つれづれに

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今日のYoutube

 今朝は、雨で早朝チャリ乗りは中止だったが。

「大事なことは、何を見るかではなく、何が見えてくるかである。」という、
ソローの言葉がある。その事象に隠された本質をみつけることこそ、
重要になる。特に、人生を生き抜いてきた晩年こそ、必要になる。
 だから、老いてこそ、学ばなければならないのは、このことだ。

・・・・・・
「自己を見つめる 」-22
2011年05月17日(火)                
   * 死について ー?    「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
 死に際し、結局は神に頼りざるをえないのが人間。絶対者への希求に行き
当たるのである。 最後は絶対者の支えなしには、人間自身が、己を支える
ことが出来ないのである。私という主体が死という終わりに、
根本態度として神様無しにはいられない。
【 神の子であるイエス自身が、ゴルゴダの丘で十字架に架けられたとき、
「わが神、わが神、なぜわ私をお見捨てになったのですか」と、大声で叫んだ。
西田幾多郎が、言ったように、有限性の極みのなかで、その逆対応的に、
絶対者への希求が現れてくるのである。もちろん、その絶対者をどのようなもの
として思い描くかという立ち入った内実は、宗教的信仰によってさまざまであろう。
しかし、そうした観念の根底に、すべてを知る者としての絶対者という概念が
潜むことだけは明らかである。なぜなら、この現実の悲惨をすべて知り尽くし、
その上で、さらに、それを裁き、審判し、あるいは、善き者を許し、嘉し、
こうして、すべてについて、正義の秩序を保持して、万物を支え、生かし続ける
であろうところの絶対者というものの観念の根底には、その根本前提として、
その者が、生起したいっさいの出来事を見抜き、知り尽くし、記憶し、
けっして抹消されることのない全知のなかにこれを映し出す働きを行うという
ことが、予想されているからである。万物を知り、そのあるべき秩序を保持し、
それらすべてを見抜いて、審判と恩寵を与え、そのようにして、それらを本当の
意味で生かす根源的な働きを行うところに、絶対者の絶対者たるゆえんがある
ことを、誰もが理解しているからである。そうした絶対者が、実際にどこかに、
この世界の内にか、あるいはその外にか、確固として、人間を越えて、現実に
存在するかどうかが、問題であるのではない。そうではなく、むしろ死の限界
意識および、それと連なる人間の悲惨という事態の自覚を介して、私たち人間に、
懐疑と絶望と憂悶のなかで、それと矛盾するかのように、こうした絶対者への
希求が湧き上がってくるという、その抑えがたい祈願の強靭な根源性そのものが
問題なのである。そこに、絶対者の観念の生まれ出る根源があるということが
大切なのである。言い換えれば、死の問題意識は、こうした絶対者の観念を生む
土壌であるという根本事実が重要なのである。おそらくは、そうした絶対者の
観念は、私たち人間自身の救いようのない現実意識の裏返しにすぎないのかも。 
しかし、私たち自身のうちには、時を越えた不滅の全知の存在を要請する根強い
希求が、最後の時に至るまで、燃え盛っていることだけはたしかである。
それが、人間の生存とその努力を内面から支える根拠をなしている。 
その根拠への確信が引き抜かれるとき、おそらく、人間の生存は、その究極の
意味と支えを失い、人間自身が、崩壊するであろう。人間の生存の営為が無意味
でないためには、その精進と努力のいっさいを移ろうことなく見届け、意味
づける絶対者の眼差しがどこかに存在しなければならない。誰もが、みずからの
心の奥深くに、そうした絶対者の眼差しの影を宿している。そこに、人間存在の、
畏怖すぺき尊厳の最終根拠がある。それは、死をも越えて光輝く人問の尊厳で
あり、人間をとおして瞬く絶対者の眼差しである。 ーP・291 】
▼「死の問題意識は、絶対者の観念を生む土壌であるということが重要。 
 絶対者の観念は、人間自身の救いようのない現実意識の裏返しにすぎない」 
絶対者の眼差しが人間には必要欠くべからざるである。大部分の凄惨な最後は、
それを示している。
 ・・・・・・・
3339, 2011年新聞・テレビ消滅  -2
2010年05月17日(月)
           「2011年新聞・テレビ消滅 」ー佐々木 俊尚 (著)
 現在のマスメディア崩壊の原因の1つとしてメディアのプラットフォーム化
の進展をあげている。 これまでは新聞社の社員が記事を書き、紙面をつくり、
印刷し、それを販売店に届けた。販売店も専売店としてネットワーク化。
これを3つの層に分けて説明する(もとはグーグルの及川卓也氏の説)。
   その3つの層とはコンテンツ、コンテナ、コンベヤというモデル。
● コンテンツ=内容  ● コンテナ=内容を納める媒体 
● コンベヤ=媒体の流通経路  という形で説明している。
* これから旧来の新聞を分類すると、
 コンテンツ=新聞記事
 コンテナ=新聞紙に印刷された記事(新聞紙そのもの)
 コンベヤ=新聞販売店 となるが、
  インターネットでニュースを読む層が増えてきた今は、
 コンテンツ=新聞記事
 コンテナ=新聞紙、またはニュースサイト
 コンベヤ=新聞販売店、またはインターネット
  と変化してきているとのこと。
*  テレビだと、コンテンツ=番組、コンテナ=テレビ、コンベヤ=地上波
 衛星放送、CATV。これがコンテンツ=番組、コンテナ=ユーチューブ、
 コンベヤ=インターネット、という形に移行し始めている。  
   (字数の関係でカット 09年05月17日) 
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2964、「未婚社会」
2009年05月17日(日)
 先日のNHKの特番「未婚社会」をみたが、収入に対して女性がシビアな
現状に驚いてしまった。長期停滞景気などの時代背景が、そうさせている。 
最近は男性の収入も少ない。平均収入が200万円の男性が一番多いが、女性が
男性に望む最低年収は400万円。20代の独身男性で年収400万円以上は
4分の1しかいない。男の非正社員の既婚率は正社員の約2分の1。
30歳になっても、この時勢では給料が右上がりにはならないなら、互いに
ミスマッチになる。セクハラを恐れて職場の女性に近付けない男性の声も。
それなら男は自分の趣味に没頭するしかない。女性の魅力も情報化で減少する。 
法的に縛った現行の結婚制度に対する反対もあったが、頭でっかちの感も。
ドイツの新しい制度が紹介されていたが特徴として
(1)減税あり、(2)お互いに貞操の法的義務なし、
(3)一方的に「結婚」を解消化が可能。 日本とは背景が違う。 
未婚者増加の原因は「草食系男性の増加?」と、背景にワーキングプア
拡大がある。いま、この国の若者の置かれている状況は深刻。 
情報化社会も、結婚を躊躇する要因になっている。
・女性の立場からみれば、豊かな社会がTVなどを通して入ってくる。
そうすれば「金のない男と苦労覚悟で何で結婚しなければ?」と疑問を
持つのも当然。 (字数制限のためカット 2015年5月17日)


