つれづれに

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 昨日のシネマは、< 『ゴースト・バスター』の新バージョン。>
前半は面白くなかったが、後半のゴーストが暴れまわる辺りから、
そのド派手なドタバタに圧倒された。ゴーストが街を狭しと暴れまわる
ところが、トリップの幅を大きくしていた。
週に一度としても、現実からトリップできるのは良い。




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3059,逆説思考 -3
2009年08月20日(木)

  * 「逆説思考」を逆説で思考してみよう。
まずは逆説思考の典型的事例は、フランクルの心理学である。フランクル
「夜と霧」で、死と隣り合わせの日々で、コペルニクス的転換の心理転換が起こる。
「人生に何かを求めるのではなく、人生が私に何を求めているか。
そう、生き抜いて愛する人と再会をし、自分の残してある仕事をやり遂げること」
である。人生が何を人に求めているか? 
・創造価値(何かを創造することによって実現される価値)
・態度価値(人生でどうしようもならない究極の場面で態度を変えることで実現される価値)
・体験価値(何かを体験することで実現される価値。美しい夕日や景観を見て実現される価値)
 
これらを知るために、「本当にしたいことは何か」「夢は何か」「人生の目標は何か」を
まず追求すべきである。しかし、自分の人生は無意味という観念にとらわれた人にとって、
その価値を受け容れることが難しい。それでは、どうするか! 「闘う」ことしか、自分の
価値を創りあげることができないのである。
 人生に押しつぶされいる人は、「生きるのが辛くなっている」のである。 
その「つらさ」については仏の哲学者ドゥルーズが原因を追究している。彼は「器官なき身体
という生きることの実相を明らかにしている。我われは「欲望」と「欲求」によって動いている。 
喉が渇けば水を飲むことによって欲求を満たそうとする。
性欲も、食欲も、睡眠欲も、排泄欲もである。しかし、それだけで人間は行動するわけではない。
 自動車がガソリンの補給と、ラジエーターの水の交換だけで動くものではない。
それは自動車が人間の目的のための道具であるのと同じく、人間も、身体の生理的欲求だけでなく、
「器官の欲求」を超えたところに存在する何かのありさまを「器官なき身体」とドゥルーズはいう。 
 ー彼は以下のようにいう。 (*参考 「現代思想の使い方ー生きるのがつらいと感じた時
ドゥルーズ」P176)
「闘いとは、反対に、力と力で補完し、自からの捕らえるものを豊かにするあの『器官なき身体
の生命力のことである。赤ん坊が呈示しているこの生命力、すなわち、執拗で頑で飼い馴らし
がたく、あらゆる器官組織的な生とは異なる、そんな生きるー意志である。」それは、私たちの
「存在そのもの」に由来する力であり、「存在そのもの」が指し示し、進んでいこうとする
方向性である。「存在そのもの」とは「生そのもの」と置き換えることが出来ます。
辛いというのは、その「生そのもの」の発露が何かで阻止された状態である。 
この辛さを克服するには、「器官なき身体」の目指す方向を見据え、その方向に努力することである。
それは、別の存在と衝突し、その価値観を取り込んでいくことにより次第に達成されるのである。
その闘いを、ドゥルーズは『あいだにおけるー闘い』と呼ぶのである。
「あいだにおける闘い」によって、私たちは、
「存在そのもの」へと近づいていくことが出来ます。たとえば自然と闘うとき、
「対抗する闘い」ではなく、「あいだにおけるー闘い」を行うことによって、「自然」と融合し、
新たな何かなることができます。「裁きによって、人は成長しない」と彼はいう。「裁き」は
既存の枠組みによる準拠して何らかの価値判断を行うことであり、それでは、それから一歩も
抜け出せない。 我われが、その裁きから抜け出て闘いを選択しなければならない。
その闘いが我われの生命を輝かせるのである。
 ーーー 以上だが、
生きていくうえで、3C(チャレンジ、チェンジ、コンペティテーション)が必要である。
世界は常に変化しているなら、己も変化しない限り、不自然状態になり、「つらさ」という
圧力が押しかかってくるからだ。フランクルの人生の意味を見出していける人なら、価値を
求めることも出来ようが、意味や価値をどのようにして見出していくかという、更なる根源的
な問いが必要になる。そこにあるのは、闘いしかないのである。
先ほど書いたように「つらさ」は、その闘いの回避に原因があるのである。
常に自問自答している「正中心一点無」の気持ちで問題から目を背けないで立ち向かうしか
ないということになる。 最後の最後は「見方を変えるのではなく、宇宙の中で自分は独り
と自覚し、己の価値を闘い取るべし」ということだ。
アウシュビッツ収容所内では無理だろうが! 部屋の中からなら良い、ということ?

