<「群れるな」寺山修二著>
 昨日、「加山雄三とヨット」のテーマで、遊びについて書いたが、手元に
図書館から借りて積上げてある10冊の本の中に、『遊びについての断章』が
あった。これまで「遊び」について繰返しテーマにしてきた。
 「遊べるうちに遊んできなさい! 直、泣くときが来るんだから!」と
諭され、数十年が経つ。確かに切ない場面が多々、あったが、その数倍、
数十倍、楽しいことがあったのが実感。遊びの価値を両親の後ろ姿に
学んだことに加え、学生時代に味わっていたこともある。
      
   * 『遊びについての断章』 
       ー人生は遊びながら年老いて行く―
  ‘JRA’のCMのために書いた原稿。
実際に使われたものはこれからの抜粋である。
このCMのなかでの寺山は得意の肩かけコートで町をあるき、府中のスタンドを
バックにたたずむ。その後ろであの独特の語り口でこの断片を朗読していた。
 
――

かもめは飛びながら歌をおぼえ
人生は遊びながら年老いてゆく
   *
遊びはもうひとつの人生である
そこにはめぐり逢いも別れもある
人は遊びのなかであることを思い出し、あることを忘れ、
そしてあることを捨てる
   *
人はだれでも
遊びという名の劇場をもつことができる
悲劇 喜劇 活劇 メロドラマ
そこで人は主役になり、同時に観客になることもできる
   *
ぼくは人力飛行にあこがれていました
飛行機はただの道具にすぎなかったが、飛ぶことは思想でした
ぼくあ大空を見あげて思いました
プライバシーなんかいらない
フライバシーがほしい、と
遊ぶことは 冒険することであり、
ためすことであり、知ることだったのです
ぼくは「運の悪い女」がきらいです
なぜなら「運の悪い女」には、人生が一つしかないからです
遊びは、不運な人たちにも
「もう一つの人生」があることを教えてくれるのです
だからぼくは、いつでも自分に掛ける
   *
どういうものか「誰が故郷を思わざる」という歌をうたうと、
ツキがまわってくるんです
はじめて競馬場へ行ったとき
はじめて玉突きを覚えたとき
はじめて女を口説いたとき
だからぼくは
皆で一度、一緒に唄ってみたらいいんじゃないかと思っているんです
政治の悪い時代には、「誰が故郷を思わざる」でも唄ってみる
そういうもんじゃないのかな、遊びなんて
   * 
人生が終わると、遊びも終わってしまう
しかし、遊びが終わっても人生は終わらない
遊びは何べんでも終わることができるから、何べんでもやり直しができる
出会いと別れのくり返し
そこが遊びのいいところなんだね
   *
人生では敗けられないが、遊びなら敗けられる
そして敗けを知ったものだけが味わえる風景というものがある
「誰が故郷を思わざる」なんて唄は
競馬をやったことのある者にしか、味わうことができない唄ではないだろうか
   *
人生が、いつばん安上がりの遊びである
死が、いちばん高くつく遊びである
   *
遊びは、人生の時刻表である
人はそこに立ち止まり、自分の乗る汽車をえらぶ
人生は汽車である
旅をしながら年老いてゆく
   *
遊びは不幸な人間の第二の人生である
遊びは不幸な人間の第二の魂である
   *
人は誰でも、もう一つの人生をもつことができる
それは遊びである
ドストエフスキーは言っている
「一杯の茶のために、世界など滅びていい」
   *
夢の中で無くしたものを
目がさめてからさがしたって見つかる訳はない
現実で失くしたものを、夢の中でさがしたって見つかる訳はない
人は誰でも二つの人生をもつことができる
遊びは、そのことを教えてくれるのです


▼ 個人のHP内の検索で調べると、次々と出てきた。
 まあ真面目に遊びながら書いだこと。


・・・・・・
2688, 「エリック・ホッファーの 人間とは何か」
2008年08月14日(木)
                   −読書日記−
 ー遊びをせんと生まれけむー
亡き佐治敬三氏がサントリーの会長だった頃(1995年頃)、
口ぐせのように言っていた言葉に「美感遊創」がある。

・「美」は、羊が大きいが語源。大きく艶やかな羊の美しさを表わしている。
美に感応する心である。
・「感」は、 感性、感動、共感。 旅に出て自分の世界の外に出会って感動したり、
  絵画、音楽、映画、演劇などに感動することが人生を豊かにしてくれる。
・「遊」は、神代の昔から人間にとって一番大事なこと。 
「遊びをせんとや生まれけむ」と「梁塵秘抄」にあるように、人間は「ホモ・ルーデンス」。
  遊ぶことで人間性を回復し、活力を得る。遊び心。
「創」は、新しい断面、局面を切り開いて、個性のある創造をすること。
一瞬の新しいものへのシュンパツ力。 以上だが、この4つが人間の心の豊かさの要素。 
確かに、人生はこれを磨くプロセスであった。この中でも、「遊び」が、
人間にとって最も有用な行為になる。

