。
だって、いつだって、「この今」しかないのだから。「この今」しかないと気づけば、先のことを
あれこれ悩んで苦しむことはなくなるようです。悩みや苦しみというのは、人生には先があるとする
錯覚的時間認識が作り出す、まあ一種の気の迷いみたいなもんでしょう。未来への不安、もしくは過去への後悔、
いずれも時間認識の勘違いです。だって、未来や過去を悩んだり苦しんだりしているのは、
まさしくこの現在ではないですか。あ、なあんだ。と、気がつけば、錯覚としての悩みや苦しみは脱落します。
そして、なんらそういった感情は湧かなくなり、逆に楽しみや喜びといった感情が湧いてくる
ようになるようです。むろん、悩みや苦しみのタネは変わらずに存在していますよね。我々は生身の存在だからです。
仕事上の悩みが存在すれば、病いの苦しみだって存在する。それは偽りのない事実です。
しかし、それらを言わば受け身で悩み苦しんでいるということではなくて、妙な言い方ですが、
悩むことを楽しむとか、苦しむことを喜ぶとか、そんなふうに変えられるようです。
要するに、楽しみや喜びというのは、どこか外にあるものではなくて、自分の側の心の構えのことだ
ということです。それを楽しんでやろうという構えでいれば、それが何なのであれ、それはその人に
とって楽しみとなるはずです。楽しむということは、今しか存在しないのだから、
その今を楽しむということ以外ではないでしょう。
  矛盾したことを言うようですが、それでもやっぱり時間というのは存在する。
我々は生身の存在であって、肉体は刻々老いてゆく、以前できたことが今はもうできない、
体の故障は不愉快だ。昨今はアンチエイジングブームで、それら加齢に伴う現象を否定的に
捉える向きがあるようですが、しかしこれはもったいないことのように思います。なぜなら、老いるという経験は、
誰も初めてのことであるはずで、せっかくの未知なる体験を、否定してないものにしてしまうのは惜しい。
死ぬとか病むとか老いるとか、当たり前のことを否定として捉えるから人は苦しむことに
なるのでしょう。やはり、当たり前を当たり前として捉え、なおそれを楽しむという構えが、
ひょっとしたら人生の極意なのかもしれません。
 まあこの人生、何のために生きるのかとは、生きている限り避けられない問いではありましょう。
それは人間にとって最も根源的な問いであって、だからこそこんな問い、人に問うて答えが得られるものではない。
根源的な問いほど、自ら問い自ら答える以外はあり得ないのです。本当に答えを得たいのであれば、生きている限り
一度は必ず自らに問うてみるべきでしょう。「私は、食べるために生きているのか、生きるために食べているのか」
さて、本当に楽しい人生は、どっちだと思いますか。
 ーー
「死ぬとか病むとか老いるとか、当たり前のことを否定として捉えるから人は苦しむことに
なるのでしょう。やはり、当たり前を当たり前として捉え、なおそれを楽しむという構えが、
人生の極意なのかもしれません。」の言葉が、彼女の言わんとすることだ。現在という一瞬の
連続が人生なのだから、その「いま現在」を楽しんでやれというしか、楽しく生きるコツは無いはず。
老いるにしても、苦しむにしても、その経験は、未知なる体験であるのであるから
否定してしまうのは惜しいはずであり、楽しむ材料でしかないと考えればよいのだ。  ーつづく
 ----
2004年09月05日(日)
1251, オーストリア旅行記 -2
ーウィーンー
オーストリアといえば、ウィーンである。ウィーナーワルツ、ウィーンナーコーヒー等の
軽やかなイメージがわいてくる。
飛行場から街に入るまでの道路で、何か変った感じがした。広告看板が一切無いのだ。
街に入っても、広告看板が小さく殆ど目立たない。郊外は一切広告看板が禁止されており、
街中でもかなりの規制があるという。ウィーンはハプスブルク王朝の帝都として発展してきた。
17世紀以来、中欧都市として多くの文化の集積地として東西南北・欧州の核ー交差点となっていた。

音楽やワルツ、食に建築、多大な富、異文化、優れた人材が流入し混在していった。
そこにはゲルマン、スラブ、ラテン、ユダヤのどれでもない独特の国際性豊かな文化があった。
その結果として、国民の民度は最高度のようだ。一見華やかに見えるが、生活は質素で堅実な国民性である。
さほど大きくないないこの街に、一ヶ月間いても飽きることがないほど多くの見所が詰まっている。
学生時代、私の寮の隣室の河路という先輩と、一年後輩の南波嬢がこのウィーンに留学したのだ。
彼らは三十数年前に、この街に数年住んでいたのだ。この街にいるだけで、いやこの国にいるだけで、
多くのことが学べそうな雰囲気が満ちていた。
ウィーンでは、まずは「王宮」である。ハプスブルク家が640年間、帝都として代々の皇帝が
住居としてきた。13~19世紀の間、増築を繰り返し、現在みられるような壮大かつ華麗な建物になった。
皇室の22室の部屋と、家具などが展示されていた。旧王宮内にある「王宮銀食器等コレクション展示室」
にはヨーゼフ�世夫妻が使用した銀食器をはじめ、多くの陶器などが展示されていたが、
ただただ、その豪華さに驚いてしまった。
次に[[美術史博物館]である。世界の博物館でも所蔵する絵画及び美術工芸品のコレクションは
最大級である。1857年にハプスブル家の美術品を収蔵するために建てられたものでリング状に部屋が
創られ、多くの作家ごとに部屋が割り当てられており、ブリューゲルの[青い花瓶の花束]や、ルーベンス
[古代の四大河川」や、ベラスケスの「バラ色のドレスの王女マルガリータ]などが、所狭しと展示されていた。
「シェーンブル宮殿と庭園群」の美しさも見ごたえがあった。       つづく
・・・・・・・・
2003年09月05日
(金) 884, マンション事情
 先日、新潟市内のマンションを見てまわった。モデルルームを見るかぎり、マンションは
なるほどすばらしい。ここで住んでもよいかな~というのが幾つかあった。
 マンションは宝石を買うのと同じで、買った時が一番の高値のとき。買った後は、急カーブで
価値が限りなく落ちていく。一戸建て住宅にもいえるが、デフレの時代は更にこれが加速される。
純朴な庶民に夢を売っているのだということが、よーく解った。結婚に似ているが、全てにいえることだ。
 マンションの売れ行きを見ているかぎり、恐慌の世界とは程遠いようだ。新潟市内に、いつの間にか
多くのマンションが建っていた。そして、その殆どのマンションの完売には驚いた。