ー「哲学人」ブライアン・マギー著より
  * ー経験の裏側には、常識ではまったく感知できない真理と現実が数多くあるー
 人生の比較的前半で、経験、そして現象の裏側に一般では感知できない真理と現実があることを、垣間見てきたつもり。
 私たちは表側の一部だけの事象を見て判断している。知りえる範囲でしか見えない。旧約聖書の世界の創世の物語は7千~8千年前。
 当時は、そこまでしか想像が出来なかったのである。それも我々が住む地球が球形で、宇宙に無限に近い星があることも分るはずがない。 
 現在の我々は、現象の中にある真実を知ろうともしないで日常を流れている。 その範囲のイメージ内でしか生きるしかないのである。
  以下の部分が、その辺のことを明快に表現している。
【 現代科学によって明らかにされつつあるように、日常の世界における、そのときどきの経験の裏側には、常識ではまったく感知できない
 真理と現実が数多くある。 それはしばしば人を愕然とさせるうえに、直観に反したものであることが少なくなく、真実であると
 わかったところで、とうてい納得できない場合もある。  例を挙げると、
・私たちの周囲にあるどの物体も、分子と原子から成立しており、その原子を構成する素粒子の一部は不規則に運動している。これらは
 すべてエネルギーに変換可能なのだが(あらゆる物体は力に満ちた空間である)、こうしたことは常識的なものの見方とは全く相容れない。
・私たちのまわりの空気は、テレビやラジオの微量の電波など、情報を運ぷ見えない波動に溢れており、
 そのほかにも数々の分析可能の属性を有している、という事実にしても同様である。 
・私たちは巨大な球体の表面で暮らしており、その球が表面上では時速千六百キロで自転していると同時に、空間を驀進しているといった、
 ごく基本的な事柄でさえ、(私としてはどうしても言っておきたいのだが、猛烈に)直観に反しており、真理であるとわかっていても
 見たり触れたりすることはできない。この事実はあまりに常識はずれであるため、これを最初に発表した人々は、いまからほんの
 数百年前のことだというのに、ふざけた空想家か危険な嘘つきとして糾弾され、そんな途方もない嘘を人々が信じたとしたら、
 あらゆる真の宗教と(それゆえ)真の道徳にとって害になると非難されたほどである。
このように、常識は私たちの置かれている状況を適切に解き明かすどころか忠実に説明してくれそうもないということを、
私たちは事実として知っている。さらに、特殊および一般相対性理論によって明らかになったもろもろのことや、量子物理学によって
明らかになったもろもろのことが示しているように、私たちがじかに触れている物理的環境は、近年まで人間には想像もつかなかったほど
奇怪であり、あまりに常識とかけ離れているため、どれだけ聡明な研究者だろうと、こうした問題を理解するのは至難のわざ。
このような状況のなかで常識的な世界観の擁護を試みても、やる前から結果はわかっている。この試みはきわめて想像力を欠いた
アナクロニズムと蒙昧主義にほかならない。それは最も粗悪な時代錯誤なのである。 なるべく失礼にならないよう控えめに述べるなら、
常識的な世界観は思慮の浅い人々の形而上学にはなりうるだろう。ラッセルは、それを「野蛮人の形而上学」と呼んだ。ラッセルの言葉で
私が何よりも頻繁に引用してきたものは、つぎに挙げる『哲学の諸問題』(『哲学入門』社会思想社)の一節の最後の文である。
「……そうなると常識はも、もう役に立たなくなり、私たちは物理的対象の本性について、五里霧中におちいりざるをえない。
そこで物理的対象を正当な理由で心的なものとみなせるとしたら、ただ奇妙に思われるというだけでそういう説を否定することは
正しいはずがない。物理的対象に関する真理は、奇妙であらざるをえない」 】
 ▼ 歳を重ねると、軽くなっていくか、重くなっていくかである。私の知る限り、教養を積んできた人ほど軽くなっていく。 
  生きてきた月日の出来事が所詮は粟粒、チリの様に消え去っていく事象でしかなかったことを知っているからである。
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3450 秘・異郷の旅、よもやま話 -7
2010年09月05日(日)
 * アフリカに魅せられて
 私がアフリカに興味を持ったのは、私の高校時代の友人がケニアのサファリから帰ってきて、
その写真を見せてもらったことに始る。100枚以上の、ライオンや象、ヌー、そしてチーターの写真が数多くあった。
それだけの写真が、その男が実際に写真に撮ってきた事実が受け止められないのである。
そこには、バルーンから動物を撮った写真もあった。 なんで一回のツアーで、これだけ多くの写真が撮れるのだろか?
