2005年09月29日(木)
1640, 個性について

 日野敬三ーと今西錦司の「創造性とは何か」対談の中の「個性について」が、
 ズバリと真理をついている。数日前の随想日記の中から抜粋して、考えてみる。
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ー今西
 個性というのはどこにあります?
「自己」と「自我」の相対から言うたら個性はどこにあります?
ー日野
「自己」の中には本来あるべきものが潜在してあるはずだけど、
 それをほとんどの人が抑えている、あるいはそれと通じないようにしている。
 一種、気味悪いせかいですからね。そのうちのどの部分をどこまで意識化して、現実化しているかによって、
 それぞれの個人の個性が出てくるんだと思います。より深く「自己」を生かして、自分の掘っている井戸の深い
 ところから汲み上げている個性は強い個性、豊かな個性。貧しい個性、平均的な個性はあまり掘っていないじゃないですか。
 その時代、その社会の最も最大公約数的な面で生きている。
ー今西
 個性が浅いということですね。
ー日野
 そうですね。優秀な個性、劣等な個性はぼくは考えない。「自我」を突っぱねるのではなく本来の「自己」を
 より広く深く生かしている個性と、浅くしか生かしてない個性の差だろうと思います。
 そこで、じゃあ、どのようにすれば、「自我」を越えて「自己」のひろがりまで達するかというとことで、
 先生が「私は山に生きて、山で別世界に触れることが私の想像の根源だ」とおっしゃったのは、そういう意味だと思います。
 別社会が何も外にある別社会だけじゃないですね。 自分の中にある別社会でもある。
 それは山に行くことで、日常から離れられて、非日常の次元で直感がさえる、はたらくということでしょう。
 ーーー
20年前に、中曽根内閣が臨時教育審議会で、従来の「自由化」に代わり、「個性化」を打ち出した。
それまでの画一的な詰め込み教育・偏差教育からのゆり戻しであった。個性を育てれば、受験勉強一辺倒の価値観が変わり、
登校拒否や校内暴力がなくなり、国際的にみても変形の日本人的な歪みがなくなるはずだった。
個性個性と言っているうちに、この教育により基本的な秩序さえも無くしてしまった。
中高生の援助交際を初めとして、フリーターの蔓延など程度の劣化が表面してきた。
「自己」の中の潜在している能力の、ある部分を、意識化し、現実化することによって、それぞれの個性が出てくるもの。
より深く「自己」を生かして、自分の井戸の深いところから汲み上げたのが個性である。
個性とは、まず教養や常識を備えるプロセスで、自分の中の特性を見出すものであり、それ以前の子供から個性を出せるように
というのは本末転倒である。没個性の中の少し変わった違いを「個性」と思い込んでいる駅などの屯している芋姉ちゃんの
レベルのことでしかない。

昨夜、TVで教育現場の興廃の実態を先生の立場でレポートしていた。
あの現場の惨状は、ゆとり教育ー個性化教育の失敗の現象でしかない。
数年前から、あの失敗例としての年代が社会に出はじめているが、一部を除けば酷い。
これから20年近くにわたって、その教育の結果育った若者達が社会に出てくる。
日本の将来は、やはり悲観的に見るしかない。家庭も、学校も基礎知識を教えられないのだから。
性教育が、肥大化した自我育成になり、自分の中の可能性に対して全く知らないで青春期を通り過ごしてしまう。
個性など、そう簡単につくれるものではない。 一生かけて、数代かけた血筋から生まれてくるものだ。