つれづれに

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 今日はシネマの日。 
今のところ、ハリウッドものを見る予定。

 朝のポタリングも、寒さが先にたってきた。
考えてみたら、10月の5日。こんなものですか。





・・・・・・
・・・・・・

3845, 地獄への道は善意で舗装されている
2011年10月05日(水)
 20数年前の経営セミナーで、創造工学の中山正和が、「日本の裁判の中で、9割が善意でしたことが発端で
裁判になっている。『地獄の道は善意で舗装されている』のが、現実社会である。」という言葉が印象的だった。
甘い善意は、地獄の入り口と心に刻んだことを記憶している。 特に事業においては善意は絶対禁物が人間関係
の第一歩。当たり前のことだが、それを知らない人が多い。善意の積み重ねは、その人の人徳を高める第一歩。
しかし一つ歯車が狂うと、「軒先を貸して、母屋を取られる」結果になる。営業を生業とするものは善意を
ノウハウとする。それが相手にとってのニーズであり、対象の懐に入る手段。
 善意、好意を示され喜ばない人間はいない。 この格言は昔から言われいる基本である。 
  ー ウィキペディアによると ー
≪*「いかに悪い結果につながったとされる事例でも、それが始められた当時までさかのぼれば、善き意志
  から発していたのであった」  (地獄への道は善意で舗装されている について)ーユリウス・カエサル
*「天国へ行くために最も有効な方法は、地獄への道を熟知することだ」(地獄への道は善意で舗装されて
 いる について)ーマキャヴェリ
マルクスは、この格言の発祥でこそないものの、これを援用、敷衍させ、「地獄への道は善意で、天国への
 道は階級闘争と俺の濃い髭で舗装されている」などと語ったと言う。
*キリストとその弟子達は、善意からキリスト教を発足させた。その結果、十字軍や宗教戦争魔女狩りなど
 の惨劇が起こり、人々に夥しい地獄を体感させた。・・・
 善意という言葉は、法律用語で言えば、「知らないこと、認識していないこと」という意味も含有する。
つまり、犯罪と知らずに窃盗を行ったり、人を殺したりしても、その原因は善意になるのである。法律用語の
 善意も考慮に入れると古来起こってきた全ての惨劇や、人間同士の軋轢は、全ては善意が引き金になって
 いると言っても過言ではない。 しかし、ウィキペディアでもコミュニティの円滑化、利用者の齟齬防止
 の為に善意にとることが推奨されているように、人間同士の意思疎通や、社会の構築とその円滑な運営には
「善意」が必要不可欠なのだ。この二律背反に、多くの哲人達が煩悶してきたことは言うまでも無い。
 哲学者であり、レスラーとしても著名な木吉カズヤが、地獄への道である善意をよすがとしなければ
 生きていけない人間、保てない社会を悲しみ、「救いはないね!救いはないんですか?」と絶叫したことは、
 あまりにも有名である。≫
▼ 善意をもって事に当たるのは、それはそれで良いが、逆手に取られても、恨まない範囲で示すと割り
 切ることだ。善意も捨石として、直接の見返りを求めないこと。「積善の家に福が集まる」は、見返りを
求めないからこそ福が来る。
  ・・・・・・・
3480, 秘・異郷ツアー、よもやま話 ー13
2010年10月05日(火)
 * 旅行代理店の選定は?
