『幸福の探求―人生で最も大切な技術』マチウ リカール著
   * 幸福に関する名言
 前に書いた、<「永遠の命」が実相で、「わたし」は、フィクションでしか
ない。幸福は、「永遠の命」が実相とした状態。>という真理を実感した現在、
これ以上の、響きを得ることは難しい。それでも、幸福をシッカリ定義つける
必要性はある。私たちは地球上に、永遠の命の一部として送り出されてきた
自覚を、より持つべきである。 この「わたし」は、フィクションに気づくこと!
  〜幸福とは何だろうか?〜
≪ 人は誰でも幸せになりたいと願う。だが、幸せになるには、まず幸福
 が何かを理解する必要がある。ージャン・ジャック・ルソー(仏国の哲学者)
・幸福とは何か?:写真の編集者として名が通っているアメリカの友人がいる。
その友人が大学の卒業試験を終え、これからの人生をどう歩むか、について
仲間と話し合ったときのことを話してくれた。「とにかく幸せになりたい」と
いうその友人の発言に、一瞬、気まずい空気が漂って、皆黙りこくってしまった。
ようやく仲間の一人が「君ほど有能な人間が、そんなありきたりのことを望む
とは驚きだ。いったいどうしたの」と問い質した。 友人は答えた。
「どのようにして幸福になるかについてはまだしゃべってないよ。
幸せを見つける方法は山ほどあるはず。結婚して家族をつくるのだってそう。
キャリアを追求するのも悪くないし、冒険に命をかけたり、ボランティア活動
や心の平安を探求したりするのだって、幸福を見つける方法だ。どのような
人生を歩むかは、これから考えるとして、とにかく本当に幸せな人生を
送りたいことだけは確か」。
・アンリ・ベルグソン〔フランスの哲学者〕は、次の言葉を残している。
:「幸福という言葉は、概して、何か複雑で曖昧な何かを指すときに使われる。
この言葉を故意に不明瞭にしておくことで、個々の人間が独自に解釈できる、
と人類は考えてきた」。確かに、非論理的な感情について論じる場合には、
定義を曖昧にしておいても差し支えない。だが、生きる瞬間瞬間の価値を
しることによって、人間のあり方そのものを論じる場合、曖昧にしておく
などは論外である。では、幸福とはいったい何なのか。
社会学者による幸福の定義はこうなる。:「自分の現世における人生全体
をどれだけポジティブに評価するか、その評価が高いときが幸福の状態。
言い換ると、幸福であるとは、「自分の生き方を好感している状態」となる。
 ところが、この定義では、人生に対して深く満足している状態と、
単なる外的条件を評価している状態との違いを区別することはできない。
幸福は一時的に通り過ぎる儚いもの、というイメージをもつ人にとっては
「幸福に感じる強さと期間は、それを感じさせてくれる資源の多少に大きく
影響される」。その類の幸福というのは、あっという間に消滅し、まわり
の状況によって左右されるため、自分でコントロールするのは難しい。
・哲学者のロバート・ミズラヒによれば、幸福とは、
:「自己存在のすべて、またはその人の活動的な過去、現在、そして予測
可能な未来に対する、わくわくするような喜びが現れるる状態」となる。
おそらく、そのほうが長続きするだろう。
アンドレ・コント・スポンヴィル〔1952年フランス生まれの哲学者〕
にとって幸福は、:「喜びが瞬間的に湧き上がる時間」となる。
・聖アウグスティヌスにとっての幸福は、:「真理の中で感じる喜び」であり、
・イマニュエル・カントの幸福は、:「個人的な汚点のない美徳に適った
合理的なもの」でなければならない。
・一方、カール・マルクスは、:「仕事を通して成長すること」をあげる。≫
▼ 私の幸せの定義は、『 至高体験の積重ねから得た、絶対幸福の体得の
 積み重ねである。その蓄積は多くなるにつれ、磁力が強くなり、感激、
感動、感謝のある現場に、その人を導いていく。まずは、身近の絶対幸福感
が可能な、例えば演奏会、美術館、図書館などに、自分から近寄っていき、