エリック・ホッファーの 人間とは何か」という著書に、
 遊びについて次のように述べている。
《実用的な道具はほとんどすべて非実用的な関心の追求や暇つぶしにその起源がある。
最初に家畜化された動物ー小犬1は、もつとも役に立つ動物ではなく、もつとも遊び
好きな動物であった。猟犬が出現したのはかなり後のことである。最初に家畜化された
動物は子供たちのぺットであった。おそらく,植物栽培と灌漑も、初めは遊びとして
行なわれたのである。 車輪・帆、煉瓦なども遊びの中で発明された可能性が強い。 
たとえば、南アメリカのアステカ人は車輪を使わなかったが、足の代りにローラーを
つけた動物の玩具をもっていた。装飾が衣服に先行した。弓は武器となる以前は楽器
であったといわれている。人間が初めて粘土を使用したのも、土器をつくるためではなく、
土偶をつくるためであった。 こう見てくればわかるように、昔から人間のもつとも
有用な行為は、遊びであった。土器をつくり、布を織り・金属を加工し、動物を飼育
するはるか以前に、人間は絵を描き、線刻画を描き、彫刻をし、像をつくったことを
銘記すべきである。 芸術家としての人間の誕生は、労働者としての人間の誕生より
もはるかに早かった。 遊びが労働に先行し、芸術が有目的な生産に先行した。
人間はしばしば必要に迫られて楽しむためのものを有目的なことに利用した。
必要に迫られて働いている間は、依然として人間は動物界の一員である。
人間は、ただ生きるだけであったら不必要なもののためにエネルギーを注ぎ、さらに
生命の危険さえもおかす場所に、特異な存在としての人間となり、最高の創造力を
発揮する、したがって、人間の人間化が起こったのは、自然の恵みで豊かで、
余暇があり、遊び戯れる性向があった状況においてであったと考えるべきである。 
自然界における人類の台頭は、心細い戦場においてではなく、
エデンのような遊びの庭において起こったのである。・・
私にいわせれば、オートメーションの時代の到来は、魔法円の完成である。人間は
エデンという遊びの庭で初めて人間になった。そして今、人間は遊びの庭に帰還して、
人間の究極的使命を、すなわち人間性の完成をはかりうる機会をてにしている。 》
〜〜
遊びの重要性を上手く説明している。良く遊び、良く学び、良く働く、を
バランスよく豊富にすることが人生の豊かさだが、私の場合は、そのバランスは
とってきたが、「良く」に問題があった? まあ、いいだろう。遊びが4、学びが3、
働きが3というところだろうが、厳しい娑婆では、働きが4で、他が3だろう。
学びも、働きも、遊びまで持ち上げるのが理想である。そのためには好きなことを
仕事にすれば良い。

・・・・・・
2786, 人生ゲームを楽しまむため、生まれけん!
2008年11月20日(木)
 ー次は、ある雑誌(文藝春秋)の中にあった、角川春樹の文章であるー
【私は平成五年八月二十八日、麻薬取締法違反で逮捕され、ニ年五ヶ月、
干葉拘置所に拘束されていた。その間、私を悩ませた課題は、
「自分は何故生まれ、何処へ還るのか」という古代ギリシャ以来の疑問。
ある時、一冊の本が差し入れられた。立花隆の『宇宙からの帰還』である。
その中で私を惑動させたのは、宇宙飛行士のエド・ミッチェルの、次の発言。
〈 すべての存在がそれぞれにその役割を担っているある神的なプランがある。
そのプランは生命の進化である。個別的生命は全体の部分である。個別的
生命が部分をなしている全体がある。すべては一体である。
この全体の中で、人間は神と一体だ。宇宙は創造的進化の過程にある(略)。〉
彼の言葉が、完壁に理解できたのは、平成十年の大晦日である。朝から二度
倒れ、四度嘔吐した。その時、突然、次の唱句が天から降りてきた。
  年ゆくや天につながるいのちの緒   春樹
この瞬間、あらゆる生命が宇宙意識と繋がっていること、宇宙は一つである
ことを直感したのだ。エド・ミッチェルが宇宙で体験したことを、私は地上で
体験したのである。そして平成十六年九月一日、私は静岡刑務所の独房の中で、
自分の意識が宇宙の果てまで辿り着いた時、逮捕されて以来の長い間の疑問が
あっけなく感受できた。 答えは、人間は人生ゲームを楽しむために地球に
生まれて来た、ということだった。】
▼ 人生のゲーム化については、ここで何回か書いているが、彼が他の人と
 違うところは、そのコンセプトのもとに雑誌を刊行したことと、刑務所の中
で、絶望の底で、実感として掴み取ったことである。‘ゲームとは、到達地点
を決めて、その間に障害を置いて、如何に効率よく到達するかを競う遊び’。
人生ゲームの醍醐味は、死の完成までの障害を乗り越えるプロセスを如何に
楽しみ、味わうかにある。それも命がけに取り組むほど、ゲームが面白くなる。
【 父母に 呼ばれてこの世の 客となり用が済んだら はいさようなら 】
という一休の詩がある。せっかく、客として呼ばれたからには、この世の
人生ゲームを充分楽しまなければ、生まれてきた甲斐がないじゃないか! 
ということだ。そうこう考えると幸せの4階建ての4Fが、克服できない苦難
や悲しみ、というのが少しは分かるが。
 4階:克服できない苦難や悲しみの中に、幸福がある。
 3階:苦難や悲しみを経験し、それを克服する。
 2階:獲得した「快」を永続させる。
 1階:人間の本能的な「快」(恋、富、名誉など)を得て、増やす。
人生ゲームは、このビルの中で遊ぶようなものである。   
何か際どい話になってきたが。
・・・・・・
2789,人生ゲームを楽しまむため、生まれけん! −2
2008年11月23日(日)
  人生ゲームの基準を、私ならどのようにするかを考えてみる。
 昔から言われているように「良く遊び、良く学び、良く働く」を
目安にすると解りやすい。
 ・どのような趣味をもって、ライフワークにしてきたか。
 ・どのような仕事に従事して、楽しんだか。
 ・長年かけて教養を積み上げてきたか。
 ・それらを達観できる視線を、自分の孤独の世界で創りあげたか、である。
人生の価値基準は心の内の問題だから、第三者がとやかくいえることではない。
この4つを、どうバランスよく拡大、深耕したかを、自分のゲームとして
楽しんだかが人生ゲームを楽しむことと、定義づけてみた。
鼻歌を歌いながらスキップするしかない場面も人生には往々にある。
人生には、ある程度の長生きも必要である。人生を楽しむには、楽観的で、
能動的でなければなるまい。そのためには、常に楽しい明日をイメージして、
その実現の準備を地道にすること。耳には、何時も心地良い音楽を流すことは、
誰でもできる。 目は、大自然の風景や、美術館で良い絵や陶器をみたり、
本やネットで良い写真や、ビデオで映像をみることができる。鼻や口は、
季節季節の新鮮なものを食べればよい。 誰でも、身の回りに楽しめることは、
幾らでも転がっている。「おもしろきなき世を おもしろく」は、長州藩士、
高杉晋作の辞世の歌である。彼が死ぬ間際に、そばにいた野村望東尼
(福岡の女流歌人)が受けて、「すみなすものは心なりけり」と下の句をつけた
というが、成るほど上手い歌である。いずれにしても、ゲーム化した段階で、
自分を客観視する冷静さを持つことになる。何が起きても「その時は、その時。 
それも、また娑婆経験」と、魂が、自分の心に語りかける冷静さこそゲーム化で
身に付けることで可能になる。 人生を振り返ると、全く下手なゲーマーの自分
が見えてくる。そういえば、最近、「人生ゲーム」というゲームがマスコミで
話題になっている。ウィキペディアによると、
【原型は1860年ごろ、イギリスの印刷業の社長Milton Bradleyによって考案
された「The Checkered Game of Life」。日本版は、1968年、株式会社タカラ
(現タカラトミー)から発売された。タカラトミーの発表によると、日本版の
累計出荷数は 1000万個を超える。 ゲームシステムは、双六の発展形。
ゲーム序盤のルーレット目によって「人生の筋道」が決まり、その後の人生が
左右されていく。プレイヤーはサイコロではなく「ルーレット」を回し、
人の一生になぞらえたイベントをこなしていく。現在でも改良版が発売されて
いる、息の長いゲームである。】 面白そうなので、一度試してみたいもの。