旅行代理店の選定は、金に糸目をつけないなら別だが、如何に良くて安いパッケージを探し出すかは
他の商品選定と同じである。。
・まずは趣味の問題になるが、地方の代理店は避けるべきである。地方名士様ならチヤホヤしてくれるので、
 それが目的なら問題がない。同じような目的の人が来ているから、同レベルの人なら良いが・・とにかく、
 添乗員の場数が少ない人が多い。地方同士のなれあい客 しか相手にしてないので全国区の質の差が
 歴然としている。
・初心者なら、JTBとか日本旅行辺りで良いだろう。「ビールばかり飲んでいたが、今度から日本酒を
 飲んでみたいが・・」という人は、全国区の灘の酒辺りのブランド品で、そのイメージで味わえばよい。
 同じ外国に行くなら同行の人は異質の全国区がよい。
・初心者としてアフリカや、南米など異郷に行くなら、秘境・異郷専門のワンランク上の客を狙っている
「ユーラシア」とか、「旅のデザインルーム」などが良い。JTBや日本旅行でもワンランク上のブランド
 名でツアー募集をしている。アフリカ専門とか、南米専門とか、特定の地域に絞った代理店もあるが、
 添乗員の質のムラが非常に大きい。これも外れると、場所が場所だけに、客にとっては大きな問題。 
 名前の通った代理店は必ず御客のチェックリストがあり封書に密閉して送られ厳しく審査されるので、
 外れは少ない。 旅行は添乗員の質で半分近くは決まってくる。 何度か、添乗員で旅行その
 ものが台無しになった経験がある。しかし怒りを会社にぶつけるのも大人気ないので、二度と行かないと
 いう消極的手段しかない。ブランドなどで高いのは外れが少ないし、安いのは外れの危険が多い。 
 安いものに、シーズンの終わり間じかのものがある。これは経験からして外れの方が多い。しかし安さの
 誘惑で負けて何度か失敗をした。 反対に少し高いと思ったが、他にないので仕方ないので、という
 大当たりというケースが何度かあった。 行っている人達の人品が良いと心が洗われる。
 南アフリカ、南米のマケドニア、北スペイン、新羅ウィグル地区・カラコルムハイウェー、などは同行客
 の人品の御かげで、厳しい日程でも楽しく過ごすことが出来た。行き先を決めて、それにあった代理店の
 コースの選定に集中すれば自ずと見えてくる。旅行先で、良かった旅行先の情報を聞いたら、代理店と、
 その時期まで聞いて、その通りに選定するのがベスト。 何ごとも同じ。
 ・・・・・・・・
3105,我にたためる翼あり
 2009年10月05日(月)
 「我にたためる翼あり」という言葉には考えさせられた。なかなか含蓄がある。
バーネット作「小公子」を日本で初めて紹介した若松賎子の言葉。
「私の中に、たたんだ翼を持つ者と信じて努力をして、大きく羽ばたく時を待つ」という意味。
賎子自身は、若くして病に倒れ無念の思いと祈りのこもった言葉。 それを知っていれば尚のこと深さが
覗きみれる。何かを志す者にとっては、これほど励ましてくれる言葉は少ない。翼を才能、努力の蓄積、
志、夢とも、とることができる。賎子の魂が、この言葉の中に篭っているような響きがある。それも女性
の言葉、それも「たためる翼」という内に込めた大きなエネルギーを感じ取ることができる。何かを目指
している若者がいたら、是非とも教えてやりたい言葉である。縁あって、この文章を読んで感銘をした
ならば、近いくの青年に是非とも教えてやって欲しいもの。ところで我に、たためる翼があっただろうか? 
精一杯翼を広げ羽ばたいたが、雀は雀。翼を持っていると自分で信じて努力していれば、それだけで良いと
いうことで納得するしかない。「我にたためる翼あり」を私の小さな経験に鑑みると、自分の翼?で飛んだ
のは「秘境・異郷ツアー」。たたんでいる時間は少なかったか。 翼といえば、一羽ばたきで数百里を飛ぶ
大鵬のイメージが沸いてくる。私にとって「我にたたむほどの翼ありや」である。 また軽く飛びまわる
ことの出来る天使の翼のイメージである。そう、私にとっての翼は読書や映画などを通して異世界に入る
「イメージそのもの」である。それなら、ある。 毎日、何回も開いているが。 私に当てはめると、
せっかくの言葉が壊れてしまうか。
 ・・・・・・・・・
2740, 貨幣経済は「ねずみ講
 2008年10月05日(日)
「資本主義は嫌いですか  ―それでもマネーは世界を動かす 」 -2   竹森 俊平 (著)
 
(字数制限の関係でカット 11年10月5日)
・・・・・・・・・
2007年10月05日(金)
2376, 人は60歳で何をしたか -4    ー読書日記
 「人は60歳で何をしたか」藤原治・著        |* ̄o ̄|お|* ̄O ̄|は|* ̄。 ̄|よ
この本の中で古今東西44人の「60歳時の本や作曲などの作品」を紹介しているが、その中で、
神谷美恵子「こころの旅」が一番印象的だった。図書館から借りたような記憶があるが、見れど見えず!
