2007年01月20日(土)
2118, 品格について −2
               才八∋ウ_〆(∀`●)  
               
 福田和夫著「成熟への名作案内」の 一節で取りあげている次の文がよい。
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英国在住の日本人作家カズオ・イシグロ(石黒一雄)は「日の名残り」の中で、語り手たる執事スティーブンスに
ー偉大さの条件は、品格にあるーと言わせている。
ではその「品格とは何か」という問いに、偉大な執事であった父を想起しながら、以下のように考える場面がある。
  
【品格の有無を決定するものは、みずからの職業的あり方を貫き、それに耐える能力だと言えるのではありますまいか。
 並みの執事は、ほんの少し挑発されただけで職業的あり方を投げ捨て、個人的なあり方に逃げ込みます。
 そのような人にとって執事であることはパントマイムを演じているのと変わりません。ちょっと動揺する。ちょっとつまずく。
 すると、たちまちうわべが剥がれ落ち、中の演技者がむき出しになるのです。偉大な執事が偉大なるゆえんは、みずからの
 職業的あり方に常住し、最後の最後までそこに踏みとどまれることでしょう。
 外部の出来事にはーそれがどれほど意外でも、おそろしくとも、腹立たしくともー動じません。
 偉大な執事は、紳士がスーツを着るように執事職を身にまといます。公衆の面前でそれを脱ぎ捨てるようなことは、
 たとえごろつき相手でも、どんな苦境に陥ったときでも、絶対にしません。
 それを脱ぐのは、自ら脱ごうと思ったとき以外にはなく、それは自分が完全に一人のときに限られます。
 まさに『品格』の問題なのです。】
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これは品格と同時に、プロフェッショナルの問題でもある。
一流のプロは品格を伴うのは、行きつくところが同じということである。
一流は、役割を知りつくしているから、役割から一歩も出るはずがない。
どんなプロ選手でもプレーヤーとして洗練されて初めて品格が出来てくる。
成績が一流になればこそ、品格と実績からくる自信が相まって風格ができる。

仮面もそれが一流にものであれば、仮面を被りつつけた本人も一流になる。
いや仮面が仮面でなくなり、本当の顔になってしまう。能の世界に入りこむと、演じ手の自分と役と
解らなくなることがあるという。 そこに人間としての円熟味が加わった時、上品になる。
その時に個人のブランドが出来るのである。名優は、何を演じても個人の個性が現れる。
その個性が、その役を演じているのではなく、風格が役を演じているという感覚になる。
その役より本人そのものの味ー品格が勝り、そこに不自然さが残らないのである。これを上品(じょうほん)という。
                      b(^o^)ノ バイ!
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