・・・・・・
2017/10/02
閑話小題 〜「遊び」の意味合いとは
       <意味としての心〜「私」の精神分析用語辞書ー北山修著>
   *「遊び」の意味合いとは
「遊び」については、数多く読み、ここで書いてきた。『夜と霧』の著者、
フランクルの、<人生の要諦は「よく遊び、よく学び、よく働く」にある>
に納得し、また身近では両親の生き様の後ろ姿をみて、バランスをとって
生きてきた。 想い返せば12歳頃までは無心に遊んでいたが、中2後半から
受験勉強に重心を移動、暗い受験生になっていた。
 そして20歳から将来設計を考え、両親に倣って「創業」を目指す人生を
考るようになっていた。その翌年、「30日間・欧州一周旅行ツアー」への参加
で人生観が一変。 当時の海外渡航は20万人。殆どがビジネス関係者の中、
当時の私の精神的体力では極限?であった。一ヶ月で当時の40万、現在で
350万を遊びに費やした経験は甚大。旅行先の大自然、文明、文化との邂逅に、
何度も絶頂体験をしていた。腹の底から笑ったり、感動したのは幼児期以来、
いや初めての経験である。世界は想像を絶した広がりと、深さがあることを
実感した。それまでの世界認識は何だった? 「遊び楽しむこと自体が目的」
の意味合いを僅か1ヶ月で実感してしまった。「絶頂体験を求め、ひたすら
努力し続けること。その為に、「良く学び、働く」こと。その「良く」には、
目的地と、「遊び、学び、働き」のバランスと効率を良くすること。
 年齢を積重ねるにつれ、「より資金を貯めておけば、もっと働いておけば!」
よりも、「もっと遊んでおけば良かった!」と思うのが人間の常。
 つい最近まで、「勤勉・勤労」の反対語が「遊び」の宗教的な意味合いが
強かったが、今では、「健康や創造性の原点」に位置づけられ、
<車のハンドルとタイヤ間の「遊び」のような「ゆとり」「自在さ」「自由」
 な遊びとして認められ、強調されるようになっている。
「ハレ」と「ケ」が、交替するように働いたり、遊びこそ、効率を上げる
楽しい人生の必要条件、絶対条件として… >
 情報化社会の中で、知識と経験は益々膨らんでいく中で、狭い肉体と柵に
縛られ、心は自由を求めて悲鳴を上げている。それを開放してくれるのが、
至高体験」。この上ない感激、感動体験。これは映画でも、絵画鑑賞でも、
音楽会でも可能。その感受性の鋭敏さは、それらの経験の蓄積から生じてくる。
そのためには、極限に自分を置いて追い求めなければなるまえに…
 真剣に遊ぶのも、ちゃらんぽらんに遊ぶのも、お好みによる。
・・・・・・
2017/08/14
閑話小題 〜「遊びに金のかからない人は、最も幸福」
  * 楽しみに金のかからない人は、最も幸福
 ソローが、「楽しみに金のかからない人が最も幸福である」というが、
「楽しみに無条件で金をかけられる人は、更に幸せである」とも、いえる。
楽しいと思うかは心の素養の問題でもある。書籍の購入と同じで、命の次に
大切な金を、割切って使うことは難しい。仕事を楽しみまで昇華すれば良いが、
仕事バカも面白味がない。実際のところ、そこそこの「お金」は「遊び」に必要。
「一万を持って千円を使うのと、二千円を持って使うのと、気持ちが違う。」 
現在、一番効率良く遊べるのはネットである。次は「読書」だろうが、
これも素養が必要となる。
   
