つれづれに

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 昨日、雪下ろしの雷が鳴り響いたが、その一週間後に、
積雪があるのが通年である。どうなるか? 今年は暖冬というが…
昨日も午前中の晴間に、自転車で信濃川に向かったが、川西から
雨雲がたちこめてきたため、帰ってきた。その一時間後に一時、
豪雨が降った。 その足で、スポーツジムに行き、一時間あまり
歩いたり、エアロの参加して帰ってきた。冬は小まめの運動を
重ねるしかない。






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2015年12月20日(日)
          『自分史の書き方』立花 隆(著)
   * 長く文章を書き続ける最大のコツ
 15年近く書き続けてきて、やっと話すように書けるようになってきた。
会話、対話で、複数の相手をする時、ダラダラした内容では、気持ちを
逸らすことになる。要点を簡潔に伝えるには、詰まったら、内容を変える
しかない。書くことも同じで「少し強引でも、段落を変えろ」ということ。
滅入ったとき、居間から書斎か寝室に居場所を変えたり、TVのチャネルを
変えたり、外出をしたり、ちょっと知恵を使えばよい。これも生活の中の
段落を付ける事と同じ。 自然に身についてはいたのだろうが、文章の段落
を意識的に強引に変えることはしてなかった。
  ~その辺りから~
≪ 人に読ませる文章をこれまでまったく書いたことのない人がしばしば
おちいる誤りは、文章をどこで区切ったらいいのかわからないので、
とにかく【いつまでもダラダラしまりがない文章を書いてしまうという失敗】
である。その解決は意外と簡単で、とにかくいま書いている文章の途中でも
いいから「。」を付けて、強引にその文章を終わりにしてしまうことである。
 次に、過去の文章は忘れて、前の文章が中途半端のままでもかまわないから、
次の行の頭を一段下げて、なんでもいいから別の文章をはじめてしまうこと。
頭を一字下げた形で新しい文章をはじめることを「段落を付ける」という。
 文章というのは不思議なもので、《段落さえ付いていれば、読む人の頭が
自動的に切り替わって突然まったく新しい文章がそこからはじまってもその
ことをなんの不思議もなく受け入れてくれる。》これは日本語の世界の大昔
からの約束事だから、誰も変と思わず、段落さえあれば、段落でどんなに続き
が悪い文章になっても、みんなつきあってくれる。
 文章を書きなれた人と、書きなれていない人の最大のちがいは、
この段落の使い方にあるのではないだろうか。書きなれた人は、なんでもなく
段落を使いこなして、長い文章をスラスラと書いていく。途中でつまったら
また新しい段落を立てて、新しい文章を書き起こすだけで、なんの苦もなく
文章を書き続けることができる。文章が続かないことで悩む人は、例外なく
文章を書きなれていない人手或る。《文章なんてものは、しょっちゅう続か
なくなるのが当たり前で、続かなくなったら新しい段落を立てて新しいことを
書きはじめればいいんだ》と、頭の切り替えができる人がいい文章を書ける人。
 文章を書きなれた人は、こんなことをわざわざ教えなくても、そのとおりの
ことがスラスラできるが、書きなれていない人は、それができなくていつ
までも四苦八苦する。≫
▼ 私の経験からコツは、『初めから理路整然と書けない。好い加減でも、
 とにかく強引に書いて、後は添削すればよい!』がある。その強引さが、
段落をつける時に、その場で書換えを促す働きを生む。それが考えを纏める
ことになる。ここでいう、長い文章とは、短文を、筋道にしたがって、
段落を付けて、書き加えることをいう。これが出来るに、私は長い道のりが
かかった。 心底で薄々、気づいているが、誰もが自覚できない、目を逸らす
秘密、「自分は、あまり頭の良い人間でない!」という実感こそが、15年間、
書き続けてきた収穫である。 それもこれも、どうでもよいことだが・・

