『スーパーベターになろう!ゲームの科学で作る「強く勇敢な自分」』
                     ジェイン・マクゴニガル著
  * 実生活のゲーム化
 志を持ち、それに突き進むこと自体が既にスーパーベターになるための行為
になる。自分が書いた展望の主役になって目標に一歩二歩進むことに楽しみを
持つことがゲーム化になる。創業の起承転結の立上げの「起」の段階に必ず?
といってよい普段なら起きようもない困難の問題が生じる。近親者の大病、事故、
世界単位で、ドルショック、石油ショックバブル崩壊など ホテルの立上げ
の時々、「今回は、これか!」と、見据えて冷静に対処するようになっていた。
想定外の問題を解決するためには冷静に楽しむゲームにすればよい。
会社清算時の決断直前に3・11東北大地震が起こっていた。ならば一つずつ
ゲームのように潰していけばよいと、脳内の小さな自己が語りかけていた… 
それが第三者から見たら不謹慎に思うのは至極当然。
 時々、真面目くさって、この随想日記を書き続けることや、スポーツジムに
週に5日も通うことに疑問を持つが、「良いこと3、悪いこと1つ」と、気を
取り直すと、まさに、その通り。事業も、私生活にしても、ゲーム化をすると、
毎日が楽しくなる。 〜内容紹介より…
≪ スーパーベターは実生活をゲームにする方法。憂鬱や不安から解放され、
 自信や活力を取り戻したことがペンシルヴェニア大学の調査でわかっています。
ただよくなって、これまでどおりの生活に戻るのではなく、"すごくいい"
(スーパーベター)を目指す人のためのゲームです。解説を読み、本の中にある
エストと呼ばれるワークに取り組むことで、もっと強く、もっと幸せに、
もっと勇敢に、もっと打たれ強くなることができます。実行するとどうなるのか?
自身の中にある力を引き出すことができるジェインは、誰もが以下3つの資質を
既に持っていると言います。
•あなたは自分が思ってるよりも強い
•あなたには仲間になってくれる人がたくさんいる
•あなたは自分自身の物語のヒーローである
本書を読むことを通じて、すでに自身の中にある力を理解し、そうした
力を引き出すことができる、誰もがスーパーベターになれるのです。≫
――
▼ ゲームとは、目標達成の過程に障害を据えて、乗越えるプロセスを味わい、
 楽しむこと。遊びまで高めれば、それでOK。ダイアリーに、その日こなした
スポーツジムのエアロを点数化したのをメモをする。イージーラインを二回する
と、二点。ヨガを二点、ランニングを30分で一点として、週合計15点、月に60点
を最低ラインにする。ジムの良さは集団エアロにある。単独では到底無理な内容
の運動量を、集団の勢いと習慣でやり遂げる。問題は、メモに残せるかどうか。
 〜HP内の「検索」に、<ゲーム化>を入れたところ、以下の過去文があった。
人生、生活、事業など何ごとも、遊ぶにすることが「ゲーム化」ということか。
追文) 過去文を読んで気づいたが、4年前に、この著書を元に、NHKの「クローズ
アップ現代で、取上げていた。記憶からスッカリ抜けていた。それだけゲーム化
は重要な要素があるということ。これが航空会社の『マイレージ』、チェーン店
の『ポイント制』の販促に応用されている?

・・・・・・
2007/06/18
2267, 「遊び」
                (゜∇^*)オハヨ♪
遊びの重要性は、両親をみていたり、学生時代などの経験から
「働き」と「学び」と同じくらい位置づけてきた。
その三つのバランスを如何に組み合わせるかが人生の豊かさと信じて、
年、月、週の計画に組み込んでいた。
人生で最後残るのは、特に「遊び」の中の充実感である。
          
「遊び」をネット百科事典『ウィキペディア』で調べてみた。
  ー*ww*w(/⌒∇⌒)/〜∞**www***wー
楽しむ、娯楽、休養、リラックス、ストレス (生体)解消などの目的で
生物がする行動の総称。普通は生命活動を維持するのに直接必要な食事、
睡眠や、自ら望んで行われない労働などは含まれない。また、工学などに
おいて作られる、ある一定のたゆみ、ゆるみ、余白のこと。
これを作ることを「遊びを持たせる」という。
ハンドル等、機械で人間が操作する部分の遊びは、不覚筋動を機械の動きに
反映させないという効果遊びとは、楽しむ、娯楽、休養、リラックス、ストレス
解消などの目的で生物がする行動の総称とされます。どのような時代でも
遊びは存在し、太古の昔から現代まで私達の心を楽しませてくれています。

人間以外で、動物は遊びの中で狩りやコミュニケーションの方法を学んでゆく。
ヒトは成熟後も遊びを行なうのが一般的である一方、ヒト以外の動物は成熟
するとあまり遊ばなくなるが、ペット化(家畜化)された犬や猫などの動物
は成熟後も遊びたがる傾向があるようであり、野生動物でもカラスには、
成熟した個体に遊びと思われる行動が見られる。

