中島義道の「コミュニケーション力」についての一考察が、面白い。
  これによると、あくまで家内と私の関係だが、私がコミュニケーション強者で、家内はコミュニケーション弱者になる。
  しかし、如何みても家内の方が強者で、私の方が弱者に思えてしかたがない。
  外国に行って、観光地や飛行場で隣の人に平気で話しかけ英語の勉強をしたり、宮城県の医師会会長婦人と仲良くなり、
  ブランド店で見えの張り合いをしたり、ディナーで周囲の人と瞬間芸のようにハイソサエティー婦人に変身をしてしまう。
  私など何時も微笑をたたえて無言である。 たまに酔って、その場を目茶目茶にすることもある。
  中島のいう「コミュニケーション力」とは、私がいう「対話力」のことのようだ。
  対話をするには、自分の主張を相手に理解させ、相手の言っていることを理解し、できれば互いに一人では
  思いもよらない一段上の内容まで内容を止揚することである。それは対「本」の著者ともである。
   ーそれよりまずは、中島の、面白い部分を抜粋してみよう。
  〜〜〜
今回のテーマは、斉藤孝の造語のコミュニケーション力についてである。
私は電通大の人間コミュニケーション学科で、「コミュニケーション論」とか「ディスコミュニケーション論特論」
という名の講義を受け持っているが、多分一般の大学のコミュニケーション論とは随分毛色の変わった授業をしている。
普通、コミュニケーション論の目的は、コミュニケーションカをつけることにより、他人に正確に自分の意思を伝え、
他人の言語的・非言語的メッセージを正確に受け取り、他人との円滑なコミュニケーションを目指すことであろう。
面接にうまく合格するとか、上司に気に入られるとか、部下がついてくるとか、職場の人間関係がうまくいくとか、
恋愛においても勝ち組に入るとか……、つまりこのせち辛い現代日本で「得する」ことを学ぶのである。
これを一概に否定するわけではないが、私が目指すコミュニケーションカとは、似ていて非なるものである。
それは、「総合的人間力」とでも言えるものであって、
なるべく自分の信念を貫きながらも共同体から排斥されない生き方を」実現できる力である。
自分の信念を曲げて権力者や多数派に媚びなくても済む力を体得すること。
そのためには、血の滲むような(?)努力をしなければならない。ただ無防備に好き勝手に生きて、
他人を納得させることはできない。 入間の生き方は、大きく分けて、努力に努力を重ねて自分の信念を磨き上げ、
それを貫き通すか、それともとにかくラクに生きることを第一目標にして信念を放棄する(持たないようにする)かの二つしか
ないように思う。オルテガは、前者のような生き方をする者をエリートと呼び、後者の生き方を選び取った者を大衆と呼んだ。
私の言葉に翻訳すると、前者がコミュニケーション的強者であり、後者がコミュニケーション的弱者である。
私は、講義の初めに学生たちに、できればコミュニミュニケーション的弱者の原理は、「とにかく安全にとにかく無難に」
である。さしあたり自分ないし自分の守備範囲が危険に瀕しなければ、それでいいのだ。
そのためには、どんなに卑劣なことでもあえてする。真実も捻じ曲げ、言いたいことも言わず、明らかに間違った
ことでもじっと黙しているのだ。なぜなら、本当のことを言うと、身が危ないからであり、クビが飛ぶからであり、
家族を路頭に迷わすからである。そして、このすべては許される。
なぜなら、自分は学歴も縁故も人間的魅力もない正真正銘の「弱者」だからである。そうなってもらいたくない、
と私は学生に訴えている。だが、教室は早くも「余計なお世話だ」という反感的空気に満たされる。
そうか、楽に生きたい人を無理やり裸にし、冷水摩擦を施し「強くなれー」と叫んでも、心臓麻癖で死んでしまうかもしれない。
そのうえで言うのだが、コミュニケーション的強者とは、社会的強者の責務を身に引き受けるほどの覚悟がなければならない。
 〜〜
 養老猛の「ばかの壁」を叩き壊して己を解放して、書物や人間から知識や情報を出し入れする力はこそ、
情報化の時代に必要とされるが、膨大な情報の中で如何にして総合的人間力を確保していくかがポイントだろう。

・・・・・・・・