* 夢にみる深い心の闇 
 一昨夜半、虚無的な恐ろしい夢をみた。5年前に遡った新潟駅周辺で、
誰も居なくなってしまった白い空間の中、呆然と立ち尽くして、
『さて、どうしようか?如何したらよいか?』と思案をしている。その直後、
『何で今さら、如何しなければならないのか?今さらどうもしなくてもよい
のに、何をしている?これ、もしかして夢?』というところで目が覚めた。
当時の時点では、無我夢中で、板一枚の舟下の虚無を垣間見る余裕さえ
無かったのが、現在に至って当時の押隠した不安心理が表出している夢。
それだけ心に余裕?が出てきたか、心の闇は複雑かつ深淵である。
 ――
   * ヨガに88歳が!
 先日、ヨガ・エアロの参加の行列に並んでいると、「いつも、ヨガの先生
の前に座っている人が昭和三年生まれだってさ」という囁きが聞こえてきた。
そこで、改めて見ると、そこに70歳後半?の女性がいた。が、まさか88歳とは
驚いた。 老いに、ヨガは良いことは実感するが、気持ちの若いのが第一。
老いるほど、長年の節制の差が出てくる。気力、体力、社会的条件が揃って、
元気なのだろう。 気持ちが老け込み始めた昨今、まず気持ちの持ちようと、
75歳を寿命の目安にしていたが、80歳に引上げることにしたが、同じか。
 ――
   * 老いの近景    (*´ェ`*)
「きょうだい」6人の生存平均年齢が77歳。連れ合いを入れた12人の中で、
3人の4分の1が亡くなっている。 先日の母方の実家の従兄弟の「49日法要」
に集まった平均年齢が70歳前半。 去年の暮れに、既に亡くなった一番上の
姉の連れあいが86歳で、49日法要の従兄弟は75歳で亡くなった。 日々、
わが身に近づいてきた実感がする。一日でも健康で長生きしたいが、死ぬまで
は生きている。古希をこえれば、チョッと前か、チョッと後の話。生きてきた、
ように、そのまま人は死んでいく。身近な死を目の当たりにすると、少しでも
後がよいと思うが・・ で、これまた丁度よく、以下へと、物語がつづく!
 
・・・・・・
5177,閑話小題 〜ミニマリズム
2015年05月18日(月)
   * あなたの中で何をしているのですか
 イタリア作家のタブッキの、『インド夜想曲』の中で、その「僕」は、
ピントという名前のポルトガル人を探して旅をしているらしい。ポンペイ
マドラス、ゴアへ。 その中の一文が印象に残った。
≪「漂泊の旅」などといいうが、旅の無意識の目的とは、今までの自分を失くし、
 新しい自分に出会うことなのかもしれない。・・ 深夜の駅で、「僕」と死を
目前にした、「インド人の紳士」が、どこかぎくしゃくとした会話を交わす。
「この肉体の中で、われわれはいったいなにをしてるのですか」
「これに入って旅をしてるのではないでしょうか」
「なんて言われました?」 「肉体のことです」と僕はいった。
「鞄みたいなものではないでしょうか。われわれは自分で自分を運んでいる
 といった」 みずからの影に運ばれるわたしは黒いケースにおさまった
ヴァイオリンそのもの。≫
▼ 死を悟り、「この肉体を与えられ、それを使って、この人生で何をして
 きたのだろう?」と思うとき、「あ〜長い旅をしてきた! しかし、一瞬
だった気がする!」」と思うのだろう。「私たちは地球上に、一回限りの
70〜80年(平均)の旅行にきている」のである。そこで、互いに首輪の
紐を引っぱりあい、世界を見ようとしない人たちを、『世間びと』ともいう。
 で、以下のミニマリズムに繋がっていく。
   * ミニマリズム
 最近、「ミニマリズム」なる言葉を知った。 その意味とは、
<最小限主義で、無駄をそぎ落として最も重要なことにフォーカスること。>
 人生の夕暮時に入り、ミニマリズムを本格的に取り組まなくてはならない
時節ということ。 母親を看送った51歳の節目に、人生のギアを入替えた。
そのコンセプトが、
「還暦までの9年間に、80歳までの30年分を10年に圧縮して生きる」と、
濃厚な日々として過ごした。それが次の事業清算の決断?に繋がっていく。
そして、次の最重要事項が「死に準備」である。この20数年以上にわたり、
「死に関する本」を読んできたが、死ぬときは、七転八倒の苦しみの中で、
漆黒の闇に消滅していくしかない。ただし、その直前までは活ききればよい!