シャワーのように浴びることから始めればよい。テレビでも、ネットでも、
シネマ館でも、探せば幾らでも存在する。その経験は、現実に絡めとられて
いる自己の開放がある。その持続こそ、幸福である。』である。これは、
私の思いのまま書いた解釈。 ゆえに、私は生涯を通し幸せであった。
  〜以下は、過去に「幸福」についてテーマにした内容の一部〜
・・・・・
2013/03/02
歳を取りそこねる人たち ー2
       「老いへの不安 歳を取りそこねる人たち」春日 武彦 (著)  
「老いると独自の当惑や釦の掛け違いによる問題、恥や失望や悔しさが待ち
 受けている」というのが本当のところ。そして最期は死ぬのである。
その中で幸福であるために、幸福とは何かを常に自省しなければならない。
   * 幸福のふたつの文脈
≪ 近頃の私は、幸福が二つの文脈から成り立っていると
 実感するようになっている。
・ひとつは日常における安寧とか平和とか、つまり波風の立たない平穏の
 毎日である。それは往々にして退屈に感じたり、無価値に映る。だが、
 大病を患ったり危機の状況に追い込まれると、つくづく【当たり前の日常】
 の有難さに気づく。現代社会における大問題として、年齢を重ねたなりに
 淡々として、維持していく筈の【当たり前の日常】が、老人にとって手の
 届かない危惧が挙げられてないだろうか。
・幸福におけるもうひとつの文脈は、それこそラッキーなこと、嬉しいこと、
 楽しいこと、満足感を得ること―― そのよう躍動的で高揚感をもたらす
 事象との出会いであろう。こちらは個人差が大きく、ある人にとって十分に
 喜ばしいことが、別の人にはむしろ物足りなさや悔しさを惹起することなど
 幾らである。こうしたことも、歳を重ねて肩の力が抜けてくれば、それこそ
 春の訪れを告げる日差しの変化とか、隣人から土産にもらった鯵の干物の
 美味さとか、窓の向こうに見える教会の屋根の赤い色と自宅で飼っている
 金魚の赤色とがまったく同じ赤であったことに今さらながら気付いた軽い
 驚きであるとか、学生時代に読んだ小説を再読してやっとその素晴らしさを
 悟った喜びとか、そういったもので十分に幸福の文脈を形成し得るに違い
 ない。ガッツポーズをしたくなるような晴々しい出来事に遭遇しなくとも、
 さりげなく幸福の滴を感じ取ることができる。それが年寄りになることの
 醍瑚味だと信じてきた(へいや、今でも信じている)。… ≫
▼ 幸福とは、当たり前の日常を受け入れる「受容」と、驚き、楽しみ、
 満足感をえる「新鮮な事象との出会い」にある。自虐的な性格もあり、
 倒産すら楽しんでいた自分がいる。ならば、老いていく自分を楽しむには、
 これは最適の本。  ー次のアマゾンのレビューが解りやすいー
《 老いるとはいかなることか、そのかたちの探求を試みる。自己の人生の
 なかで出会ってきた様々に個性的な老人たちや、小説に描かれた味わい深い
 老人たちを参考にしながら、その探求の過程において示されるのは、著者の
 考える素敵な老いや適切な「年寄り」のかたちも若干はあるが、ほとんど、
 みっともなかったり、哀しかったり、ときには常識をはずれさえする
 グロテスクな老いの姿。他者と生き別れ死に別れた孤独のなかで、死の
 可能性が充実したゾーンへと入っていく時、空間の戸惑いのなかで、人間が
 抱えている厄介なものが唐突にあらわになる。老いるとは、あらゆる出来事
 に対する達観した精神の獲得といったようなものではなく、人生が与えて
 くる難儀さに傷つけながら、なんとか過ごしていくことではあるまいか。》
 肉体も精神も老いぼれ朽ち果て、無になる。それで良いではないか。 
 ただ、噂話や愚痴を言い合う老人の群れに入らないことだ。
・・・・・・
2012/06/07
老いの見本帳ーダークサイト −11
      「老いへの不安 歳を取りそこねる人たち 」春日武彦(著)
