つれづれに

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 今日のYoutube

昨日の朝に、一番上の姉の連れあいが亡くなったという知らせが入った。
たまたま、私の長男が、ヘルニアの手術の時間が同じというのも何かの因縁か。
明日、通夜。明後日の11時から本葬といいう。 私は本葬だけに出ることにした。

色々あったが、一時期、地元の名士様の中で、華やかな存在だった。
これも、一つの生き方と、感じ入っていた。 
人生の後半は、倒産もあって、恵まれない状態だった。
あれだけ、楽しめば十分、人生の元はとっただろう。
享年、86歳。 ご冥福を!



・・・・・・
2694, 「レンタルの思想」-2
2008年08月20日(水)

 二十年ほど前か、「人生は神様からの借り物、何を焦っているのか! 
借金も資産のうち、その資産も借り(仮り)でしかない。自分自身も
大自然からの借り物でしかない。借りの世界と言う人生では、何事も
真正面から目を離さなければ、それだけでよい!」と、視点を見据えたら
気持ちの重みが半減した。所詮、娑婆は生きているうちの幻想でしかない。
「色即是空、空即是色」ということだが、それもこれもレンタルと思えば、
それでよい。宇宙からの俯瞰からみる宇宙的人間論も必要な時代に
差し掛かったのである。
 ーネットにあった「レンタルの思想」の松井教授の
‘インタビュー’の部分をコピーしたー

・夜半球の地球を宇宙から眺めると煌々と輝く光の海が見えます。
 この光の海を "地球システムを構成する人間圏という構成要素"としている。
・大気が見えるとか、海が見えるとか、大陸地殻が見えるとか、
 森林が見えるとかと同様に森林は生物圏です。
・我々が一万年前か農耕牧畜という生き方をしている。狩猟採集"と
 "農耕牧畜"という生き方を宇宙から見るということと同じですが、
 地球システムという見方で比較すると、この二つはまったく違う。
 "狩猟採集"というのは、"生物圏"という地球システムのサブシステムに
 閉じて生きる生き方です。動物がやってる生き方なんです。
 我々人類が700万年ぐらい前に類人猿から分かれたといっても、
 狩猟採集をしているうちは基本的にほかの動物と変わらない
  