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2694, 「レンタルの思想」-2
2008年08月20日(水)

 二十年ほど前か、「人生は神様からの借り物、何を焦っているのか! 借金も資産のうち、
その資産も借りでしかない。 自分自身も大自然からの借り物でしかない。借りの世界と
言う人生では、何事も真正面から目を離さなければ、 それだけでよい!」と、視点を
見据えたら気持ちの重みが半減した。所詮、娑婆は生きているうちの幻想でしかない。
「色即是空、空即是色」ということだが、それもこれもレンタルと思えば、それでよい。
 宇宙からの俯瞰からみる宇宙的人間論も必要な時代に差し掛かったのである。
ーネットにあった「レンタルの思想」の松井教授の‘インタビュー’の部分をコピーしたー
・夜半球の地球を宇宙から眺めると煌々と輝く光の海が見えます。
 この光の海を "地球システムを構成する人間圏という構成要素"としている。
・大気が見えるとか、海が見えるとか、大陸地殻が見えるとか、森林が見えるとかと
同様に森林は生物圏です。
・我々が一万年前か農耕牧畜という生き方をしている。狩猟採集"と"農耕牧畜"という
生き方を宇宙から見るということと同じですが、地球システムという見方で比較すると、
この二つはまったく違う。 "狩猟採集"というのは、"生物圏"という地球システムの
サブシステムに閉じて生きる生き方です。動物がやってる生き方なんです。我々人類
が700万年ぐらい前に類人猿から分かれたといっても、狩猟採集をしているうちは
基本的にほかの動物と変わらない
 ー人間は、生き物の一種にすぎなかったー
・人間は生物圏の中の種のひとつとして生きているということなんです。
 食物連鎖に連なって、生物圏の中の物やエネルギーの流れを利用して生きる生き方。
 いろんな人類が生まれては消えたという歴史の中で、現生人類も1万年前まではそういう
生き方をしていた。その"農耕牧畜"という生き方を地球システム論的に考えてみる。
例えば、森林を伐採して畑に変えると、太陽から入ってくるエネルギーが地表で
反射される割合が変わるわけです。これは、太陽のエネルギーの流れを変えてるわけ
・雨が降ったときに大地が侵食される割合も、森林に覆われているときと農地とでは
全然違うわけです。それが土砂として海に流れていく。これは、地球における物質
循環を変えるということでしょ」 これはすなわち、地球全体のエネルギーや物質
の流れに関わって生きるということです。 それを地球システム論的に分析すると、
"人間圏"という新しい構成要素をつくって生きる生き方ということになる。
 その結果、地球全体の物やエネルギーの流れが変わったということです」
  ー"人間圏"というのは、我々が生物圏の中から飛び出して作った新たな構成要素ー
・1万年ぐらい前に生まれて、どんどん大きくなって今に至ると。その発展段階での
違いも分析することができます。すると今の人間圏の問題点も浮き彫りになってくる
わけですよね。そのシステムが何であれ、システムを記述するときにはその構成要素
が何なのか、構成要素間の関係性が何なのか、これを特定するとそのシステムの特徴
が分かるわけです。関係性とは駆動力が何なのか、によっています」
 地球システムの場合で言えば、構成要素とは先程述べたようなさまざまな物質圏です。
その関係性とは例えば、海から蒸発した水が大気中で雲を作り、雨となって落ちて
大陸を侵食して……といった循環ですね
・人間圏の場合だと、産業革命のころまではその誕生以来、基本的な変化はありません。
 駆動力という意味では、地球システム固有の自然のエネルギーを使っていたという
ことです。すなわち、地球という星全体の物やエネルギーの流れを人間圏にバイパス