   * 幸福とは             
 「老いを考えることは、それぞれの幸福を考えることである」、
というのが、この老人奇譚集の目的である。晩年になると、来し方の
人生を悔むこととなる。それは中古品の若者としての哀れな姿でしかない。
晩年の両親の姿を間近で見ていたので、あまりタジロギが少ないが、
甘い世界ではない。それでも、生きていれば老いていく。人は生きてきた
ように老いていく。
  ーあとがきー の文章が、老いについての締めくくりになっている。 
≪ 老いへの不安を覚えている人は、決して幸福な状態にあるとは言えない
 だろう。老いを目前にしているという事実の前にたじろぎ、老人ないしは
 年寄りとしての自分の姿を想像しきれぬまま、自分自身に違和感を覚えつつ
 心許ない日々を送るのは、まことに居心地の悪いことである。老いについて
 語り論じることは、結局のところ幸福について考えを巡らせることと重なって
 くるに違いない。 近頃のわたしは、幸福が二つの文脈から成り立っている
 と実感するようになっている。
* ひとつは日常における安寧とか安定とか平和とか、つまり波風の立たない
 平穏な毎日である。それは往々にして退屈に感じられたり、無価値に映る
 (殊に若者にとっては)。だが大病を患ったり危機的な状況に追い込まれると、
 「当たり前の日常」の有り難さが身に沁みる。ある雑誌に
「人生の意味について」を特集をしている。「人生に意味はあるでしょうか」
 という質問をさまざまな分野で文章を綴っている人々にぶつけ、二十一名
 からの回答を載せているのである。詩人の谷川俊太郎氏の回答の一部を紹介
 すると、「人生にあるのは意味ではなく味わいだと私は思っているのですが、
 言葉で言うとどうも据わりが悪い。禅問答ではありませんが、答えは
「……とでも言うしかありません」となっていて、なるほど味わいという
 言い方があったなあと感心させられた。老いることには、当たり前の日常に
 備わった微妙な味わいを理解できるようになるといった効用があるのでは
 ないかと漠然と考えていた。
* 幸福におけるもうひとつの文脈は、それこそラッキーなこと、嬉しいこと、
 楽しいこと、満足感を得ることーそのような躍動的で高揚感をもたらす事象
 との出会いであろう。こちらは個人差が大きく、ある人にとっては十分に
 喜ばしく感じられる出来事が別な人にはむしろ物足らなさや悔しさを惹起する
 ことなどいくらでもある(たとえば優勝ではなくて二等賞に甘んじたとき)。
 こうしたことも、歳を重ねて肩の力が抜けてくれば、それこそ春の訪れを
 告げる日差しの変化とか、隣人から土産にもらった鯵の干物の美味さとか、
 窓の向こうに見える教会の屋根の赤い色と自宅で飼っている金魚の赤色とが
 まったく同じ赤であったことに今さらながら気付いた軽い驚きであるとか、
 学生時代に読んだ小説を再読してやっとその素晴らしさを悟った喜びとか、
 そういったもので十分に幸福の文脈を形成し得るに違いない。ガッツポーズ
 をしたくなるような晴々しい出来事に遭遇しなくとも、さりげなく幸福の滴
 を感じ取ることができる。 ・・だがどうもわたしの世代に近いほど、歳を
 取っても貧欲というか大人げないというか、若さの尻尾を引きずっていると
 いうか、往生際が悪い。年寄りではなく、中古品の若者や 古ぼけた中年と
 しか見えない。歳を経たがゆえの味わいを楽しめずにいる。
 それがために、不満や不全感ばかりが募る。≫
▼ 老人の殆どが老人性鬱症であり、20人に一人が鬱病患者。
 また80歳を超えると4人に一人が認知症になる厳しい現実がある。
それより、私の年代で、既に4〜5人に一人が亡くなっている。
おうおうに早死した人は、「人生として恵まれてない人」として思われる。
とはいえ、生き残った人に待ち受けているのは煉獄の中のような日々である。
それが必要な人がいる。地獄は娑婆にある。

