2006年12月20日(水)
2087, 経験についての一考察 −2
        b(^o^)dおっ W(^O^)Wはようー♪
 
10日ほど前に、「経験」について書いたが、さらに考えをすすめてみよう。
    
  歳を重ねるとは経験を重ねることであり、それが成熟することであり、
  良い人生経験を重ねることが熟年として豊かな心で最後の光となる・云々と前回書いた。
  しかし経験がマイナスの部分から自分の心を苛むことも多くなった。    
  福田和也の「成熟への名作案内」(PHP)に以下のような一節があったが、
  自分の心の影の部分をそのまま言い当てている。

ードイツの哲学者ヘーゲルは、経験を「自分の真実を失うこと」だと書いている。
自分の真実を失う、つまりこれが自分なのだ、自分はこういう人間であり、
そのように認識され規定を試みた人間として、この世の中を見ているんだという、
自信というよりも、自認と足場が崩壊し、自己が自己として、自分に対して
持っていた信頼感なり当てにする気持ちが胡散霧消してしまうこと、それが経験なのだ。
それは自分というのは、良くも悪くも、この程度の人間、がんばっても、しくじっても、この範囲の人間であり、
どんな窮地におかれても、最低の品位を崩すことはない、というような自信が、具体的な行動の中で失われる、
あるいは変わるということ。 それが、経験だと、ヘーゲルは言っている。
だとすれば、成熟とは、何よりも自分が自分であるということを失い、自分から任じていたような、
立派な人間ではなければ、尊ぶべき個性も独自性も、勇気も持っていないということを知り、
その崩壊のあとになお、自分の姿を見つめて生きていこうと努力することが、成熟をするということに他ならない。
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  以上であるが、私の現在の心情はとりもなおさずほぼ同じである。
  これが「熟年という心象風景」かと、毎日のように内省する日々である。
  経験を重ねるということは深い悩みが色濃く蓄積していくことでもある。
  ひとり、心の奥の高みにいて、すべてを見下していた自分が、「薄汚れた軽薄な馬鹿な男」と気がついたときの衝撃。
  そのとき、中原中也の詩「汚れてしまった悲しみに 今日も・・」の悲しみが深く心に響いてくる。
  挫折という「心の背骨」の骨折で逃げおおせなくなったとき、見下していた周囲を見上げたときに初めて気づく真実の光景。
  そのとき、自分の価値観が根底から変化する。  この繰り返しの中で、人間の成熟が初めてもたらされる。    
  熟年は、深く心の憂いが霧になって取り囲んでくる。  その中で独り飲むコーヒーの味も良いが!
                (⌒▽⌒)/"”さいなら!
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