2003年04月27日(日)
753, 孤独について考えてみた

 自分の強みは何だろうと考えてみた。「孤独に強い事」である。あまり人といなくとも平気である。
若い時の都会の生活や勤めの時代に鍛えられたことと、8人兄姉の末っ子だったこともある。
一人でいつも遊んでいたという。創業を独りで何回か経験をしてきたのが、さらに孤独の訓練になった。
孤独をポジティヴに前向きにしなくては、無から有は創れない。
青年期はそれほど強くはなかった。実際は空元気であった。

「孤独を恐れるのは、ひとりそのものではなくて、孤独であることを責める自分
の中の内在化された他者の声である。それが多くの人の心を責めさいなまし、
安らかな心を破壊してしまう・・・」とある本に書いてあったが、私の場合そのような内在化された
他者の声は全くない。独り事業を何回か立ち上げてきた為に内在化する余地がなかったのだろう。
それと行蔵が整理?されていたこともある。幼児期に両親や姉兄にタップリと愛情をそそがれた事が大きい。

 日本というのは孤独を白眼視する、同調的で画一的、群れや集団に属さないことを
忌避する、個人が自立できない幼稚な社会である。これは仏教と島国が長年の間に影響してきたのだろう。
現代のように人から嫌われることを極度に恐れ、他人に従順になりすぎる大多数の
人には、逆に「人から嫌われる強さ」が必要である。
群れていれば安心している輩があまりにも多い、まあ如何でもよいことだが!
孤独をきっちり確立した上で、寂しさを紛らわしたくなったら、そういう場に
行けばよい。独身時期はきっちりとその組み立てをしていた。
居酒屋に行けばいくらでも、癒してくれる店主やママや飲み仲間がいた。

 本当に孤独に対して訓練されてない人が多い。そういう人が仲間になって群れてしまうから更に悪い。
今回の青年会議所仲間同士の殺人事件など、そこがバカや低脳児の集まりの場で
しかないことの証明でもある。本人たちは全く気がついてないのが哀れである。
仕事の手段として群れているつもりだろうが、手段が目的にすりかわってしまうのだ。
手段の遊びが、目的になってしまうのだ。 過去を考えると他人事ではないが!??

ー孤独を失った時の損失を考えてみると
・独創性や創造性であり
・夢や目標や目的の喪失であり
・自我の確立であり、また自己の心の成長であり
・自分らしさや個性、独自性、心の自由、行動の自由、趣味の自由などである
群れや際限なき仲良しゴッコはそれを補ってあまりあるものなのか疑問である。
たえず友達や仲間といっしょにいる人は、群れの奴隷となり、自分を失っている。
私の嫌う子狐があちこちで群れているが、「和して同ぜず」ではなく、
「同じて和す」ということか。その「同じる」が恐ろしいのだ。
「個性個性、孤独孤独といって石のカタチの違いこそ大事だといっても、
所詮は砂利は砂利でしかないのに、解ったことをぬかすな!」という心の奥の声がする。

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