つれづれに

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 今朝は、雨でミニ・チャリは中止。







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4118, 財政恐慌 ー5
2012年07月04日(水)
          「財政恐慌 ーついに金融と財政の死に至る無限ループに突入した」浜矩子 (著)
 財政恐慌の原因について、明快にプラザ合意によるバブルと崩壊と指摘している。 悪いことに、
国家リストラを建前でいいながら、政治家も国民も、目先の安易を選択し続けてきた。そして、この財政の
惨状に至っても、「成長なくして生存なし」と曰っている。その合意もアメリカの強要で、後で考えてみれば
陰謀としか思えないもの。 しかし、そのアメリカも金融バブルの崩壊である。
  * あの時が、つまずきの始まり
≪『 日本が間違えたのは、1985年のプラザ合意時だと思う。あの時、日本は新世界への大飛躍の入口に
 立っていた。ドルの過大評価が修正されることの裏返しとして円の価値が上がる。それに伴って、日本経済
の体質と構造が変わる 』ハズだった。日本の取った政策はあくまで「円高不況回避」「輸出立国の看板は
下ろさない」であった。悪魔に魂を売ったファウストのような日本経済のファウスト症候群の原点だった。
その結果が、言わずと知れたバブル経済の出現だ。その時に先送りにされた課題が現在の我々に重く
のしかかっている。≫
▼ あの時から27年間、バブルと崩壊を経た後、ただひたすら財政投入を繰り返し、一千兆という膨大な
 借金を積み上げてしまった。考えてみたら私の新潟駅前事業シリーズ、あの時からホテル拡大が本格的に
始まった。投資の資金計画さえ立てれば銀行が応じてきた。そして目先は計画通りに順調に売上が上がったが、
標数字は三年もしないうちに計画より下回っていた。要は、プラザ合意の背景があって資金需要先が必要
だったのである。新幹線開通の勢いと、価格破壊の戦略もあったが、プラザ合意のアダ花でしかなかった。
時代の流れに乗り、その後、激流に流されただけ。それを乗り越えるのが経営。この大津波の飲み込まれた
のは、それまででしかない。何とか近くの山に逃げることが出来たが、山上から見えるのは内海の向こうの
津波。しかし、防波堤の内側の人たちは、のんびり内海を眺めているため、叫び声が聞こえていない。
逃げた人たちが山の上で手を振っているのを見て笑うだけ。江戸の長き眠りをアメリカの強引な開国要求で
醒まされ、無血革命で近代国家造りを余儀なくされ、その膨張の結果、日米大戦に引きずりこまれ敗戦。
その後はアメリカの属国として世界第二位の経済大国になった。しかし、プラザ合意を強引にアメリカに
のまされて、バブルと崩壊の中、ドルとアメリカ国債という紙切れで溜め込んだ資産を収奪されている。
それもこれも娑婆娑婆! 所詮はイエロー・モ(ヤ)ンキーか。
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3752, 創業と 野良の話
2011年07月04日(月)
 ゼネコンは慢性供給過剰状態が30年以上続いている。 某ゼネコンの担当で、4棟を一緒に手がけた
Mさんから聞いた話だが、その本社の営業会議で上司が営業の不甲斐なさを責め立てるに、「野良猫でさえ
自分の餌は探してくる。それさえ出来ないのは、野良猫以下だ!と、罵倒されてきた」と、愚痴を聞かされた
ことがあった。その時、「この人は何も分かってない、野良猫は都会の中、野生の本能を使って食扶持を
探している。生き馬の目を抜くゼネコンの営業は、とことん飢えた野獣の感覚を研ぎ澄まさないと、
その中で勝ち抜けない」という比喩を言ったのである。 大手ゼネコンの中で、中堅ゼネコンの営業が、
修羅場の闘いの中で、獲物を獲得するに野良猫の感覚を持たなければならない。この厳しい環境の中で、
営業は大変である。ここで同じ話をしても、その言葉を解釈出来る人と、侮辱されたという受け止め方しか
出来ない人が分かれる。 私の知人が大手の??を早期退職をして、「独立をしたいので助言をして欲しい」
と頼まれたことがあった。その時に、長年、大組織を背景にした人が果たして一匹狼になれるものか、