・・・・・・
2016/12/15
スーパーベターになろう! 〜1
  『スーパーベターになろう!ゲームの科学で作る「強く勇敢な自分」』
                     ジェイン・マクゴニガル著
   * 実生活のゲーム化
 志を持ち、それに突き進むこと自体が既にスーパーベターになるための行為
になる。自分が書いた展望の主役になって目標に一歩二歩進むことに楽しみを
持つことがゲーム化になる。創業の起承転結の立上げの「起」の段階に必ず?
といってよい普段なら起きようもない困難の問題が生じる。近親者の大病、事故、
世界単位で、ドルショック、石油ショックバブル崩壊など ホテルの立上げ
の時々、「今回は、これか!」と、見据えて冷静に対処するようになっていた。
想定外の問題を解決するためには冷静に楽しむゲームにすればよい。
会社清算時の決断直前に3・11東北大地震が起こっていた。ならば一つずつ
ゲームのように潰していけばよいと、脳内の小さな自己が語りかけていた… 
それが第三者から見たら不謹慎に思うのは至極当然。
 時々、真面目くさって、この随想日記を書き続けることや、スポーツジムに
週に5日も通うことに疑問を持つが、「良いこと3、悪いこと1つ」と、気を
取り直すと、まさに、その通り。事業も、私生活にしても、ゲーム化をすると、
毎日が楽しくなる。 〜内容紹介より…
≪ スーパーベターは実生活をゲームにする方法。憂鬱や不安から解放され、
 自信や活力を取り戻したことがペンシルヴェニア大学の調査でわかっています。
ただよくなって、これまでどおりの生活に戻るのではなく、"すごくいい"
(スーパーベター)を目指す人のためのゲームです。解説を読み、本の中にある
エストと呼ばれるワークに取り組むことで、もっと強く、もっと幸せに、
もっと勇敢に、もっと打たれ強くなることができます。実行するとどうなるのか?
自身の中にある力を引き出すことができるジェインは、誰もが以下3つの資質を
既に持っていると言います。
•あなたは自分が思ってるよりも強い
•あなたには仲間になってくれる人がたくさんいる
•あなたは自分自身の物語のヒーローである
本書を読むことを通じて、すでに自身の中にある力を理解し、そうした
力を引き出すことができる、誰もがスーパーベターになれるのです。≫
――
▼ ゲームとは、目標達成の過程に障害を据えて、乗越えるプロセスを味わい、
 楽しむこと。遊びまで高めれば、それでOK。ダイアリーに、その日こなした
スポーツジムのエアロを点数化したのをメモをする。イージーラインを二回する
と、二点。ヨガを二点、ランニングを30分で一点として、週合計15点、月に60点
を最低ラインにする。ジムの良さは集団エアロにある。単独では到底無理な内容
の運動量を、集団の勢いと習慣でやり遂げる。問題は、メモに残せるかどうか。
 〜HP内の「検索」に、<ゲーム化>を入れたところ、以下の過去文があった。
人生、生活、事業など何ごとも、遊ぶにすることが「ゲーム化」ということか。
追文) 過去文を読んで気づいたが、4年前に、この著書を元に、NHKの「クローズ
アップ現代で、取上げていた。記憶からスッカリ抜けていた。それだけゲーム化
は重要な要素があるということ。これが航空会社の『マイレージ』、チェーン店
の『ポイント制』の販促に応用されている?
・・・・・・
2016/02/24
遊びをせんと 〜遊びを哲学する ー?
           〜『世界の哲学・思想』小須田健著 より
   * 遊びを哲学する
 楽しむといえば、「遊び」である。「遊び」に関しては、内なる評価は90点。
進学、進級するにつれ、遊びが一そう面白くなっていた。 実社会でも歳を
重ねるたびに、質量は上がっていた。その背後には、ストレスが解消もあった。
仕事も面白かったが、遊びも、数限りない蓄積がある。
『よく働き、よく学び、よく遊ぶ』は、人としての目指す行動指標。
 充実の実感は、学びも、働きも、80点。その手ごたえが有難い。
仕事の面白かった経験より、辛い中での、遊びのトリップの経験こそ、人生の
価値にとって良いことは、今さら言うまでもない。 〜その辺りから〜
≪ ・理性と感性による二つの衝動が人間にはある、ということです。
 この二つの、一方は不変へ、一方は変化へ動こうとする人間の中でいかに
調和させるか? そこで、シラーが気づいたのは「遊戯」と「遊び」でした。
彼は、人類の大いなる遊びを歴史に求めます。ギリシャオリンピアの競技、
ローマの闘技、マドリッドの闘牛、パリの見世物、ヴェニスのゴンドラ競漕、
ウイーンの狩猟等々。そして、血を流さずに、人体の美をも競いあい、鑑賞
させるギリシャオリンピアの競技の遊びこそ最上と思いました。それは美を
求める遊びなのですから。シラーは、そこで「美しいものは単なる生命でも、
単なる形態でもない。人間に対し、絶対的な形式性と絶対的実在性の二重の
ものを授けてくれる生き生きした形態、それが美である。しかも、動物が
巣をつくる遊びは、その美を得させてくれる」としている。・・・
ホイジンガーは、目を人類全体の歴史に向けて『ホモ.ルーデンス』年刊を
 まとめました。・・・ そこで、
ホモ・ルーデンス」とは、ラテン語の学名になぞらえた人間の性格付けで、
「ホモ.サピエンス」(知性人)や、「ホモ・ファーベル」(作る人間、工作人)に
対比させた言葉で、意味は「遊ぶ人間」です。すなわち、人間を遊びを知るもの、
遊びと切り離せないものとして定義付けようとしたのです。彼はそこで、
人間の遊びの歴史は、「ホモ.ファーファル」の歴史より古いことを実証し、
「人間は遊ぶ存在である」と定義したほどでした。遊びの歴史を探ることこそ、
人類の歴史、文化の歴史を探る直接の素材であり、その手掛かりでもあるのです。
また、ホイジンガーの言葉で言いますと、「遊びの面白さは、どん名分析も、
どんな解釈も受け付けない」ものでした。いったん遊びだしたら、面白くて
もうやめられない、その遊び心を歴史的に記述したのが、ホイジンガーの
ホモ・ルーデンス」でした。ホイジンガーは、カナダのインディアンなど
各国の諸民族に伝わる儀式を伴う遊びを検証し、古代ギリシャアゴ
(競技や、子供の遊びなども含めて考証しながら、改めて「遊び」をキーワード
に、数々のその特性を発見しました。
「遊びは文化より古い」
「遊びは本気なものではない、と言ってはならない」
「遊びは、われわれのまだ知らない秩序を創っている」
「遊びは、人やものを結びつけ、また解き放つ共同性をもつ」
「遊びは、人間がさまざまな廓象の中に認めて言い表わすことのできる
 性質のうち、最も高貴な二つの性質によって充たされている。
 リズムとハーモニーがそれである」
「遊びは、本気でそうしているのではないもの、日常生活の外にあると感じ
 られるものだが、それにもかかわらず、遊んでいる者を心の底まですっかり
 とらえてし塞うことも01麓な、一つの自由な活動である」
「遊びは本気で何ものかを求めての競争であるか、あるいは何かを表す表現
 であるかのうである」  ≫
▼ 晩年の両親の後姿から、遊びは、その時点時点で計画的に消化しなければ
 ならないと、学んでいた。あれだけ楽しめば、悔いも、何も残らないだろう。
仕事の合間に遊ぶより、遊びの合間に働く位で丁度良いのかもしれない。
もっと遊んでおけば良かったと思っても、もっと事業拡大をしておけばなど、
終盤にさしかかった現在、全く思わない。仕事を趣味にし、楽しんだ実感が
あって満足できれば、それも遊び。思え返せば、仕事も、遊びも、面白かった!
 TVの番組に「YOUは何しに日本へ. Why did you come 」(東京放送
があるが、これを「YOUは何しに、地球へ」と、問われ、『働いて金儲けする
ためやってきた』とは、答えない。 ・・これは、長くなるので次回へ!
・・・・・・
2015/02/28
遊ぶこと ー人間であること −?