・・・・・・
2005/07/04
1553, 宇野千代−2
あるHPに彼女の語録が出ていた。
突き抜けた明るさが全ての語録の中に出ている。
もし鬱になりそうになったら、彼女の言葉を何度も読んでみるとよい。
私の場合は、十年以上もトイレに中村天風の本が置いてあるが。
 あるHPにあった彼女の語録をコピーしておきます。

  ー「宇野千代語録」ー 

*信じるということは面白い事である。
人の力ではなく、自分の力を信じる、自分にはこれっぽっちの力しかない、
と思っていたときと、そのこれっぽっちの力を大切にし、
そして、その上にもまた積み重ねて行く力があるかも知れない、
いや、あると思うようになったときとは、違う。
                  (「願望」より)
 ー感想ー
言葉の力こそ、人間のイメージを作りあげる源泉である。
また自分の中の小さな力を見つけ出して、そこに集中することこそ
自分の人生のゲーム化の一歩である。
ーー
* 本当のことを言えば、私の九十六年の人生は決して平坦な道では
 ありませんでした。それどころか、でこぼこの道の連続と言った方が
早いくらいの人生でした。でも、あるとき気がついたのです。
でこぼこがひどければひどいほど、やっと見つけた幸福の味もいっそう
美味になると言うことです。
そして、足をくじきそうになりながらあるいは、くたびれて膝をがくがく
いわせながら歩いたでこぼこ道の思い出のほうが、いつまでも心に残り、
自分を成長させるものだということを知りました。
そう思うと、でこぼこの道も、ちっとも苦ではなくなりました。
                 (「幸福に生きる知恵」より)
ー感想ー こう思えるのに、一生かかったのだろう。
ーー

* 私はいつでも明日から後のことを考えていた。明日は何をしよう、
 と思っていた。考える事が雲霧のように寄せて来る。明日から後の世界では
いろいろなことが出来るような気がする。今の現実から明日の夢想にまで梯子
をかけて見る。私は一段ずつ上がる。いつでも上の方を見て上がる。
下の方を振り返るようなことはあんまりない。
                  (「願望」より)
ー感想ー
過去のことを考えていたほうが楽。
明日から後のことを考えるほうが本来苦痛のはずだが。
そこが彼女の凄いところである。
ーー

* 人間というものは、おかしな、間違ったことをしていても、一心不乱で
 している中に、そこからとんでもない芽が吹いてくることもあるのですね。
                   (「お化粧人生史」より)
ー感想ー
この一心不乱の持続というのが難しい!
ーー
*私は、辛いと思うことがあると、その辛いと思うことの中に、
体ごと飛び込んで行く。まず、飛び込んで行くと、その、辛い、
と思う気持ちの中に、自分の体が馴れて来る。
不思議なことであるが、その、体が馴れてくることで、それほどには、
辛いとは思わなくなる。これが私の生活の術なのであった。
                  (「生きて行く私・下」より)
ー感想ー
正中心一点無という言葉があるが、中心点から目を外さないことだろう。
ーー
*どんなことの中にも、愉しい、と思う要素はあります。
目をみはってその、愉しい、と思う要素を探し出して、
愉しく生きて行きたいものと私は思います。
愉しく思うことは、また隣の人にも伝染して、そこら中が、愉しいことだらけに
なるものです。すると世の中がどんなに暮らし良くなるものか、想像するだけで
嬉しくなります。           (「幸福に生きる知恵」より)
ー感想ー 
愉しいと思えばよいが、なかなか難しい。
愉しんでやれ!と思う習慣をつけてしまえばよいが・・
ーー

*幸福のかけらは、幾つでもある。ただ、それを見つけ出すことが上手な人と、
下手な人がある。
幸福とは、人が生きて行く力のもとになることだ、と私は思っているけれど、
世の中には、幸福になるのが嫌いな人がいる。(「生きて行く私・下」より)
ー感想ー
何気なく使っている普段の言葉による影響に気がついてない人だ。
内なる声はマイナスが多いことに気づいているのだろうか。
ーー

私たちはどの瞬間にも、人の着ているもの、その顔つき、その言葉、
話し方の影響をうける。
今会って来た人の顔つきから、仕合わせな感じ、その反対の感じを受ける。
もし、可能なことであれば、いつのときでも人は決して不仕合わせを
感得させないような顔つき、そういう顔つきでいたいものである。
(「幸福人生」より)

・・・・・・
2007/11/16
2417, よく生きる −2
 ´・ω・)ノはよー          −読書日記ー
   
この数日の間、この4つの問題を私の経験を照らして考えてみた。
自分は本当に「 よく生きてきたのか? 」という自問自答である。
やはり、根本的なところが欠けていたいたようである。
「万人が、そのはず? 気がつくかつかない人もあろうが」
と自己弁解をしながらだが。
 無神論に近いが、やはり最期は「絶対者の元へ帰っていく」
という確信は必要ではなかろうか?
生きてきた過程で現在、こう在らしめている何か=Xを、
神として心の底に置かなければならなかったのでは?という自問自答である。
真面目に、健全に、前向きに生きていれば良いだけだが・・・

