ー耕論「消費される物語」朝日新聞(4月22日)よりー
    * 「消費される物語」 ー憧れをかみ殺す  
  ー「夢はかなう」を引きずるロマン 竹田青嗣ーより
 毎日、随想日記をネットに載せてから、まる13年になる。 これも、ミニ物語になるが、先日の朝日新聞
耕論「消費される物語」が考えさせられる。 ーまずは、竹田青ほぼ全文を抜粋ー
《 「どんな物語が杜会で受け入れられるか」ということは、「人々の間で広く共有されて一般化している欲望とは何か」
ということに強く影響されます。近代社会のかっての一般的な欲望は「自由」でした。職業選択の自由、思想信条の自由、
そして自由恋愛。だが、これらの自由への欲望は、先進諸国では20世紀半ばまでに実現してしまった。それに代わり、
現代社会で一般化しているのが「承認」への欲望です。
 そもそも人間の欲望には、それが他者から承認されないと実現できない、という特質があります。赤ちゃんがお乳を
吸おうとすることさえ、母親の「あなたは私の子ども」という承認がなければ実現できない。人間社会では、どんな欲望も
承認を経て初めて実現する以上、快楽への欲望が「みんなから認められたい」「祝福されたい」という承認への欲望へと
移行していくのは、自然なことです。 
 佐村河内さんの物語も、小保方一さんの物語も、「不幸な境遇にある人や一見平凡に見える人が、がんばって成功し、
多くの人々から承認を得る」という基本的な枠組みは共通している。最近公闘された英国の映画「ワンチャンス」も、
携帯電話の販売員がテレビ(オーディション番組で優勝し、塒界的なオペラ歌手になる、とり実話を描いた作品でした。
   □ 憧れをかみ殺す
 だが、ここで問題になるのは資本主義社会における「承認を巡る競争」はゼロサムゲームで、勝者は常に少数派、です。
「そこそこ満足」という人まで勝者に含めても、6〜7割の人は最終的に挫折感や敗北感を抱くのではないか。
実現不可能な一般的な欲望に縛られ続けると、人間は不幸になるだけです。 (略)・・・
 挫折自体は決して悪いことではない。実現不能な欲望や憧れをかみ殺し、強い忍耐で現実世との調停を試み、自らの
生き方を確立する契機になるからです。・・欲望をすべて実現したいという「極端なロマン主義」、理想がかなうことなど
決してあり得ないという泥のようなリアズム、そのどちらかに真理があるではない。両方の引き合いので、より深く
生きられる「微妙な場所」を探し当てることこそが必要なのです。私にとっては井上陽水の歌や、フッサール、へーゲルの
哲学が、そうした場所を見いたすための道しるべとなってくれました。 ・・ ーつづく  》
▼ 現実にぶつかり、破壊された挫折経験の中で、「微妙な場所、そして立場」で、生きている我身にとって、
 自分にとって、都合の良い「物語」をつくるしかない。それが、珍妙で、哀しく、痛面白いのである。
逆に言えば、イドラ(真実を覆っている嘘)の世界にドップリ浸かっている人たちが鮮明に見えてくる。 
だから、この結果も悪くはないのである。イドラの言葉から、世間を読み解くと面白い! 其の辺の、市場で
聞いた噂を、信じて、小さな殻の中で、情念で生きているのが一般である。ほぼ、世の中は、嘘と妄想で出来ているのが、
気づかない人たちの総称を「世間」。日本人の大多数にとっての宗教が、この「世間教」。で、信者の群れが数多、屯する。
 それを、学生時代のゼミの「ケース・スタディ」で、徹底的に議論の中で教わった。現象の中に隠された真理、道理を
冷静に捉える知識の必要性である。釈尊の遺言に「すべてのものは移り変わる、怠らず努め励めよ」とある。
変化する時代の中で、ロマン主義と、泥のようなリアリズムの引き合いの中でこそ、怠り務めることだ! (-ノ-)/Ωチーン
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4424, 残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法 ー8