だったということか? この本は人間の生から死までを「こころ」というキーワードを使って分析している。 
それは目次からみれば解ることだが、自分を省みる時の案内役になる。さっそく中古本だがアマゾンで、
この本を発注した。(何と値段が1円、発送料が300円=301円で、新本の5分の1である)まずは、
彼女の著書の目次をコピーしてみる、第1章 人生への出発 第2章 人間らしさの獲得 第3章 三つ子の魂  
第4章 ホモ・ディスケンス 第5章 人間性の開花 第6章 人生本番への関所  第7章 はたらきざかり 
第8章 人生の秋  第9章 病について 第10章 旅の終り
 著者の藤原治は、中でも三章 「三つ子の魂」に感激、そしてここを再読、あらためて、
その意味の深さに考えさせられ、さらに 第8章の「人生の秋」が、気になったという。
著者は、そこを抜粋してながら60歳の心象風景をみている。
 ーー
「社会的に無用者となった、という意識は否応なしに老化した自己の全体像をこころの中に浮きぼりにする。
じつは向老期ではふつうまだ真の無用者ではないはずだが、少なくとも覚悟として、この新しい自己像を受け
入れるがこの時期の困難な課題である」「老いて引退した人問の最大の問題の一つは、こうした『社会的時間』
の枠がしだいに外されて行くところにある。(略)このことをよく覚悟して、向老期のころから、自主的に自分
なりのペースで『生きる時間』の用いかた、配分のしかたを考え、また時間そのものについても洞察をふかめ、
『超時間的に』時間を観ずることができるようになるのが望ましい。そうすれば自分の一生の時間も、
悠久たる永遠の時間から切りとられた、ごく小さな一部分にすぎないことに気づくであろう」
「どんな一生を送ってきた人でも、人生の終りに過去の旅路をみはたすとき、こころというものの変幻
自在なふしぎさに感嘆しないではいられないはずである。宝積経にはこころの詩ともいうべき長い部分が
あるが、この中でこころはじつに多くのものにたとえられている。 幻の像・いなずま・虚空・猿・画家、
王、怨敵、砂ででつくった家、盗賊、などなど。一生のあいだ、私どものこころもこれらの比喩に該当する
ような、まざまな姿をとってきたときがあった、と思いあたるとことが多い」神谷の著作に最初に接したのは、
『生きがいについて』だった。 多分、何かの原因で、かなり落ち込んでいた時に読んだのだと思う。
「生きがいを感じている人は他人に対して恨みや妬みを感じにくく、寛容でありやすい。それはマックス・
シェラーが言っているように、自分より幸福な人々に対する密かな憎しみの念が入り込む余地がないからで
あろう」というこの本の記述が、僕を励ましてくれた。この人は、どんな生き方をしてきた人なのだろう。 
ハンセン病との献身的かかわりを思い、「キリスト者だな」と推測したが、当たっていた。クエーカー的
キリスト信者である。「育ちもいいはず」と思ったが、これもずばりだった。父親は内務省職員のエリート
官僚であり、後に国際労働機関(ILO)に勤務したり、朝日新聞論説委員にもなった。戦後すぐに成立した内閣
では文部大臣にも抜擢されている。彼女も、そんな父の関係でスイスやアメリカで教育を受けている。
医学への志は、叔父とともにハンセン病患者の施設を訪れた際、患者の病状に強い衝撃を受けたためという。
後に彼女は、この時に自分が身を捧げる生涯の目的がはっきりとした、と語っている。猛反対だった父を
説き伏せコロンビア大学や東京女子医専(現東京女子医大)で医学を学び、30歳で精神科医になった。
結婚したのは32歳だった。
 ーーー
こういう文章を読むと、宗教の偉大な力を感じとることが出来る。 それと、自分の小さな世界の歪な
姿がリアルに感じとることが出来る。 こういう人は、60歳の時の心は安定した安らぎで満ちていて当然。
明日あたりに送ってくるはずである。歳を重ねると見えなかったモノゴトが、雲の彼方から一つずつ現れて
くるようだ。
                                 ヾ(=・ω・=)o☆ばいばい!