  ー人間は、生き物の一種にすぎなかったー
・人間は生物圏の中の種のひとつとして生きているということなんです。
 食物連鎖に連なって、生物圏の中の物やエネルギーの流れを利用して
 生きる生き方。いろんな人類が生まれては消えたという歴史の中で、
 現生人類も1万年前まではそういう生き方をしていた。
 その"農耕牧畜"という生き方を地球システム論的に考えてみる。
 例えば、森林を伐採して畑に変えると、太陽から入ってくるエネルギーが
 地表で反射される割合が変わるわけです。これは、太陽のエネルギーの
 流れを変えてるわけ
・雨が降ったときに大地が侵食される割合も、森林に覆われているときと
 農地とでは全然違うわけです。それが土砂として海に流れていく。
 これは、地球における物質循環を変えるということでしょ」
 これはすなわち、地球全体のエネルギーや物質の流れに関わって生きる
 ということです。それを地球システム論的に分析すると、"人間圏"という
 新しい構成要素をつくって生きる生き方ということになる。
 その結果、地球全体の物やエネルギーの流れが変わったということです」
  ー"人間圏"というのは、我々が生物圏の中から飛び出して作った
   新たな構成要素ー
・1万年ぐらい前に生まれて、どんどん大きくなって今に至ると。
 その発展段階での違いも分析することができます。
 すると今の人間圏の問題点も浮き彫りになってくるわけですよね。
 そのシステムが何であれ、システムを記述するときにはその構成要素が
 何なのか、構成要素間の関係性が何なのか、これを特定するとそのシステム
 の特徴が分かるわけです。関係性とは駆動力が何なのか、によっています」
 地球システムの場合で言えば、構成要素とは先程述べたようなさまざまな
 物質圏です。その関係性とは例えば、海から蒸発した水が大気中で雲を作り、
 雨となって落ちて大陸を侵食して……といった循環ですね
・人間圏の場合だと、産業革命のころまではその誕生以来、基本的な変化は
 ありません。駆動力という意味では、地球システム固有の自然のエネルギー
 を使っていたということです。すなわち、地球という星全体の物やエネルギー
 の流れを人間圏にバイパスさせていたということです。
 日本だと江戸時代まで、ずっとそうなんです」
・体にしたって、皆さん自分の体だと思ってるでしょ。でも、
 自分の体じゃないよね。生きている間、地球から借りてるだけだよね。
・元々地球を構成している元素の一部をたまたま体として利用している。
 我々が生きるときに身体という物が重要なんじゃなくて、それぞれの臓器が
 重要なんです。人体というシステムを構成する構成要素ですが、その臓器が
 それぞれの機能を発揮して、人体というシステムを作ってる。重要なのは、
 その臓器の機能なんですよね
・これはどういうことかっていうと、実は身体という物を所有するんじゃなくて、
 レンタルしてるということです。こういうふうに物事を考えない限り、
 地球システムと調和的な人間圏は作っていけないこういう方向に動いて
 いかなきゃいけないけど、これは基本的には資本主義経済とか市場主義経
 とかと矛盾するよね
「例えば江戸時代だと、領地にしても家屋敷にしても、所有しているのではなく、
 貸し与えられているだけですね。」「そのころは、もともと所有なんて概念はない。
 みんなレンタルだった。加えて駆動力をその内部にもたないから、江戸時代に
 環境問題なんてほとんどない。これは地球システムと調和的な人間圏。
 そういうことを考えてみれば、わたしの言ってることはそんなに荒唐無稽
 じゃないんだけど」
ーーーーー
一万年来の、大転換期に差し掛かっているのは解っていたが、それは情報化時代の
到来が起因と思っていた。それが人間圏の膨張による限界点を超えたことによるとは。
地球のシステムが間違いなく人間圏を破壊する。それが温暖化による天変地異や、
これから間違いなく数千万規模の死者が予測される鳥ウィルスの流感や、エイズである。 
それを目の当たりに見ているのである。ミャンマーのサイクロン、中国の四川省
地震、至近では中越地震中越沖地震、これは始まりでしかない!
人生の元を取っている?ので、諦念でとらえているが、しかし5年~10年スパンの
ことではない。50年~100年単位で、いやもっと大きなサイクルだろう。
20世の人類は何をしたのか?未来の人類に。
   
・・・・・・・・・
2007年08月20日(月)
 2330, 「ぼくの血となり肉となった500冊」 
                          ー読書日記
         (`・ω・。)っノXXXXXXX>C 才ノヽ∋―
「ぼくの血となり肉となった500冊そして血にも肉にもならなかった100冊」
                           ー著者 立花隆
昨日の「株価暴落の意味するもの」で引用したが、この1ヶ月は隙間時間があると、
この本を読んでいる。彼の猫ビルにある3万5千冊の中から選んだ数百冊の本の
ミニ・ダイジェスト。 数行から数十行の内容がキラリと光っているものばかり。 
ランダムに面白そうな部分を抜粋しながら考えるに丁度良い。
『思索紀行 ぼくはこんな旅をしてきた』の続刊的な本である。
この本がキッカケで、彼の著書「エーゲ 永遠回帰の海」を買って読んで、
今年の旅行ははギリシャと決定した。更にウィトゲンシュタイン
「90分でわかるウィトゲンシュタイン」を買った。彼の本は、読書のナビゲーター
として割り切って読んでいる。まず彼の彼たる所以である特徴の部分から抜粋してみる。
 ---
*フィクションからリアル世界へ
(P-64 )
立花: 小説などフィクションの世界は、ぼくにとってリアルな世界の外に
あるものなんです。幻の世界は人間がいつでも作ったり消したりできる仮象の世界です。
しかし、リアルな人間社会の存在物のほうは勝手に消去できないじゃないですか。
そういう意味において、前者はもちろん後者も、「神様が作った被造物の世界」
のほうに属しているとぼくは思っています。つまり二つの「リアルな世界」
(自然世界とヴィーコ的人間社会の産物)は、どちらも神様が作った世界、人間が完全
コントロールできない世界といっていいと思うんです。神様の構想力と想像力は、
いい意味でも悪い意味でも人間の構想力と想像力をはるかにこえた高みに達している
ということです。 リアルな世界を取材して書くという仕事をつづけていると、
取材が深まるにつれて、前にはとても見えなかったすごい世界が見えてきます。
リアルな世界の極限部分は、あらゆる意味において通常の人間の想像力をはるかに
こえたところにあります。ぼくの取材仕事の半分くらいは、科学技術の世界に
ありますが、その世界でも同じことがいえます。極限部分は人間の想像力をこえます。
人間的世界の悪の世界においても、人間精神の高貴さの点においても、
あるいは数多の自然科学的世界の自然現象のパラメータにおいても、
あるいは人間が作った工学的世界のパラメータにおいても、途方もないものが、
この世の中に存在するというのが、リアルな世界の面白いところです。
極限世界を見る経験が積み重なるにつれて、ぼくの中で自然に、
フィクションの世界とノンフィクションの世界の間の価値の逆転が起きました。