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4661,閑話小題 ー銀行ゴミ箱論
2013年12月20日(金)
  ーつれづれにー
* 自宅近くの長岡駅裏から東バイパスまでの大通り拡張工事が40年以上もかけ、
 そろそろ完成間近になってきた。その絡みの開発の一かんで比較的大きいSCが
完成して数年、近くの十数反の田圃が宅地の造成工事に入り、マンション数棟が
建ち始めてきた。そして近くの古い家が次つぎと壊され、新築住宅が目立ってきた。
自宅が、駅裏から徒歩10分の、ここに引っ越してきて50年になる。100M先
には十数年前に小型SCも出来て、500M先にも中型のSCと、非常に良い
住宅環境である。年齢を考えると、そろそろ小さな家かマンションに引っ越す
ことを考えなければならないが、あまりに居心地がよい。
* 「モノよりコト」を心がけ、物質的に高価のものは買わない方針だったので、
物理的には軽装備である。残ったものは、ほぼゴミとして処理してもよい物ばかり。
事業用不動産の購入や、箱物づくりはしてきたが、趣味的な高価のものを買った
記憶がほぼない。あの世に持っていけるのは「こと」だけ。それでもゴミが多い。
* 何度か書いたが、「何もする必要がない、敢えて何もすることがないのは、
何と気楽なことよ」を、日々実感している。今年の一年を一字の漢字で表現する
としたら『悠』。心身ともに、ひたすら自然の流れに身を委ねる経験は、初めて。
 40数年も、何をあくせくしてきたのだろうか。それでも時間だけは、装置事業
だったこともあり十二分にあった。そのため、フリーになっても身の処し方が
比較的余裕が持てている。 
* ミニ加湿器をネットで送料込1380円で購入したが、これが良い。
アロマの香りのする小さな湯気が、パソコンの横で香りと共に吹き上るのは、
何とも心が和む。冬で乾燥していることもあるが、これが有るなしでは大きな
違い。そこで、今度は居間で中型の加湿器が欲しくなるのが人情。
* 銀行のゴミ箱論は面白い。特に首都圏以外の地銀以下の銀行は、不良債権
抱えている?デフレから10数年で、地方は6割まで経済力が落ち、隠れた不良債権
が山積みの筈だが、表だたない。いや、だてない。そこで、受け皿会社を探し出し、
融資付きで流し、そこだけミニバブルが発生、珍妙な現象になる。地銀や信金には、
不良債権と、米国債社債などの不良債権の山。これはゴミ。とすると、ゴミ箱
のたとえはマトを得てることになる。ご隠居になればこそ、言えることだが。
行員からすれば、「何を今さら!」だろう。

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3181、インコの話
2009年12月20日(日)

 私はペット好きだが、家内は大嫌い人間。 子供の頃から家には犬か猫、はたまた猿が家に同居していた。
猿は二代にわたり4年位はいた。結婚してから10年後に、互いに妥協?をして小桜インコを5代にわたり
飼っていた。しかし子供二人が大学に行ってしまい、誰も居なくなってからは飼わなくなってしまった。 
それと最後のインコを寒さで死なせた罪悪感から飼うのを止めたのこともある。ところが三ヶ月ほど前に、
スーパーセンターの「ムサシ」のペット売り場で中型インコの「メキシコ・コガネインコ」を衝動買いを
して飼っている。 生後半年で、人に懐いている。近くに引っ越していった長男が、このインコを飼って
から必ず家に立ち寄り、世話をするようになった。本人に特に懐いていて、家内が言うには長男の車の音を
聞き分けるという。 ここまで人に懐くと情がうつるもの。 
 買った時、そのインコを送り出す女店員二人が、車まで籠にいれたインコをキャリアカーで持ってきて
くれたが、何か寂しそうな顔をしていたのが印象的であった。「凄く人に懐いていて、寂しがりや。外に
でたがるので、籠の蓋を開けても外にでない臆病なところもある。三ヶ月も皆で可愛がっていたので、
愛情がタップリあるので、可愛がって下さい」という。それを直感したので、私も買ったのだが。 
二ヶ月前に、犬の半値セールのチラシが入っていて、面白そうなので立ち寄った時に見かけたインコ。 
その後、そのインコがまだいるか気になって再び行ったが、売れずに居たのである。 
インコにしては値段が高いからである。 小桜インコの数倍は人に懐く性格で、頭を撫ぜると親から
毛繕いをしてもらっているような顔をする。 一度、冬越えをすれば、寒さにも慣れるという。
それにしても四六時中、独り遊びをしているのには感心する。「動物は露出した魂そのもの」というが、
成るほどである。 家内も以前ほどケギライをしなくなった。
 
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2816, 不況景色 -5
2008年12月20日(土)
貸し剥がしが、全国で吹き荒れ、そして大量倒産が