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2600, 一点集中力

2008年05月17日(土)

           「一点集中力 」伊藤 真 (著)

図書館で見つけた本だ。今さらと思ったが、借りて目を通してみた。
著者が東大在学中に司法試験に合格。その後、受験指導を始めたところ、
たちまち人気講師になり、95年に「伊藤真の司法試験塾」を開設して
「伊藤メソッド」と呼ばれる革新的な勉強法を導入して、司法試験短期合格者
の輩出全国トップクラスの実績を不動にしていると、著者履歴に書いてあった。
その彼の恐らく最も基本が一点集中主義なのだから、説得力のある本であった。
表紙裏の紹介文は簡単にー何かを成し遂げる人は、みな「一点集中力」を
持っているーである。まだ憶えているが、小学校の5年生になった時、ある姉が
勉強法を教えてくれた。「いい点数をとりたかったら、一教科だけとにかく
集中して一度良い点数をとってみなさい。そうすると、他の科目も良い点数が
とれるようになるから」という言葉であった。そこで算数に狙いをつけて
一番になってみた。そうしたら、他の科目も何時の間に取れるようになった。
これも一点集中だったのだろう。

とにかく、やはり借りて読んでよかった。もし受験期の子供がいるなら、
迷いなく、この本を買って与えることを勧めます。 私自身の一点集中は、
・この7年間は、この随想日記を欠かさず書き上げること。
・秘境ツアーに行き続けること。
・良い習慣を少しずつでも付け加えること。それ以外で捨てること。
私も一点集中ということに関しては、知っていたつもり。「錐の先の一点
集中のエネルギー」「レンズで太陽光を一点に集中し発火させる」等々
戦略・戦術のまず第一歩である。それを兵法でといたのが「孫子の兵法」である。
 まあ自分の話は、この辺にしておいて、

