つれづれに

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  今日のYoutube
http://www.youtube.com/watch?v=W1kD9KM7pEo&NR=1

 台風は、予測より被害が少なくすんだようだ。
少しオーバーに報じていれば、最小ですんだということになる。

 明日は母親の命日になる。ずっと昔のように感じられる。
まる14年になるが・・・ 生きていれば100歳を超えている。
今度は自分の老化の問題が始まる。 老いただけ生きたということ。


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1999, 「私」のための現代思想  -3
2006年09月23日(土)        (。^0^。)ノ オッ ^○^*) ハ~ ヨウ
第一章 「私」を縛るものは何か ーⅡ
 ー《価値》についてー

<価値>とは、何が良いか何が悪いかという時の価値基準。良い・悪いの規範のことを「道徳」という。
道徳は私たちに本来セットされている「感じ方」や「考え方」ではありません。私たちが社会から学ぶもの。
多くの場合、道徳は「規範の内在化」という過程を経過して私たちの中に形成される。
道徳そのものに本来は論理性は内在していない、と考える方が妥当です。
 ニーチェは『道徳の系譜』において、キリスト教の価値観の問題点を指摘した。
    その論理展開を箇条書きにすると
   ①、先ずは「力あるものは悪である」と考えた。
   ②、その逆として、「弱いもの=善」と考えた。
   ③、①により「力を自分のために使うこと=利己的な行為」は「悪」とされた。
   ④、③により「利他的・非利己的な行為」が善とされるようになった。

ニーチェは、キリスト教においてこのような論理展開が行われたのは
ルサンチマン(怨恨・反感)」に求めている。

人間は幸福を求める存在である。しかし、自己の幸福を(直接的には)もとめてはならないと
キリスト教は説きます。こうした命令には従うことは普通はできません。 しかし、この宇宙に
絶対者が存在し、その絶対者の意志としてそれが命令であれば、人間は従うしかありません。
 従って①^④に続いて、次のような論理の展開が行われるようになりました。
⑤、利己を求めることは「力の発露」であるから、利己を求める人間という生命体は罪深いものである。
⑥、「利他的・非利己的」行動こそが、「神の意志」である。

 この「僧侶的な善悪の判断基準」と対になるのが、「貴族的・騎士的な判断基準」です。
    ニーチェによると、この判断基準は「力を持つこと」「生を楽しむこと」「創造的であること」が、
    基本的な「善」とされます。 これはつまり、自己を肯定することが「善」であるということです。

これを実現するためには、不断の厳しい努力が必要とされる。
たとえば、戦争や格闘、冒険や探検、狩猟などのように、「鍛えられた力が発露されることによって、
その成否が明確に表現されるもの」においては、「勝利すること」「克服すること」「成し遂げる」が
「善」であり「高貴」であるとされる。 当然負けること、諦めること、弱いことは「悪」とされる。
これは、「能力あるものが、さらにその能力を鍛え上げ、力を行使することによって自己を何がしかのもの
にしていく」という生きかたで、「ローマ的な生きかた」と呼ぶこともできる。
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  ー感想ー
    「意味」の意味の一つに、「価値」がある。逆に「価値の意味」の中に「意味」があるともいえる。
    何かこんがりそうな話だが、「価値」を「意味」とみるのも面白い。    
    自分が家庭や社会などから知らないうちに形成された価値観、これが一番、その人そのものを
    束縛する正体である。その価値観からの自由こそ、真の自由なのだろう。しかし、その価値観は
    手の平と指の関係のように切り離すのは難しい。だから若い時に色いろな伝記を読む必要がある。
    それと、よい学校に行くことも。そこでは良い同僚と、良い先輩と、よい教授に出会えるからだ。
                      (。^0^。)ノホンジャ、マタ!

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2005年09月23日(金)
1634, 創造性とは何かー 日野敬三 対談集

今西錦司との対談「創造とは何か」も深い。
もう23年前の対談で二人とも故人になっているが、生々しい肉声がそのまま伝わってくる。
自らを謙虚にして自然の声を聞く姿勢が、創造の原点であるが、
個性に対して「自己」と「自我」の相対の中から、その意味を導き出しているのも、
鋭い指摘である。