フランスの思想家、ロジェ・カイヨワホイジンガの著書
ホモ・ルーデンス」に影響を受け、「遊びと人間」を執筆した。
その中でカイヨワは遊びを次の4つに分類している。
アゴン(競争):運動や格闘技、子供のかけっこ
・アレア(偶然):くじ(宝くじなど)、じゃんけん、ギャンブル(競馬など)
・ミミクリ(模倣):演劇、物真似、ままごと
・イリンクス(めまい):メリーゴーランド、ブランコ
カイヨワの説は遊びはこれらの4つの区分に分けられるとしたものであったが、
遊びは必ずしもこれらの単一の要素からなるものではなく、
複数の要素を含むものも多いとする説もある。
 ーーーー  (^Q^)/゛ d(o^v^o)b !!(^Q^)/゛ \(^o^)/!!
 なるほど、と思うが・・・
『遊び」については、今まで何回か取り上げてきた。
人は良く遊び、良く働き、良く学ぶことが、良く生きることを目ざすことだ。
そのどれも必要なことであり、それぞれにとって、背後に二つを必要とする。
何ごとも楽しみになるまで追求すれば、しめたものである。
私の場合、ゲーム化が楽しみへ持ち上げるポイントであった。
ゲーム化に対しては批判もあるだろうが、何ごともやりかたである。
到達地点を設定して、その間の障害を乗り越えながらプロセスを楽しめば、
遊びへ転換する。ゲームは、勝ち負けを争う遊戯、競技もしくは賭博として
一般的に認められているが、日本では、「ゲーム」という言葉を使う場合、
漠然とした「遊び」と比べ、「パッケージ化された遊戯の一形態」という
印象を与える。

 学び、働きに対して、遊びが一番充実していた!ようだ。
遊びは他の二つと違って、他者との対比の必要はない。
一番好き嫌いの主観的要素が生かせるからよい。
同じ人生、楽しまなくては!
何ごとも「遊び」まで持ち上がるまで集中すべし!ということか。
 
 ー以前、カラスの遊びについて書いた部分を抜粋してみるー
カラスは「羽の生えた類人猿」というほどの高い知能が、
動物学者の研究観察から認められている。
その一つに人間と同じような“遊び”の感覚があることである。
・目的もなく電線の巻いてあるテープをはがしたり、
・空中でゴルフボールや小枝を落として奪い合うラグビーのような行動で
 仲間と遊んだり、
・滑り台で、人間の子供のように滑り降りたり、
・くちばしでレールに小石を並べる行為も、電車が石をはじくのが面白くて
 始めた“遊び”といわれる。
 そのように無駄な行動を楽しむことをみても、彼らが知的動物であるといえる。
「無駄」なような行動も、「ラグビー行為は、オオタカなどの猛禽類に襲われた
 場合に備えてのチームプレーの訓練」という見方もあるが、それを遊びに
 することが、高度な知的行為である。
 ーー イルカや、サルなど知的レベルの高い動物ほど日常の中に
 遊びが入っているところが、注目に値する。   d=(^_^)=b
     
競争、偶然、模倣、めまい、か〜〜〜!
何かの偶然の重なりで娑婆に生まれ、ママゴトのような人生の中で、
ワッペン取りや、かけっこ競争や、ブランコ遊びをして、
ふと、気づくと孫に囲まれ、遊びの手助け!、 これが人生。                   
                Bye♪  ☆~~ヾ・ェ・)o尸~ マタネ~♪      
・・・・・・
2013/04/14
隠居大学ーよく遊びよく遊べ −8             
  * 心清く、よく遊びよく遊べ ーつれづれに
 老後を考える上で、なかなか面白い本である。何事にも自然体で、拘りを
持たず、自由に気楽に生きることがベース。人間は、それぞれ固いバイアスに
囲われている。それを一枚一枚、そぎ落としていくのが人生。老いるにつれ何事
も面倒になり、過去に目を向けて、周囲の現象には上から目線になりがちになる。
両親の晩期を供に生活をし、冷静に身辺整理をした父の姿を見ることが出来た。
母からは何事にもチャレンジする姿を見た。
「始める前に、あるレベルまで到達できるかどうか見極めること。
決心をしたら、先生を見つけ集中すること。ライバルを見つけること」と、
教えてくれた。道を極めようと一心不乱で日々過ごすと、心が純化されていく姿
が見て取れた。「心の純化」こそ、極意。 以前「何かに集中していると、ある
ゾーンに入る瞬間がある」と書いたが、それは心の純化の状態。
何事も純化の心から生まれ出てくる。「童心に帰り、純化の心で、遊べ遊べ!」。
 人生を振り返ると、その時々、面白く遊んだことが思い出される。 事業も、
遊びも、何でも、遊びになるまで対象に入り込まないと。それは楽しむことから
始まる。楽しみになるまで対象に同化することだ。「おもしろき こともなき世を
おもしろく すみなしものは 心なりけり」 これは高杉晋作の言葉だが、その心は
純化した心。論語の雍也第六に『子曰。知之者不如好之者。好之者不如樂之者』
がある。「師曰く、真理を知る者は真理を好む者に及ばない。真理を好む者は
真理を楽しむ者に及ばない」という意味である。 真面目に学べば「知ること」
ができる。 しかし、知ったことは、よく忘れる。だが、好きでやったことは
身に付くから忘れることも少ない。更に良いのは「楽しむ」こと。
孔子は「知る」も、「好む」も、「楽しむ」も道徳である、という。何が良い
ことかを知るだけより、良いことが好きだ。という方がすぐれている、つまり
「徳を楽しむことが必要」としている。更に、楽しみを遊びにしていくこと。
遊びは、現代風にいうと、ゲーム化することになる。ゲームは仮想世界の競争
である。人生を夢幻として、難関を乗り越えていくことになる。人生のゲーム化。 
夢幻の劇場で自作自演の役割を演じ、それを味わい楽しむことである。
心清く、遊んでいれば、その役をこなすことが出来る。「うれし、たのし、
おもしろし」の世界を、持つこと。ただし、節度を持ってである。
だから、そこに「良く」がなければならない。その辺りに少し気を使いながら。
   