ーこの本の印象に残った部分を抜粋してみようー

・もし、あなたが何かを成し遂げたいと思ったら?
 とにかく、自分の目指す「一点」にエネルギーを集中すること。
 それ以外は勇気を持って「捨てる」こと。
 そして、この「決断」ができるかどうかーーー。

・我々の潜在能力、顕在能力も、レンズを通してグッと集中させれば、
 火が燃えてしまうほど、ものすごい力になる。

・「余計なもの」を見極める二つの考え方
 *集中すべき対象を、できるだけ単純明快、簡単にすること。
 *「全体から見る」視点をもつことである。
  全体の中から、自分を位置づけ、今は何をすべきか、切り分けていくこと。
 *司法試験の勉強で言えば、合格者が口をそろえて言うのは
  「絶対にあきらめないこと」と「基本が大切」、この単純な二点である。
  この「ゴール」と「基本」に一点集中することの大事さに気づくかどうか。

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2007年05月17日(木)
2235, 男は女のどこを見るべきか -2
     (゚∇^*)オハヨ♪
                 ー岩月 謙司 (著)
 第四章 女性は記憶をかいざんする がなかなか面白い。この歳になり
初めて知らなかった女性の心の奥の魔性の一部を垣間見た思いがする。
一番身近な家内の心の内の未知を幾つか知って驚いた箇所があった。
なるほど男の知恵と女の知恵は大きく違う。 まあ、それが良いのだろう。
 
 ----------
*記憶の改ざんについて*
 ----------
特に記憶の改ざんについて、なるほど思い当たる部分があまりにも多い。
女兄弟や女性の職場にいたこともあり、多くの特性を把握していたつもりで
あったが、所詮は男の立場の理解でしかなかった。記憶の改ざんについては、
・男はもともと事実を記憶するという特性があり、社会的圧力で、より正確に
記憶が求められる。これに対して、女性は事実より感情を基に、記憶の
改ざんは多くしている。

女性は自分の気分次第で過去の記憶を平気で書き換えるが、ニセモノの
記憶を脳に定着するまで、何度も何度も自己欺瞞を繰り返すのである。
だから書き換えた記憶なのに、自信を持つことができる。さらに悪いことに、
書き換えたことを正当化するために、他の記憶まで連動して書き換えてしまう
ことがある。さらに凄いところは不都合な記憶は男に比べて簡単に消去して
しまうことができるのです。

両親の仲が悪く不幸な家庭環境の中で育った女性は、怒りの方向に記憶
を書き換える傾向が強いために自らを不幸に導いてしまうのです。消去、
書き換えを平気でする上に、解釈まで変えるからもうどうにもならない
危険人物になってしまう傾向があるから更に始末が悪い。
これらを考え合わせると、一見男から見れば消極的に見えるだけで、女性は
心の中は積極的である。女性のする行動は、まずは自分の心の内面をして
いるのです。
 
 -------
*幼児体験が重要*
 -------
あれもこれも幼児期体験が大事になる。幼児期に楽しい思いをたくさん
した人は、快の体験を思いだやすい体質を持っている。反対に幼児期に
不快感や恐怖をたくさん味わった人は、不快は嫌悪の感情を思い出しやすい
体質になってしまう。愛の環境の中で育った人は、周りから受け入れられて
いるので、自己受容ができるのです。それは自己肯定につながり、それは
他者を肯定することにもつながる。