2013年04月27日(土)
                   「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」 橘玲
   * 私たちが何故不幸か、進化心理学が教えてくれる
 チンパンジーからして、実は平等も格差も遺伝子に刻印されている。この矛盾が、人間を不幸にしている。
能力も、女性の容姿も、生まれながら大きな差がある。それを克服するには、一生を要するが、それを失うには数年、
いや、数ヶ月で済む。女性が連れ合いの選択にシビアになるのは当然、それで人生の大半が決まってしまうため。
だから二段階上の相手を必死に探す。それをシンデレラコンプレックスという。しかし殆どが夢幻の幻想で終わる。
だから神様は、男の性欲を過剰に与えて、仮装の相手に惑わさせるようにした。で、男は一生、その付けを払わされる。
平等欲求と格差の遺伝子を同時に与え、不幸になるように創られたのは、神様の仕業。だから幸福など気の迷い。
  ーその辺りから抜粋してみるー 「不幸なのは人類の宿命で、私や貴方だけでない!」と割り切るしかない
≪ 二頭のチンパンジを真ん中をゴフス窓で仕切った部屋に入れ、片方にキュウリを与えるとすごくおいしそうに食べる。
ところがもう一方のチンパンジーにバナナが与えられると、いきなり怒り出して、手にしていたキュウリを壁に投げつける。
さっきまであんなにうれしそろだったのに。霊長類学者のドゥ・ヴァールは、こうした観察結果から極めて重要な発見をした。
平等はチンパンジーにとって、けっして譲ることのできない「基本的猿権」なのだ。 ぼくたち人間も、「平等」に強い
こだわりをもっている、人種差別で沢山の血が流れるのも、バックパッカーがぼったくられたことに延々と文句をいうのも、
同じ人間として平等に扱われていないと感じるからだ。でも平等が遺伝子に刻み込まれた生得的な価値観でなぜ世の中は
格差社会になるのだろうそれは、「格差」もまたぼくたちの遺伝子に刻印されているからだ。
 初対面の二頭のチンパンジを四角い机に座らせ、どちらにも手が届くところにリンゴを置くと先へと互い取り合う。
負けけがつづと威嚇の表情を見せるが、喧嘩にはならない。互いに先取者に所有権があることを認めているからだ。
 ところが同じことを何度も繰り返すうちに、どちらか一方がリンゴに手を出さなくなる。からだの大きさなどさまざまな
特徴から二頭の間で自然に序列が生まれ、いちど階層が決まると、下位のチンパンジーは上位者にエサを譲るようになる。
保育園や幼稚園でも、子どもたちを集団で遊ばせるとごく自然に階層が生まれ、リーダーが決まる(とくに男の子の場合、
この傾向は明瞭だ)。サルやヒトには、相手と自分の関係を測り、無意識のうちに支配したり従ったりする強力なちからが働く。
 人間の耳には、五〇〇ヘルツより低い周波数は意味のないハミング音としか聴こえない。ところがぼくたちが会話をすると、
最初はハミング音の高さがひとによってまちまちだが、そのうち全員が同じ高さにそろう。ひとは無意識のうちに、支配する
側にハミング音を合わせるのだ。 声の周波数分析は、アメリカ大統領選挙のテレビ討論でも行なわれている。
一九六〇年から二〇〇〇年までの大統領選挙では、有権者は一貫してハミング音を変えなかった(すなわち相手を支配した)
候補者を常に選んできた。わざわざ選挙などやらなくても、討論のハミング音を計測するだけでどちらが勝つかはわかって
しまうのだ(ドゥ・ヴァール『あなたのなかのサル』) ≫
 ▼ 誰もが不幸になるよう設計されていると思えば、少々の怒りや悩みは解消される。だいたい幸・不幸は一時的感情。
  だから格差を容認するため「公平」という考え方を作り上げた。ここでチンパンジーに平等の意識が「基本的猿権」
 としてあるのに驚いた。数十、数百万年かけてつくられたのだろう。小・中・高校、大学に進学する度に選択されていく。
 上に進むたびに格差された自分の上下左右が鮮明に見えてくる。平等、自由、博愛、これは理念、現実は逆ということも!