本人も、相談された私も疑問であった。 振り返ってみて、よくぞ、こんな失礼なことを言ってしまった
と冷や汗ものだが、「高級住宅に住む宅上犬が、飼い主の家から出て野良犬になるようなもの、外に出れば、
餌を自分で探さなければならない。外でゴミ箱もあさらなけれならない事態もある。その覚悟があれば、
上手くいく」と。 それでも本人は嫌な顔をしないで?聞いていた。 そのまま、その道に突き進み、
経験を生かして第二の職業で自己を確立している。そういえば、以前にも同じような相談を受けた人が、
もう一人いた! その人も二転三転の後、第二の人生をハッピー・リタイアーをした。ギリギリの野生に
立ち返り、見栄も外見もかきすて、ただ成功させるに、どうしたら良いか、考え、準備し、身体が宙に
浮いた状態で、計画をこなしていくかどうかで何とか自立出来る人が1~2割、いや、もっと確率は低い。
それほど自立は難しい。だから野良犬、野良猫という例え話で、創業のシビア(動物的野生)の必要性を、
経験から説くが、その覚悟を反応でみる。 本人は、「頭を垂れて自分の方から聞きにくる第一歩から
して、計画のチェックをしにきているに過ぎない。」で、初めは上手くいっても、私のように震災三つで、
はい、さようなら!である。 何かをやろうとしたら、準備、準備、準備。準備さえしてあれば、野良猫
でも野良犬でも、なれる。 野良犬、野良猫を宅上で軽蔑し、頭で考えていただけで準備なしに、やれば
結果は火を見るより明らか。 否定の視点でしか対象を見ることが出来ないから、その中心点と、
その奥にある、血と汗を感じ取ることが出来ない。場数を踏むか、多くの事例を見て消化してきたかが、
大きく左右する。 それとて死んでしまえば皆、同じ。
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3387, 金融のミニ講演
2010年07月04日(日)
 一昨夜、新潟の駅近くのイタメシ屋で金融のミニ講演会に出席した。日系カナダ人の保険業の社長で、
香港とシンガポールに支店を持っている人の生の金融情勢も面白そう、と。。
 ーその要旨といえばー
・日本国家の金融もギリギリのところに来ているので、海外に口座を作って何割かの金融資産を
出した方がよい。その手伝いが自分の仕事の一つという。世界中の10位の通貨にして置いておくので
リスクヘッジが簡単にできる、とか。
(字数制限のためカット 2011年7月4日)
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3012,死ぬまでに知っておきたい5つの秘密
2009年07月04日(土)
 アメリカのケーブルテレビ局の番組で(死ぬまでに知っておくべき五つのこと)の制作を著者が依頼された
ことに端を発して、周囲の人たちから「幸福な賢人」と見なされている1万5千人の高齢者を探し、その中
から235人の60歳以上の高齢者に「幸福な人生を生きるための秘訣」についてインタビュー。 彼らの言葉
から浮かびあがってきたその「幸福に生きる秘訣」を、「5つの秘密」としてまとめると
1 自分の心に忠実であること    2 思い残すことのないように生きる
3 愛になれ   4 いまを生きよ  5 得るよりも与えよ
 
今さらの内容、それでも1万5千人の統計の結果と言われると、いやに納得するが目新しいものはない。
〈 自分の好きなことをライフワークにして生きてきた者にとって、何を今さら 〉である。
そうじゃないのが大部分だから、こういう番組が出来、こういう綺麗ごとになるのだろう。
 といって、否定するものではない。
 ーそれよりも、その中で紹介している賢人たちの発言が印象に残る。ー
  「自己実現と好奇心と探求に情熱的に取り組むことだ」     ウィリアム 64歳
  「人の顔色をうかがうな」                  ドン 78歳
  「あわてて幕を引くな。アンコールか第四幕がつきものだから」 ジョシ 79歳
  「自分の心に従い、こうありたいと願う人間になりなさい」   ボブ 59歳
  「お金を目標にしてはだめ。節約し、楽しめる仕事を選びなさい」 メイ 72歳
  「つねに、することを五つ以上、見つけなさい」        ルーシー 101歳
  「自分や人を深く尊敬しなさい。人を傷つけてはならない」   ジュリアン 76歳