 ーそれはいつ頃の話ですか。
立花: その逆転がいつどこで起きたのか自分でもはっきりしないのですが、
かつては、将来いつかフィクションの傑作を書いてやろうと思っていたのに、
あるときからそのようなことを夢想することが全くなくなりました。いまは、
作りものの世界より、リアルな世界のほうが何層倍も面白いと思っています。
しかし文春を辞めたばかりの頃は、寺山が書いてくれたオビに
「てっきり小説を書くのだろうと思った」とあるように、確かにぼくの心は、
フィクションとノンフィクションの間でゆれていたんです。
というよりは、むしろその間にあるもう一つ別の軸、先に述べたような、
「哲学的な新しい世界認識を得ることの誘惑」の間でゆれていたんです。

 ーしかし、ヴィーコなんていう妙な人のことをよく知っていましたね。
 (字数の関係でカット2008年08月20日) 

・・・・・
1600, 第三の時間
2005年08月20日(土)

ーやすらぎのとき

人間の流れている時間には、

仕事時間、
遊び時間、
やすらぎ・ゆとり時間
 
大まかの三つの時間がある。

私の人生を振り返ると、その一番大事なやすらぎ時間がタップリあった。
それが私の人生を豊かにしてくれた。
朝のパソコンタイム、散歩、寝床前の音楽タイム、
そして海外旅行などがそれに当たる。
海外旅行では、飛行場や飛行機の中で「待つ」ということは苦痛ではなく、
旅行中の待機という至福のときになる。

独りで散歩をしたり、夫婦で海外旅行にいそいそ出かけ、あまり群れないので
付き合いの悪い男に見えるだろう。
しかし、この時間を意識的に創れるかどうかが人生を分ける。
ここに重心を置くと、世間付き合いを犠牲にすることが多くなり、
アウトサイダー的になる。
そんなものは当人にとって如何でもよいことだが。

ところで、ある本に
ー沙漠の「とき」ー
    中央大学総合政策学部教授
             片倉もとこ
という文章があった。
ふかい人生をこの文章の中に垣間見たようだ。

ー抜粋してみるー
 沙漠で生活すると、人間の存在が、きわめて小さく、
しかし大きく感じられることがある。
それは、刻まれるものとしての時間が、天空に吸いとられてしまったような
「とき」を経験する瞬間である。遊牧民と一緒にいると、静かな長い長い
沈黙がながれることがある。
あるいは、彼らの暮らしの中では日常になっている瞑想の時でもある。
それは、近代的な時間のなかで生活いなれた人間にとっては気まずい時間だったり、
非生産的だと思われ、ばつが悪かったり、何がしかの焦燥感を抱かせるものだ。
しかし時間が消散してしまうと、空間がクローズアップされてくる。
時間に関する指標は、場所の指標でおきかえられる。