一昨夜のNHKの「クローズアップ現代」は30分の枠を1時間15分に延期した厳しいものだった。
その中での中小企業への銀行の貸し剥がしを具体的にレポートしていた。
一般的には、銀行借り入れは短期と長期の組み合わせになっている。短期は、半年とか1年で借り換え
をするが、まずは、急激に悪化した企業には、借り換え時期の貸し出しを断る。銀行の立場からすれば
当たり前だが、物件持込など銀行が持ち込んだ投資案件など、銀行に梯子を外されるケースも多い。
長期も計画通り返済できない時に、返せなかった部分を銀行が追い貸しをしながら企業の回復を待つ
ケースが多い。ところが、今回の金融恐慌で、銀行も企業も体力が消耗して上に、日本中は貸し剥がし
露骨に行われているという。レポートは、黒字を長年続けている企業に突然、借り換え時に返済を要求
してきたケースであった。その経営者は、何で突然返済を迫られたか呆然としていた。
当社のコンサルティングをしてもらっている、H氏が先日の酒席で、「銀行の貸し剥がしについて、
どう定義づけますか?」と問われた。深く意味を考えたことがないので、その時に思いのまま答えたことは、
「資金の切迫している弱みに付け込んで強引に資金回収すること」あるいは「自社の都合で、借り換え時に
資金を回収すること」と答えた。
H氏曰く、「償却後に利益を出している会社から一方的に資金回収すること」 成るほど思ったが、
「それがホテルや製造業などの設備装置産業にいえることでは」と問い返した。
飲食業など、三年~五年が目安のところもあるからだ。 それに対して、「いや同じだと思う」という。
そういえば、今回の金融恐慌に対して、当社の数年先の最悪の売り上げダウンの場合の一つの目安が、
設備の償却後の利益確保を基にしている。 審査の厳しい銀行も、初めにそこをみる。9・11のテロ
以来、4年間ジワジワと売り上げがダウンした時に、それをネタに大手銀行に揺さぶられたことがある。
H氏は『償却後に、これだけ利益を出しているだけで、何を言っているのか。その支店長のパフォーマンス。
動じることは全くない』と終始一貫していた。ゆすぶられた時の売り上げが底で、その直後に回復基調に
なったので、それ以上の揺さぶりはなかったが・・。 それにしても、今考えてみても明らかにオカシイ
動きだった。同時期、全国で同じような異様な動きをして大問題になり、その後、大人しくなった。 
それからみて今度の落ち込みがどれ位になるか、考えただけでも末恐ろしい。貸し剥がしは、これから
数年間は続くだろう。銀行そのものも一つ間違えば、不良債権の山になり倒産になりかねない。ところで、
いま一度実感としての貸しはがしとは? 「貸出先の危険を他の金融機関に一歩先に取り立てる銀行の
立場を守る行為」? まずは第一波が、来年の1月05日である。年末に資金繰りの出来なかった企業の
倒産が続出。次が2月初旬。そして3波が4月初旬で、次からは毎月の初旬で、来年は恐慌パニックの年に?。 
恐ろしいことだ。5年後に駅前再開発の道路拡張で、1つホテルが収容され、それが返済財源にプラス
されるから大丈夫だが、それでも何が起きるか分からない。5年以内に半数近くの事業所が消滅するだろう。
 過去5年で三割以上が消滅したというから、何も極論でない。(新しいのが出来ているので目立たないが)
*追記(12月21日)Hさんから、早速メールが入り、「償却前の利益」の勘違いという。
前と後の一言で、大違いである。もし、これがマスコミで知れわたったっら、多くの中小企業は助かるはず。
 