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*言い訳の達人*
 ------
これまで、1、記憶の改ざんや消去 2、感情の張りつけ 3、解釈の変更 
4、八つ当たりのために相手の欠点を探す、があるが、5番目として、
言い訳の達人が上げられる。 特に怒れる女性は言いわけの達人でもある。
女性は心の中で男の何倍も言い訳をしているが、それは傷つきたくないと
いう思いが強いからです。それも、言い訳した自覚がまったくない。
言い訳を多用していると、次第にひねくれてくる。
そして、素直さが失われいくのである。
ーー
これを読んでいると、本当に男から見たら女は魔性の生きものに思えてくる。
ただ、やはり仲の良い両親などの恵まれた環境で素直に育った人は、 男女
問わず、幸せになれるということである。私は「平気で、あの女性とは結婚
しない方が良いよ」と言ってしまい、何人も恨まれた経験がある。
「これだけは絶対に言ってはならないことだ」
しかし、そういった人の家庭環境から出ているオーラというか、雰囲気は、
この上記の5つの傾向の非常に強い人である。私の家内が、この5つを一応
クリアーしているので、そうでない正反対の人は直感的に分る。間違いなく
不幸の要素がクッキリ見えてしまう。相手も分るようで、傍にもよらない。

だから私の会社にジンクスがあるようだ?それは結果として??となる。
しかし、今や家庭内を含めると5分5分だから、今さら?それも人生である!
                 ヾ(・д・。)バイバイ
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2006年05月17日(水)
1870, ブラジルの襲撃・暴動
                   おはよ~!(*^ワ^*)i
一昨日、TVのニュースでブラジルの麻薬組織が一斉に蜂起して、警察と
刑務所を襲っている映像であった。刑務所の待遇が悪くて囚人が暴動が
起こしたというのでなく、麻薬組織が真正面から国家権力に武器を持って
攻撃しているというから、驚きである。ブラジルの民度の低さが、そのまま
出てしまった事件である。国家権力に麻薬組織が挑めば、完璧なまでに
破壊されるはずだが、ことブラジルのこと、どう収まるだろうか?
ブラジルに行ったとき、ブラジル専門の旅行代理店の社長と たまたま
同席になった。ブラジルの事情を聞くと、「ブラジルに支店があって100回
は往復しているが、ブラジルは面白いが、しかし恐ろしい国だ。
支店に強盗が何時入ってくるかわからない。 下手をすると直に撃たれる。 
だから金庫に、強盗用のお金を入れておく。 ジャングルに逃げこめば、
ほぼ捕まらない。また、違法のこともできない。万一警察に捕まったら、
どうなるか分らない。日常がスリル満点である」と言っていたのが、印象的
である。街に出ると、ストリート・チルドレンが街頭で屯している。
年中暖かい上に、野生の自然食が森に行けば幾らでもあるので、親が
いなくても、家が無くとも生きていけるという。
ーー
朝日新聞の記事からコピーしてみたが、映画に出てくるような世界である。
ー死者70人超すー 2006年05月15日23時14分
 
(字数の関係でカット2,008年05月17日)
   まさしく、映画や劇画の世界である。
                   (*^▽^)/
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2005年05月17日(火)
1505, ドッグ・ファイト-2

一昨日の朝、散歩をしていると川原でカラスがシギ?を追い掛け回していた。
ところが他の二羽のカラスがそのカラスを攻撃を始めた。
何か仲間を諌めているようで、微笑ましい世界を垣間見たようだった。
これを見て、以前にドック・ファイトについて書いたことを思い出した。

異種の動物同士のテリトリー争いを「ドック・ファイト」というが、
現在は「戦闘機同士による空中戦」を意味する。

電線にとまっている一羽のカラスの周りに鳩が10羽ほど囲んで威圧をしている
姿や、セキレイが鳩が数十羽もとまっている中に入って、一羽ごと追い掛け
回している姿や、雀と燕が、巣の奪い合いをしている姿や、鳶をカラスを
攻撃している姿など、異種の鳥同士の争いを目にすることがある。 去年、
オーストリアに行った時も、鳩とカラスの集団が空中戦をしていた。
「いずこも同じ」と、見とれてしまった。

この文章を書いていて、「ドッグ・ファイトについて」殆ど誰も書いて
ないことに気がついた。いくらでもネタがあるのだ。あまりドッグ・
ファイトを見かけないのだろう。4年前の今日、やはりドッグ・ファイト
について書いていた。 ー後日談だが、燕の巣は雀が勝って棲んでいたが、
燕が来なかったためか、その後きれいに取り除かれしまった。
  