実際に彼が撮った写真だろうか? 狐に摘まれる感覚であった。 どれもこれも、これまで見たことのない活き活きした
野生動物のエネルギーが写真から溢れ出ていた。丁度、カナダのロッキーに行って、大自然に魅せられたばかり。
なら、アフリカの大地と、野生動物が次のターゲットとして良いだろうと考えた。 
しかし、17〜8年前にケニアのサファリというと、大きな抵抗感がある。
とはいえ、あの写真を見せられた上には、行かない訳にはいかない。そして、初めてケニアのマサイマラの平原にサファリカーで
乗り入れたのである。 平原をしばらく走っていると、遥か彼方に、動物が走っているのが見えてきた。事前知識は全くないので、
期間中にせいぜい数匹のライオンか、シマウマを見れれば儲けもので、テレビで撮影された動物は、普通は見れないものと、
信じきっていた。それが、シマウマが走っているのである。そして、その後は、次々と、ヌー、ガゼルの姿を見ることができるのである。
現地のドライバーが、無線とか、行きあう仲間同士で、何処にライオンの群れがいるとか、チーターがいるかを連絡しあっている。
そして、夕刻に像の20頭位の群れが一列になり寝ぐらに帰っていくのに出くわした。 夕陽の中に、黙々と隊列を組んで進む姿が
何とも絵になっている。そして、翌朝は、早朝サファリである。この時の参加者が4名に添乗員が一人。我われ夫婦に、
40歳ぐらいの中年の男の一人参加が、二人のため、ペースは我われ夫婦になってしまう。 これほど、都合の良いサファリのツアーは
今だかってない。どの場面をとっても、強烈な印象が残っている。 最初のサファリは、誰にとっても、そうらしい。
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075, 父は疲れてしまったのです!
 2009年09月05日(土)
 * 民主308議席の衝撃 ー朝日新聞ーオピニオン高橋源一郎 9月4日
 朝日新聞のオピニオンのコーナーの高橋源一郎の「父は疲れてしまった」の例えが言い得て妙。
  ー概略とは
《 今回の政権交代は、自民党が古いタイプの家父長で、国民がその「妻」、民主党自民党から生まれた「子」
と考えとわかりやすい。 要するに「熟年離婚」なんですね。「妻」である国民は、「夫」の自民党に何度も裏切られても、
なかなか別れることができない。 離婚など出来ないと思い込んでいたからです。「夫」も、浮気をしても喧嘩をしても
「妻」は自分のいうことを聞く、過半数は取れると思い込んでいた。両者とも「離婚」という発想がなかった。
でも、05年の選挙で、投票で政治が変えられると気づいてしまった。それなのに定年に近づいた「夫」がまだ威張っている。
そこで「妻」は離婚届を突きつけた。 一方で自民党も、実は離婚を無意識で望んでいた?。 一種の自殺願望。
小泉が自民をぶっ壊すといい、安部、福田の二代の総理が政権を投げ出した。 もう死にたいという自殺願望である。
半世紀以上も政権にいたことで金属疲労を起こし、当人たちは、もうやめたいと思うようになった。
国民は「戦後」的な関心を失っているのに、自民党だけが旧言語で話している。
彼等はそのことを体感としてわかっていても、あまりにずれていて、自分ではどうしようもない。
「子」である民主党は、自民党から脱皮した形で生まれた政党。だから、いち早く「戦後」から脱皮できたのです。
自民党の大物議員に「小沢チルドレン」の女性をぶつけたのは、「家父長的な老人と若い自立した女性の戦い」
という構図を見せつけたかったからです。 民主党は、この選挙が過去と現在の戦いということを知っていた。
「いま」や「変化」を掲げて、「現在」という時空間に適応したからこそ、大勝できたのです。
自民と民主党は、いわば違う時空間に存在している、だから、「現在」の中での価値の争いとはなりにくい。
恐らく、自民はこのまま自壊していくんじゃないか。 民主党は、自民党という「父」を敵にすることで結束してきた。 
一度「父殺し」が成功してしまえば、兄弟げんかが始まり、分裂しかけない。それをどう防ぐかが大きな課題になる。》
 = 作家とはいえ、全く上手い例えを思いつくもの。ギリシャ神話のオディプスの父殺しを、持ち出すとは。
このように一度、殺されてしまえば、父への思いは何だったのか?、ということになる。
森、安部、福田、山崎拓などの権威が元に戻ることは無い。 「自民党パージ」である。
社会党の残党が隠れ住んでいるが、これらも森、山崎拓と同じ穴の狢。 
一度、分裂した後に再編成のプロセスが必定だが、少し勝ちすぎたのが時期を遅らせてしまう。
 自民党という父は疲れただけでない、殺されてしまったのである。困ったのは、本人たちが解ってないこと。
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2710, 今東光の話題
 2008年09月05日(金)
 以前に、今東光の毒舌の味と凄みについて書いてある本を紹介したが、インターネット上の検索で見つけた
「極道辻説法」の一部抜粋してみる。自分の年齢が、この人物の年齢に近づき、若い人に対する視点が似てきたのに
驚いているが、今東光の足元すら届いていない己との距離も見えてくる。
今の時代が、この馬鹿な質問者よりもレベルが下になっているのか?。
彼が現代の日本に対して曰うとしたら、こんなものだろう!