・・・・・・
H0609
歩行とダンス
 丸山圭一郎と黒鉄ひろしの対談集で
“歩行とダンス”という二人の対話が面白かった。
“ドアにむかって歩いていくのが歩行、これは手段である。
ダンスはドアに向かわないし、その行為そのものが目的である。
それではドアに向かってダンスをおどって行く事はありうるか!?
ありうる!”という。
 非常に含蓄のある面白い内容である。

 人生、仕事、学問すべてにあてはまる内容である。
今回の仕事(第二新館増築)の最中にこれをよみ、
“よしこの仕事とチーク・ダンスをして、ドアまでいってやれ”と、
 一人笑った。
私の学生時代の大手商社に勤めている友人と、酒をのみながら右の話をした。
 本人いわく
“私はさしずめ、それはホーク・ダンスだな!。
 好きな奴もいやな奴も次々と仕事仲間でまわってくる。
 それも楽しそうな顔をしながら手に手をとっておどる妙味!”
当意即妙であった。

ドアに向かっての歩行なら誰でもできるが、
それをダンスとしてリズムをとりながらパターンをマスターし、
かつ楽しみまで高めてドアに向かう事となると誰にでもできない。
ついついドアを忘れたり、ダンスを忘れてしまう。
ダンスを忘れある年令に達して愚痴を言っている人が何と多い事か。
そしてその反対に逆の人も。
――
2006/09/05
1981, 歩行とダンスー2

「歩行とダンス」というて、テーマで文章を書いて、はや12年も経つ。
12年ぶりに引き継いでの文章化も面白い!と思い立ち書いている。
当時、転勤で大手商社の新潟支店に来ていた大学時代の友人と、
この話を酒のツマミにして酒を飲んだことを思い出す。
その友人が、ダンスをフォーク・ダンスと喩えたのは面白かった。
その後、
「一人踊りでドアに行くとしたら何だろう?」と誰かにいったら、
「鼻歌を歌いながらスキップすることじゃないか」と答えた。
  なるほど、そのとおりである。
この話、よく酒のツマミにするが、けっこう受ける。
「ドアはドアでも、どの部屋のドア?
まさかベッドルームじゃ、話が落ちるか?」と、言った人もいた。
ダンスの相手も色いろ考えられる。「困難」と考えると面白い。
困難を嫌がらず、むしろ踊りの相手として一緒に楽しむ?
まあ、かなり難しいが、それがゲーム化ということになる。

事業の立ち上げも、ダンスの相手と思うとよい。まあ、人生の全てを
賭けてのダンスだからスリルとサスペンスがあり命がけである。
人生、ストリッパーの裸踊りのようなものと言うと、例えが悪いか?
隠すべきところは隠しておかなくては、色気も面白みも無いところが同じか。
手段の目的化と、目的の手段化、そしてその融合化と言ってしまえば
話はつまらなくなる。

たまたま去年の同月同日に『楽しく生きる』というテーマが書いてあった。
この文章を引き継ぐのに、丁度よいテーマである。
12年前の文章である。

・・・・・・・
2005年09月05日(月)
1616, 楽しく生きる−1

「楽しく生きる」を、
私流に「面白おかしく生きる」というコンセプトにして自分に課してきた。
それも20歳代の頃からである。むしろ「楽しみを見つけだす」という生き方
であった。私の行蔵の中の「楽しい時間」の中には、溢れんばかりの行蔵が
詰まっている。(他人からみたらガラクタだろうが、私にとってお宝である)

楽しいときは、どういうときであろうか。
・自分のしたいことをしているとき
・何かを期待してワクワクしているとき
・感動をしているとき
・自分の望んでいたことが実現しているとき
・人に褒めてもらえたとき
・自分の生き方に自信を持ってるとき
等々、上げられる。

いずれも肯定的な感情に包まれ、自分の欲求が満たされたときである。
一度だけの人生、肯定的な感情で、かつ自分の欲求を満たさなかったら、
人生を浪費していることになる。特に人生の後半は前半ほど単純ではない。
多くの過去を背負っているからである。
ならばこそ、その中で「楽しく生きる」喜びも深くなる。

文筆家(哲学者)池田晶子
「楽しく生きるためにどうすべきか」という文章がよい。
彼女は、哲学することの意味を平易な言葉で語ることに定評がある。
ーまずは、彼女の文章をそのまま書き写してみる。
 
 人生は短い。と、どうしてもやはり思いますよね。平均寿命は80とは
言われますが、歳をとってからできることは当然若い頃より制限されますし、
ましてやその歳まで生きるかどうかの保証はどこにもないわけです。
ひょっとしたら、明日、心臓発作で死ぬかもしれない。
 
縁起でもないと、普通はやはり思いますよね。しかし、よく考えてみると、
いやよく考えるなどしなくても、生きている限り人が死ぬのは当たり前で、
この当たり前を当たり前として認識しているかどうかで、人の人生観は全然違った
ものになるようです。
今のここに死はあるからこそ今のここの生はあるのだと思えば、
人生は長いとか短いとか言いようもなくなるはずだからです。

だって、いつだって、「この今」しかないのだから。「この今」しかない
と気づけば、先のことをあれこれ悩んで苦しむことはなくなるようです。
悩みや苦しみというのは、人生には先があるとする錯覚的時間認識が作り出す、
まあ一種の気の迷いみたいなもんでしょう。
未来への不安、もしくは過去への後悔、いずれも時間認識の勘違いです。
だって、未来や過去を悩んだり苦しんだりしているのは、まさしくこの現在では
ないですか。あ、なあんだ。 と、気がつけば、錯覚としての悩みや苦しみは脱落
します。そして、なんらそういった感情は湧かなくなり、逆に楽しみや喜びと
いった感情が湧いてくるようになるようです。むろん、悩みや苦しみのタネは
変わらずに存在していますよね。我々は生身の存在だからです。仕事上の悩みが
存在すれば、病いの苦しみだって存在する。 それは偽りのない事実です。