・・・・・・・・・
2001年05月17日(木)
ドッグファイト

3月末いつもの土手を散歩をしていると、顔見知りの人が{ツバメが今日
来たようですよ}と声をかけてきた。バイパスの下のトンネルの蛍光灯の上に
7~8個ツバメの巣がある。十数年来この時期になるとやってくる。 
そして春の到来を実感する。なるほど十羽ほどが飛びまわっていた。なにか異様
な雰囲気によく見ると、ツバメと雀が入り乱れて飛んでいる。数羽の雀がツバメ
を追いまわしているのだ。もちろんその速さが違う、またそれが可笑しいのだ。
巣のほうを見るとツバメが巣の中の雀と戦っている最中。しばらくすると中の
雀がそのツバメをおいかける。そのくり返しのようだ。
近くに10羽くらいの雀がきて時たまその争いに加わる。しばらく見ていたら
ツバメがいなくなった。雀が勝ったのだ。毎年雀のツガイが、その並んで
ある巣の隅に住んでいたのは解っていた。よくこんな近くで住めるものだと
感心していたが、今年は雀が反撃に出たのだ。その2-3日後一度やはり
同じような事があったが、今年はそれっきりツバメの姿を見ることはなかった。
その後1ヶ月位2羽がトンネル両側で見張りをしていた。
10年来もちろん初めてのことである。誰かにそのことを話したら英語で
ドッグファイトというらしい。異種間の群れ同士の争いは何処でもある話で
そう言うらしい。 以前NHKスペシャルで、「ライオンの群れとリカオン
群れの死闘」のドキュメントを見たが、今でも鮮明に記憶でのっこっている。
最後はリカオンのボスが若い雄ライオンに殺されてライオンの群れが勝ったが。

・・・・・・・・
2004年05月17日(月)
1140, 自由について-1

学生時代より『自由とは何』を考えてきた。そして自分の自由を優先して
生きてきた? しかし、よく考えてみたら、自由は自分のやりたいことを
みつけ、それを追及することであった。自らの自己実現に対して忠実に生きる
ことであった。 字のとおり「自らに由り、生きること」である。
そして自由な生き方ー周囲の因縁や世間といわれている束縛から解放されて
いる状態を理想としてきた。

調べてみると、自由には多くの意味やとらえ方があるようだ。手の自由と
いっても、しょせんは人間の体の一部としての腕の範囲内の自由でしかない。
使い方は自由である。自由には当然、自由なだけの自己責任がともなってくる。

アイザリア・バーリンは自由を「消極的自由」と「積極的自由」の2つに分類。
ー「消極的自由」とは「他者からの強制・干渉を受けずに自分のしたいことが
できるという
意味での自由」であり、
ー「積極的自由は自己が自己を支配している状態」ととらえられる。例えば
カントは、恣意に従うのではなく「理性」に従う状態が自由であると主張している。
また、ハンナ・アレントは政治活動を通じての自己実現こそを自由の本質と看做。
これは「より高次の自己」を獲得するための手段・条件としてとらえられること
になる。このような積極的自由は「個人主義的積極的自由」ととらえられる。

キリスト教世界においては、人間存在の根源的価値を「自由」としている。
ルソーは、その著書「社会契約論」で「人間は自由なものとして生まれた」と
述べたが、「全ての人間が社会において等しく自由である」という事は絶対に
不可能である。かつてホッブズは、各自が己の自由を守る為には「万人の万人に
対する闘争」に陥る。と指摘した。キリスト教世界において、人間が自由で
あり続ける為には、戦い続けなければならない。
「自由」という言葉には、英語では2つの単語が存在します。
「Liberty」と 「Freedom」である。
「Liberty」とは「束縛からの自由」を意味し、束縛から逃れる為には、
戦わなくてはならない。一方、「Freedom」は束縛から解放された結果
もたらされた自由であり、「自由な状態」を指します。
そして自由な状態が脅かされる時には、やはり戦わなくてはならない。

哲学者のホッパーは自由を 文化的粉飾から自由になることが大事だとしている。
日本的にいえば、世間の常識に縛られないということだ。日本は自由という言葉
は明治初期まで無かったという。欧州から入ってきた「Liberty」と
「Freedom」を西周が「自由」と訳した。
それまでの封建社会では自由の意味もまったく無かったのだ。

鈴木大拙は自由に相当する言葉を自然(じねん)と看破した。
自らを然らしむ、自由自在に自分を伸ばす、自分で自分の納得する境地を拓く、
という内容である。

この「自然」の然は、もとは「燃」という説もある。「人間は燃えているときに
仏性をもつ。醒めた人間は悪魔だ」という。「自由とは道理」という解釈も
面白く納得できる。自由ー自然ー道理と考えると、なるほど納得できる。