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4050, 一時停止 ー8
2012年04月27日(金)                
   * 「好き」という言葉が好きだ      「一時停止」 谷川俊太郎ー自選散文ー1955〜2010
 ≪ ・・・ ぼくは生きる上でいちばん大切なのは、好きになる気持ちだと思っているだ。好きになるのに理由はない。
  「好き」はじぶんのからだとこころのもっとも深いところからわいてくる。 むりして好きになるわけじゃない、自然に
  好きになる。好きになる気持ちは人間に、そしてほかの生きものにも、はじめからそなわったすばらしい能力だと思う。
   何かを、誰かを好きになること、じぶんが生きているこの世界を(それがときにどんなに苦しく悲しいものであれ)好きになること、
  そしてこれがけっこうむずかしいんだけど、じぶんじしんを好きになること。じぶんがきらいじゃ、ほかの人を好きになれないし、
  生きているのがつらくなる。はじめきらいだと思っていたものや人が、知っていくにつれてだんだん好きになるってことだってある。
  ぼくは「好き」ということばが好きだ。     (母のひろば482号一 二〇〇四年) ≫
 ▼ 人生の早い段階で好きなことを見つけ、続けることは大事なことだが、それぞれの年代ごとに、蛇の脱皮のように、好きなことを
  変えることも必要である。それは男女の出会いに対していえること。 節目ごとに好きな対象が変化するものと、一貫して好きを
  貫くか、である。「 好きと嫌いじゃ どれほど違う 命ただやる ほど違う 」という都々逸があるが、それほど好みは根源から
  湧き出るもの。 反面、「好きになるまで取り組んだことを突き詰めれば、奥底好きになれる」こともある。好きという言葉は、
  人生の鍵を握っているようだ。現在の自分が好きになれるか? 特に、人生の晩秋に差し掛かった時期の自分が、どうだろうか?
 「日々、面白い!」と思えるかどうかが目安。ここまでくれば、「突き抜けた自分を好きと思うしかないか!」自嘲的自己肯定か、最期は。
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3684, 自己を見つめる −8
2011年04月27日(水)          
  * 仕事について     「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
 第二の人生に入って一ヶ月足らずになる。 今月から仕事・事業人生から無職のリタイアの人生に入った。
人生の大部分を仕事を通して幸福・不幸の波の中で泳いできた。仕事は人生の核であることは間違いない。
社会の中の存在意義が仕事を通して証明される。そこで表現した中に自分が見えてくる。仕事、趣味、そして学びは人生の三本柱。
人生のプロセスで、その重心が変わってくるが、男は家族を作り、養っていかなければならない。
だから仕事の比重はのしかかってくる。とはいえ、三本柱の一つだが・・・
  ーこの本の中の仕事に関する部分を抜粋して考えてみるー
【 したがって、社会に応えてなんらかの役割を果たし、世間に寄与することができるということは、人間の自己意識にとっては、
自己の存在の意味を確認することのできる最も直接的な答えであり、また喜びであることは、疑いようのないことだからである。
もちろん、そうした仕事における労苦のうちには、失敗や挫折、困難や事故、予期せぬ妨害や災害、さらには競争や不運など、
実にさまざまな心労の種が含まれていて、人生の現実が容易ならぬものであることが、誰にでも、ひしひしと実感されてくる。
人生における懐疑や煩悶、疑心暗鬼や気欝は、多くの場合、仕事をめぐるトラブルや、そこに絡んでくる陰湿な人間関係に起因する
ものであることは、否定することができない。けれども、そうした暗欝な影にもめげずに、自分の関与する仕事の有意義性を確信して、
少しでも前進し、実りある人生行路を切り開こうとする人にとっては、やはり、仕事を措いて、人生の実質上の道程は考えられない
ことになるであろう。そして、もしもその人が、強い信念の持ち主として、どんな障害にも屈服せずに、この世界では善が勝ち、
道徳的な世界秩序が実現してゆくはずだと確信することができるならば、たしかにヒルティも述べたように、その人にとっては、
仕事を通じた人生の意味と幸福が、力強く確認され、労働の喜びが増すであろう。】
 ▼ 「人生における懐疑や煩悶、疑心暗鬼は、仕事をめぐるトラブルや、それに絡んでくる陰湿な人間関係に起因する。」
 しかし、それを乗り越えて仕事を成し遂げることこそ、その醍醐味がある。とはいえ、経済震災や、自然震災は、その全てを
 飲み込んでしまう。これほど大激震だと諦めがつくが。これも人生。人生の多くを事業を通して多く学び、楽しんだことも確か。
 まあ、面白かった! 