 ー何事にも興味を持ち続け、周囲には積極的に働きかけ、明るく生きなさい、とうことだ。
周りをみると、歳を重ねるに従い胡散臭くなっていくのが大部分。 人のことを言えるか、と言われ
そうだが。特に、中途半端に生きてきた自主性の無い人ほど群れたがるから「薄汚れたジメジメした悪臭」
が漂っている。 その逆の「不幸に生きる、5つの秘密」という人間になっていく。
1、仲間を大事に、助け合い、自分を高め、奉仕に努める
2、世界は色いろなことに満ちている、独りでは出来ないので、そういう仲間を求めて寄り添い、
  悩みを分かちあうことこそ、老後にまず必要である。
3、愛されるために、自分は生きる。 愛される人間になりましょう。
4、過去の人生を振り返り、その思い出を大事にする。
5、死んでしまえば、それまでよ。 生きているうち、元気なうち。貪欲に人生を求めましょう。
 やはり老人は孤独が似合っている。孤独に耐える老人であるべきである。
 持って産まれた性格もあるが。
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2647, 座敷童子と出会える宿 ?1
2008年07月04日(金)
 
借りてきた「新潮45」の5月号を読んでいると、外務省休職中の佐藤優の手記が載っていた。
それが《私の出会った「日本の妖怪」》という、彼らしくない内容であった。 そこには「座敷童子」と
出会った体験記が書いてあった。彼には圧倒的多数の人にとって予想外のことを勘で当てることがしばしば
あるので、それが霊視能力と勘違いされることがある。 その彼と座敷童子との出会いの体験記が面白く
ない訳がない。東北には、座敷童子が出るのを売りにしている旅館が何軒かあるという。宿泊業をしている
ものにとって、妖怪を売りにしている逞しさに驚くばかりである。それも、二年先まで予約で満席という
から、驚きである。何かファンタジーがあって、面白いキャラで何とも微笑ましいのがよい。
 妖怪に会うと幸福になるというのが、またミソである。たまたま、新幹線の座席の前に置いてある
小雑誌の特集が [東北の妖怪・特集」であった。
  ー まずは、そのサワリを抜粋してみる ー
 *「座敷童子が出た!」
大学生、社会人になって、妖怪のことは、ほとんど忘れていた。私が妖怪を再びリアルに感じるように
なったのは、2年前に岩手県盛岡市で座敷童子に会ってからのことだ。先程、内地の妖怪は「人間に災厄を
もたらす奴らがほとんどだ」と言ったが、もちろん、例外もある。座敷童子は例外的に幸福を呼ぶ妖怪。
座敷童子東北地方で、家の中に出現ナる、子供の姿をした妖怪。これが居ている間はその家は栄えるが、
いなくなると没落するといわれている。子供には姿が見えても、大人には姿が見えない。岩手では、
いくつかの小学校に「座敷童子」が現われた。生徒と遊びたわむれたり、夜九時ごろ、無人の教室で机や
いすの間をくぐっては楽しそうに遊んだりした。やはり、その姿は子供だけにしか見えなかったという。〉
(水木しげる『図説日本妖怪大全一講談社+α文庫)
 (字数制限のためカット 2011年7月4日)
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2007年07月04日(水)
2283, 10歳の放浪記     才ノヽ∋ ー ヾ(^ω^*)
 この日曜日の朝、偶然にBS・NHKハイビジョンで「私が子供だったころ」を観て、思わず涙が溢れた。
昭和25年、東京生まれの児童文学作家・上條さなえさんの実話。10歳の時、父親が事業に失敗し家族離散、
父親と池袋でホームレスの生活を1年過ごし、その後児童福祉施設を経て、後に小学校教員になった経歴を持つ。
その過酷な子供の頃の生活を「10歳の放浪記」と題して本にした。あまりにも悲しい過去のため出版は躊躇
していたが、出版社から「いじめ問題や親子問題が多い現実にひとつの警鐘を」とくどかれ思い悩んだ末、
出版したという。この本を忠実にドラマ化したのが、TVの内容であった。
 ーその大筋を書いてみるー
不動産業をしていた父が事業に失敗して一家は離散。父と東京・池袋の簡易宿泊街で暮らした。
酒浸りの父に代わってパチンコでかせいで夕食にありつく毎日。高度経済成長期の昭和35年の頃の、
学校に行けなかった1年間の生活を淡々と描写してある。父とふたり、池袋のドヤ街でその日暮らしを