・・・・・・・・・
2006年10月05日(木)
2011、「私」のための現代思想  -8       (。^0^。)オッ(*^○^*)ハ~
私たちを束縛しているものから自由になるには、束縛している対象を理解しなくてはなりません。
第一章では、その束縛するものの正体を論じたが、いま一度それを取り上げ、それから逃れるには如何
すべきかを論じているのが、この章である。「私」を束縛するものとは、 <言葉>と<価値><社会>
<世界><物語>などがあります。束縛から逃れるためには「所有」が必要になる。所有者になることに
よって、主体者になるのです。所有することも捨てることもできるのが主体的ということである。
この随想日記を毎日書き続けることは、その範囲で「言葉」を所有していることになり、自由に考えを
述べていることになり、開放されている。「<価値>の主体者は、<価値>を生み出す側ではなく、それ<価値>
を「受益する者」であるということです。」当然といえば当然だが、私たちはその反対と思いがちである。
「消費者本位」というのは、今では当たり前になっているが、提供者の方は、それを一番忘れてしまうのです。
言葉も相手の受け止め方で、救われもするし、加害もする。
  ▽ ̄)■]~~ 珈琲TIME♪
  ーー
 第三章 「私」とは何か
ー束縛から逃れるー :<言葉>と<価値>の束縛から逃れる
? 私たちが<言葉>の束縛から逃れるためには、「<言葉>を所有すること」が必要になる。
 「言葉による束縛」とは、「自分が使った言葉が、新しい意味を帯びる」ということを認識しない
 ことによって発生する。また、「自分が受け取った言葉に自分が新しい意味を付与することによって、
 それを認識している」ということに気づかないことによって発生する。
   これを換言するならば、
 それは「私がある時点で使った単語は、常に新しい意味で用いられている」と認識し、
 また「他者から発せられた言葉も同様である」と認識することです。
 私たちは、厳密な意味で同じ単語を同じ意味で使うことができません。
 言葉による意思疎通が(不完全であれ)可能となるのは、「了解不可能な他者を了解しようとする意思」
 によって発生するものでしかなく、ある言語体系よって適切に語を使用することで発生するものでは
 ありません。私たちは、何らかの概念を伝達しようとする時、「この単語は、この程度の意味に使われて
 いたはず」と推測し、それに「近似した」新しい意味を付与しつつ発語している。そのとき、言葉の主体者
 は<私>です。
ー<価値>の束縛から逃れるためには、<価値>を所有するしかありません。しかし、ここで注意しなくては
 ならないのは、<価値>の主体者は、<価値>を生み出す側ではなく、それ<価値>を「受益する者」であると
 いうことです。<言葉>と<価値>の束縛から逃れるためには、この二つの本性を理解するだけで充分である。
 逆にいえばー<言葉>とは言語体系のこと、そして<価値>は、それを発生する側が主体者である、と考えて
 いることによって、それらによる束縛が発生します。その両方が「誤りである」ということを認識する
 だけで私たちはその束縛から逃れることができるのです。ー<物語>と<世界>の束縛から逃れるためには
 それを所有しなければなりません。そのとき<物語>所有する主体者は、いうまでもなく<私>です。
 私達は<物語>も<世界>をつくることも捨てることもできます。その状態が「所有」であり、そのとき
 それらの束縛から逃れることができるのです。
    ーー
 ここで、<私>と《私》について、もう一度整理をしてみる。
 <私>は、
 ? 言葉を用いて対象化された「私の像」
 ?「超越確実性言明(つまり言葉)」の束、もしくはそれに支えられている「自己の像」
 ?「私」の「論理的」な側面(言葉によって認識・構築された「私」)の意味を持っています。
  これに対し、《私》は、
 ?<私>の中核にあり、<私>の存在を支えているもの
 ?<身体>の中核部分にあり、<身体>(=対象化された身体)を支えているもの
 ?「生そのもの」としての「私の存在」
サルトルに「対自」「即自」「対他」というキーワードがあるが、それに《私》を関連付けると、
さらに面白くなる。
.......
2005年10月05日(水)
1645.マグロ屋福助ー亭主・宗親の独り言・・5  
   5・ゴールドクラブ
 宗親
酒はこの商売をしていて、つくづく気違い水と思うね。 まあみんなこの世智辛い世の中、気でも狂わなく
てはやってられないのは判るけどね。陽気な酒、喧嘩っぽくなる酒、助平になる酒、理屈っぽくなる酒と
いろいろあるね。まあ気違い水を売って此方も食べてるんだから、なにも言えねんだがね。本当のところ、
素面で酔っ払いを見ていると面白いよ。気違い水を脳に叩き込むんだら。その中で特に面白いのはシラケ酒
って言う奴さ。独り浮いてしまって、暗い自分の殻に入ってしまう奴。オールドミス、いや~ああなると
ゴールドミスさ。グランドオールドで、G,OLD、ミスって奴さ。独りでいつもある時間が来ると泣き出す。
皆もそれを知っていて、待っている。普段イライラを周囲にぶつけているんで、皆心の中は喝采さ!
