2006年04月12日(水)
1835, 善意について
      \(^▽^*)おはようございます!(*^▽^)/

善意については、色いろ考えさせれることが多い。
最近になって、そのプラス面でなくマイナス面の指摘を目にする。
善意の善は、善悪の善である。 善悪なぞ、価値観の一側面でしかない。
ユダヤ教キリスト教イスラム教、一つとっても互いの善悪は全く違う。

   善をプラス、悪をマイナスみても、善も悪も何時までも持続はしない。
   環境が変化するからだ。環境が変化をすると、善はマイナスー悪になる。
   現在の自民党族議員、ゼネコン、官僚の構造的汚職など典型的なものである。

善意は、善意でよいが! 善意だから何も許されるという甘えがマイナスになる。
日本の裁判の特徴に、善意による脇の甘さが起因しているトラブルがあまりにも多いという。
「友人の困窮に家を貸したが、相手が権利を主張をしてトラブルになった」とか、
「連帯保証に、善意で判を押してしまった」という話だ。その善意が狙われるのだ。

   善意を売りにしている人間で真っ当な人は多いが、
   何らかのペルソナ(仮面)の一部ぐらいに割り切っていたほうがよい。
   ただ、善意ではなく、できることならギブ&ギブを心がけていた方がよい。
   善意と優しさは、似て異なるものである。善意という動機にクールの視線を持てということだ。
   (ウオーム?ハートにはクールヘッドがコインの裏表のように必要である。)
   
 ー以前書いた、善意の小悪党に関する文章である。
  これは、善意ー善人面を売りにして事例だから、すこしづれるが・・。
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