2005年04月27日(水)  
 1485, 24歳の日記ー3
 3月31日 1970年

昨日、最終的に実家の会社の一員になることが決定した。恐らく三年後あたりが目途であろう。
それまでに、自分の力をつけなくてはならないのだ。もう許されないのだ、いい加減な姿勢は。
息苦しい感じがしたが、それでもハッキリとしたものが見えてきた。
これからは、衣料店だけでなく他の事業も考えなくてはなるまい。もう、サイは投げられたのだ。

これから大事なことは、「自分を自分の相談相手にすることだ」
この時期は二度とない大事な時期である。
足元を見つめなおして一つずつこなしていかなくてはなるまい。

ー私の現在思っている言葉の定義を、そのまま書いてみようー

・「贅沢」とは、他人の目を意識をして、そのために意識や金や物を使うことなのか。
・「生きがい」とは、自分の価値を明確にして、その追求をするプロセスの一瞬に感じる満足感
・「言葉」は大事な要素である。しかし、それは行為にあとに出てくるもの。
 その行為は、生きた言葉、生きた人間そのものである。
・「神」とは、真善美の理想形として人間が創りあげたXである。
・「真」とは、ものごとの本筋・本質をいう。
・「決断」とは何だろうか?その裏づけになる理論と、その後の行為が肉付けされて達成に至るものだ。
・「善」とは、道徳のいや、価値の側面である。
 道徳は社会の中の規範であるが、その社会の規範は過去のものでしかない。
・「誠」とは、裏切りを知りながらそれを乗りこえて生きることである。
・「美」とは、美を感じる心が無くては。美を感じる心とは、対象のバランスを
  自分の中のバランスとして受け入れる感受性である。それは、真善においても同じだろう。
・「克己」とは、自分の壁を乗り越えること。人に勝つ前に、自分に勝たなくては!
・「価値」について、それぞれの社会の固定化された欲求?
 それとも目標? 外部に価値を見出すべきではない。そうなった時は自分に迷いのあるときである。
・「力」とは何か、人間がただ頼れる一つのエネルギー?
 今の自分は自分自身を信じて自分の足で立つことだ! 見えない未来に向かって。
        おやすみ!

 ー2005年4月27日5時半ー 記
 よくぞまあ、35年前にこんな難しい?ことを書いたものだ。
 難しいことというより自分の頭の中の言葉を引っ張り出して曝しているのが有効である。
 深くは考えないで、その時に気ままに日記に書いたものだが、言葉の重要性に気づいたのだろう。
 
 この一年で、情報と言葉の「切断」の重要性にも気づいた。
 カレーライスをつくるのにそれぞれ素材を目的に合わせて切断する。
 情報や言葉も同じであることに。この一年ほど、自分の一生にとって有意義な年はなかった。
 一見、無駄に見えたが基礎の再構築だったようだ。
 
 常に社会と一線を引くスタンスが、この一年で身に付いた。
 姉夫婦が、小さな城下町の価値観の世界を全世界と信じて疑ってない姿を身近で観察できたこともある。
内海にいる魚は海そのものがどういうものか知ることがない。陸に上がって海そのものを見ることができない。
まして、自分が内海にいることも知らない。 人間全てにいえることだが。
 
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