 彼らにとって場すなわち空間が非単位的であるように空間の一部化している
時間も非単位的である。時間が単位ではかることができないものゆえに、
利息をとることの否定につながる。
たばこをのんで間をもたせる道具ではない。たばこ自体を楽しむ時間を、
たっぷりととる。
沈黙の時間に出会うと、近代的な私は、何でもよいから、おしゃべりを続けねば
という焦りに似た気持ちが湧いてくる。可視的、可聴的なもので埋めることが、
生産的、つまり礼儀だと思い込みが近代人の習癖になっている。
しかし、彼らは泰然としている。

・・・・・・・
2004年08月20日(金)
1235, 「こころ」の出家(2)-読書日記

ー「第1章 人生を振り返るとき―C.G.ユング
 「中年」の発見(ある「失踪」午前の人生、午後の人生)

中年真っ盛り、いや終盤に入った私にとって、この時期の心的風景は面白い!
今まで振り返らないようにしてきた過去が、いやに鮮明に思い出されてくる。
ーこの随想日記を書き続けていることも大きく影響しているが。

自分の人生とは何だったのか?
あの時の判断は、考えは、果たして正しかったのだろうか?
あの時の、あの人の気持はどういう気持ちだったのか?

この歳になって、初めて気がつくことが本当に多い。
そして、過去の、その時々の自分のペルソナ(仮面)が、よく見えてくる。
僅かしかない知識で、精一杯生きていた若い時の自分の姿が走馬灯のように、
よぎっても来る。

ユングは、
人生の午前と午後は、その優劣を比較するものではなく、
全く違う意味と価値を持つものだという。
若いころの「発達中心のライフサイクル観」から、もう一つの座標軸の
模索を勧めるユングの考え方を「出家」と、とらえるのは自然である。

人生を振り返ってみて思うことは、
生きるということは「自分への旅」ということである。
四国のお遍路は「過去の自分に向かって歩くこと」だというが、
生きるということは、いま現に自分に向かっての旅をすることだ。
そして、最後には無に帰っていくのだ。

ー第一章の印象に残ったところを抜粋してみる。

こころの出家とは、歩いている道から離れることだ。自分の周囲に
張りめぐらした垣根(ペルソナー仮面)を取りさることである。
神吉拓郎の「金色の泡」の中での主人公欣吾と従兄弟の会話で
以下のことを語らせている。

ー文雄がいった。
「俺、発見したんだ」
「なにをさ」
「40にして惑わず、という言葉があるだろう。騙されてはいけない。
 あれは偉大なる皮肉なんだ。本当はそうなんだ」
「どうして」
「とにかく、そうなんだ。40前には、迷うことなんかないよ。
 夢中だよ。世の中に出たばかり、目がくらんでいるか解らない。
 あり合せの目標に突っ走る。
 一段らくしたときが一番恐い。
 40をすぎた頃に初めて迷いが出るんだ。
 今まで何をしてきたのだろうか気づくんだ。
 え、そうじゃないか。迷いが出てきただろう」
「そういえば、そうかな」
「迷うのは、40からなんだ。それが本当だよ。恐らく、死ぬまで迷い続ける
 んだろうと思う」
「迷わない奴だっているだろう」
「そんな奴は、一生馬鹿なままさ。しあわせという言い方もあるだろうがね」

ペルソナは必要なものである。それは一定の効果を持つし、社会を渡って
行くために不可欠かもしれない。しかし、その仮面を剥いで生きたいと、
こころの奥に思っているものだ。
そのことに気づき、生き方の大転換を図るのが、こころの「出家」なのだ。

ペルソナについて、ユングは、外部に対する適応とか、やむをえない便宜とか
理由から生まれてきた一種の「機能コンプレックス」であるという。
それは個性というものとは違うものである。
安定したペルソナの下に。常にそれに影響を与え、それを脅かす内的世界が
存在している。ーーーー

 ---

以上であるが、
人生の後半に入り、内的世界に目を向けたとき、それまでの
自分が全面否定されることが多くなる。
これが恐ろしい。老人の無言の暗い顔を時時みるが、もしかしたら
全面否定をして押しつぶされたのかもしれない。