・・・・・・
4812,閑話小題 ーシネマ『それでも夜が明ける』
2014年05月18日(日)
   * シネマ『それでも夜が明ける』 ー評論
 一昨日はシネマの日。今週は『それでも夜が明ける』を、みた。評)90点
暗い内容だが、重厚で、アカデミー賞の作品賞をもらうだけのことはある。
南部の奴隷が動物並みに扱われていた実態は、それは酷い。中南米諸国の
アスリストの身体能力が高いのは、奴隷としてアフリカから運搬船で送られる
船中で、まず淘汰。その後、過酷な肉体労働で生き延びた人たちから、さらに
選び抜かれているため、異常に高い身体能力があるという。当時の南部では、
家畜として見ていたようだ。 インドのカースト制は、三千年前に西の方から
やってきたアーリア人が、ヒンズー教を創りあげ、肌の色で階級をつけた仕組み
で、そのミックスを防ぐのが目的で、現在も、そのまま続いている。 白、赤、
黄色、ねずみ色の順に、見た目だけで階級が判断できる。その上に体格も、
顔つきも、そのまま三千年の歴史が現れ出ている。最下層は、牛以下で、車で
はねても、そのまま立ち去ってしまう。先進国、後進国の格差も、似たような?
 3年前の節目時の日々は、『それでも夜が明ける』そのもの。 
『闘い済んで日が暮れる』である。ただ、面白みと味わいもあったが・・差別?、
軽蔑の視線をモロに受けてみて、「成るほど、こういうものか」という逆視線と、
経験したことのない怒りと、その対処法の知恵も出てくる。いちいち怒って
いられないので、その場でイメージで消去してしまう。それで相手への憎しみも
怒りも、その場限りで不思議なことに消えていく。 消去方法は?企業秘密。
で、再び怒りが出てきたら、その都度、小まめに消去する。10回もすれば、
ほぼ消去。百回なら大病、事故? 何度も書くが、避難先の高台(現状)から、
外海に押し寄せてくる大津波に、ただ、漫然としている人たちの姿が見える。
三分の二は助かるが、三分の一は、間違いなく飲み込まれる。危ない人ほど、
自分は大丈夫とタカをくくっている。 この映画の主人公のように、ある日、
突然騙され南部に売られ自由を失った主人公のように、突然、全てが失われる。
これは、社会的変動だけでなく、誰にでも起こる生老病死の問題もあるが。 
国家としての行き先は、現在の韓国のように、韓国内の企業の株式の8割が
外国所有になって、民度は落ち続け、客船沈没事件とか、得体の知れない宗教
団体の跋扈とか・・ それでも、かの国の夜が明けている。 
色いろ考えさせられた映画である。
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4445、早朝座禅
2013年05月18日(土)
        「早朝座禅ー 凛とした生活のすすめ」山折哲雄
 この本を読んで直ぐに30分早く起きて、早朝座禅を取り入れてみた。
まずは、今月一杯は続けてみるが、どうなるか。今のところ抵抗感も、
異物の習慣といった感もない。もう40年以上も朝起きの習慣化があった
上に、その時間帯での全てがカタチを変えた瞑想みたいなもの。
朝の散歩やミニサイクリングは、移動座禅といってよいほど。何故、今まで
軽い気持ちで早朝座禅か、瞑想を取り入れなかったのが不思議なくらい。
 30年間の新幹線通勤の往復一時間が、瞑想に近いし、夜半の4時間の
爆睡後の一時半から4時半までの三時間は、瞑想に近い状態になるので、
あえてその必要が無かったこともある。しかし姿勢を正し、目を瞑り、
思いに捉われないで、覚醒した気持で正座をするのとは違うのは、
経験して初めて知ったこと。
ーまずは、(内容ーアマゾン)よりー
< 現代ほど「人間関係」の重要性が説かれる時代もない。家族、学校、
 会社、それぞれにおけるコミュニケーションの大切さが謳われる一方、
疲れた人やうつ病は増え続け、自殺者は九年連続で三万人を超えている。
著者は、疲れたときには「群れ」から離れて「ひとり」になってみよ、という。
毎朝、五分坐って、己の心と向き合う。正しい姿勢で、深い呼吸をする。
季節の風を胸元に入れながら、歩く。ときには庭にたたずみ、河原で風に