でもそれがバレタラ、あとで数倍も陰湿に、それもあるけど最近は女も恐ろしいよ。自分で誘っておいてさ、
都合が悪くなるとセクハラという奴。見ているとおとこの方が馬鹿だね。もてない男ほど、すぐ引っかかるね。 
あまり慣れてないから、引き際が判らないんだよね。こうやって色色見ていると人生いや人間なんて結局さ、
その人間が実際行動した全体だと思うようになってきたよ。それから一歩も大きくもないしさ、小さくも
ないしさ。 これが意外と判ってないんじゃないかな。
・・・・・・・・・
2003年10月05日(日)
ある時間の断片ー34  11月7日 -1968年
・10時半起床。12時に池袋に出発。掲示板をみていると川崎と出会う。「ヤタロー」で食事。
その後「価格理論」の授業を聴講。
 12月5日に試験とか。 産業関係論が11月21日に試験と帰りに寄った掲示板に書いてあった。
明日のゼミの工場見学の資料を取りに武沢教授の部屋に行くが、助手の横浜さんが居ない。川崎君と
一時間位喫茶店で話す。磯部嬢とバッタリ会う。石川とは上手くいってないみたいだ?数ヶ月前に行って
きた欧州旅行のことを話したいみたいだ。17時に帰寮。

・・・・・・
540,お経
2002年10月05日(土)
 ーH0605般若心経のすすめ ー
 (字数制限の関係でカット 09年10月5日) 3845, 地獄への道は善意で舗装されている

・・・・・・
2011年10月05日(水)
 20数年前の経営セミナーで、創造工学の中山正和が、「日本の裁判の中で、9割が善意でしたことが
発端で裁判になっている。『地獄の道は善意で舗装されている』のが、現実社会である。」という言葉が
印象的だった。甘い善意は、地獄の入り口と心に刻んだことを記憶している。 特に事業においては善意は
絶対禁物が人間関係の第一歩。当たり前のことだが、それを知らない人が多い。善意の積み重ねは、その人
の人徳を高める第一歩。しかし一つ歯車が狂うと、「軒先を貸して、母屋を取られる」結果になる。
営業を生業とするものは善意をノウハウとする。それが相手にとってのニーズであり、対象の懐に入る手段。
善意、好意を示され喜ばない人間はいない。 この格言は昔から言われいる基本である。 
  ー ウィキペディアによると ー
≪*「いかに悪い結果につながったとされる事例でも、それが始められた当時までさかのぼれば、善き意志 
 から発していたのであった」(地獄への道は善意で舗装されている について)ー ユリウス・カエサル
*「天国へ行くために最も有効な方法は、地獄への道を熟知することだ」
地獄への道は善意で舗装されている について)ーマキャヴェリ
マルクスは、この格言の発祥でこそないものの、これを援用、敷衍させ、「地獄への道は善意で、
 天国 への道は階級闘争と俺の濃い髭で舗装されている」などと語ったと言う。
*キリストとその弟子達は、善意からキリスト教を発足させた。その結果、十字軍や宗教戦争魔女狩り
 などの惨劇が起こり、人々に夥しい地獄を体感させた。・・・
善意という言葉は、法律用語で言えば、「知らないこと、認識していないこと」という意味も含有する。
つまり、犯罪と知らずに窃盗を行ったり、人を殺したりしても、その原因は善意になるのである。法律用語
の善意も考慮に入れると古来起こってきた全ての惨劇や、人間同士の軋轢は、全ては善意が引き金になって
いると言っても過言ではない。 しかし、ウィキペディアでもコミュニティの円滑化、利用者の齟齬防止の
為に善意にとることが推奨されているように、人間同士の意思疎通や、社会の構築と、その円滑な運営には
「善意」が必要不可欠なのだ。この二律背反に、多くの哲人達が煩悶してきたことは言うまでも無い。
哲学者であり、レスラーとしても著名な木吉カズヤが、地獄への道である善意をよすがとしなければ
生きていけない人間、保てない社会を悲しみ、「救いはないね!救いはないんですか?」と絶叫したことは、
あまりにも有名である。 ≫
 ▼ 善意をもって事に当たるのは、それはそれで良いが、逆手に取られても、恨まない範囲で示すと
割り切ることだ。善意も捨石として、直接の見返りを求めないこと。「積善の家に福が集まる」は、見返り
を求めないからこそ福が来る。

  ・・・・・・・
3480, 秘・異郷ツアー、よもやま話 ー13
2010年10月05日(火)
 * 旅行代理店の選定は?