していた彼女を支えてくれたのは、街で出会ったパチンコ屋の兄さん、やくざのお兄さん…など普通の人々。 
弱者に対して優しかった時代であった。 そこは池袋駅西口を背にして左に数分歩くと、東京芸術劇場
みえてくる。目的地はその斜め向かいにあるホテルメトロポリタンだ。かつてそこには1泊100円の
簡易宿泊所があった。昭和35年、小学5年生上條は、当時43歳だったその日暮らしの父親と2人、
やむなくのホームレス生活だった。10歳という年で、道にお金が落ちていないか、道をさまよい、
パチンコ屋の前で玉を拾い、パチンコをする。1個、2個、3個と球が無くなり、4個目にチュウリップ
に入り玉が出る。5個目の球が、途中でひっかかると、隣のおばさんが「このスイッチを押すと店員さん
が来てくれるよ」と、教えられ、ブザーを押す。そこの店員が機械が壊れたと思い「どうしたの」聞いた。
さなえは自分がどうしたのかと聞かれたと思い「お父さんが病気なの」とかぼそい声で答えた。
それを聞いた店員は気の毒に思い、多くの球が出してやる。さらに金に換える方法を教えてくれた。
教えられて行った景品屋のヤクザが同情して、高い値段で買い取ってやる。それから毎日、パチンコに通い、
生活を支えた。しかし、ついに父が言う、「なぁ、なこちゃん、父ちゃんお前を育てるのに疲れちゃったよ」
「なこちゃん、死のうか」しかし、「子どもって、かなしいよね。大人に決められたら逆らえないし、
どんないやなことだって、がまんしなきゃならないもんね」「でも、なこちゃんは幸せだよ。お父さんも、
お母さんも、お姉ちゃんも、いるから」。いつも友のこの言葉を反芻し、壊れていく父を励まし、生き抜く。
こうした放浪の状態では、学校に通えなかったが、簡易宿泊所でドリルを使って勉強したり、ヤクザから
算数を習ったり、映画館に通い洋画の字幕などを見て勉強をする。お金がないのに映画館に通えたのは、
「中に父親がいるの。探してもいい?」と受付の人に言って、映画館に「フリーパス」で入っていく
智慧を使う。
    (字数制限のためカット 2011年7月4日)
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2006年07月04日(火)
 1918, ワールドカップ           
前回のサッカーのワールドカップの感想が 2002年07月01日(月) 「454,面白かった!! 」という
テーマであった。前回は日韓共同開催で、当地の新潟でも試合があった。そのわりには、あまり興に
乗っていない。しかし今年は、4年前の何倍も興味を持って観ている。私も変わったものだ。
この4年で多くの劇的な試合を多く観たためである。日本は早々に敗退し、優勝候補筆頭のブラジルも、
準準決勝で敗れてしまった。 ブラジルの二つのジンクス、
・ペレがいた、958年の大会で優勝して以外は、欧州大会開催でのW杯の南米の優勝はない。
・ブラジルは優勝候補に挙げられた時の優勝はない。を破ることはできなかった。         
          (字数の関係でカット、2008年7月4日)
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2005年07月04日(月)
 1553, 宇野千代ー2
あるHPに彼女の語録が出ていた。突き抜けた明るさが全ての語録の中に出ている。
もし鬱になりそうになったら、彼女の言葉を何度も読んでみるとよい。私の場合は、十年以上もトイレ
中村天風の本が置いてあるが。あるHPにあった彼女の語録をコピーしておきます。    
  ー「宇野千代語録」ー 
*信じるということは面白い事である。人の力ではなく、自分の力を信じる、自分にはこれっぽっちの力
しかない、と思っていたときと、そのこれっぽっちの力を大切にし、その上にもまた積み重ねて行く力が
あるかも知れない、いや、あると思うようになったときとは、違う。 (「願望」より)
  ー感想ー
言葉の力こそ、人間のイメージを作りあげる源泉である。
また自分の中の小さな力を見つけ出して、そこに集中することこそ自分の人生のゲーム化の一歩。
  (以下、字数の関係でカット09年07月04日)
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2004年07月04日(日)
 1188, 大丈夫!