吹かれる。ひとり静かに自分自身や自然と向き合うことが、騒々しい人間
関係の疲れを取り、豊かな人生を手に入れる最良の方法。凛とした生活を
送るために大切な身体作法を実践的に説く、山折流・人生指南の書。>
   =概要をマトメルと=
≪ 現代社会にあふれる‘うつ’の現象を分析し、
○過去に人生モデルが見つけられない程の高年齢化。
○宗教的な感覚が欠如した口先だけの言葉の群れの氾濫。
それが、世の中に不安をもたらすモノノケとなり、うつを蔓延させている。 
回復には、ひとりで静かな中で早朝坐禅をし、モノノケから自由になり、
歩く・泣く・眠るという3原則が大事とのこと。 宗教は非日常性。
教会でもお寺でも、日常の気持ちから離れ、心を改めて参拝します。 
一方、俗人の日常は、非宗教です。宗教者とは違い、生活に宗教性は薄く、
実生活を営んでいきます。著者にとっては、この場は混ざり合っていて縦横に
歩ける無境界地帯のよう。早朝坐禅は、無念無想のために坐るのではなく、
むしろ雑念妄想を吐き出させ、それ以後の1日をスッキリ生活させる為の手段。
またチベットの寺院の真似をして、呼吸さえ密やかにする坐禅中に、茶を喫する
などその自由闊達な動きは著者独自のもの。頭の中に湧いてくる雑念をそのまま
流れに任せ感じ、そのまま受け入れる。嫌な事でもいい事でも想像の中で、
いろいろ出来る。著者は「疲れたときには‘群れ'から離れ‘ひとり'になれ」と。
そして自分の心と向き合って深呼吸をする。人間が自分を不幸だと感じるとき、
それは絶対的な不幸をいうのではなく、「幸福な他人」との比較による相対的な
不幸について言っている。 あらゆる不満は他人と比較で生じると。≫
▼ 創業の第一歩は、「ひとりになること」から始まる。心にイメージした絵に
向かい、ただ独り長年かけ準備をしていく。周囲が現在のことに無我夢中の中で、
一種の宗教のように自分が目指す、創業に向かい一つずつ、パーツを集める。
傍からみたら一種の狂人に近い心の状態。それでも続けていると、カタチが
少しずつ現れてくる。問題は前進を止めないこと。 その中で、心の芯に
「ひとり」を保っていないと、現象に流され、群れに同化してしまう。庭弄り
とか、散歩、一人旅、読書など、「ひとり」になる切り口は幾らでもある。
それでも、モノノケに縛られる。早朝禅か、瞑想の習慣は最も有効だが。 
  さて30分の野狐禅が身につくかどうか? 
・・・・・・
4071, 哲学で自分をつくる ー1
2012年05月18日(金)
     「哲学で自分をつくるー 19人の哲学者の方法 」 瀧本 往人 (著)
 実をいうと、この本、トイレに一年間以上、置いておき毎日読んでいたもの。
これを手に取ると自分の本音を見透かされてようで、切り口が素朴で日常的の
ため面白い。あまり知られてない、こういう掘り出しものが哲学書には数多ある。 
門前で野狐禅みたいなレベルで知識を弄んでいる輩(私)に、噛み砕いて教えを
説かれているようである。
   ー内容ー
 ソクラテスニーチェウィトゲンシュタインから、フーコードゥルーズ
デリダまで、19人の哲学者の思想・人生のエッセンスを、現代に生きるリアルな
問いに置き換え、今を生きぬいていく方法を学ぶ。(読者評価) 19人の哲学者
たちの声に耳を傾けつつ、もう一度自分自身の頭で考えるということから
始めてみよう。確かに悩みや不安を宿命として受け止め肯定的に捉えるのは
容易なことでは無い。しかしそのために考えることを生きていくことの
力とする哲学というものが存在する。もっと哲学という方法を、すなわち自分で
考えるということの強度を信頼しても良いのではないか・・。著者はそうした
問題提起の下、それぞれの哲学者に成り代わって現代の読者との対話を試みる。
しかし本書は哲学者を高みの存在には置かない。また、昨今の入門書のように
デフォルメもしない。あくまでも彼らがそれぞれの時代を生きた一人の人間であり、
一人の生活者であったことに軸足を置いている。このニュートラルな哲学者の位置
づけによって、それぞれの哲学者に瑞々しい生命力が与えられ、彼ら哲学者と
現代に生きる我々との問題意識が決して隔てられたものではないという親近感を
