2004年04月27日(火)
 1120, 「ライフ・レッスン」ー7
  ー時間のレッスンー

・時間のなかで、すべてのものは変化する。内面も変わり、外面も変わる。
外観も、内的自己も変化している。人生はたえず変化をつづけているが、ふつう、変化を好まない。
それに抵抗しようとする。そうこうしているうちに、周囲の世界のほうが変わってしまう。
変化の速度は、かならずしもわたしたちの内的速度と一致しているわけではない。
たいがいは早すぎるか遅すぎるか、である。
変化とは慣れ親しんだ状況に別れをつげて、不慣れな状況に直面することである。
あたらしい状況そのものでなく、そこにいたる間の時間に不安を感じることもある。
「一つのドアが閉まっても、別のドアが必ず開いている。・・・
でも、それぞれドアにつうじる廊下にいるときが、いちばんつらい」変化はたいがい、
ドアがバタンと閉まってしまった場合始まる。先が見えなくなり、人は不安な時間を過ごす。
この時期はつらいものだ。もうだめだと思った時、何か新しいことが始まり、
ドアが開く。変化に抵抗しようという人間は、自分の人生そのものに抵抗して
いることになる。必要なことは変化に乗じること、少なくとも変化を受け入れることである。

・「西洋文化においては、歳をとることは尊重すべきことではなく、しわは人生の勲章ではなく、
隠すべきもの、避けるべきもの、除去すべきものだとみなされている。ところが、
青春時代の活力を懐かしみながらも、殆どの人はまったく同じ人生をやり直したいとは思わない。
若き日の狼狽や混乱を、ありありと憶えているからだ。

中年になると人生のなんたることかも多少は解り、ばかげたことをしている時間もなくなる。
中年期になると、いたずらに青春時代に戻りたいとはおもわなくなる。若さの時期は、
無垢の時期であると同時に無知の時期である。青春の夢が中年の後悔に変わるのが、
人生が終わったからでなく、その夢のとおりに生きれなかったからである。
優雅の歳を重ねるということは、毎年、毎日を充分に経験しつくす生き方である。
人生を本当に生きた人は、もう一度生きなおしたいとはおもわない。
後悔する人生は、決まって、じゅうぶんに生きれなかった人生である。

人は何歳まで生きたいと思っているのだろうか。
もし200歳まで、あるいは永遠に生きるチャンスを与えられるとしたら、
いったいどれだけの人がそのチャンスを受ける人がいるだろうか。
そう考えてみれば、寿命というものの持つ意味が理解しやすくなる。
時代をこえて生きたとしても、何の意味もない。愛する人が誰もいなくなり、
もはや理解しがたい文明の中で生きつづけるのは、空虚以外の何ものもないだろう。

・夜空をみあげるとき、私たちはじつは遠い過去の光りをみている。
星の光りは地上のいまの光りでなく、何百万年前の光りだ。
他人にたいしても、私たちは同じ経験をしている。
私たちはなかなか現在の目で他人を見ようとしない。それは自分に対しても
おなじである。ほとんどの人はいまの真の自己をみようとせず、過去や自分や、
そうなりたかった自分としての自己を見ている。
きのうの自分がきょうの自分を規定しているわけがない。
それに気づくことのなかに、すばらしい自由がある。
もし現在という時間に意識をむけ、あるがままの人生を見つめることができさえすれば、
あたらしい自分になり、まっさらの新鮮な気分で今日という日をむかえることができる。

ー感想ー
「時間がすべてを解決をする」ということを長く生きてきた人は
誰でも実感することである。だいたい深い傷でも3年が目安である。
ただし、深いところで自分で手当てをしておかなくては後々まで引きずるが。
振り返ってみる時、時間と供に自分も変わっていくので、客観的にその変化をみることができる。
時間が経つと同時に、何が大事で何が大事でないかもみえてくる。
冷静に屋上の上から見ている自分が「魂」である。
その時々に思い悩み、笑い楽しんでいる感情が「心」といってよい。
時間と供に魂の目を、その時間に伴って上方に上げてくれる。
ただ今日、今という時間に意識を集中しなくては魂は上方には上れない。
一期一会とは、すべてにいえることである。

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