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3319, 理性の「理」は、理由の「理」
2010年04月27日(火)
   『カントはこう考えた ー人はなぜ「なぜ」と問うのか』 石川文康著
 学生時代に理念、理性の「理」の意味は何だろうと疑問に思い、ゼミの人たちに聞いてみたが、納得する答えがなかった。
そこで字づらから、王の里で、真理の大元と一人合点をした。ところが、先日図書館で借りてきた
『カントはこう考えた ー人はなぜ「なぜ」と問うのか』 石川文康著に、カントの「純粋理性批判」中の「理」が解りやすい。
 《 理性の「理」は、実は理由の「理」にほかならない、と述べている。 欧州の古典語であるラテン語で「理性」を意味する 
「ラテオ」は、同時に「理由」を意味する。理由とは、「なぜならば〜」と表現されるもので、物事の「根拠」、
 物事を「根拠付ける」働きを意味する。さしずめ「なぜならば」と答える能力が理性であると言ってよい。
 20世紀のハイデッガーは、理性と理由、理性と根拠が同一であることを際だたせて、次のように述べている。
「理性とはラチオのことであり、すなわち根拠の能力。理性は物事を基礎づける根拠である。根拠は純粋理性の理性的根拠以外にない」
 ところで、この「なぜならば」といきなり、切り出すものはいない。それを誘導するものがある。それは「なぜ?」という問いである。
「なぜ?」と問われて、はじめて「なぜならば」が発せらるのである。・・・ 》
 ▼ 以上だが、理性的とは「なぜならば」と答える能力である。と同時に「なぜ?」と、問う能力である。
 分かっているようで、分かってなかったようだ。そうすると、常に「なぜならば」と「なぜ?」を、考えている人が
 理性的ということになる。人は「なぜ『なぜ』と問うのか?の答えは、「人は根拠となる物事の基礎を把握したいため」である。
「なぜ?」「なぜならば」と、言っている限りは、理性を使っていることになる。 ということは、根拠=原因を知りたくなる
 根本的な探究心のため何か驚いたり、知らない現象に出会うと、その背後にある原因を探したくなり、「なぜ」と問うのである。
  認識に経験論と合理論があるが、合理の理性から物ごとを認識をするという場合、経験が直接的に認識するのに対して、
 合理の理性で把握するのは間接的に認識する、ということになる。  −つづく
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2944,ブラックアウト
2009年04月27日(月)
 ーブラックアウトについてネットで検索をしたら、以下のようにあったー
blackoutは、飲酒中やその直後に自分の行ったできごとについて、翌日に一部の記憶がなくなるアルコール性記憶喪失をいう。
例えば、飲んでタクシーで帰ったが、友人に乗せられたまでは覚えているが、その後はまったく記憶がないなどである。
社交飲酒家でも認められるが、アルコール依存症者ではしばしば認められる。ブラックアウトの出現はアルコール依存症の入門切符。
▼ 「元スマップの草薙剛が、ブラックアウト?で逮捕された」と報道された。深夜三時ごろに全裸で騒いでいるところを
 逮捕されたもので、何と猥褻罪という。深夜に素っ裸で公園にいたところで誰に見られた訳でなし、やりすぎではないかと
思うのは私だけではないはず。有名人でなければ、これだけ騒ぎになるわけでなし、酔っ払い保護センターもあるし、騒ぐほうも騒ぐほう。
(字数制限のためカット2012年4月27日)
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2580, 閑話小題
2008年04月27日(日)       \(⌒∇⌒)/おはよ?!