        〜「人間であること」時実利彦著
    * 遊ぶこと 〜勝負すること
・ 第三の遊びは勝負をすることで、前頭連合野にそなわっている競争意識、
 そのうらはらの劣等感や嫉妬心などの暴発をやわらげようとする。
 人間はオリンピックを頂点に、様々な勝負事を考え出した。勝負の世界には、
 職場の上下は関係ない。仕事の上の鬱憤を、マージャンや、ゴルフ場で晴らす
 ことが出来る。これは、動物世界にはない。
▼ 今ではワールドカップが、その頂点になっている。これは一種、代理戦争
 のようである。もう一つ、仕事や事業をゲーム化して、自分自身との勝負事に
 してしまう自己達成がある。 度が過ぎると勝負依存症になる危険が潜む。
   * 遊ぶこと 〜創造の喜び
・ 第四の遊びは、仕事や芸道、日常の行為に創造の喜びを体得することで、
 もっとも人間らしい人間だけができる崇高な遊びの行為である。趣味に
 生きるということも、そのねらいは同じ。この4つの遊びには、それぞれの
 存在意義があるが、最初の三つは誰でも出来るが、問題は、この、芸道や、
 仕事に、「創造の喜び」を体得することである。人間の尊厳というが、この
 創造の喜びを具現している姿に当てはめることが出来る。どんな僅かな仕事
 でも、どんな厳しい仕事でも、そこに喜びの心が体得できる人間としての
 遊びをしたい。
▼ 仕事でも、創業でも、趣味の世界でも創造の喜びを見出すことが出来る。
 子供のセーターを編む母親の姿が、それを物語っている。
小さいながらも小さな商業ビルなどを立ち上げてきた。初めて手がけた時に、
問題の全てが吐き出された。創造には、まず難問が次々と襲いかかってくる。
そこで、思いもしなかった内なる底力が、湧き出てきた。その過程が、創造
行為になり、そのまま次に繋がる。主体的難問解決過程を「遊び」にすればよい。
・・・・・・
2013/04/14
隠居大学ーよく遊びよく遊べ −8             
  * 心清く、よく遊びよく遊べ ーつれづれに
 老後を考える上で、なかなか面白い本である。何事にも自然体で、拘りを
持たず、自由に気楽に生きることがベース。人間は、それぞれ固いバイアスに
囲われている。それを一枚一枚、そぎ落としていくのが人生。老いるにつれ何事
も面倒になり、過去に目を向けて、周囲の現象には上から目線になりがちになる。
両親の晩期を供に生活をし、冷静に身辺整理をした父の姿を見ることが出来た。
母からは何事にもチャレンジする姿を見た。
「始める前に、あるレベルまで到達できるかどうか見極めること。
決心をしたら、先生を見つけ集中すること。ライバルを見つけること」と、
教えてくれた。道を極めようと一心不乱で日々過ごすと、心が純化されていく姿
が見て取れた。「心の純化」こそ、極意。 以前「何かに集中していると、ある
ゾーンに入る瞬間がある」と書いたが、それは心の純化の状態。
何事も純化の心から生まれ出てくる。「童心に帰り、純化の心で、遊べ遊べ!」。
 人生を振り返ると、その時々、面白く遊んだことが思い出される。 事業も、
遊びも、何でも、遊びになるまで対象に入り込まないと。それは楽しむことから
始まる。楽しみになるまで対象に同化することだ。「おもしろき こともなき世を
おもしろく すみなしものは 心なりけり」 これは高杉晋作の言葉だが、その心は
純化した心。論語の雍也第六に『子曰。知之者不如好之者。好之者不如樂之者』
がある。「師曰く、真理を知る者は真理を好む者に及ばない。真理を好む者は
真理を楽しむ者に及ばない」という意味である。 真面目に学べば「知ること」
ができる。 しかし、知ったことは、よく忘れる。だが、好きでやったことは
身に付くから忘れることも少ない。更に良いのは「楽しむ」こと。
孔子は「知る」も、「好む」も、「楽しむ」も道徳である、という。何が良い
ことかを知るだけより、良いことが好きだ。という方がすぐれている、つまり
「徳を楽しむことが必要」としている。更に、楽しみを遊びにしていくこと。
遊びは、現代風にいうと、ゲーム化することになる。ゲームは仮想世界の競争
である。人生を夢幻として、難関を乗り越えていくことになる。人生のゲーム化。 
夢幻の劇場で自作自演の役割を演じ、それを味わい楽しむことである。
心清く、遊んでいれば、その役をこなすことが出来る。「うれし、たのし、
おもしろし」の世界を、持つこと。ただし、節度を持ってである。
だから、そこに「良く」がなければならない。その辺りに少し気を使いながら。
・・・・・・
H0609
歩行とダンス
 丸山圭一郎と黒鉄ひろしの対談集で
“歩行とダンス”という二人の対話が面白かった。
“ドアにむかって歩いていくのが歩行、これは手段である。
ダンスはドアに向かわないし、その行為そのものが目的である。
それではドアに向かってダンスをおどって行く事はありうるか!?
ありうる!”という。
 非常に含蓄のある面白い内容である。

 人生、仕事、学問すべてにあてはまる内容である。
今回の仕事(第二新館増築)の最中にこれをよみ、
“よしこの仕事とチーク・ダンスをして、ドアまでいってやれ”と、
 一人笑った。
私の学生時代の大手商社に勤めている友人と、酒をのみながら右の話をした。
 本人いわく
“私はさしずめ、それはホーク・ダンスだな!。
 好きな奴もいやな奴も次々と仕事仲間でまわってくる。
 それも楽しそうな顔をしながら手に手をとっておどる妙味!”
当意即妙であった。

ドアに向かっての歩行なら誰でもできるが、
それをダンスとしてリズムをとりながらパターンをマスターし、
かつ楽しみまで高めてドアに向かう事となると誰にでもできない。
ついついドアを忘れたり、ダンスを忘れてしまう。
ダンスを忘れある年令に達して愚痴を言っている人が何と多い事か。
そしてその反対に逆の人も。
――
2006/09/05
1981, 歩行とダンスー2