・・・・・・・・・
・・・・・・・・・

2003年08月20日(水)
868, 「ロバート・アレンの実践億万長者入門」ー1

― 生涯続く無限の富を得る方法
 
 全米でベストセラーのこの本、著者が長年にわたって蓄積したきた
ノウハウを読みやすく、解りやすく、実践しやすく、具体的に書いてある。
しかしちょっとしっかりした女性なら誰もが実行している内容が多い。
その当たり前のことが多くの人が解ってないのだ。
だからこそ全米でベストセラーになる。
よく読んでいると「長期的に貯まる生活習慣をたてよ」ということだ。
その長期的合理的システムを生活習慣に組み込むことを具体的に説いている。
私の両親が教えてくれたことだ。

 子供の時から大晦日、お年玉を兄姉全員が貰った。
そして全員に貯金通帳をつくり、半強制的に預金をさせていた。
姉たちには結婚の基礎資金にしていた。
結婚数年後に、それを元銭にして家を建ててやった。

 私の場合は特別に高校に入ると同時に株を買えと勧められた。
「何を買うか株の銘柄を調べて、自分で選択せよ」という事だった。
自分は当時、ある持病を持っていた。
その特効薬ができたという新聞記事を読んでいたので、その会社の株を買った。
「科研」という会社であった。それから株式の欄を毎日見るようになった。
父の狙いは経済に興味を持たせ利殖をおぼえさせようということだった。。
株を買って以来、今日まで株のコーナーを見ない日は殆どない。

                  -続くー

以下はインターネットで調べた内容をコーピーした。
  
  ・・・・・・・・・・・・・・
「ロバート・アレンの実践億万長者入門」
ロバート G. アレン (著),  
今泉 敦子 (翻訳), 神田 昌典 (翻訳)
価格: ¥1,800
  ・・・・・・・・・
ー レビュー ー
頭金なしで不動産を購入する方法(もちろん一括購入ではない)を記し、
全米ベストセラーとなった『Nothing Down』(邦題『ナッシング・ダウン』)
の著者、ロバート・G・アレンによる資産運用術。
元手をほとんど、あるいはまったくかけずに「家にいながら1日1000ドル稼ぐ」
「年収をあと5万~10万ドル多くする」方法などはにわかには信じがたいが、
読めば著者の意図がわかる。

・ まず多くの「金持ち本」同様、億万長者になるために必要な知恵や経済観念、
身につけるべき習慣が論じられている。その主旨は、1日1ドルの投資、
1セント単位の支出の把握や削減といった地道な努力が結果として実を結ぶと
いうもの。

・加えて収入面では、複数の収入の流れをつくり、利子、印税、
コミッション、賃料収入といった「一生型収入」を得ることを必須としている。
容易ではないが、大きく稼ぐには妥当な筋道といえよう。

ー 肝心の億万長者になる方法については3分野が挙げられている。
・その1つ「株式投資」では、
金融商品の種類や売買のタイミングなどが
論じられている。内容は投資関連の本などでよく語られているもので、
それほど新鮮味は感じられない。

・2つ目は著者の専門分野である「不動産」で、
格安不動産を見つける方法や頭金をゼロにして購入するテクニック、
転売で稼ぐ方法などが披露されている。日本の不動産事情も考慮する必要が
ありそうだが、そのゲリラ的なノウハウにはただ敬服する。

・3つ目が「マーケティング」で、
マルチ商法自費出版、各種情報コンテンツの販売、ライセンスビジネス、
インターネット販売などが論じられている。知的財産の販売が中心であるが、
その価値を引き出すマーケティング手法にヒントが詰まっている。

億万長者になる直接の方法ではないもの、特定のスキルを要するもの、
日本の事情とは異なるものなどもあり、即実践できる項目は多くない。
ただ、大金を稼ぐためのアイデアは確実に学べる。また、身の丈から始める
ビジネスの可能性が幅広く検討されていて、フリーの在宅ビジネスを
手がける人には刺激になるはずだ。
とにかく試すことでしか、真価のわからぬ1冊である。(棚上 勉)