 旅行代理店の選定は、金に糸目をつけないなら別だが、如何に良くて安いパッケージを探し出すかは他の
商品選定と同じである。。
・まずは趣味の問題になるが、地方の代理店は避けるべきである。地方名士様ならチヤホヤしてくれるので、
それが目的なら問題がない。同じような目的の人が来ているから、同レベルの人なら良いが・・とにかく、
添乗員の場数が少ない人が多い。地方同士のなれあい客しか相手にしてないので全国区の質の差が歴然としている。
・初心者なら、JTBとか日本旅行辺りで良いだろう。「ビールばかり飲んでいたが、今度から日本酒を飲んで
みたいが・・」という人は、全国区の灘の酒辺りのブランド品で、そのイメージで味わえばよい。同じ外国に
行くなら同行の人は異質の全国区がよい。
・初心者としてアフリカや、南米など異郷に行くなら、秘境・異郷専門のワンランク上の客を狙っている
「ユーラシア」とか、「旅のデザインルーム」などが良い。JTBや日本旅行でもワンランク上のブランド名
でツアー募集をしている。アフリカ専門とか、南米専門とか、特定の地域に絞った代理店もあるが、添乗員の
質のムラが非常に大きい。これも外れると、場所が場所だけに、客にとっては大きな問題。名前の通った代理店
は必ず御客のチェックリストがあり封書に密閉して送られ厳しく審査されるので、外れは少ない。旅行は添乗員
の質で半分近くは決まってくる。 何度か、添乗員で旅行そのものが台無しになった経験がある。しかし怒りを
会社にぶつけるのも大人気ないので、二度と行かないという消極的手段しかない。ブランドなどで高いのは
外れが少ないし、安いのは外れの危険が多い。 安いものに、シーズンの終わり間じかのものがある。
これは経験からして外れの方が多い。しかし安さの誘惑で負けて何度か失敗をした。反対に少し高いと思った
が、他にないので仕方ないので、という大当たりというケースが何度かあった。 行っている人達の人品が
良いと心が洗われる。南アフリカ、南米のマケドニア、北スペイン、新羅ウィグル地区・カラコルムハイウェー、
などは同行客の人品の御かげで、厳しい日程でも楽しく過ごすことが出来た。行き先を決めて、それにあった
代理店のコースの選定に集中すれば自ずと見えてくる。旅行先で、良かった旅行先の情報を聞いたら、代理店と、
その時期まで聞いて、その通りに選定するのがベスト。 何ごとも同じ。
 ・・・・・・・・
3105,我にたためる翼あり
 2009年10月05日(月)
 「我にたためる翼あり」という言葉には考えさせられた。なかなか含蓄がある。
バーネット作「小公子」を日本で初めて紹介した若松賎子の言葉。
「私の中に、たたんだ翼を持つ者と信じて努力をして、大きく羽ばたく時を待つ」という意味。
賎子自身は、若くして病に倒れ無念の思いと祈りのこもった言葉。 それを知っていれば尚のこと深さが
覗きみれる。何かを志す者にとっては、これほど励ましてくれる言葉は少ない。翼を才能、努力の蓄積、志、
夢とも、とることができる。賎子の魂が、この言葉の中に篭っているような響きがある。それも女性の言葉、
それも「たためる翼」という内に込めた大きなエネルギーを感じ取ることができる。 何かを目指している
若者がいたら、是非とも教えてやりたい言葉である。縁あって、この文章を読んで感銘をしたならば、近いく
の青年に是非とも教えてやって欲しいもの。ところで我に、たためる翼があっただろうか? 精一杯翼を広げ
羽ばたいたが、雀は雀。翼を持っていると自分で信じて努力していれば、それだけで良いということで
納得するしかない。「我にたためる翼あり」を私の小さな経験に鑑みると、自分の翼?で飛んだのは
「秘境・異郷ツアー」。たたんでいる時間は少なかったか。 翼といえば、一羽ばたきで数百里を飛ぶ
大鵬のイメージが沸いてくる。私にとって「我にたたむほどの翼ありや」である。 また軽く飛びまわる
ことの出来る天使の翼のイメージである。そう、私にとっての翼は読書や映画などを通して異世界に入る
「イメージそのもの」である。それなら、ある。 毎日、何回も開いているが。 私に当てはめると、
せっかくの言葉が壊れてしまうか。
 ・・・・・・・・・
2740, 貨幣経済は「ねずみ講
 2008年10月05日(日)
「資本主義は嫌いですか  ―それでもマネーは世界を動かす 」 -2   竹森 俊平 (著)
 
(字数制限の関係でカット 11年10月5日)
・・・・・・・・・
2007年10月05日(金)