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2007年12月20日(木)
2451, 今日を楽しむための100の言葉
 『今日を楽しむための100の言葉』伊藤守著 ディスカバー21
「自分自身の素晴らしさに気づく」ことをテーマとするiBDセミナーを
15年間主催してきた著者が、今まで語ってきた中から100の短い言葉を選び出してある。
若い人はそのまま受け止めればよいが、この歳のためか、その正反対の言葉が出てしまう。
それでは、せっかくの言葉が台無しになるので、書くことは控える。 特に若い人に良い言葉だろう! 
 ーーーー
 『辛いだなんて、格好つけるな。』
 ー
『嘘がいけないのではない。 問題は、自分がどんな嘘をついているか、知らないこと。』
*嬉しくもないのに嬉しいと言ってしまったり、だいじょうぶじゃないのにだいじょうぶな振りをしたり。
 わたしたちは、たくさん嘘をついている。そして、そのことに気がついていない。まるで、失神したまま
生きているようだ。
  ー
『やりたいことはやっている。やらなかったことは、やりたくなかったこと。」
*やっていないことを反省するより、いろんなことをたくさんやった方がいい。
 周りの人がどう思うか、そんなことはどうでもいいから。
 ー
『可能性は、いつもあなたの外にある。したことないこと、やってごらん。』
 ー
『気球が上がっていくときは、最初に砂袋を捨てるんです。
 いくらヘリウムガスを入れようと、それより重い砂袋をもっていては上がらない。
 いまもっているものを何ひとつ捨てることなく、気持ちだけ軽くなろうだなんて、ちょっとむずかしい。
 ー 
『あぶなくなったら、トカゲは尻尾を切る。タヌキは死んだ振りをする。ヒトは、感じない振りをする。』
 -
『誰かがあなたを好きなのはあなたが優しいからじゃない。あなたがあなただから。』
 ー
『うまくいってる人は うまくいくパターンを使ってる。
 上手いってない人は 上手いかないパターンを使ってる。それだけのこと。」
 ー
『楽しくない人生は、基本的に意味が無い。」
*毎日ご機嫌で暮らしている人の前では、業績とか財産とか、
 これまで自分がすがってきたものが、本当に色あせて感じられるものです。
 ー
『私たちは誰かのために生まれてきたんじゃない』
*それなのにどうして他人の評価で自分の価値を計ろうとする習慣から 抜け出さないのだろう
 ー
『目標をひとつに決める勇気を持ちなさい』
*私たちが目標を持てないのは、目標を決めてしまったら、
 それ以外のものが手に入らなくなってしまうのではないかと恐れているから。
 何かひとつでも、本当に達成できたらすべてが手に入るというのに。
 完全になったから人に認められるわけではない完全になったから人に愛されるわけではない
 ー
『いちばん問題なのは、問題なんかないという状態に逃げ込んだ人。』
 ー
『人間はそう簡単に変われるものじゃないって?そう思っている人は,確かに変わらないと思うよ。』
 ー
『天に星が輝いていても、あなたが見上げなければ、ないに等しい
あなたが自分自身に目を向けなければ、あなたの価値もないに等しい』
 ー
『ほかの誰かになろうとしない ほかの誰かにならないようにしない』
ーーーーー
以上だが、やはり素直に受け止めた方が良い言葉である。
考えること、考え続けること、それが最も大事なことである。
そのためには独りになる時間を持つこと、問題から逃げないことである。      
今日を楽しむといったら、任せておけ!と言いたいところだが・・・
殆ど、私にとって当たり前のこと?でしかない?? いや、違うか??微妙なところだ!
                  (*^-^)ノ バアイ
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2006年12月20日(水)
2087, 経験についての一考察 -2
        b(^o^)dおっ W(^O^)Wはようー♪
10日ほど前に、「経験」について書いたが、さらに考えをすすめてみよう。歳を重ねるとは経験を重ねる
ことであり、それが成熟することであり、良い人生経験を重ねることが熟年として豊かな心で最後の光と
なる、云々と前回書いた。経験がマイナスの部分から自分の心を苛むことも多くなった。福田和也
「成熟への名作案内」(PHP)に以下のような一節があったが、自分の心の影の部分をそのまま言い当てる。
ードイツの哲学者ヘーゲルは、経験を「自分の真実を失うこと」だと書いている。
自分の真実を失う、つまりこれが自分なのだ、自分はこういう人間であり、そのように認識され規定を試みた