 ー哲学と思想の違いー
池田晶子著の「暮らしの哲学」で 「哲学」と「思想」の違いについて次のように書いている。
『「哲学」と「思想」の違いは「哲学」とは考えることであり「行為」である。
それによって導き出された言葉なり文章なりの結果が「思想」である。だから「哲学する」とは言うけれど「思想する」とは
言わない』と。 解りやすい説明である。「哲学は考えること。思想は思いこむこと」 というと、何か違うような気がする。
 人の考え、思い込んだことを言語化したもので、貼り付けることが出来るのが思想で、考える行為が哲学ということ。
一般的には、哲学も思想も同じように論じられているから、話がややこしくなる。
ここの差異をハッキリさせおくと、哲学・思想書関連の本を読んでも整理がつく。
 ー何でも半分ー
 (字数制限のためカット2010年4月27日)
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2007年04月27日(金)
 2215, 買い物依存症の女   ^O^ノ  オアヨーン
海外ツアー、それも秘境に行く人は、心に大きな負担を持った人が多い。ある年代になれば誰もが何らかの問題は抱えている・・
特に刺激を求めてアフリカ、中近東、シルクロード、南米などに行く人は人生の究極を求めている人が多い。
その中で、「買い物依存症」の人が何人もいた。明らかに病的の、「やり手?ブランド嗜好の金ぴか中年女」である。
(以下、字数の関係で中略2009年4月27日)
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2006年04月27日(木)
1850, 2008年、日本は大きなクラッシュに? ー1        おはよ?!(*^ワ^*)i
 昨日、池袋で開催された『資産防衛セミナー』での第一声の講師の言葉が「平成20年に、日本は大きなクラッシュになる!』である。 
そして「その対策を、具体的手順にふむべき時期がきている」という。二年半前に同じ講師で同じテーマのセミナーに参加したが、
再び参加してみた。5回も参加している人もいるという。その衝撃的な内容は絶望度をましていた。景気回復など論外。 
現在の日本の事態は生やさしいものではないという。本屋で数年前まで悲観的な表題の本が平台に積まれていたが、
最近は見かけなくなってきた。 少し温かい微風がふいているからだ。この講師の話を聞いていると、その絶望的な話は不変であった。 
2~3年以内のクラッシュも、あながち有得ない話ではない。
 ー印象的に残った部分を列記するとー
・金(ゴールド)など現物に替えておけ、グラム6000円も有得る(現在2000円)
ハイパーインフレはもう始まっている
・銀行閉鎖も最悪の場合ありうる(その場合は貸し金庫も閉鎖される)
金利が5~10?を覚悟をしておいたほうがよい
・日本はアメリカの植民地国家
三井住友銀行の貸し手に対しての、脅しもどきの取立て現場の生々しい話
これからの日本の混乱の生々しい予測と現状の内容である。 現在は明治維新時、第二次大戦の敗戦時、と同じ有事の時。
それを明確に意識をして、ことに当たるべきだという。思い切った決断しか、これからの時代は生き残れない!ということか。
私が感じているより、遥かに事態は深刻のようだ。日本は、これから何処に漂っていくのだろうか?
「日本という国は、潰れない。ただ、国民の財産を根こそぎアメリカ資本に持っていかれるだけだ!