しかし、それらを言わば受け身で悩み苦しんでいるということではなくて、
妙な言い方ですが、悩むことを楽しむとか、苦しむことを喜ぶとか、そんな
ふうに変えられるようです。要するに、楽しみや喜びというのは、どこか外に
あるものではなくて、自分の側の心の構えのことだということです。それを
楽しんでやろうという構えでいれば、それが何なのであれ、それはその人に
とって楽しみとなるはずです。楽しむということは、今しか存在しないのだから、
その今を楽しむということ以外ではないでしょう。
 
矛盾したことを言うようですが、それでもやっぱり時間というのは存在する。
我々は生身の存在であって、肉体は刻々老いてゆく、以前できたことが今は
もうできない、体の故障は不愉快だ。
昨今はアンチエイジングブームで、それら加齢に伴う現象を否定的に
捉える向きがあるようですが、しかしこれはもったいないことのように思います。
なぜなら、老いるという経験は、誰も初めてのことであるはずで、せっかくの
未知なる体験を、否定してないものにしてしまうのは惜しい。

死ぬとか病むとか老いるとか、当たり前のことを否定として捉えるから人は
苦しむことになるのでしょう。やはり、当たり前を当たり前として捉え、なお
それを楽しむという構えが、ひょっとしたら人生の極意なのかもしれません。
 
まあこの人生、何のために生きるのかとは、生きている限り避けられない問い
ではありましょう。それは人間にとって最も根源的な問いであって、だからこそ
こんな問い、人に問うて答えが得られるものではない。根源的な問いほど、自ら
問い自ら答える以外はあり得ないのです。本当に答えを得たいのであれば、
生きている限り一度は必ず自らに問うてみるべきでしょう。
「私は、食べるために生きているのか、生きるために食べているのか」
 さて、本当に楽しい人生は、どっちだと思いますか。
 ーー
「死ぬとか病むとか老いるとか、当たり前のことを否定として捉えるから
人は苦しむことになるのでしょう。やはり、当たり前を当たり前として捉え、
なおそれを楽しむという構えが、人生の極意なのかもしれません。」
の言葉が、彼女の言わんとすることだ。現在という一瞬の連続が人生なの
だから、その「いま現在」を楽しんでやれというしか、楽しく生きるコツは
無いはずである。老いるにしても、苦しむにしても、その経験は、未知なる
体験であるのであるから否定してしまうのは惜しいはずであり、楽しむ材料
でしかないと考えればよいのだ。              ーつづく

・・・・・
2789,人生ゲームを楽しまむため、生まれけん! −2
2008年11月23日(日)
  人生ゲームの基準を、私ならどのようにするかを考えてみる。
 昔から言われているように「良く遊び、良く学び、良く働く」を
目安にすると解りやすい。
 ・どのような趣味をもって、ライフワークにしてきたか。
 ・どのような仕事に従事して、楽しんだか。
 ・長年かけて教養を積み上げてきたか。
 ・それらを達観できる視線を、自分の孤独の世界で創りあげたか、である。
人生の価値基準は心の内の問題だから、第三者がとやかくいえることではない。
この4つを、どうバランスよく拡大、深耕したかを、自分のゲームとして
楽しんだかが人生ゲームを楽しむことと、定義づけてみた。
鼻歌を歌いながらスキップするしかない場面も人生には往々にある。
人生には、ある程度の長生きも必要である。人生を楽しむには、楽観的で、
能動的でなければなるまい。そのためには、常に楽しい明日をイメージして、
その実現の準備を地道にすること。耳には、何時も心地良い音楽を流すことは、
誰でもできる。 目は、大自然の風景や、美術館で良い絵や陶器をみたり、
本やネットで良い写真や、ビデオで映像をみることができる。鼻や口は、
季節季節の新鮮なものを食べればよい。 誰でも、身の回りに楽しめることは、
幾らでも転がっている。「おもしろきなき世を おもしろく」は、長州藩士、
高杉晋作の辞世の歌である。彼が死ぬ間際に、そばにいた野村望東尼
(福岡の女流歌人)が受けて、「すみなすものは心なりけり」と下の句をつけた
というが、成るほど上手い歌である。いずれにしても、ゲーム化した段階で、
自分を客観視する冷静さを持つことになる。何が起きても「その時は、その時。 
それも、また娑婆経験」と、魂が、自分の心に語りかける冷静さこそゲーム化で
身に付けることで可能になる。 人生を振り返ると、全く下手なゲーマーの自分
が見えてくる。そういえば、最近、「人生ゲーム」というゲームがマスコミで
話題になっている。ウィキペディアによると、
【原型は1860年ごろ、イギリスの印刷業の社長Milton Bradleyによって考案
された「The Checkered Game of Life」。日本版は、1968年、株式会社タカラ
(現タカラトミー)から発売された。タカラトミーの発表によると、日本版の
累計出荷数は 1000万個を超える。 ゲームシステムは、双六の発展形。
ゲーム序盤のルーレット目によって「人生の筋道」が決まり、その後の人生が
左右されていく。プレイヤーはサイコロではなく「ルーレット」を回し、
人の一生になぞらえたイベントをこなしていく。現在でも改良版が発売されて
いる、息の長いゲームである。】 面白そうなので、一度試してみたいもの。