斉藤一人氏の本に「大丈夫」という言葉を多用すると良い、とあった。最近その言葉を、おりあるごとに
1人つぶやいている。ところが、それを千回ほど言い終わった辺りから、何か気持が信じられないくらい
気持が楽になった。
(字数制限のためカット2010年7月4日)
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2003年07月04日(金)
 821,ある時間の断片ー28
・10月30日 1968年 
 10時起床、食後、読書と音楽を聴き過ごす。20時に河路さんを羽田に送りへ出発、途中浜松町の
焼き鳥屋で時間調整の為に飲む。21時に羽田到着する。河路さんの家族、大妻女子大、寮生のOB,
友愛関係者など30人が来ている。帰りは友愛関係者の萩原君の車で南波嬢と供に飯田橋まで送って
もらう。一緒に帰ってくるが、話している分には面白い女性である。といって一時、気があったが
醒めてみれば・・・・。夜半の2時ごろまで勉強して就寝。 河路さんもオーストリアに行った。
先輩としての河路さんだが、他人の中傷の無意味さを嫌というほど教えられた。それと言葉で他人を
いかに傷をつけてしまうかを。相手の弱点を探し、中傷することがあたっていればいるほど、他人が
傷ついてしまうことを。それが結果として自分をより傷つけてしまうのだ。自分が他人にしていた事を
彼にやられたということだ。少なくとも自分は変えようとしているだけ良かったのか。
・・・・・・・
2002年07月04日
スイス旅行中
・・・・・・・
2001年07月04日(水)
 [73] 夢についてー4
海外旅行の帰りの機内でみた夢も恐ろしい極限であった。飛行機に乗っているせいか、自分の体が空に
浮いていく。もうじき下に降りるだろうと思うが、どんどん浮いていき電信柱を超えていく。ああもう
これ以上いくと危ないと思った瞬間目が覚めた。そしてほっとして「自分は地上にいる」と思った瞬間、
空中に飛んでいる自分に気づく。自分が空中を1000キロで飛んでいるのが解るのだ。その恐しさは言葉
で表現できない恐ろしさであった。バンジージャンプ落下している感覚であった。 
6~7年前の恐ろしい夢が書いてあるのでまたコピーしておきます。
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ーH0905魂が万代橋の上を彷った話ー
 第2新館の役所の検査の直前の話である。担当の設計士が顔をひきつらせ青い顔をして言うには、
“今回の検査はパスしない!” 一瞬耳を疑ったが、次の瞬間頭の中は真っ白、地獄の底へつきおとされた
思い。“それが本当であれば、あの建物は単なるゴミの山、そして私は?会社は?..
”パニック状態である。それも夕方の飲み会の直前である。 まあ明日の話として、頭も冷やすと
いう事も含めて、焼け酒という事で浴びるほど飲んだ。その夜は満室という事で事務所の長椅子に仮眠。
恐らくそこが不安定という事と、頭がパニック状態という事と酔いを含めて妙な夢になってしまった。
魂が身体より抜け出し、さっきまで飲んでいた古町より万代橋まで目線が5m位の高さでプカプカ浮遊
しているのである。“ああ自分は浮いている。それも魂が”という感覚であった。そして目が覚めて!
魂が浮いていたのはたしか夢か! でもあの話は本当である!それも夢であってほしい!と念じた事を
今でもはっきり覚えている。