「家内の束縛から自由になりたい」と思ったら、「家内の束縛から自然になりたい」
ということになる。束縛を束縛ではなく、それが自然と考えればよいのか?
束縛に対し、自らを納得させるということになる。束縛が道理であると諦める
ということと考えると、解るような気がする。まあ、あまりに日本的だが。
「不自由を恐れるなかれ、無意味な自由を恐れよ」と、この文章を書いていて
思いついたが、そのとおりだ! 逆もいえる「自由を恐れるなかれ、無意味な
不自由を恐れよ」の方が、理にかなっているか。      ーつづき

・・・・・・・・・・
2003年05月17日(土)
773, 日本が真に独立をするためには

評論家の福田和也氏が寄稿しているテーマ
日本は『核武装』しかないのか」が、なかなか説得力があった。

ー要旨はー
アメリカの核の傘は幻でしかない。 盗人猛々しい北朝鮮の核の脅しの
一番のターゲットになっている状態の日本にとって、核武装も視野に入れ
なくてはならない時期ではないか。他にもロシア、中国など核に囲まれ、
アメリカの核の傘でいいように隷属国家扱いされている現状を考えると、
核武装が今の日本の独立国家としての第一歩である。日本への他国の
核攻撃に対して、アメリカそのものが核攻撃の危険に晒された時に
はたして核攻撃をするだろうか? それはファンタジーでしかない。
核所有国に囲まれたわが国が、最も核攻撃を受ける可能性の強い国だという
事実を直視して、どうすれば核攻撃を受けないで済むかを徹底的に議論すべき
時にきている。想起すべきは、第二次世界大戦を終わって55年間、大国間で
平和が保たれたこと、その平和を日本はじめとする西側諸国が享受できたのも、
麗しい平和のお祈りのせいではない。核の均衡の上である事実を直視し
なければならない。日本も自力でその力のバランスとして核を持つべきだ。

ーー以上が大筋である。
今の日本が真に独立するためには原爆保持が第一歩である主張に説得力がある。
現実にスターリン型の国家が近くにある事実を受け入れざるを得ない。

・・・・・・・・・
2002年05月17日(金)
409, いろいろな悩み

3年前まで20年近く中学の同級会が開かれていた。3年間休み今年から
再開とのこと。高校もしかり、本当にまとまりのあるクラスだ。

もう10年少し前の話だが、丁度、中学の担任の先生が定年退職の年だった。
そのときは、先生にとって至福の一年となるらしい。受け持たれたクラス
単位で、それぞれお祝いの会を開いてもらえるという。
湯沢の旅館で泊り込みでクラス会が盛大に開かれた。
そして次の日の夜まで、30時間延延と続いたクラス会になった。

長岡である女性がスナックを開いており、翌日の2次会はそこで行われた。
その時、たまたまカウンタの隣の席に座った先生が、浮かない顔で、
俺の悩みを聞いてくれという。先生「俺の両親が90歳と87歳、同居して
おり今もカクシャクとしている。両方とも先生をしていた。別に自宅と
別に、マンションを持っていて時たまそこに行く。実をいうと、
この年で実感として自分の人生が無かった。それが無念だ!本当に深刻
の悩みなんだ。」

自分には、その先生の悩みが理解できた。父が亡くなった時、自分に
とって溺愛してくれた喪失感が大きかった。反面その時の家庭の事情等で、
あと頼れるのは自分ひとりという精神的自立ができた。丁度、千葉で事業
の立ち上げの時期と結婚も含め、自分にとってタイミングが、ぴったりで
あった事も確かであった。

親の死は子供に対する最大のプレゼントというが。
その要素も確かにある。その意味で、先生の悩みが理解できた。
でもその状態を「無念と考えるか最大の幸せと考えるか」もあるだろうが、
本人しかわからない悩みだろう。

その数年後、両親が亡くなった。先生に「実際亡くなると、違うでしょう」
というと、「いや何の悲しみも、喜びも感じなかった。やっと死んでくれた
という気持ちと、ただ無念だけが残った」といわれた。その先生も4年前に
脳梗塞になり、東京の子供のところに引っ越していかれた。

   人生はいろいろある。