ー内容ー
一生続く「複数の収入の流れ」の構築法を教える。自分の財務状態を
コントロールする方法、家にいながら1日1000ドル稼ぐ方法、年収をあと
5万~10万ドル多くする方法などを伝授。

  ー目次ー
・イージー・マネー
・10分間で億万長者!
・マネーツリー・フォーミュラ
・経済的自由を生み出す山脈
・株式市場で成功する
・不動産で大きく稼ぐ
・抵当流れと転売で稼ぐ
・ネットワーク・マーケティング
・情報ビジネス
・ライセンシング
・インターネット
・バランスをとる
・分かち合う

・・・・・・・・・
・・・・・・・・・

2002年08月20日(火)
493, 女の盛り

 表面的のことだが
・女性の若いときの盛りは、やはり18歳から21歳。
・次は少し社会に揉まれた30歳あたりだ。

・最後の円熟の年増の最高潮が41歳である。
 これは生命保険の偉いさんから聞いたが、正しくそのとおりである。
 妙齢の年頃という頃だ。
 
・往年の大女優がエッセイで書いていたが、
 45歳を境に坂道を転げ落ちるように、衰えが激しくなる。
 姉や従姉妹など見ていると全くそのとおりになっていった。
 色が全体に黒くなってくる。閉経期と一緒だ。
 
 それに図々しさが加わると小母ちゃんになってしまう。
 その時こそ、本当のお洒落が必要になってくるという。
 それと教養が顔に出てくるから更に怖い。

 去年の同級会に出てびっくりした。
 55歳の同級会であったが、見事おばさん化していた。
 男もそうだが、それでも女性ほどではなかった。
 肉体の衰えが、精神を抑えることができないのだろう。

 そこに残るのは品性だけだ。
 そういう意味で、品性は大事である。
 その時にお洒落の意味が出てくるという。
 如何に老いをプラスに表現できるかである。
 けっして若く見せることでない。

 TVタレントや女優を見ていると、その良し悪しが見えてくる。

・・・・・・・・
・・・・・・・・

2001年08月20日(月)
[114] メキシコ旅行記

現在旅行記のコナーが不調の為掲載できなかった旅行記仮に
このコーナーで載せておく。

2001/02 近畿ツーリスト
とにかくいいかげんな陽気な、しかし奥行きの深いラテンアメリカの国だ。
世界遺産だけで21もある遺跡の国でBある。
文明はBC5~AC16にかけてさかえた。
メキシコの大半が1000メートルをこえる高原で、
国土の4ぶんの3が荒地である。
今回の旅行は代表的な‘テオティワカンの遺跡’と‘チェチェンイッアの遺跡’と
ウシュマルの遺跡’と世界的リゾート地‘カンクン’のツアーであった。
1、まづはてオテオワカンの遺跡―  
  メキシコシテーの50キロの近くにあった。
  BC2につくられ当時20万の人口があった。
  高さ46メートルの月のピラミッドと65メートルの太陽のピラミッドと
  南北4キロを貫く死者の道があった。
  ここで不思議に思ったのはエジプトと全く交流がないのに、
  カタチと大きさが同じピラミッドがあることである。
  神聖なおおらかな感じがした。
2、次はチェチェンイツアの遺跡―
  チェチェンイツアは'泉の近くに住む魔法使い'という意味であるという。
  そこのピラミッドは365段の階段で出来ており、暦をあらわす。
  いけにえの泉も印象的であった。
3、ウシュマルの遺跡は都合三回建替えられたという。
  小人が一晩で造ったという伝説のある卵型の'魔法使いのピラミッド'
  が印象的であった。東洋的な神秘性が漂っていた。
4、カンクーンはこの旅行で初めて知ったが、世界に誇る大リゾート地であった。
  幅2~300メートル長さ数キロの半島に、100以上のリゾートホテルが立ち並ぶ
  カリブの別天地という感であった。
 
  メキシコの今の現状は思っていたよりずっと豊かであった。