対談者ー今西錦司ー創造とは何か?
  ー父性原理と母性原理
ー今西
西洋では神を一番上において、次に人間を据える。そしてその間が切れている。
そこからもう一つ切りよって、その他の生き物は全部が人間の下に置かれている。
デカルトですけど、「我思う、故に我あり」に当たらん。こいつらは何も考えよらん、
で切られている。縦割りのヒラルキーが厳然と決まっている。我われは幸か不幸か、
そういう絶対的な神はいない。天照大神が一番偉いのだろうが。
ホカに八百万の神というて、さまざまな神様がいるが、これは欧米の縦の系列でなく、
横の系列なのである。ほかの生物に対しても、やはり同じ平面においている。
西欧が父性原理できるところを、こっちは母性原理でつないでいる。
ー日野
私自身も自分を氷山のようなイメージで考えるんです。氷山は水面に出ている一角でね。
水面下の方が大きい。自分が意識している『自我』は、氷山の一角。まあ、ちょっと
光ってるように見えますけど、それだけのもの。本来の自己は海面下の氷山のように、
暗く無限にずうっと広がっていて、その中には自分の過去の経験、父祖の経験、
民族の経験、全生物の三十数億年の経験が詰まっているような気がするのです。
それが更に宇宙までつながっているという感覚をこのごろ持ちます。
ー今西
それは表現を変えたら、意識の世界に住んでいる以上は井戸の中の蛙と同じで、なんぼ教わっても
世界のことはわからない。この文明は、人類の歴史から言うても意識過剰な時代ですね。
ー今西
個性というのはどこにあります?「自己」と「自我」の相対から言うたら個性はどこにあります
ー日野
「自己」の中には本来あるべきものが潜在してあるはずだけど、それをほとんどの人が抑えている、
あるいはそれと通じないようにしている。一種、気味悪いせかいですからね。そのうちのどの部分を
どこまで意識化して、現実化しているかによって、それぞれの個人の個性が出てくるんだと思います。
より深く「自己」を生かして、自分の掘っている井戸の深いところから汲み上げている
個性は強い個性、豊かな個性。貧しい個性、平均的な個性はあまり掘っていないじゃないですか。
その時代、その社会の最も最大公約数的な面で生きている。
ー今西
個性が浅いということですね。
ー日野
そうですね。優秀な個性、劣等な個性はぼくは考えない。「自我」を突っぱねるのではなく本来の
「自己」をより広く深く生かしている個性と、浅くしか生かしてない個性の差だろうと思います。
そこで、じゃあ、どのようにすれば、「自我」を越えて「自己」のひろがりまで達するかという
とことで、先生が「私は山に生きて、山で別世界に触れることが私の想像の根源だ」と
おっしゃったのは、そういう意味だと思います。別社会が何も外にある別社会だけじゃないですね。
自分の中にある別社会でもある。それは山に行くことで、日常から離れられて、
非日常の次元で直感がさえる、はたらくということでしょう。
ー今西
開かれた世界、無意識の世界にどういうチャネルを使って接触しているかという問題ね。
そういうものに触れるチャネルは意識が強すぎたらできへん。
山はじっとしているのとは違って、歩かなくてはならない。いわばそれは「行」とみてよい。
「行」を通じて意識をなるたけ捨てて山に密着していることが、別の世界とのチャネルの
ボタンが押されていることになる。だから山は無念無想に歩いた方がよい。
ー日野
創造的であるということは、そういう回路が開いているということだろう。
閉じているということは、結局、その時代、その社会の最大公約数的な意識だけが
現実で、それを越えるものはむしろ非現実的な事として、自分を退けてしまう。
といって開きっぱなしだと、向こうに行ったきりになる。
ー日野
西欧の世界全体のそういう構造は彼らの心の構造でしょう。いま先生のおっしゃった
日本人のそういう一種の世界観・世界像はわれわれ自身の心の構図ですね。

ー今西
そう。その心の構図が和魂の「魂」ですよ。
ところがいまの学校教育は西欧一辺倒なんで、文部省は、そういうところを
教えない。国が率先して魂を捨てさせている。
そやから、進化論もそれなんですよ。生物の主体性を全然認めようとしない。
で、自然選択という言葉があるように。生物の進化はまず突然変異ができて、
それが環境に選択されるというのです。
突然変異はランダムに生ずるというから、生物の主体性はチットも働かない。
つぎに環境がこれを選択するといったら、これもまた生物は環境まかせで、
チットも主体性を働かせることができない。生物とはこんな憐れな存在なのか。
僕の進化論は主体性の進化論と銘うっています。

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2004年09月23日(木)
1269, 否定的想念の恐怖

人間の脳には、磁力があり、否定的想念を持てば否定的情報とその類の人間が集まり、
反対に肯定的想念を持てば、肯定的情報とその類の人間が集まる。

私の経験でいうと、否定的想念のほうが肯定的想念より磁力は圧倒的に強い。
周囲には否定的想念の情報とその類の人間の方が圧倒的に多いからだ。
肯定は意志を必要とするし、否定的想念は感情のまま周囲と供に流されていればよい。

教養が身につけばつくほど肯定的生き方になるのは、その知識を持つからだろう。
いやそうでもないか。否定的想念の習慣はその人に、必然的に否定的人生を強いることになる。
「否定的想念の恐ろしさ」を説明するにわかりやすい実験として「ヴードゥー死」と
呼ばれる実験がある。
 
 ーその内容とは、
ヨーロッパのある国にプアードという死刑囚がいた。彼はある医師から、医学の進歩のために危険な
実験に協力してもらえないかと持ちかけられた。人間の全血液量は体重の10パーセントが定説と
なっているが、われわれは、10パーセントを上回ると考えているので、ぜひそれを証明したいという。
彼はその申し出を受け入れ、目隠しをされてベッドに横たわったプアメードは血液を抜き取るために、
足の指先を小さくメスで切られた。足元には、容器が用意され、血液が、滴り落ちる音が、
実験室内に響き渡った。

プアメードには1時間ごとに総出血量が、告げられ、やがて実験開始から5時間がたち総出血量が、
体重の10パーセントを超えたと医師が大喜びした時、哀れこの死刑囚は、すでに死亡してした。
ところが、この実験、実は、血液など抜き取っては、いなかったのだ。
彼には、ただの水滴の音を聞かせ、体内の血液が失われていると思い込ませただけだった。
ーこれが、「ヴードゥー死」と呼ばれる現象である。人間の想念には、それだけ大きい力がある。
風邪とか、体調を崩した時は深く考えない方がよい。否定的想念に陥りやすいからである。
それと人生マイナスの時は、否定的想念になっている。仕方がないが。その時は、無理をせず
マイナスの時が過ぎ去るのを待つしかない。

石川啄木の「人がみな我より偉く見ゆるとき、