2376, 人は60歳で何をしたか -4    ー読書日記
 「人は60歳で何をしたか」藤原治・著         |* ̄o ̄|お|* ̄O ̄|は|* ̄。 ̄|よ
この本の中で古今東西44人の「60歳時の本や作曲などの作品」を紹介しているが、その中で、神谷美恵子
「こころの旅」が一番印象的だった。 図書館から借りたような記憶があるが、見れど見えず!だったという
ことか? この本は人間の生から死までを「こころ」というキーワードを使って分析している。
それは目次からみれば解ることだが、自分を省みる時の案内役になる。さっそく中古本だがアマゾンで、
この本を発注した。(何と値段が1円、発送料が300円=301円で、新本の5分の1である) まずは、彼女の
著書の目次をコピーしてみる、第1章 人生への出発 第2章 人間らしさの獲得 第3章 三つ子の魂  
第4章 ホモ・ディスケンス 第5章 人間性の開花  第6章 人生本番への関所  第7章 はたらきざかり 
第8章 人生の秋  第9章 病について 第10章 旅の終り
 著者の藤原治は、中でも三章 「三つ子の魂」に感激、そしてここを再読、あらためて、その意味の深さに
考えさせられ、さらに 第8章の「人生の秋」が、気になったという。著者は、そこを抜粋してながら60歳
の心象風景をみている。
 ーー
「社会的に無用者となった、という意識は否応なしに老化した自己の全体像をこころの中に浮きぼりにする。
じつは向老期ではふつうまだ真の無用者ではないはずだが、少なくとも覚悟として、この新しい自己像を受け
入れるがこの時期の困難な課題である」「老いて引退した人問の最大の問題の一つは、こうした『社会的時間』
の枠がしだいに外されて行くところにある。(略)このことをよく覚悟して、向老期のころから、自主的に自分
なりのペースで『生きる時間』の用いかた、配分のしかたを考え、また時間そのものについても洞察をふかめ、
『超時間的に』時間を観ずることができるようになるのが望ましい。そうすれば自分の一生の時間も、悠久たる
永遠の時間から切りとられた、ごく小さな一部分にすぎないことに気づくであろう」「どんな一生を送って
きた人でも、人生の終りに過去の旅路をみはたすとき、こころというものの変幻自在なふしぎさに感嘆しない
ではいられないはずである。宝積経にはこころの詩ともいうべき長い部分があるが、この中でこころはじつに
多くのものにたとえられている。幻の像・いなずま・虚空・猿・画家、王、怨敵、砂ででつくった家、盗賊、
などなど。一生のあいだ、私どものこころもこれらの比喩に該当するような、まざまな姿をとってきたときが
あった、と思いあたるとことが多い」神谷の著作に最初に接したのは、『生きがいについて』だった。 
多分、何かの原因で、かなり落ち込んでいた時に読んだのだと思う。「生きがいを感じている人は他人に対して
恨みや妬みを感じにくく、寛容でありやすい。それはマックス・シェラーが言っているように、自分より幸福な
人々に対する密かな憎しみの念が入り込む余地がないからであろう」というこの本の記述が、僕を励ましてくれた。
この人は、どんな生き方をしてきた人なのだろう。 ハンセン病との献身的かかわりを思い、「キリスト者だな
」と推測したが、当たっていた。クエーカー的キリスト信者である。「育ちもいいはず」と思ったが、これも
ずばりだった。父親は内務省職員のエリート官僚であり、後に国際労働機関(ILO)に勤務したり、朝日新聞
論説委員にもなった。戦後すぐに成立した内閣では文部大臣にも抜擢されている。彼女も、そんな父の関係で
スイスやアメリカで教育を受けている。医学への志は、叔父とともにハンセン病患者の施設を訪れた際、患者
の病状に強い衝撃を受けたためという。後に彼女は、この時に自分が身を捧げる生涯の目的がはっきりとした、
と語っている。猛反対だった父を説き伏せコロンビア大学や東京女子医専(現東京女子医大)で医学を学び、
30歳で精神科医になった。結婚したのは32歳だった。
 ーーー
こういう文章を読むと、宗教の偉大な力を感じとることが出来る。 それと、自分の小さな世界の歪な姿が
リアルに感じとることが出来る。 こういう人は、60歳の時の心は安定した安らぎで満ちていて当然である。
明日あたりに送ってくるはず。歳を重ねると見えなかったモノゴトが、雲の彼方から一つずつ現れてくる
ようだ。
                                    ヾ(=・ω・=)o☆ばいばい!