・・・・・・
2786, 人生ゲームを楽しまむため、生まれけん!
2008年11月20日(木)

 ー次は、ある雑誌(文藝春秋)の中にあった、角川春樹の文章であるー
【私は平成五年八月二十八日、麻薬取締法違反で逮捕され、ニ年五ヶ月、
干葉拘置所に拘束されていた。その間、私を悩ませた課題は、
「自分は何故生まれ、何処へ還るのか」という古代ギリシャ以来の疑問。
ある時、一冊の本が差し入れられた。立花隆の『宇宙からの帰還』である。
その中で私を惑動させたのは、宇宙飛行士のエド・ミッチェルの、次の発言。
〈 すべての存在がそれぞれにその役割を担っているある神的なプランがある。
そのプランは生命の進化である。個別的生命は全体の部分である。個別的
生命が部分をなしている全体がある。すべては一体である。
この全体の中で、人間は神と一体だ。宇宙は創造的進化の過程にある(略)。〉
彼の言葉が、完壁に理解できたのは、平成十年の大晦日である。朝から二度
倒れ、四度嘔吐した。その時、突然、次の唱句が天から降りてきた。
  年ゆくや天につながるいのちの緒   春樹
この瞬間、あらゆる生命が宇宙意識と繋がっていること、宇宙は一つである
ことを直感したのだ。エド・ミッチェルが宇宙で体験したことを、私は地上で
体験したのである。そして平成十六年九月一日、私は静岡刑務所の独房の中で、
自分の意識が宇宙の果てまで辿り着いた時、逮捕されて以来の長い間の疑問が
あっけなく感受できた。 答えは、人間は人生ゲームを楽しむために地球に
生まれて来た、ということだった。】
▼ 人生のゲーム化については、ここで何回か書いているが、彼が他の人と
 違うところは、そのコンセプトのもとに雑誌を刊行したことと、刑務所の中
で、絶望の底で、実感として掴み取ったことである。‘ゲームとは、到達地点
を決めて、その間に障害を置いて、如何に効率よく到達するかを競う遊び’。
人生ゲームの醍醐味は、死の完成までの障害を乗り越えるプロセスを如何に
楽しみ、味わうかにある。それも命がけに取り組むほど、ゲームが面白くなる。
【 父母に 呼ばれてこの世の 客となり用が済んだら はいさようなら 】
という一休の詩がある。せっかく、客として呼ばれたからには、この世の
人生ゲームを充分楽しまなければ、生まれてきた甲斐がないじゃないか! 
ということだ。そうこう考えると幸せの4階建ての4Fが、克服できない苦難
や悲しみ、というのが少しは分かるが。
 4階:克服できない苦難や悲しみの中に、幸福がある。
 3階:苦難や悲しみを経験し、それを克服する。
 2階:獲得した「快」を永続させる。
 1階:人間の本能的な「快」(恋、富、名誉など)を得て、増やす。
人生ゲームは、このビルの中で遊ぶようなものである。   
何か際どい話になってきたが。

・・・・・・
2016/08/07
人生を幸福で満たす20の方法 〜?
         <人生を幸福で満たす20の方法>三宮 麻由子(著)
   * 空虚な日々を楽しむ方法 〜ゲーム感覚でチャレンジ
≪ 2.ゲーム感覚でチャレンジ
 楽しいチャレンジしてますか? 「楽しいチャレンジ」と「重荷」の差は、
「大変でも楽しい」と思えるかどうか。子供の頃から母親に、「何かをやろうと
決めたら、楽しみになるまで集中すること。始めたら絶対に諦めないこと。
それとライバルを見つけて、負けないこと」と言われてきた。母は何事も、
それでやり遂げてきた。著者は暗闇の中で、幸福を満たすに、人一倍の苦労が
必要だったろう。 それを前提で、これを読み解くと、一言一言が胸に刺さる。
ゲーム感覚は、もう一人の冷静な自分を見つめる視点を持つことが可能になる。
 26歳から新規事業に向け動き始めたが、何もかもが初めてもあり、店にしろ、
ビルにしても、立上げは一通りの困難が次々と押寄せる。それを繰返すうちに、
事業とは、これらを解決するプロセスと実感できるようになる。ならば事業は、
困難解決プロジェクトとして、ゲーム化をし、楽しむことが、合理的で面白い
ことに気づくことになる。この随想日記も、15年数ヶ月、ほぼ、休んだことが
ないが、これもゲーム化で楽しんでいる。2〜3ヶ月に一度は、全くテーマが
浮かばず、呆然とする。問題は、ここから。 そういう時ほど、よい文章が
書けることを体験上知っているためか、どこか心に余裕がある。でなくては、
続かない。5年前の事業整理も、その一連をゲーム化をして楽しんでいる私が、
準備期間を入れた45年間の総括として割切っている私が、確かにそこに居た。
 そして、それを笑っている蓄群も、である。
〜以下は、やはり偶然だが、何故か、面白い繋がりになる〜