「この馬鹿野郎!手前ら、ここまで成り下がったのか、エエ〜! アメ公の毒饅頭をまだ食べてんのかよ〜!
ブチ殺すぞ、この野郎。 頭と尻尾から腐るというが、あのパンダのようなキャスター上がりのようなオナゴが
次の首相に立候補だと、何をぬかしあがるか。馬鹿野郎! 面を見な、面構えがなってないじゃねえかよ、わかんねえのか!
程度の低い二代目が続けて首相だと、あいつらに国家が任せるしかない、日本がよ哀れでしか思えね〜よ。たくも〜!
どれもこれも腑抜けた奴ばかりじゃねえかよ、あの中曽根も、まだ生きてやがる!それもしたり顔をしてよう。
今度は、吉田茂の孫かよ、そして何をするかとみたら、またバラマキかよ。なんなもの。
一度な〜、明治維新のことを考えてみなよ。 今の日本の危機は、あんなものじゃねえんだ。解ってんか!」
大体こんなものか。 今度、今東光を私の脳に呼び寄せて娑婆批判をしてみる。「今東光語る」とかいうシリーズで!
    〜〜〜
  ー「極道辻説法」etc よりー
(以下字数の関係で中間カット2009年9月05)
(相談者)「親友はどのようにしたら出来ますか?」
 (回答) 「そういうことを質問するテメエぐらいバカはいねえんだよ。
      なぜテメエがだよ、テメエ自身がいい友達になってやるっていう覚悟をしないんだよ。」
(相談者)「男の生きがいとはなんですか?」
 (回答) 「男の生きがいってもんはな、生きてて満足だっていうのが生きがいだよ。とぼけたこと言ってんだコノヤロウ」
(相談者)「人間はなぜ人を好きになるんですか?」
 (回答) 「じゃあ、なぜ嫌いになるんだい? オレなんかやっぱり人間好きだもんな。
      人間が好きだからこう文学も絵も書けるんで、嫌いだったら出来ないよ。しかし、人間には欠点がある。
      逆にこの欠点があるからこそ愛せるんだよ。欠点がなかったら神様や仏様みたいなもんで、これは彼岸の人だ」
(相談者)「人生とは何ですか?」
 (回答) 「いい言葉を教えてやろう。それは「遊戯三昧(ゆげざんまい)」という言葉だ。
      遊んで遊んで遊び尽くせば何かに突き当たって掴むものがある。何もやらない戯無よりも、
      たとえ失敗しても傷心の方がはるかに貴いものなんだ。空々寂々たる人生なんて糞食らえと思うべし」
(相談者)「仕事が忙しくて友達ができない」という悩みを抱えた22歳の左官
(回答) 「オレはおめえの言うこと聞いてて、もっとも情けなくなるのは、どうしてそんなに友達が欲しいのかっていうことだ。
      友達なんて要りゃあしないよ。自分が立派になりゃあ、向こうが友達になってくれと来るんで、友達なんてものは、
      いくらたくさん持っていたところで、いざとなって役に立つっていったら、一人もいないもんだ。
      友達なんてものはそんなもんでね。バカこくな!  (中略)
      何もつまらん女をひっかけたり、友達作ってストリップを見に行ったりせずとも、ひたすら壁を塗りまくれ!