  まずは、4つの問題の二つの要点をーはじめにーの中から
  抜粋してみる。
  
  ーはじめにー
旧友のクリトンが「無実の罪なのだから逃亡すべきだ」と脱獄をすすめにきた
時に、語られた言葉です。ソクラテスが言うには、私たちは長いあいだ哲学して
きたが、その哲学の原則は 「もっとも大切にしなければならないことは、
生きることではなくて、善く生きることである」(『クリトン』48B) 
というのではなかったか、と。ただ生きること、なにがなんでも生にしがみ
つくこと、何の理想も意味づけもなしに、動物のように生存欲のままに生き
つづけることが人間の生なのであろうか。
それとも「人間の生」は「人間らしい生」でなければならず、
それが「善く生きる」ということではないのか。

ソクラテスの弟子の端くれと思い込んでいる私は、この小著で、
この問いに正面から取り組みました。
 以下に展開する私の論点は、次の四点です。

(1)幸福とは第一に、自己実現です。
人間はまず、自分自身の力で、やりたいことをやって生きなければなりません。
それが、「人間が自由で自律的な存在者である」ということの基本的な意味です。
それだから、自分で自分を支えられないような人生、他人に命令されるがままの
奴隷的な人生であってはなりません。
幸福とは、道徳的に優れていることを核としながら、各人が素質的に持って
いる優れた能力を、可能な限り十全に発揮することです。人間の存在が根本的
に自分自身の存在の維持拡張である以上、この思想に異議を唱えることは
誰にもできないでしょう。
しかし各人が自己実現に励む社会は、必然的に競争社会になります。
たしかに、人間は競争することによって能力を向上させ、文明を発展させ、
社会を活性化させます。だから、学問的にせよ、経済的にせよ、政治的にせよ、
能力を自由に発揮させ、競争させることが、人類の進歩のためには必要でしょう。
しかし他方、人間には生まれつきのゆえに、あるいは生存条件のゆえに能力上
の差異がありますから、競争社会には.否応なしに勝者と敗老が生れます。
どれほど社会福祉政策を徹底して社会的格差の減少に努めても、能力の差異が
あるいじょう、社会の階層的格差がなくなることはないのです。 そこで、
あらためて、人は何のために生きているのか、を問わなければならなくなります。

(2)私の考えの第二点は、自己実現は人間が生きるための条件であって、
その意味ではないという点にあります。
人の本当の喜びは、実は自己実現のうちにあるのではなくて、
他者との交わりのうちにあるのです。
他者とは自分の自由にできない者、自分のうちに取り込めない者、
自分を否定しうる者、そういう意味で無限に高い者です。そういう他者に
対しては、私は一方的に善意を捧げ、ひたすら仕えることができるだけです。
もし私が他者に命令し、暴力を振るい、服従させて、他者を支配下においた
ならば、そこには、すでに他者は存在せず、肥大化したエゴイズムが置き去りに
されているだけなのです。私がエゴイストとして暴力を振るう時、その瞬間に、
他者は退去します。どこへ。「存在のかなた」へ。それだから、私の善意の奉献
に他者が応答してくれたとき、この応答は想像を絶する喜びをもたらすのです。
なぜなら、私が自由にできない者、私が自分のうちに取り込めない者、私が支配
できない者が、かれの自由の深淵から私に善意を贈ってくれたからなのです。
それは奇蹟です。それが愛であり、交わりです。
愛は、強者が力で獲得するものではなく、弱者が祈りながら待つものなのです。

 ー字数の関係で第三と第四は次回になりますー
他者との邂逅は、決して徒党を組むことではない。
他者が善意の奉献に対して応答してくれた時、かれの自由の深遠から
善意を贈ってくれた時に自己実現の意味がでてくるのである。        
・・・・・・
2007/11/15
2416, よく生きる −1
           ゜+.(ノ*・ω・)ノ*.オハヨオォォ☆゜・:*☆
池田晶子陸田真志との対話集の中で、ソクラテス
{ただ「生きる」のではなく、「善く生きる」べきである。}
という問いが語られていた。 何か解りやすい本がないかと図書館で調べたら、
やはりあった。 哲学者の 岩田靖夫著「よく生きる」−ちくま新書 である。
目を通すと、「はじめに」に、要約が解りやすくあった。
これで充分といえるほど簡潔で、知りたい全てがそこにあった。
 