人間として、この世の中を見ているんだという、自信というよりも、自認と足場が崩壊し、自己が自己として、
自分に対して持っていた信頼感なり当てにする気持ちが胡散霧消してしまうこと、それが経験なのだ。
それは自分というのは、良くも悪くも、この程度の人間、がんばっても、しくじっても、この範囲の人間、
どんな窮地におかれても、最低の品位を崩すことはない、というような自信が、具体的な行動の中で失われる、
あるいは変わるということ。 それが、経験だと、ヘーゲルは言っている。
だとすれば、成熟とは、何よりも自分が自分であるということを失い、自分から任じていたような、
立派な人間ではなければ、尊ぶべき個性も独自性も、勇気も持っていないということを知り、その崩壊の
あとになお、自分の姿を見つめて生きていこうと努力することが、成熟をするということに他ならない。
ーー
以上であるが、私の現在の心情はとりもなおさずほぼ同じである。
これが「熟年という心象風景」かと、毎日のように内省する日々である。
経験を重ねるということは深い悩みが色濃く蓄積していくことでもある。ひとり、心の奥の高みにいて、
すべてを見下していた自分が、「薄汚れた軽薄な馬鹿な男」と気がついたときの衝撃。そのとき、中原中也
の詩「汚れてしまった悲しみに 今日も・・」の悲しみが深く心に響いてくる。挫折という「心の背骨」の
骨折で逃げおおせなくなったとき、見下していた周囲を見上げたときに初めて気づく真実の光景。
そのとき、自分の価値観が根底から変化する。  この繰り返しの中で、人間の成熟が初めてもたらされる。    
熟年は、深く心の憂いが霧になって取り囲んでくる。  その中で独り飲むコーヒーの味も良いが!
                (⌒▽⌒)/"”さいなら!
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2005年12月20日(火)
1722, 時代を読み解く「三つの言葉」
             才八∋_φ(・ω・`)゜+.
文藝春秋の今月号の<新年特別企画> の特集が面白い。
 この数年は、殆んど月刊誌と週刊誌を買わなくなった。
  図書館で立ち読みをする程度だが、文芸春秋の新年号の新聞広告をみて
   思わず買って読んだが、それぞれなかなか含蓄がある。
各界リーダー32人が選ぶ時代を読み解く三つのキーワーであるが、それぞれの人の文章が短いが鋭い。
 その一部を抜粋する
 (字数の関係でカット 09年12月20日
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 2004年12月20日(月)
1357, 23歳の日記ー7
 1969年 7月17日 神戸・垂水にて
この会社で、もう何人から誘われたが、女の職場は厳しい。
一人に振り向けば、その人以外は全てに無視されるのが女性の職場である。
地方のせいか、心の綺麗な純粋な人が多い。また、声をかけてくる人は自分に自信がある人だ。
目的がなければ何人かが合格で?、毎日が楽しい日々だろう。
それでは何故ここまで来たのか、意味がなくなる。それと、学生時代の女友達と比較してしまう。
妥協できない。武澤先生のいう、学生時代に相手を見つけておくのが一番良い相手に出会う確率が高い、
というのがわかる。 ただ、決めてしまっていれば、今のような気持ちでなれない。
ーーーー
7月18日
今日、堀田君と女性に関してお互いに誓う
『女性に関して、お互いに流されないようにチェックしてコントロールする。』
早く妥協してしまいそうだからだ。彼も、動揺するような誘いが多いようだ。
全くもう、こんな異様な状況で神戸の元町のような場所に誘われて・・ 自分が自制できなくなる。
荷物は持たないことだ。持ってしまってからではお終いである。 それにしても、神戸も綺麗な
あかぬけた明るい女性の多い。若い女性の中は、地方の特徴がそのまま出ている。
ーーーーー
8月9日
意のむくまま、文章を書いてみよう。9月になったら、1~5日まで休暇をもらうことにしよう。
最も効率的にすごす為には、学生時代に卒論を書く為に籠った
新潟の六日町の雲屯庵に行くことにした。そこで自分を見直してみるのもよいだろう。
自分を冷静な状態にしておかないと、大きな落とし穴にはまり込んでしまう。自分の目的が何だか
解らなくなってしまう。こう文章を書いていても、この境遇から何も見えなくなりつつある。
同室に堀田君という同期がいるから、気持の中で支えがあるが。あまりにも4ヶ月は変化が激しいし、
刺激が強すぎる。自分を支える為にも、違う視点を持つ為に。