      金を使うひまがないんならなお結構な話じゃないか。 塗りまくって金を貯めまくりゃあ、
      いくらでもいい嫁をもらえるじゃねえか。  何をぐだぐだ言いやがる。しっかりせえ!
 〜〜〜
(女に嫉妬する男に対して)
(回答)  その女、オレに紹介せい。なかなか面白そうな女じゃないか。
      結婚なんてさせちゃあいかん。てめえもヤキモチ焼くようじゃ、そんないい女とする資格なんかありゃあしねえ(中略)
      糞ったれ野郎!彼女が美しければ美しいほど、ボーイフレンドはいるだろうし、 てめえなんぞはもう脈ねえよ。
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2007年09月05日(水)
 2346.エーゲ 永遠回帰の海ー2
この本を読むまでエーゲ海の周辺に無数の遺跡があることを全く知らなかった。
ギリシャ本土はもとより、エーゲ海に点在する島々に、そして対岸のトルコのアナトリア地方に数知れないほどの遺跡がある。
素晴らしい神殿があっても、その由来が全く解らないために、神殿A,B,C,Dなど記号で呼ばれているものもある。
序章の中で、シチリアのセリヌンテ神殿群を訪れた時のことを、以下のように書いている。「なぜそんなにまでして
遺跡を見て歩いたのかと問われると答えるのは簡単でない。ほんものの遺跡と自分自身で出会った事のない人に
その理由を説明するのは、ほとんど不可能に近い。」
「遺跡=滅びた跡。そこに必ず、繁栄と栄華ののち、その時代の大戦に敗北して破壊され滅亡した都市の歴史が刻まれてる」
「知識としての歴史はフェイクである。学校の教壇で教えられた歴史。
史書の中の歴史。歴史家の説く歴史。記録や資料の中に遺されている歴史。
それらはすべてフェイクである。最も正統な歴史は、記録されざる歴史、
語られざる歴史、後世の人が何も知らない歴史なのではあるまいか。」
「いま自分の前にあるこれらの神殿。これだけの見事な神殿が、これだけ立派に保存されているのに、
この神殿がいかなる神殿であったか、誰も知らないのだ。記録された歴史などというものは、記録されなかった
現実の総体にくらべたら、宇宙の総体と比較した針先ほどに微小なものだろう。
宇宙の大部分が虚無の中に呑みこまれてあるように、歴史の大部分もまた虚無の中に呑みこまれてある。」
「時間は一つの方向に不可逆的に流れるものではない。円環をなしているのだ。
時が円環であるなら、初めもなければ終わりもない。過去は同時に未来で、未来は同時に過去である。
現在は永遠に過ぎ去りゆく一瞬ではなく、永遠そのものである。
現在はすでに過去に無限回くり返されたことがあり、未来においても無限回くり返される。
人はまさにこの現在の一瞬において、過ぎ去りゆく時を生きているのではなく、永遠を生きている。」
人気(ひとけ)のない海岸にある遺跡で、黙ってしばらく海を眺めていると、
これが永遠なのだということが疑問の余地なく見えてくるような気がするという。
他にも、シチリアのセリアンテ神殿群、トルコのペルガモンの大劇場、ディディマのアポロン神殿、
エフェソスの大劇場・アルテミス像、聖山アトス、リキアのサルコファガス、ヒエラポリスのネクロポスなどがある。
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2006年09月05日(火)
 1981, 歩行とダンスー2
「歩行とダンス」というて、テーマで文章を書いて、はや12年も経つ。12年ぶりに引き継いでの文章化も面白い!
と思い立ち書いている。 当時、転勤で大手商社の新潟支店に来ていた大学時代の友人と、この話を酒のツマミにして
酒を飲んだことを思い出す。  その友人が、ダンスをフォーク・ダンスと喩えたのは面白かった。
その後「一人踊りでドアに行くとしたら何だろう?」と誰かにいったら、「鼻歌を歌いながらスキップすることじゃないか」
と答えた。なるほど、そのとおりである。 この話、よく酒のツマミにするが、けっこう受ける。
「ドアはドアでも、どの部屋のドア?まさかベッドルームじゃ、話が落ちるか?」と、言った人もいた。
ダンスの相手も色いろ考えられる。「困難」と考えると面白い。困難を嫌がらず、むしろ踊りの相手として一緒に楽しむ? 
