2007年09月28日(金)
2369, 大物の不在

産経新聞の、この日曜日の【論壇時評】10月号の中の「大物の不在」の論評の部分が面白い。
先日「ポスト・モダン主義」というテーマの内容で、{大きな物語=モダン主義の終焉により、大物が存在しにくくなってしまった。
存在したとしてもあまり脚光を浴びない時代になった}と、書いたばかり。そのことを宗教学者山折哲雄は、宗教学者の視点から、
多くの闘いを勝ち抜いて大物になっていった本物が現代には存在しえなくなったと指摘していた。
そのプロセスで早々に寄って集って引き摺り下ろされてしまうのである。
ーまずは、その部分を抜粋してみるー
 
 山折哲雄は、折しも「日本から『大物』が消えた」(月刊誌・諸君)と述べる。
大物を好まなくなった現代日本の文化状況と、大物と本物との違いなどについて語るのだ。
山折は最近亡くなった2人の政治家(宮本顕治宮沢喜一)の訃報(ふほう)記事に「大物」の形容詞が使われていないことに着目。
考えてみると彼らに限らず大学の大物総長、学界の大ボス、文壇の大御所、論壇の大家、財界の大物…みんないない。なぜか。

 ひとつには大量消費という時代の胃袋に消化(消費)され尽くし、個人が大物にまで育つ
余裕がなかったこともあろう。残るのは大量生産を担ったトヨタなどの組織ばかりである。
ところで山折の区別によると本物は、政治的利害に生きる大物と異なり、権威と真っ向から対決し、師殺し・父殺し・神殺しに
よってそれを乗り越える毒々しい存在だ。しかし生命は、そうした死を通じてのみ次代に伝えられるのであって、
結局大物の不在は、師殺しにいたる対決自体を不可能にし、伝えられる文化を小さなものにしてゆく。

 たしかにテレビ時代を通じてわれわれは一貫して、他の人間をテレビ的サイズに
縮小して眺める視線に慣れ、今またネットブログの定着で、他人の思想・行動を高みから
安易に分析・評価する手段を得た。“見下ろす”視線の獲得は一瞬、自己の拡大を錯覚
させるが、そこに結ばれるのはどうやら卑小な自画像にほかならないようだ。
そしてみんな小物になった、か。・・・・
                 (評論家 稲垣真澄)(2007/09/23 )
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大物といえば、多くの戦いの末、元親分や師匠や、親などを倒し続けた存在である。
それが現代では、そういう存在を不可能にしてしまった。
時代は、モダンからポストモダン主義になった今、大物の存在価値がなくなってのである。
現在の日本の首相を見れば歴然としている。
二代目の何の重みのない二代目のボンクラが次々と顔を出してくる。
そして、その軽さは権謀術策の末に成り上がった、昔の派閥のボスの二代目でしかない。
また、ネットブログという手段も然りである。「見下ろす」視線とはよくいったものだ。
それからくる自己拡大の錯覚は、実際のところ身に覚えがあることである。
平気で現首相を自分のサイズに縮小してしまっている。
今まで権威のある評論家が大新聞に論評してきたことがブログでは簡単に出来てしまう。
ということは、ブログこそ、ポストモダン主義の典型の存在といえる。
逆にいえば、ブログを有効に活用して情報を消化していく面白い時代になった。
小松左京ではないが、SF作家でさえも、この時代の先が読めなくなったというのも
至極尤もなことである。この情報機器の進化は我々の予測を遥かに超えている。
大物小物など如何でもよい時代になった。 
兎に角、こうなったら最先端の情報機器を可能な限り使いこなすしかない。それも楽しんで!

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