「歩行とダンス」というて、テーマで文章を書いて、はや12年も経つ。
12年ぶりに引き継いでの文章化も面白い!と思い立ち書いている。
当時、転勤で大手商社の新潟支店に来ていた大学時代の友人と、
この話を酒のツマミにして酒を飲んだことを思い出す。
その友人が、ダンスをフォーク・ダンスと喩えたのは面白かった。
その後、
「一人踊りでドアに行くとしたら何だろう?」と誰かにいったら、
「鼻歌を歌いながらスキップすることじゃないか」と答えた。
  なるほど、そのとおりである。
この話、よく酒のツマミにするが、けっこう受ける。
「ドアはドアでも、どの部屋のドア?
まさかベッドルームじゃ、話が落ちるか?」と、言った人もいた。
ダンスの相手も色いろ考えられる。「困難」と考えると面白い。
困難を嫌がらず、むしろ踊りの相手として一緒に楽しむ?
まあ、かなり難しいが、それがゲーム化ということになる。

事業の立ち上げも、ダンスの相手と思うとよい。まあ、人生の全てを
賭けてのダンスだからスリルとサスペンスがあり命がけである。
人生、ストリッパーの裸踊りのようなものと言うと、例えが悪いか?
隠すべきところは隠しておかなくては、色気も面白みも無いところが同じか。
手段の目的化と、目的の手段化、そしてその融合化と言ってしまえば
話はつまらなくなる。

たまたま去年の同月同日に『楽しく生きる』というテーマが書いてあった。
この文章を引き継ぐのに、丁度よいテーマである。
12年前の文章である。

・・・・・・
2007/06/18
2267, 「遊び」
                (゜∇^*)オハヨ♪
 遊びの重要性は、両親をみていたり、学生時代などの経験から
「働き」と「学び」と同じくらい位置づけてきた。
その三つのバランスを如何に組み合わせるかが人生の豊かさと信じて、
年、月、週の計画に組み込んでいた。
人生で最後残るのは、特に「遊び」の中の充実感である。
                
「遊び」をネット百科事典『ウィキペディアWikipedia)』調べてみた。
  ーーーーwww**ww*w(/⌒∇⌒)/〜∞**www***w ーーーー
  
楽しむ、娯楽、休養、リラックス、ストレス (生体)解消などの目的で
生物がする行動の総称。普通は生命活動を維持するのに直接必要な食事、
睡眠や、自ら望んで行われない労働などは含まれない。
 また、工学などにおいて作られる、ある一定のたゆみ、ゆるみ、余白のこと。
これを作ることを「遊びを持たせる」という。
ハンドル等、機械で人間が操作する部分の遊びは、不覚筋動を機械の動きに反映
させないという効果遊びとは、楽しむ、娯楽、休養、リラックス、ストレス解消
などの目的で生物がする行動の総称とされます。どのような時代においても
遊びは存在し、太古の昔から現代まで私達の心を楽しませてくれています。

人間以外で、動物は遊びの中で狩りやコミュニケーションの方法を学んでゆく。
ヒトは成熟後も遊びを行なうのが一般的である一方、ヒト以外の動物は成熟すると
あまり遊ばなくなるが、ペット化(家畜化)された犬や猫などの動物は成熟後も
遊びたがる傾向があるようであり、野生動物でもカラスには、
成熟した個体に遊びと思われる行動が見られる。

フランスの思想家、ロジェ・カイヨワホイジンガの著書「ホモ・ルーデンス
に影響を受け、「遊びと人間」を執筆した。
その中でカイヨワは遊びを次の4つに分類している。
アゴン(競争):運動や格闘技、子供のかけっこ
・アレア(偶然):くじ(宝くじなど)、じゃんけん、ギャンブル(競馬など)
・ミミクリ(模倣):演劇、物真似、ままごと
・イリンクス(めまい):メリーゴーランド、ブランコ
カイヨワの説は遊びはこれらの4つの区分に分けられるとしたものであったが、
遊びは必ずしもこれらの単一の要素からなるものではなく、
複数の要素を含むものも多いとする説もある。
 ーーーー  (^Q^)/゛ d(o^v^o)b !!(^Q^)/゛ \(^o^)/!!
        ヽ(*^^*)ノ \(^^@)/ \^o^/ d(^_^o)
 なるほど、と思うが・・・

「遊び」については、今まで何回か取り上げてきた。
人は良く遊び、良く働き、良く学ぶことが、良く生きることを目ざすことだ。
そのどれも必要なことであり、それぞれにとって、背後に二つを必要とする
何ごとも楽しみになるまで追求すれば、しめたものである。
私の場合、ゲーム化が楽しみへ持ち上げるポイントであった。
ゲーム化に対しては批判もあるだろうが、何ごともやりかたである。
到達地点を設定して、その間の障害を乗り越えながらプロセスを楽しめば、
遊びへ転換するゲームは、勝ち負けを争う遊戯、競技もしくは賭博として
一般的に認められているが、日本では、「ゲーム」という言葉を使う場合、
漠然とした「遊び」と比べ、「パッケージ化された遊戯の一形態」という印象
を与える。
 学び、働きに対して、遊びが一番充実していた!ようだ。
遊びは他の二つと違って、他者との対比の必要はない。
一番好き嫌いの主観的要素が生かせるからよい。
同じ人生、楽しまなくては!
何ごとも「遊び」まで持ち上がるまで集中すべし!ということか。
 
 ー以前、カラスの遊びについて書いた部分を抜粋してみるー
 カラスは「羽の生えた類人猿」というほどの高い知能が、
 動物学者の研究観察から認められている。
 その一つに人間と同じような“遊び”の感覚があることである。
・目的もなく電線の巻いてあるテープをはがしたり、
・空中でゴルフボールや小枝を落として奪い合うラグビーのような行動で仲間と遊んだり、
・滑り台で、人間の子供のように滑り降りたり、
・くちばしでレールに小石を並べる行為も、電車が石をはじくのが面白くて始めた
 “遊び”といわれる。
 そのように無駄な行動を楽しむことをみても、彼らが知的動物であるといえる。
「無駄」なような行動も、「ラグビー行為は、オオタカなどの猛禽(もうきん)類に
 襲われた場合に備えてのチームプレーの訓練」という見方もあるが、
 それを遊びにすることが、高度な知的行為である。
 ーー イルカや、サルなど知的レベルの高い動物ほど日常の中に
 遊びが入っているところが、注目に値する。   d=(^_^)=b
     
