2008年01月20日
2482, イプセンの「人形の家」
   |* ̄o ̄|お|* ̄O ̄|は|* ̄。 ̄|よ

「考えないのは人形でしかない!」グサリと胸に突き刺さる言葉である。
目の前の相手に、そして信頼している人に、判断を委ねるしかない人は人形でしかない!
これをイプセンが「人形の家」で、言いたかったことである。 人間は何故、考えることから逃げるのだろうか。
それは責任を負いたくないからである。責任を負うということは判断をするため考えなくてはならないのである。
それを放棄した人間は人形でしかない。 

ノルウェーの作家のイプセンの「人形の家」で、主人公のノラは、夫のヘルメルに、次のような言葉を語る。
(この言葉が婦人解放運動の原点になる)ー「あなたはわたしに対して、いつも大変親切にしてくださいました。
でもわたしの家庭はほんの遊戯室にすぎませんでした。
私は実家で父の人形っ子だったように、この家ではあなたの人形妻でした。 
そしてあたしが子供たちのお相手をして遊んでやりますと、みんなが嬉しがるように、
あなたがあたしの相手になって遊んでくささると、あたしも嬉しがったものなのなんです。
これがあたしたちの結婚生活だったんですよ、あなた。」
この言葉の前に、夫に「お前は、この家に来て幸福じゃなかったのか?」と聞かれて、
「ちっとも幸福ではありませんでした」と女主人公のノラは答えます。「ただ面白かっただけです」と言う。ー
誰も自分の頭で考えることは責任を伴うことを知っている。だから、責任から回避するために考えないことを選択するのだ。
それが目先だけを生きる知恵として、自分の首を絞めていることと分かっていても、判断から逃げようとする。
だたただロボットのように同じことを繰返すことに、二十日ネズミのように、輪の中で走ることに全エネルギーを注ぐ。
これが人間の真の姿といってよい。そして、人生の終わりになって初めて己のその無駄な姿に気がつくのである。 

ところで、昔、広田三枝子の「人形の家」という流行歌があった。
なかにし礼が作詞なのだが、考えない馬鹿な女の悲哀を歌ったのである。
大衆は、考えない人間を総称した言葉。だから、こういう歌ができるのだ。
ノラの正反対の生き方、考えない、責任から逃げ回っている人間の。

                   ・ω・】ノ ホナ!
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