・・・・・・
哲学について
2016/01/17
人生で最も大切な技術 ー?
       『幸福の探求―人生で最も大切な技術』マチウ リカール著
   * 幸福に関する名言
 前に書いた、<「永遠の命」が実相で、「わたし」は、フィクションでしか
ない。幸福は、「永遠の命」が実相とした状態。>という真理を実感した現在、
これ以上の、響きを得ることは難しい。それでも、幸福をシッカリ定義つける
必要性はある。私たちは地球上に、永遠の命の一部として送り出されてきた
自覚を、より持つべきである。 
  〜幸福とは何だろうか?〜
≪ 人は誰でも幸せになりたいと願う。だが、幸せになるには、まず幸福
 が何かを理解する必要がある。ージャン・ジャック・ルソー(仏国の哲学者)
・幸福とは何か?:写真の編集者として名が通っているアメリカの友人がいる。
その友人が大学の卒業試験を終え、これからの人生をどう歩むか、について
仲間と話し合ったときのことを話してくれた。「とにかく幸せになりたい」と
いうその友人の発言に、一瞬、気まずい空気が漂って、皆黙りこくってしまった。
ようやく仲間の一人が「君ほど有能な人間が、そんなありきたりのことを望む
とは驚きだ。いったいどうしたの」と問い質した。 友人は答えた。
「どのようにして幸福になるかについてはまだしゃべってないよ。
幸せを見つける方法は山ほどあるはず。結婚して家族をつくるのだってそう。
キャリアを追求するのも悪くないし、冒険に命をかけたり、ボランティア活動
や心の平安を探求したりするのだって、幸福を見つける方法だ。どのような
人生を歩むかは、これから考えるとして、とにかく本当に幸せな人生を
送りたいことだけは確か」。
・アンリ・ベルグソン〔フランスの哲学者〕は、次の言葉を残している。
:「幸福という言葉は、概して、何か複雑で曖昧な何かを指すときに使われる。
この言葉を故意に不明瞭にしておくことで、個々の人間が独自に解釈できる、
と人類は考えてきた」。確かに、非論理的な感情について論じる場合には、
定義を曖昧にしておいても差し支えない。だが、生きる瞬間瞬間の価値を
しることによって、人間のあり方そのものを論じる場合、曖昧にしておく
などは論外である。では、幸福とはいったい何なのか。
社会学者による幸福の定義はこうなる。:「自分の現世における人生全体
をどれだけポジティブに評価するか、その評価が高いときが幸福の状態。
言い換ると、幸福であるとは、「自分の生き方を好感している状態」となる。
 ところが、この定義では、人生に対して深く満足している状態と、
単なる外的条件を評価している状態との違いを区別することはできない。
幸福は一時的に通り過ぎる儚いもの、というイメージをもつ人にとっては
「幸福に感じる強さと期間は、それを感じさせてくれる資源の多少に大きく
影響される」。その類の幸福というのは、あっという間に消滅し、まわり
の状況によって左右されるため、自分でコントロールするのは難しい。
・哲学者のロバート・ミズラヒによれば、幸福とは、
:「自己存在のすべて、またはその人の活動的な過去、現在、そして予測
可能な未来に対する、わくわくするような喜びが現れるる状態」となる。
おそらく、そのほうが長続きするだろう。
アンドレ・コント・スポンヴィル〔1952年フランス生まれの哲学者〕
にとって幸福は、:「喜びが瞬間的に湧き上がる時間」となる。
・聖アウグスティヌスにとっての幸福は、:「真理の中で感じる喜び」であり、
・イマニュエル・カントの幸福は、:「個人的な汚点のない美徳に適った
合理的なもの」でなければならない。
・一方、カール・マルクスは、:「仕事を通して成長すること」をあげる。≫
▼ 私の幸せの定義は、『 至高体験の積重ねから得た、絶対幸福の体得の
 積み重ねである。その蓄積は多くなるにつれ、磁力が強くなり、感激、
感動、感謝のある現場に、その人を導いていく。まずは、身近の絶対幸福感
が可能な、例えば演奏会、美術館、図書館などに、自分から近寄っていき、
シャワーのように浴びることから始めればよい。テレビでも、ネットでも、
シネマ館でも、探せば幾らでも存在する。その経験は、現実に絡めとられて
いる自己の開放がある。その持続こそ、幸福である。』である。これは、
私の思いのまま書いた解釈。 ゆえに、私は生涯を通し幸せであった。
  〜以下は、過去に「幸福」についてテーマにした内容の一部〜
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2013/03/02
歳を取りそこねる人たち ー2
      「老いへの不安 歳を取りそこねる人たち」春日 武彦 (著)  
「老いると独自の当惑や釦の掛け違いによる問題、恥や失望や悔しさが待ち
 受けている」というのが本当のところ。そして最期は死ぬのである。
その中で幸福であるために、幸福とは何かを常に自省しなければならない。
   * 幸福のふたつの文脈
≪ 近頃の私は、幸福が二つの文脈から成り立っていると
 実感するようになっている。
・ひとつは日常における安寧とか平和とか、つまり波風の立たない平穏の
 毎日である。それは往々にして退屈に感じたり、無価値に映る。だが、
 大病を患ったり危機の状況に追い込まれると、つくづく【当たり前の日常】
 の有難さに気づく。現代社会における大問題として、年齢を重ねたなりに
 淡々として、維持していく筈の【当たり前の日常】が、老人にとって手の
 届かない危惧が挙げられてないだろうか。
・幸福におけるもうひとつの文脈は、それこそラッキーなこと、嬉しいこと、
 楽しいこと、満足感を得ること―― そのよう躍動的で高揚感をもたらす
 事象との出会いであろう。こちらは個人差が大きく、ある人にとって十分に
 喜ばしいことが、別の人にはむしろ物足りなさや悔しさを惹起することなど
 幾らである。こうしたことも、歳を重ねて肩の力が抜けてくれば、それこそ
 春の訪れを告げる日差しの変化とか、隣人から土産にもらった鯵の干物の
 美味さとか、窓の向こうに見える教会の屋根の赤い色と自宅で飼っている
 金魚の赤色とがまったく同じ赤であったことに今さらながら気付いた軽い
 驚きであるとか、学生時代に読んだ小説を再読してやっとその素晴らしさを
 悟った喜びとか、そういったもので十分に幸福の文脈を形成し得るに違い
 ない。ガッツポーズをしたくなるような晴々しい出来事に遭遇しなくとも、
 さりげなく幸福の滴を感じ取ることができる。それが年寄りになることの
 醍瑚味だと信じてきた(へいや、今でも信じている)。… ≫
▼ 幸福とは、当たり前の日常を受け入れる「受容」と、驚き、楽しみ、
 満足感をえる「新鮮な事象との出会い」にある。自虐的な性格もあり、
 倒産すら楽しんでいた自分がいる。ならば、老いていく自分を楽しむには、
 これは最適の本。  ー次のアマゾンのレビューが解りやすいー
《 老いるとはいかなることか、そのかたちの探求を試みる。自己の人生の
 なかで出会ってきた様々に個性的な老人たちや、小説に描かれた味わい深い
 老人たちを参考にしながら、その探求の過程において示されるのは、著者の
 考える素敵な老いや適切な「年寄り」のかたちも若干はあるが、ほとんど、
 みっともなかったり、哀しかったり、ときには常識をはずれさえする
 グロテスクな老いの姿。他者と生き別れ死に別れた孤独のなかで、死の
 可能性が充実したゾーンへと入っていく時、空間の戸惑いのなかで、人間が
 抱えている厄介なものが唐突にあらわになる。老いるとは、あらゆる出来事
 に対する達観した精神の獲得といったようなものではなく、人生が与えて
 くる難儀さに傷つけながら、なんとか過ごしていくことではあるまいか。》
 肉体も精神も老いぼれ朽ち果て、無になる。それで良いではないか。 
 ただ、噂話や愚痴を言い合う老人の群れに入らないことだ。