  競争、偶然、模倣、めまい、か〜〜〜!
 何かの偶然の重なりで娑婆に生まれ、ママゴトのような人生の中で、
 ワッペン取りや、かけっこ競争や、ブランコ遊びをして、
 ふと、気づくと孫に囲まれ、遊びの手助け!、 これが人生。
                   
          Bye♪  ☆~~ヾ・ェ・)o尸~ マタネ~♪
2005年09月05日(月)
1616, 楽しく生きる−1

「楽しく生きる」を、
私流に「面白おかしく生きる」というコンセプトにして自分に課してきた。
それも20歳代の頃からである。むしろ「楽しみを見つけだす」という生き方
であった。私の行蔵の中の「楽しい時間」の中には、溢れんばかりの行蔵が
詰まっている。(他人からみたらガラクタだろうが、私にとってお宝である)

楽しいときは、どういうときであろうか。
・自分のしたいことをしているとき
・何かを期待してワクワクしているとき
・感動をしているとき
・自分の望んでいたことが実現しているとき
・人に褒めてもらえたとき
・自分の生き方に自信を持ってるとき
等々、上げられる。

いずれも肯定的な感情に包まれ、自分の欲求が満たされたときである。
一度だけの人生、肯定的な感情で、かつ自分の欲求を満たさなかったら、
人生を浪費していることになる。特に人生の後半は前半ほど単純ではない。
多くの過去を背負っているからである。
ならばこそ、その中で「楽しく生きる」喜びも深くなる。

文筆家(哲学者)池田晶子
「楽しく生きるためにどうすべきか」という文章がよい。
彼女は、哲学することの意味を平易な言葉で語ることに定評がある。
ーまずは、彼女の文章をそのまま書き写してみる。
 
 人生は短い。と、どうしてもやはり思いますよね。平均寿命は80とは
言われますが、歳をとってからできることは当然若い頃より制限されますし、
ましてやその歳まで生きるかどうかの保証はどこにもないわけです。
ひょっとしたら、明日、心臓発作で死ぬかもしれない。
 
縁起でもないと、普通はやはり思いますよね。しかし、よく考えてみると、
いやよく考えるなどしなくても、生きている限り人が死ぬのは当たり前で、
この当たり前を当たり前として認識しているかどうかで、人の人生観は全然違った
ものになるようです。
今のここに死はあるからこそ今のここの生はあるのだと思えば、
人生は長いとか短いとか言いようもなくなるはずだからです。

だって、いつだって、「この今」しかないのだから。「この今」しかない
と気づけば、先のことをあれこれ悩んで苦しむことはなくなるようです。
悩みや苦しみというのは、人生には先があるとする錯覚的時間認識が作り出す、
まあ一種の気の迷いみたいなもんでしょう。
未来への不安、もしくは過去への後悔、いずれも時間認識の勘違いです。
だって、未来や過去を悩んだり苦しんだりしているのは、まさしくこの現在では
ないですか。あ、なあんだ。 と、気がつけば、錯覚としての悩みや苦しみは脱落
します。そして、なんらそういった感情は湧かなくなり、逆に楽しみや喜びと
いった感情が湧いてくるようになるようです。むろん、悩みや苦しみのタネは
変わらずに存在していますよね。我々は生身の存在だからです。仕事上の悩みが
存在すれば、病いの苦しみだって存在する。 それは偽りのない事実です。

しかし、それらを言わば受け身で悩み苦しんでいるということではなくて、
妙な言い方ですが、悩むことを楽しむとか、苦しむことを喜ぶとか、そんな
ふうに変えられるようです。要するに、楽しみや喜びというのは、どこか外に
あるものではなくて、自分の側の心の構えのことだということです。それを
楽しんでやろうという構えでいれば、それが何なのであれ、それはその人に
とって楽しみとなるはずです。楽しむということは、今しか存在しないのだから、
その今を楽しむということ以外ではないでしょう。
 
矛盾したことを言うようですが、それでもやっぱり時間というのは存在する。
我々は生身の存在であって、肉体は刻々老いてゆく、以前できたことが今は
もうできない、体の故障は不愉快だ。
昨今はアンチエイジングブームで、それら加齢に伴う現象を否定的に
捉える向きがあるようですが、しかしこれはもったいないことのように思います。
なぜなら、老いるという経験は、誰も初めてのことであるはずで、せっかくの
未知なる体験を、否定してないものにしてしまうのは惜しい。

死ぬとか病むとか老いるとか、当たり前のことを否定として捉えるから人は
苦しむことになるのでしょう。やはり、当たり前を当たり前として捉え、なお
それを楽しむという構えが、ひょっとしたら人生の極意なのかもしれません。
 
まあこの人生、何のために生きるのかとは、生きている限り避けられない問い
ではありましょう。それは人間にとって最も根源的な問いであって、だからこそ
こんな問い、人に問うて答えが得られるものではない。根源的な問いほど、自ら
問い自ら答える以外はあり得ないのです。本当に答えを得たいのであれば、
生きている限り一度は必ず自らに問うてみるべきでしょう。
「私は、食べるために生きているのか、生きるために食べているのか」
 さて、本当に楽しい人生は、どっちだと思いますか。
 ーー
「死ぬとか病むとか老いるとか、当たり前のことを否定として捉えるから
人は苦しむことになるのでしょう。やはり、当たり前を当たり前として捉え、
なおそれを楽しむという構えが、人生の極意なのかもしれません。」
の言葉が、彼女の言わんとすることだ。現在という一瞬の連続が人生なの
だから、その「いま現在」を楽しんでやれというしか、楽しく生きるコツは
無いはずである。老いるにしても、苦しむにしても、その経験は、未知なる
体験であるのであるから否定してしまうのは惜しいはずであり、楽しむ材料
でしかないと考えればよいのだ。

・・・・・・
2004/05/12
1135, 「ライフ・レッスン」−13

  ー遊びのレッスンー
 遊びは仕事とともにもっとも大事にしなくてはならないことである。
何のために働くのかと問われれば、遊ぶために働いてますと真から
答えることができ、何のために遊ぶのですかと問われれば仕事を
じゅうぶんできるために遊ぶのです、と答えることが理想といえる。