 その防衛は、それぞれの自己責任で防衛するしかない!」が印象的であった。   ー つづく    ε(´',_c')зβyё        
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2005年04月27日(水)  
 1485, 24歳の日記ー3
 3月31日 1970年
昨日、最終的に実家の会社の一員になることが決定した。恐らく三年後あたりが目途であろう。
それまでに、自分の力をつけなくてはならないのだ。もう許されないのだ、いい加減な姿勢は。
息苦しい感じがしたが、それでもハッキリとしたものが見えてきた。これからは、衣料店だけでなく他の事業も
考えなくてはなるまい。もう、サイは投げられたのだ。これから大事なことは、「自分を自分の相談相手にすることだ」
この時期は二度とない大事な時期である。足元を見つめなおして一つずつこなしていかなくてはなるまい。
ー私の現在思っている言葉の定義を、そのまま書いてみようー
・「贅沢」とは、他人の目を意識をして、そのために意識や金や物を使うことなのか。
・「生きがい」とは、自分の価値を明確にして、その追求をするプロセスの一瞬に感じる満足感
・「言葉」は大事な要素である。しかし、それは行為にあとに出てくるもの。
 その行為は、生きた言葉、生きた人間そのものである。
・「神」とは、真善美の理想形として人間が創りあげたXである。
・「真」とは、ものごとの本筋・本質をいう。
・「決断」とは何だろうか?その裏づけになる理論と、その後の行為が肉付けされて達成に至るものだ。
・「善」とは、道徳のいや、価値の側面である。道徳は社会の中の規範であるが、その社会の規範は過去のものでしかない。
・「誠」とは、裏切りを知りながらそれを乗りこえて生きることである。
・「美」とは、美を感じる心が無くては。美を感じる心とは、対象のバランスを
  自分の中のバランスとして受け入れる感受性である。それは、真善においても同じだろう。
・「克己」とは、自分の壁を乗り越えること。人に勝つ前に、自分に勝たなくては!
・「価値」について、それぞれの社会の固定化された欲求?
 それとも目標? 外部に価値を見出すべきではない。そうなった時は自分に迷いのあるときである。
・「力」とは何か、人間がただ頼れる一つのエネルギー?
 今の自分は自分自身を信じて自分の足で立つことだ! 見えない未来に向かって。    おやすみ!
 ー2005年4月27日5時半ー 記
 よくぞまあ、35年前にこんな難しい?ことを書いたものだ。 難しいことというより自分の頭の中の言葉を引っ張り出して
 曝しているのが有効である。深くは考えないで、その時に気ままに日記に書いたものだが言葉の重要性に気づいたのだろう。
 この一年で情報と言葉の「切断」の重要性にも気づいた。カレーライスをつくるのにそれぞれ素材を目的に合わせて切断する。
 情報や言葉も同じであることに。この一年ほど、自分の一生にとって有意義な年はなかった。
 一見、無駄に見えたが基礎の再構築だったようだ。常に社会と一線を引くスタンスが、この一年で身に付いた。
 姉夫婦が、小さな城下町の価値観の世界を全世界と信じて疑ってない姿を身近で観察できたこともある。
 内海にいる魚は海そのものがどういうものか知ることがない。陸に上がって海そのものを見ることができない。
 まして、自分が内海にいることも知らない。 人間全てにいえることだが。
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 2004年04月27日(火)
 1120, 「ライフ・レッスン」ー7
  ー時間のレッスンー
・時間のなかで、すべてのものは変化する。内面も変わり、外面も変わる。 外観も、内的自己も変化している。
  (字数の関係で中略2009年4月27日)
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2003年04月27日(日)
 753, 孤独について考えてみた
 自分の強みは何だろうと考えてみた。「孤独に強い事」である。あまり人といなくとも平気である。
若い時の都会の生活や勤めの時代に鍛えられたことと、8人兄姉の末っ子だったこともある。一人でいつも遊んでいたという。
(字数の関係でカット2011年4月27日)
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2002年04月27日(土)
 389, どういう時代に?
  今年来年はどういう年になるだろうか?
  (字数の関係でカット2011年4月27日)