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2007/11/15
2416, よく生きる −1
           ゜+.(ノ*・ω・)ノ*.オハヨオォォ☆゜・:*☆
池田晶子陸田真志との対話集の中で、ソクラテス
{ただ「生きる」のではなく、「善く生きる」べきである。}
という問いが語られていた。 何か解りやすい本がないかと図書館で調べたら、
やはりあった。 哲学者の 岩田靖夫著「よく生きる」−ちくま新書 である。
目を通すと、「はじめに」に、要約が解りやすくあった。
これで充分といえるほど簡潔で、知りたい全てがそこにあった。
 
 それを要約をすると、
1、幸福とは、自己実現することである。
2、その自己実現は目的ではなく、条件であるが、その意味ではない。
  目的は自己実現したレベルでの他者との邂逅である。
3、その中でも、挫折、病気、死などが待ち受けている。
  それを解決できるのは宗教しかない。それぞれの神という
  根源の元に帰るという確信こそ、人の求める究極である。
4、我われは、そういう人々の社会の中で生きている。
 そこでは自由と平等が求められる。その仮想がユートピアだが、
  理想として追求するのが求めるべき人間の姿勢である。
さらに表紙裏の説明文が更に簡潔であった。

  ーまずは表紙裏ー
「よく生きる]これは、時と所を問わず、人間にとって究極の問いである。
人は強くて、同時に弱くなければならない。人は強くなければ自分の存在を
守れない。しかし、それは動物としての生存の維持である。人は弱くなった
とき、他者の心を理解し、他者と真の交わりに入り、存在の根源に帰入する。
それが人の幸せである。古今東西の哲学、宗教、文学を通して、人間の
この真実を明らかにする。
   
  ー次に表紙の下に書いてあった文ー
動物のように生存欲のままに生きっづけることが人間の生なのであろうか。
それとも「人間の生」は「人間らしい生」でなければならず、それが
「善く生きる」ということではないのか。目前に迫った死刑執行という
切迫した時間の中で、ソクラテヌはクリトンを相手に「人間にとっての
この究極の問い」を再度問うのです。
ーーーー
本当に良い本は、「簡潔に簡潔に書こう」という著者の気持ちが伝わる。
簡潔になればなるほど、中心点に近づいていくからである。
真理を追究していれば、その中心に向かっていくしかない。だから、
より簡潔にしていく中で、真理のより深いエネルギーが湧き出て
くるのである。
 「人は強くて、同時に弱くなければならない」という言葉が良い!
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2007/02/11
2140, 幸福はキラキラと輝く瞬間         
     「藤沢周平に学ぶ」月刊『望星』・編  −読書日記ー                  
  ー人間の成熟にかかわる『人生の充足感』ー
山田洋次監督の映画は「男はつらいよ」の48本すべてと、
その他の映画の最近のものは殆ど観ている。彼が「男はつらいよ
についてのTV特集などで渥美清を語る座談で、多く聞いてきた。
しかし、どういうわけか彼が書いた文章は殆んど読んだことはなかった。

ところが藤沢周平についての評論を24人集めた「藤沢周平に学ぶ」の冒頭の
「藤沢作品を映画化して想うー人間の成熟にかかわる『人生の充足感』」
の評論があった。彼は幾つか藤沢の映画を撮っているだけあって、心打つ
内容である。人生で誰もがキラキラ輝いていたのである。 そのとき! 
  〜まずは、彼の文章の一節から・・
 