・・・・・・・・・
2006年10月05日(木)
2011、「私」のための現代思想  -8       (。^0^。)オッ(*^○^*)ハ~
 私たちを束縛しているものから自由になるには、束縛している対象を理解しなくてはなりません。
第一章では、その束縛するものの正体を論じたが、いま一度それを取り上げ、それから逃れるには如何
すべきかを論じているのが、この章である。「私」を束縛するものとは、 <言葉>と<価値><社会>
<世界><物語>などがあります。束縛から逃れるためには「所有」が必要になる。所有者になることに
よって、主体者になるのです。所有することも捨てることもできるのが主体的ということである。 
この随想日記を毎日書き続けることは、その範囲で「言葉」を所有していることになり、自由に考えを
述べていることになり、開放されている。「<価値>の主体者は、<価値>を生み出す側ではなく、それ<価値>
を「受益する者」であるということです。」 当然といえば当然だが、私たちはその反対と思いがちである。
「消費者本位」というのは、今では当たり前になっているが、提供者の方は、それを一番忘れてしまうのです。
言葉も相手の受け止め方で、救われもするし、加害もする。       ▽ ̄)■]~~ 珈琲TIME♪
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 第三章 「私」とは何か
ー束縛から逃れるー :<言葉>と<価値>の束縛から逃れる
? 私たちが<言葉>の束縛から逃れるためには、「<言葉>を所有すること」が必要になる。
 「言葉による束縛」とは、「自分が使った言葉が、新しい意味を帯びる」ということを認識しない
 ことによって発生する。また、「自分が受け取った言葉に自分が新しい意味を付与することによって、
 それを認識している」ということに気づかないことによって発生する。 これを換言するならば、
 それは「私がある時点で使った単語は、常に新しい意味で用いられている」と認識し、
 また「他者から発せられた言葉も同様である」と認識することです。
 私たちは、厳密な意味で同じ単語を同じ意味で使うことができません。
 言葉による意思疎通が(不完全であれ)可能となるのは、「了解不可能な他者を了解しようとする意思」
 によって発生するものでしかなく、ある言語体系よって適切に語を使用することで発生するものでは
 ありません。私たちは、何らかの概念を伝達しようとする時、「この単語は、この程度の意味に使われて
 いたはず」と推測し、それに「近似した」新しい意味を付与しつつ発語している。そのとき、言葉の主体者
 は<私>です。
ー <価値>の束縛から逃れるためには、<価値>を所有するしかありません。しかし、ここで注意しなくて
はならないのは、<価値>の主体者は、<価値>を生み出す側ではなく、それ<価値>を「受益する者」であると
いうことです。<言葉>と<価値>の束縛から逃れるためには、この二つの本性を理解するだけで充分である。
逆にいえばー<言葉>とは言語体系のこと、そして<価値>は、それを発生する側が主体者である、と考えている
ことによって、それらによる束縛が発生します。その両方が「誤りである」ということを認識するだけで
私たちはその束縛から逃れることができるのです。
ー<物語>と<世界>の束縛から逃れるためにはそれを所有しなければなりません。
そのとき<物語>所有する主体者は、いうまでもなく<私>です。私達は<物語>も<世界>をつくる
ことも捨てることもできます。その状態が「所有」であり、そのときそれらの束縛から逃れることが
できるのです。
    ーー
 ここで、<私>と《私》について、もう一度整理をしてみる。
 <私>は、
    ? 言葉を用いて対象化された「私の像」
    ?「超越確実性言明(つまり言葉)」の束、もしくはそれに支えられている「自己の像」
    ?「私」の「論理的」な側面(言葉によって認識・構築された「私」)の意味を持っています。
     これに対し、《私》は、
    ?<私>の中核にあり、<私>の存在を支えているもの
    ?<身体>の中核部分にあり、<身体>(=対象化された身体)を支えているもの
    ?「生そのもの」としての「私の存在」
   サルトルに「対自」「即自」「対他」というキーワードがあるが、それに《私》を関連付けると、
   さらに面白くなる。