得るのに役立っている。
  ーはじめにー の冒頭が、この著書の特徴と狙いを書いているー
【 あなたには、自分らしくありたい、人に認められたい、自分のことを
 分かってほしい、世の中で成功したい、幸せになりたい、金持ちになりたい、
モテたい、死にたくない、もっと真っ当に生きたい、といった積極的な意欲が
あることだろう。もしくは、とにかくモヤモヤしている、何もかもが信じられない、
人づきあいが面倒、生きるのがつらい、何もしたくない、誰かなんとかして、
といったような、消極的な感情もあるかもしれない。過去の哲学者たちがもし、
今、ここにいて、21世紀に生きる私たちの、そういった悩みや葛藤を聞いたなら、
はたしてどうなるのか。どのように聞きとり、どのようなことを語ろうとするのか。
「街の意見」をぶつけられた哲学者が応えるようなスタイルで本書は書かれている。 
本書は、あなたに「哲学する」ことを勧める。 ここで言う「哲学する」とは、
生きてゆくうえでの「思考の力を磨くこと」である。既存の哲学を単に解釈したり
理解することではない。日常的に哲学的な問いかけを行い、生きることに役立てる
こと、つまり哲学を使って「自分」をつくるということである。】
▼ 我々にとっての疑問、悩みを歴史上の哲学者が答える形式は分かりやすい。
 我々が日常で悩んでいることや考えていることは、全て過去の哲学者が考えて
きた一部の悩みでしかない。19人は哲学者の中でも選りすぐりの人たち。
彼らのいっている真理は現在でも、そのまま通じること。最近、気づいたことは、
私の人生はニーチェに大きく影響されていたようだ。この生活者としての生の
内面の疑問に19名が答える形式は哲学を身近に引き寄せる。
残されて人生、とにかく考え続けるしかない。
  ・・・・・・・
3705, ジャズについて −4
2011年05月18日(水)
              ー 「音楽の本」三枝成彰著 より
 1920年代に「ビッグ・バンド・スタイル(4人位のバンド編成が、
15人を超える大編成)」が受けるようになった。その巨人が、あの
デューク・エリントン。ジャズの世界を知れば知るほど、面白い。
  * ビッグ・バンド・スタイルの流行
【 ジャズの中心がその生誕地ニューオリンズからシカゴに移っていた
 二〇〜三〇年代、ニューヨークやカンザス.シティでは、大編成による
ビッグ・バンド・スタイルのジャズが流行した。トランペット奏者、サックス
奏者、トロンボーン奏者がそれぞれ四人程度、それにピアノ、べース、ドラム、
ギター奏者が一人ずつの編成し、クラシックの楽団には比べるべくもないが、
それでも、一五人を超えるメンバーからなるビッグ・バンドはニュー・
ーオリンズ・ジャズの編成(一般的にはコルネットット、トロンボーン
バンジョー、ピアノ、ベース、ドラム各一人)に比べればはるかに大規模
だったし、現在でもトリオ(ピアノ、べース、ドラム各一が基本)か、カルテット
(ピアノ、べース、ドラム各一にトランペットかサックスが加わる)がジャズ演奏
の主流であることを考えれば、大編成と呼んでもいいだろう。 
そのビッグ・バンド・スタイルを確立させたのは、フレッチャー・ヘンダーソン
(一八九七〜一九五二)。しかし、ニューヨークの黒人居住区であるハーレムの
ポールルーム(ダンスホール)やクラブを拠点に活躍したビッグ・バンドの巨人
といえぱ、デューク・エリントン(一八九九〜「九七四)をおいていない。 
本名エドワード・ケネディ・エリントン(デュークは公爵という意味のニック
ネーム)は、あとで触れるマイルス・デイビスに、「あらゆるミュージシャンは
彼に感謝を捧げる日を持つべきだ」といわしめ、フランスの作家ポリス・ヴィアン
をして、小説の登場人物に、「かわいい女の子たちとの恋愛と、デューク・
エリントンの音楽。それ以外は消え失せたっていい。醜いんだから」と語らせた
人物である。「A列車で行こう」「黒と茶の幻想」「ソフィスティヶイテッド・
レディ」「サテン・ドール」・・・。ジャズ・ファンならずとも耳にしたことが
ある名曲.名盤を数多く残し、自らもピアン奏者であったが、彼の真の楽器は、