させていたということです。日本だと江戸時代まで、ずっとそうなんです」
・体にしたって、皆さん自分の体だと思ってるでしょ。でも、自分の体じゃないよね。
 生きている間、地球から借りてるだけだよね。
・元々地球を構成している元素の一部をたまたま体として利用している。我々が生きる
ときに身体という物が重要なんじゃなくて、それぞれの臓器が重要なんです。
人体というシステムを構成する構成要素ですが、その臓器がそれぞれの機能を発揮して、
人体というシステムを作ってる。重要なのは、その臓器の機能なんですよね
・これはどういうことかっていうと、実は身体という物を所有するんじゃなくて、
レンタルしてるということです。こういうふうに物事を考えない限り、地球システム
と調和的な人間圏は作っていけないこういう方向に動いていかなきゃいけないけど、
これは基本的には資本主義経済とか市場主義経済とかと矛盾するよね
「例えば江戸時代だと、領地にしても家屋敷にしても、所有しているのではなく、
貸し与えられているだけですね。」
「そのころは、もともと所有なんて概念はない。みんなレンタルだった。加えて駆動力
をその内部にもたないから、江戸時代に環境問題なんてほとんどない。
これは地球システムと調和的な人間圏。 そういうことを考えてみれば、わたしの
言ってることはそんなに荒唐無稽じゃないんだけど」
 ーー
 一万年来の、大転換期に差し掛かっているのは解っていたが、それは情報化時代の
到来が起因と思っていた。それが人間圏の膨張による限界点を超えたことによる、とは。
 地球のシステムが間違いなく人間圏を破壊する。それが温暖化による天変地異や、これ
から間違いなく数千万規模の死者が予測される鳥ウィルスの流感や、エイズである。 
それを目の当たりに見ているのである。 ミャンマーのサイクロン、中国の四川省
地震、至近では中越地震中越沖地震、これは始まりでしかない! 人生の元を
 取っている?ので、諦念でとらえているが、しかし5年~10年スパンのことではない。
 50年~100年単位で、いやもっと大きなサイクルだろう。20世の人類は何をしたのか?
 未来の人類に。
   
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2007年08月20日(月)
 2330, 「ぼくの血となり肉となった500冊」 
                          ー読書日記
         (`・ω・。)っノXXXXXXX>C 才ノヽ∋―
 「ぼくの血となり肉となった500冊そして血にも肉にもならなかった100冊」
                          ー著者 立花隆
昨日の「株価暴落の意味するもの」で引用したが、この一ヶ月は隙間時間があると、
この本を読んでいる。彼の猫ビルにある3万5千冊の中から選んだ数百冊の本の
ミニ・ダイジェスト。 数行から数十行の内容がキラリと光っているものばかりである。 
ランダムに面白そうな部分を抜粋しながら考えるに丁度良い。
『思索紀行 ぼくはこんな旅をしてきた』の続刊的な本である。
この本がキッカケで、彼の著書「エーゲ 永遠回帰の海」を買って読んで、
今年の旅行ははギリシャと決定した。更にウィトゲンシュタインの「90分でわかる
ウィトゲンシュタイン」を買った。 彼の本は、読書のナビゲーターとして割り
切って読んでいる。まずは、彼の彼たる所以である特徴の部分から抜粋してみる。
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*フィクションからリアル世界へ(P-64 )
  (字数の関係でカット2008年08月20日) 
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