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2004年12月20日
ー感想記
文章に残すということは、良いのか悪いのか。
読めば読むほど記憶としての糸口になるが、反省・悔悟の思いがでてくる。
35年前の反省をしても仕方がないだろうに。恐らく死期を悟った時、昔のことが走馬灯の思い出され、
反省と悔悟と、反面喜びなどの、多くの思いが重く軽く、嵐のように吹き荒れるのだろう。真面目な、
世間知らずの?男が、高度成長期の時代背景の中で、あせっている姿がそのまま文章に出ている。
当時の心の傷が、そのまま今も残っている。 心のままに書き残すことも大事なことだ。
それにしても、やはり異常な状況での体験であった。 20~40歳代は、誰もがこんなものか?
それとも、やはり? 人生は面白い!

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2003年12月20日(土)
 990, 軽井沢の思い出ー2
軽井沢駅から少し歩いたところに「離山」という小さな山がある。麓から頂上まで一時間もしないうちに
登れる山で独りで何回か登った。その頂上から見る風情は何ともいえない趣があった。また別荘地の散策も
面白い。歩いているだけで豊かな気持ちになれるのだ。 別荘と、そこの表札を見ているだけでも面白い。
有名人や大手の会社の名前で占められているのだ。それと一歩、別荘地に入ると殆ど人気が無いのもよい。
一時期、都内の若い女性の間で「5千円族」というのが流行ったことがあった。 その金額で休日、軽井沢
の日帰りコースとして丁度手軽だからだ。別荘地を散策して、軽井沢銀座のウインドウショッピングをして、
軽く食事をして5千円で済ます。早朝、街を歩いていると小奇麗な喫茶店が開いていて何げなく飲んだ
コーヒーが絶品だったことを思い出した。いま考えいてみると、何処の湧き水と最高級のコーヒー豆を
使用していたのだろう。また「万平ホテル」もレトロ調で軽井沢にピッタリの雰囲気。そこのレストランが
美味しい。ところで私の新婚旅行は軽井沢であった。丁度30年前のことである。

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2002年12月20日(金)
 616,パタゴニア旅行記-3
パタゴニアの印象といえば、氷河の他に遠くに広がる原野とアンデス山脈である。アルゼンチンからペルー
への移動で見た左右の視界が270?もあるアンデス山脈のパノラマが素晴らしい。数千メートルの山頂なら
幾らでもあろうが、少し小高い平地で三百キロに近い景色が見えるのは想像を絶していた。
アフリカで数十キロの視界の景色を見たときの驚きを今もはっきり憶えているが、それがなんと数百キロの
視界の景色を目の当たりに見たのだ。 世界は驚異に満ちていると実感した瞬間であった。秘境系の旅行は
こういうチャンスに満ちているのがよい。世界の果てのマゼラン海峡や世界の果ての町ウシュアイア。
そこから船に乗り、ビーグル水道に埋めつくすアザラシやペンギンの群れをまじかに見たのも鮮烈な記憶に
残っている。人口十万のこの町で見た夕日の美しさも忘れられない思い出だ。 大型の野良犬があちこちに
屯していたのが印象的だ。厳しく貧しく派手さはないが、ある豊かさを感じ取った。ほとんど時代の変化に
翻弄されることなく地道に生きてきた逞しさからくるものであろう。ペルーでは殆ど見ることなかった
コンドルが多く見ることができたのも今回の印象であった。小さいテーブルマウンテンに似ている山の岩壁に
巣が多く作られていた。ペルーで見たリャマの一種の野生のグアナコが身近に多く見れた。それとダチョウ
にそっくりの野生のニャンドウも印象的であった。両者とも捕獲が禁止されている為に多く繁殖した。
その土地の景色にピッタリの動物が棲んでいるのも自然のなせる業だろう。

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2001年12月20日(木)
 275、後回しー我が内なる無能性
後回しにして忘れ失敗した事を、誰もが数知れず経験しているはずだ。後回しは半分以上やらないことだ。
言葉の遊びになると思うが、「さき回し」もあるはずだ。準備はそれに似ている。
夢を持つことは、一種のさき回しになる。準備はものごとを上手くやる最大の秘訣である。
成功の功はネルという意味だ。練り上げ成すことが、成功という。準備・計画の練り上げが最も大切だ。
計画の練り上げ内容でほぼ決まってしまう。実行プロセスはあくまで、その手順レベルでしかない。
後回しはそのレベルと全く違う。ABC分析のCの後回しならわかる。 それ全て含めて後に回す。
無知無能の習慣パターンだ。わかっている、それが致命傷のなることを。
そして今までそれで致命傷に近い失敗をした。それでも後回しにしようとする。
今の日本の姿そのものがこれだ。ここにきても更に改革を後回しにしよう
のたうち回っている。戦後社会主義ー官僚体制主義から抜けきれずに。
決断の後回し、いや決定の後回しといっていい。後で後で後で人生終わってしまう!
「全て定年後といって内の亭主何にもしないの!」と家内の知人が言っていると
いう話を聞いたことがある。それの究極だ。ブラックジョークにもならない。