2006年11月24日(金)
2061, 虐めについて
         (+>∀<+)ノ  おぁはは〜ようさん!

‘虐め問題’の解決などあるはずがない、家庭内の不和が原因にあるからである。
自分にかかった血を学校の弱者に塗りつけるのが虐める方の理由である。
情報化により弱肉強食社会の傾向が強くなればなるほど、家庭内へストレスが持ち込まれざるを得ない。
下流社会化の傾向の中で、そのストレスの捌け口が弱者に向かうのも当然である。
振り返ってみれば、小学校、中学校で酷い虐めがあった。
虐めっ子は家庭内が壊れていたためか、その後の人生をみると不遇の人が多い。
逆に虐められていた方が、まともになっている方が多いのは面白い現象だ。
ただ潰されないことが前提だが。こういう時代になったら、「ギブアップ・システム」をつくり、
虐められっ子の転校をしやすい環境をつくってやることも必要だ。

  数年前のことだが、中学校時代に殺してやりたいほど憎んだ男が、40数年ぶりの同窓会で隣の席に座った。
  隣に座るまで「殺してやりたいほどの憎しみ」を忘れていたから、大したことはなかったのだろうが・・・
  酔った勢いで、「お前は中学校時代に理不尽なことで頭を殴っただろう。
  小中学校時代で殺してやりたいほどの男の7人のうちの一人だ」と言ったところ、
  「あの当時、両親の不和で自分でも大荒れで、誰見境なく喧嘩をうっていた。
  野球部でも、俺がいたため何人も辞めていってしまった。 ところで7人のうちの何番目?」とのこと。  
  {三番目!」他のクラスだったが、そのネジレの酷さは私の耳にも入ってきた。
  今さら指摘されることもないという風であった。

集団社会に住んでいれば、何処でも相性の合わない人が一人や二人はいるもの。
四苦八苦の中にも「怨み憎む人と出会う苦しみ(怨憎会苦)」があり、娑婆にいる限り避けて通ることはできない。
だから、小中学校時の虐めも、娑婆ー社会に出たときの火の出るような虐めに対する予行演習でもあるといえるが・・・ 
袋叩きにしたいのあまりにも多い。 誰も加害者であり、被害者でもあるのが娑婆である。
  でも人生は、嫌なことの数百倍、よいことがある。探し求めればだが!
   −−
朝日新聞の一面に〈いじめられている君へ〉「すばらしい瞬間必ず来る」が連載されている、なかなかよい。
 短い人生論のようでもある。 その一つをコピーしておこう。
 
 ーあさのあつこ さん 2006年11月14日ー
 
「おれはおまえの文章が好きだ。才能があるぞ」。中学校のとき、先生は私の作文をそんなふうにほめてくれました。
作文の内容は忘れましたが、先生の言葉の内容だけはよく覚えています。 何となく「もの書き」になりたいと
思っていた私は、「夢を捨てなくていいんだ」と、自信を持つことができました。
そのころの私は、勉強も運動も真ん中の下くらい。「ほかの人とちがう人でありたい」と考えているのに、
「ちがいを出すにはどうすればいいの」と迷っていました。「あまりちがいすぎてもこわいな」と思っていて、
「だれか答えを教えて」という気持ちでした。 先生がほめてくれたのは、そんなときです。
もし前日に私がいなくなっていたら、こんなすばらしい瞬間に出会えませんでした。
こうした瞬間が来るのは明日かもしれないし、10年後かもしれません。
でも、君たちより何十年も長く生きてきた大人として、これだけは言えます。「すばらしい瞬間は必ず来ます」
中学野球が舞台の小説「バッテリー」を読んだ若者から手紙をたくさん受け取りました。
「元気が出た」「明日、学校へ行ってみます」。そんな手紙を受け取ると「自分がだれかを支えている」と、
とてもほこらしく感じました。「もし、私がいなかったら、その人を元気づけるものが一つ減っていた」と。
 人は生きていれば必ず、だれかに支えられるだけでなく、だれかを支えています。
もし、あなたがいなくなれば、あなたに支えられるはずだった大勢の人を悲しませることになるのですから。
                            (*^ワ^*)i バイバイ
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