  *幸福とはキラキラと輝く瞬間を持つこと!
「隠し剣、鬼の爪」で、主人公の侍が行儀見習いで女中奉公に来ていた
娘にプロポーズするシーンで、その瞬間、彼女はキラキラと輝くような、
生きていてよかったという幸福感で胸が一杯だったはずです。
僕は、幸福とはキラキラ輝く瞬間を持つことだと思う。人生のうちには、
そんなふうに何度かそういう瞬間がある。あるいはあってほしい。
心の芯から温かいものがフワ~と湧き出るような、そういう短い時間が
誰もが持っている。映画「たそがれ清兵衛」でいえば、父親が幼い子どもを
「高い高い」しながら抱き上げる瞬間、子どもの側からすれば、高々と
持ち上げられて、急に視界が高くなったときの嬉しさ、ああ、いま父親に
高く抱き上げられているのだ、という充足感。子どもはその後、大人に
なるにつれて、人と争ったり、世渡りで苦労したりするが、あの瞬間の
充足感は一生忘れない。幸福ということは、つまりそういうことなのでは
ないかと思います。
(感想)
ー私自身、キラキラと輝く時間は数数え切れないほど多かった。
本当にこれで良いのか?と思うほど多かったといえるのが幸せである。
求めたからだろう。ギラギラでなく、キラキラというのが幸せである。
ギラギラは、心に欲とか不純なものが蓄積している状態で、後には不快が残る?
やはり、幸せは両親の愛情をタップリ注がれた基盤が必要条件になる。
二人の愛の結晶が子供である。 愛は二人で維持していかないと・・・

  *感動体験が「良識」をもたらす
 いまの30歳代くらいまでの若い人の特徴は、子ども時代の体験が
あまりに貧しいということではないでしょうか。 団塊の世代までは、
野原や川原で大勢の友達と遊ぶ楽しさを知っています。
汗だらけになって遊び呆けて、日暮れどき、仲間とアバヨと別れ、家路に
つきながら「ああ、楽しかった」という、身体の中が熱くなるほどの満足感。
そこには兄貴分がいて、喧嘩もあって、仲直りもあって、子どもとはいえ、
小さな世界の秩序があった。そうした中で、人は自然を学び、社会の分別を
学んでいたのです。
 生きていくということはなかなかしんどいことですが、やっちゃいけない
ことはやらないという態度は良識だし、やらなくてはならないことはやると
いうのも良識です。その良識を持っているいるかいないかはということは、
その人が、ああ俺は幸福だな、という感覚を肌身にしみて体験しているか
どうかと、深い関係があると思います。
人間というものは厄介な存在で、恋愛問題だけでなく、家庭、地域、職場、
学校など、集団にはトラブルはつきものです。いったんこじれた人間関係は
修復するのは、面倒なことだけれど、相手の立場に立ったり、相手を変えよと
努力したりする中で、自分自身も変わっていくのです。
もつれた糸をほぐすような悩みや工夫のなかで、人は成熟していくのです。
 (感想)
ーこの視点で、人生を振り返ってみると、何が重要だったのか見えてくる。
本当に目を光らせて自然の中で遊びほうけたものだ。
私らの年代は、本当に遊びまわっていた。
それが中学二年あたりから受験勉強を強いられる。
それも、必要である。
感動体験こそ人生を豊かにさせるものである。
感動体験だけは人一倍してきたが・・・まだまだぜったり量が足りない。
 60歳代の人生のテーマは『もっともっと感動を!』か?

  * 価値観の多様化がもたらしたもの
いま私たちの国を支配している価値観は、藤沢さんの考えとまったく逆に
なっています。しみじみとした幸福感などナンセンス、もっともっと大それた
成功を目ざして競争します。人生は勝ったり負けたりかだ。成功して大金持ちに
なったら若くしてプロ野球のおーなーになるんだ、なによりも金、サラ金
どこが悪いんだ、みたいな乱暴な気分が横行しています。
映画『たそがれ清兵衛』で、本家の偉い伯父さんに叱られる場面があります。
「なんだこの貧しい暮らしは、親戚の体裁を考えろ!」これに対して一歩も
引かずに、「たしかに私は貧乏だけど、私はこの貧乏な暮らしをそれほど
惨めだと思っていません」もしいまの人間がそんなことを宣言したら、よほど
無気力ヤツかアフォに思われる若者たちの間に無くなってしまった。
それに代わって高学歴とか高収入とか勝ち組・負け組などという安っぽい
価値観が横行するようになってしまった。
30年ほど前でしょうか、『価値観の多様化』という言葉が流行りました。
その頃から、人間としての誇りとか道徳の感覚が薄れ始めたように思います。
価値観の多様化は聞こえはよいのですが、実は価値観など不要、
もう何でもありの世の中なんだ、というようになってしまったように思えます。
そうすると、よしあしのバロメーターは数値に頼るしかありません。
つまり金に換算できる価値、儲かるか儲からないかというわかりやすさの中で、
消費型の経済は急速に発展し、アメリカ追従の政治が容認され、日本は一つの
方向にぐいぐいと動きはじめる。文化の領域でも辿ったし、映画の世界もそう。
犯罪が増加する不気味な社会になってきて、社会的未成熟という言葉がよく
言われますが、競争一辺倒の安っぽい価値観が支配するなか、バランスとれた
良識を持つ大人の数が少なくなった、ということでしょうか。

ー多様化してよい価値観と、絶対に変わってはならない価値観がある。
そこの見極めのために教養というものがあるのだろう。
特にグローバル化社会といわれる時代に、やはり基礎教養の絶対量が必要。
それにしても、この多様化は現実問題である。
自分の基点としてのアイディンティテーをしっかり把握していないと!
とくに年齢を重ねると、決してプラスだけ出なく、マイナスの谷も深くなる。
 山高ければ、谷深し!というが、それが年齢を重ねる事である。
全く谷ばっかり深くなってしまう!
酒さえ控えれば半分は解消するものを! 全く もう!!