まあ、かなり難しいが、それがゲーム化ということになる。事業の立ち上げも、ダンスの相手と思うとよい。 
人生の全てを賭けてのダンスだからスリルとサスペンスがあり命がけである。人生、ストリッパーの裸踊りのようなもの
と言うと、例えが悪いか? 隠すべきところは隠しておかなくては、色気も面白みも無いところが同じ。
手段の目的化と、目的の手段化、そしてその融合化と言ってしまえば話はつまらなくなる。
たまたま去年の同月同日に『楽しく生きる』というテーマが書いてあった。この文章を引き継ぐのに丁度よいテーマである。
12年前の文章である。
ーー
H0609 歩行とダンス-1
 丸山圭一郎と黒鉄ひろしの対談集で“歩行とダンス”という二人の対話が面白かった。
“ドアにむかって歩いていくのが歩行、これは手段である。ダンスはドアに向かわないし、その行為そのものが目的である。
それではドアに向かってダンスをおどって行く事はありうるか! ありうる!”という。 非常に含蓄のある面白い内容である。
人生、仕事、学問すべてにあてはまる内容である。今回の仕事(第二新館増築)の最中にこれをよみ、
“よしこの仕事とチーク・ダンスをして、ドアまでいってやれ”と、一人笑った。
私の学生時代の大手商社に勤めている友人と、酒をのみながら右の話をした。 
本人いわく “私はさしずめ、それはホーク・ダンスだな!。好きな奴もいやな奴も次々と仕事仲間でまわってくる。
それも楽しそうな顔をしながら手に手をとっておどる妙味!” 当意即妙であった。
ドアに向かっての歩行なら誰でもできるが、それをダンスとしてリズムをとりながらパターンをマスターし、
かつ楽しみまで高めてドアに向かう事となると誰にでもできない。ついついドアを忘れたり、ダンスを忘れてしまう。
ダンスを忘れある年令に達して愚痴を言っている人が何と多い事か。 そしてその反対に逆の人も。
・・・・・・・
2005年09月05日(月)
 1616, 楽しく生きる−1
「楽しく生きる」を、私流に「面白おかしく生きる」というコンセプトにして自分に課してきた。
それも20歳代の頃からである。むしろ「楽しみを見つけだす」という生き方であった。
私の行蔵の中の「楽しい時間」の中には、溢れんばかりの行蔵が詰まっている。
(他人からみたらガラクタだろうが、私にとってお宝である) 楽しいときは、どういうときであろうか。
・自分のしたいことをしているとき  ・何かを期待してワクワクしているとき  ・感動をしているとき
・自分の望んでいたことが実現しているとき ・人に褒めてもらえたとき ・自分の生き方に自信を持ってるとき等々、上げられる。
いずれも肯定的な感情に包まれ、自分の欲求が満たされたときである。一度だけの人生、肯定的な感情で、かつ自分の欲求を
満たさなかったら、人生を浪費していることになる。特に人生の後半は前半ほど単純ではない。多くの過去を背負っているからである。
ならばこそ、その中で「楽しく生きる」喜びも深くなる。 文筆家(哲学者)池田晶子 の「楽しく生きるためにどうすべきか」
という文章がよい。彼女は、哲学することの意味を平易な言葉で語ることに定評がある。
ーまずは、彼女の文章をそのまま書き写してみる。
人生は短い。と、どうしてもやはり思いますよね。 平均寿命は80とは言われますが、歳をとってからできることは
当然若い頃より制限されますし、ましてやその歳まで生きるかどうかの保証はどこにもないわけです。
ひょっとしたら、明日、心臓発作で死ぬかもしれない。縁起でもないと、普通はやはり思いますよね。
しかし、よく考えてみると、いやよく考えるなどしなくても、生きている限り人が死ぬのは当たり前で、この当たり前を
当たり前として認識しているかどうかで、人の人生観は全然違ったものになるようです。
今のここに死はあるからこそ今のここの生はあるのだと思えば、人生は長いとか短いとか言いようもなくなるはずだからです。
 (以下字数の関係でカット2008年9月05日) 
             ーつづく