 遊びとはつかの間の気楽な時間ではなく、遊びのためだけに捧げられた、
じっさいの時間である。私にとって、この随想日記を書くことじたい遊びである。
遊びでなくては絶対に1000回も書くことは無理であった。

 散歩もわたしにとって、最大の遊びである。
初めは腰痛対策であったが、いつの間にか遊びに昇華してしまった。
歩いて楽しいのだ。

 晩年になって過去を振り返ったときに、あの時は良かったという記憶に残るのは
やはり無心で遊んでいた時であろう。それぞれの年代において、それぞれの遊びの中で
我を忘れて楽しんでいた時である。

ー抜粋
・われわれは趣味や遊びが何であるか忘れている。
家具つくりを趣味でしている人が、ある日突然「これを仕事にしよう」と思い立つ。
好きなことをして、それが仕事になれば、というかもしれない。
しかし趣味とは成果を気にしないで純粋に楽しむものである。
売るための家具をつくれば、もう趣味といえなくなる。
それは仕事である。そのことに気づかずに、好きなことを、純粋に楽しめないことに
ゆがめていく人が少なくない。

・おもしろくって、一日中でもやっていたい、本当に好きなことを
やらずに、欲求を最大限おさえて生きていくなんて、何ておぞましい
人生だろう。遊びにかけているサファーを、われわれは並以下の人間に感じる。
しかし、真剣に問われるべきは、われわれの大半が遊びのない世界に住んでいるのは何故かということだ。

・自分自身に上質な時間をあたえてほしい。
愛する人とすごす上質な時間が必要だということを、誰もが知っている。
ところが、自分だけのための、ひとりですごす上質な時間もまた
必要なのだ。ひとり取り残された時間でも、気がついたらひとりになっていた
でもなく、純粋にひとりを楽しむ時間が一番大事だということを知って
ほしい。

   ・・・・・
 
 ー以前書いた文章
 
 ――――
 
 2002/01/05
  一人遊び

孤独に強い人、一人遊びができるかどうかにある。
一人で楽しみを見つけ・・・、書いていて気がついた、
それって「お宅」でないか。似ているがやはり違う。

それは一人遊びのできない人が表面を見て、いっているのではないか?
結局中途半端のそれをいうのではないか?
字のとおり、部屋に引きこもって自分の殻にこもった状態をいう。

山登りや釣りはやらないが、これなど一人遊びの典型である。
別にそれをお宅といわない。
読書好きの人もお宅といわない。

自分の強みは孤独に強いことだ。人に何かを求めないこと、求めても
そこに何もないことを、経験上知っているためだ。
結局人間最後は一人だ。そこでボールを一人でバウンドさせていくしかない。
そうしていれば、人が面白そうと自然に寄ってくるものだ。

「禅」とは、その修行によって、字のとおり単(一人)ということを示すことだ「示単」。
これはある有名な禅僧から直接聞いたことだ。
そこで自分の好きのことを見つけ、それを楽しむことから始めなくてはならない。
その積み重ねが個性を作る。

ノイローゼになる人をみていると、これができない人だ。
常に人に何かを求めているか、頼っているからだ。

・・・・・・
2002/02/24
遊びについて−1

人間にとって「遊び」は最も重要の一つである。
そこで「遊び」とは何かを考えてみよう。

まずその達人を事例で考えてみる。
一番身近では母がそのプロ?であった。

戦前、戦中、戦後の動乱期に10人の家族が生きていく中で、
父とともに苦労の連続であった。そして長男、次男の連続の
不幸な死で今の重症のノイローゼーなった。
心筋梗塞、死の一歩の手前までいった。
亡くなった時、医師の要望で心臓を解剖したら、心臓の4分の1が壊死していた。

それを乗り越えた後は、それまでのエネルギーを遊びに全て向けていった。
約40年近く遊びきって亡くなった。
日本舞踊、短歌、お花、旅行、茶道、写真。
毎日いそいそと何か遊びを見つけ楽しんでいた。

子供ながらに、そのエネルギーに感心をしていた。
遊びの重要さもそのため学んだ。
重点としてだが父は「働く人」、母は「遊ぶ人」と役割分担がハッキリしていた。
ただ父も仕事の合間に、結構遊びを作っていた。

「遊び」を儒教的影響の為かキリスト教的倫理観の為か、
罪悪と教えられてなかったか。
子供のころ誰もが、毎日目を光らせて遊んでいた。
ただただ無心に遊んでいた。
あの遊びをいつの間にか我々は忘れてしまった。

人間は生きていかなくてはならない。
その為に働かなくてはならない。
競争に打ち勝たなくてはならない。
その為に勉強もしなくてはならない。

しかしそれだけでは、それだけの人生だ。
それがクロなら、その対象の白が必要になる。
どちらが大事かでない、どちらも必要なのである。
それを特に母の生き様から学んだ。

一般的にいうと、遊びの優先順位があまり高くない。
どうしてだろうか、やはり生活をしていかなくてはならないからだ。
そして厄介な不安という心理がある。
その為に、お金をセッセと溜め込まなくてはならない、
「馬鹿な?生き物」である。

遊びとは、「好きな事をして、それを楽しむ事」をいう。
そうすると、仕事も遊びになりうる。
天才はその典型であろう。

あの子供の時の遊びを我々は忘れてしまった。
何でも遊びの対象にした「遊び心」を。
純真の心を失っているからだ。
「純真な遊び心」をいつの間にか忘れてしまった。

「遊んでないで、笑ってないでもっと真面目にやれ!」
と暗示をかけられてないか?

私の趣味の一つにウオーキングある。
初めは腰痛対策であった。今は大事な趣味ー遊びになっている。
純真に楽しいーヽ(^o^)丿(^^♪!(^^)!(#^.^#)(*^^)vのである。

その中に純真な遊び心が躍動を始める。
何々のためにといった場合は、遊びでなくなる。
それを乗り越え、純真な遊び心になった時点で「遊びに昇華」する。

パソコンもそうだ、このホームページもそうだ。
そこまで持ち上げる必要性を人生で学んだ。
「遊びになるまで集中する」という事か。

これから散歩だ!