 それを要約をすると、
1、幸福とは、自己実現することである。
2、その自己実現は目的ではなく、条件であるが、その意味ではない。
  目的は自己実現したレベルでの他者との邂逅である。
3、その中でも、挫折、病気、死などが待ち受けている。
  それを解決できるのは宗教しかない。それぞれの神という
  根源の元に帰るという確信こそ、人の求める究極である。
4、我われは、そういう人々の社会の中で生きている。
 そこでは自由と平等が求められる。その仮想がユートピアだが、
  理想として追求するのが求めるべき人間の姿勢である。
さらに表紙裏の説明文が更に簡潔であった。

  ーまずは表紙裏ー
「よく生きる]これは、時と所を問わず、人間にとって究極の問いである。
人は強くて、同時に弱くなければならない。人は強くなければ自分の存在を
守れない。しかし、それは動物としての生存の維持である。人は弱くなった
とき、他者の心を理解し、他者と真の交わりに入り、存在の根源に帰入する。
それが人の幸せである。古今東西の哲学、宗教、文学を通して、人間の
この真実を明らかにする。
   
  ー次に表紙の下に書いてあった文ー
動物のように生存欲のままに生きっづけることが人間の生なのであろうか。
それとも「人間の生」は「人間らしい生」でなければならず、それが
「善く生きる」ということではないのか。目前に迫った死刑執行という
切迫した時間の中で、ソクラテヌはクリトンを相手に「人間にとっての
この究極の問い」を再度問うのです。
ーーーー
本当に良い本は、「簡潔に簡潔に書こう」という著者の気持ちが伝わる。
簡潔になればなるほど、中心点に近づいていくからである。
真理を追究していれば、その中心に向かっていくしかない。だから、
より簡潔にしていく中で、真理のより深いエネルギーが湧き出て
くるのである。
 「人は強くて、同時に弱くなければならない」という言葉が良い!
・・・・・・       
2007/02/11
2140, 幸福はキラキラと輝く瞬間         
     「藤沢周平に学ぶ」月刊『望星』・編  −読書日記ー                  
  ー人間の成熟にかかわる『人生の充足感』ー
山田洋次監督の映画は「男はつらいよ」の48本すべてと、
その他の映画の最近のものは殆ど観ている。彼が「男はつらいよ
についてのTV特集などで渥美清を語る座談で、多く聞いてきた。
しかし、どういうわけか彼が書いた文章は殆んど読んだことはなかった。

ところが藤沢周平についての評論を24人集めた「藤沢周平に学ぶ」の冒頭の
「藤沢作品を映画化して想うー人間の成熟にかかわる『人生の充足感』」
の評論があった。彼は幾つか藤沢の映画を撮っているだけあって、心打つ
内容である。人生で誰もがキラキラ輝いていたのである。 そのとき! 
  〜まずは、彼の文章の一節から・・
 
  *幸福とはキラキラと輝く瞬間を持つこと!
「隠し剣、鬼の爪」で、主人公の侍が行儀見習いで女中奉公に来ていた
娘にプロポーズするシーンで、その瞬間、彼女はキラキラと輝くような、
生きていてよかったという幸福感で胸が一杯だったはずです。
僕は、幸福とはキラキラ輝く瞬間を持つことだと思う。人生のうちには、
そんなふうに何度かそういう瞬間がある。あるいはあってほしい。

心の芯から温かいものがフワ~と湧き出るような、そういう短い時間が
誰もが持っている。映画「たそがれ清兵衛」でいえば、父親が幼い子どもを
「高い高い」しながら抱き上げる瞬間、子どもの側からすれば、高々と
持ち上げられて、急に視界が高くなったときの嬉しさ、ああ、いま父親に
高く抱き上げられているのだ、という充足感。子どもはその後、大人に
なるにつれて、人と争ったり、世渡りで苦労したりするが、あの瞬間の
充足感は一生忘れない。幸福ということは、つまりそういうことなのでは
ないかと思います。
(感想)
ー私自身、キラキラと輝く時間は数数え切れないほど多かった。
本当にこれで良いのか?と思うほど多かったといえるのが幸せである。
求めたからだろう。ギラギラでなく、キラキラというのが幸せである。
ギラギラは、心に欲とか不純なものが蓄積している状態で、後には不快が残る?
やはり、幸せは両親の愛情をタップリ注がれた基盤が必要条件になる。
二人の愛の結晶が子供である。 愛は二人で維持していかないと・・・

  *感動体験が「良識」をもたらす
 いまの30歳代くらいまでの若い人の特徴は、子ども時代の体験が
あまりに貧しいということではないでしょうか。 団塊の世代までは、
野原や川原で大勢の友達と遊ぶ楽しさを知っています。
汗だらけになって遊び呆けて、日暮れどき、仲間とアバヨと別れ、家路に
つきながら「ああ、楽しかった」という、身体の中が熱くなるほどの満足感。
そこには兄貴分がいて、喧嘩もあって、仲直りもあって、子どもとはいえ、
小さな世界の秩序があった。そうした中で、人は自然を学び、社会の分別を
学んでいたのです。
 生きていくということはなかなかしんどいことですが、やっちゃいけない
ことはやらないという態度は良識だし、やらなくてはならないことはやると
いうのも良識です。その良識を持っているいるかいないかはということは、
その人が、ああ俺は幸福だな、という感覚を肌身にしみて体験しているか
どうかと、深い関係があると思います。

人間というものは厄介な存在で、恋愛問題だけでなく、家庭、地域、職場、
学校など、集団にはトラブルはつきものです。いったんこじれた人間関係は
修復するのは、面倒なことだけれど、相手の立場に立ったり、相手を変えよと
努力したりする中で、自分自身も変わっていくのです。
もつれた糸をほぐすような悩みや工夫のなかで、人は成熟していくのです。
 (感想)
ーこの視点で、人生を振り返ってみると、何が重要だったのか見えてくる。
本当に目を光らせて自然の中で遊びほうけたものだ。
私らの年代は、本当に遊びまわっていた。
それが中学二年あたりから受験勉強を強いられる。
それも、必要である。
感動体験こそ人生を豊かにさせるものである。
感動体験だけは人一倍してきたが・・・まだまだぜったり量が足りない。
 60歳代の人生のテーマは『もっともっと感動を!』か?

  * 価値観の多様化がもたらしたもの
いま私たちの国を支配している価値観は、藤沢さんの考えとまったく逆に
なっています。しみじみとした幸福感などナンセンス、もっともっと大それた
成功を目ざして競争します。人生は勝ったり負けたりかだ。成功して大金持ちに
なったら若くしてプロ野球のおーなーになるんだ、なによりも金、サラ金
どこが悪いんだ、みたいな乱暴な気分が横行しています。
映画『たそがれ清兵衛』で、本家の偉い伯父さんに叱られる場面があります。
「なんだこの貧しい暮らしは、親戚の体裁を考えろ!」これに対して一歩も
引かずに、「たしかに私は貧乏だけど、私はこの貧乏な暮らしをそれほど
惨めだと思っていません」もしいまの人間がそんなことを宣言したら、よほど
無気力ヤツかアフォに思われる若者たちの間に無くなってしまった。
それに代わって高学歴とか高収入とか勝ち組・負け組などという安っぽい
価値観が横行するようになってしまった。

30年ほど前でしょうか、『価値観の多様化』という言葉が流行りました。
その頃から、人間としての誇りとか道徳の感覚が薄れ始めたように思います。
価値観の多様化は聞こえはよいのですが、実は価値観など不要、
もう何でもありの世の中なんだ、というようになってしまったように思えます。
そうすると、よしあしのバロメーターは数値に頼るしかありません。
つまり金に換算できる価値、儲かるか儲からないかというわかりやすさの中で、
消費型の経済は急速に発展し、アメリカ追従の政治が容認され、日本は一つの
方向にぐいぐいと動きはじめる。文化の領域でも辿ったし、映画の世界もそう。
犯罪が増加する不気味な社会になってきて、社会的未成熟という言葉がよく
言われますが、競争一辺倒の安っぽい価値観が支配するなか、バランスとれた
良識を持つ大人の数が少なくなった、ということでしょうか。

ー多様化してよい価値観と、絶対に変わってはならない価値観がある。
そこの見極めのために教養というものがあるのだろう。
特にグローバル化社会といわれる時代に、やはり基礎教養の絶対量が必要。
それにしても、この多様化は現実問題である。
自分の基点としてのアイディンティテーをしっかり把握していないと!
とくに年齢を重ねると、決してプラスだけ出なく、マイナスの谷も深くなる。
 山高ければ、谷深し!というが、それが年齢を重ねる事である。
全く谷ばっかり深くなってしまう!
酒さえ控えれば半分は解消するものを! 全く もう!!