自分の楽団そのものだったといっていい。アーム・ストロングと同じように時代や
国に影響を与えた彼は、アームのソロイストとは対照的に、優れたバンドリーダー
であった。エリントンにとって、バンドのメンバーはさながら絵の具のようであり、
それぞれ個性という色を混ぜ合わせて、最終的には「エリントン風絵画=楽曲」
に仕上げることに長けていた。】
▼ そうこうジャズについて知ると、学生時代に、こういう本があれば、
 もっとジャズ好きになっていた筈である。エリントンの70年の録音された
ニューオリンズ・スイート」は、その地と縁もゆかりもない彼が、ジャズの
発祥の地に敬意を表したアルバム。アメリカ発の魂の歌と言うことができる。
・・・・・・・
3340, 感性・悟性・理性 ーカント
2010年05月18日(火)
 理性といえば、「純粋理性批判」のカントである。
ーこの一冊で「哲学」がわかる!ー白取晴彦著ー の中で、
 認識についてのカントの考えを次のように書いている。
≪ 彼は、その中で「・・・我われの認識がすべて経験を以て始るとはいえ、
 それだからといって、我われの認識がすべて経験から生じるのではない。 
なぜなら、おそらく我われの経験認識ですら、我われが印象(直感)によって
受け取るものと、我われ自身の認識能力(悟性)が自分自身から与えるものとの
結合真実であろうからである。」と述べている。では、この「我われ自身の認識
能力が自分自身から与えるもの」とはいったい何なのか。それは感性と悟性。
・感性とは、見えている素材がいろいろな形で心に受容される能力というほどの
 意味。 感性は五感を通じて現われたもの、すなわち現象を捉えます。
 このとき、感性は時間と空間という内なる形式にしたがって現象を整理して
 見ています。時間と空間というこの形式は、人間の感性の中にあらかじめ
 備わっている先天的なものである。
・この現象から得た情報を整理して判断するためには、もう一つの理性、
 「悟性」がここで必要となる。悟性とは、大雑把にいえば、「理解する能力」。 
 少し丁寧にいえば、能動的な思考・判断能力となります。さらにわかりやすく
 いえば、「現象に規則を与える能力」だといえます。この結果、概念の骨格が
 一つずつ出来てきてそれに肉付けをしたものがイメージになって出てくる。 
 受け取った概念はたとえていえば、骨格標本のようなもの。これに対応する
 イメージを生み出すのが、我われの人間の「心の内奥に隠された技術」
 すなわち構想力だといいます。
・我われは日常的なこと、目に見えることだけを知りたがっているわけでは
 ありません。「愛とは何か」「神はいるか」「何が善で何が悪か」といった
 ことを知りたがる。 カントによれば、これら形而上の事柄に関しての担当は
 悟性ではなく、理性であるといいます。感性と悟性は現象まで扱い、それ以上
 のこと、すなわち現象の原理については理性が扱うのである。
「霊魂は単一か否か」は昔からの馴染み深い疑問でした。 しかし、これこそ、
 という答えはありません。霊魂は現象として目に見えるものではない。
 しかし、理性はこれについて考えてきた。つまり人間の理性は、感性や悟性が
 感知できないものについて、思考をめぐらすことが可能である。 しかし、
 カントは、そこで面白い結論を出したのです。すなわち、認識の限界を超えた
 ことを思考すれば、必ずや二律背反に陥るということである。 二律背反とは、
 互いに矛盾するということ、互いに矛盾しながらも互いに反駁も出来ないこと
 を言います。どうして、こういうことが起こるのか。 感性も悟性も到達
 しえない理念について理性が考えても、その考えは認識できるものではない
 ということです。  ≫
▼ カントの認識に関するエキスの部分を非常にわかりやすく噛み砕いてある。
「・現象を時間と空間の中で対象として感性で捉え、・悟性で、その対象を
 整理をし、・思考して(判断を加え)、・理性で原理を求める」ということが
 認識としている。非常に分りやすいカントの認識論である。
・・・・・・・・
2965,世界はパンデミックに入ったのか! ―2
2009年05月18日(月)
 * パンドラの箱が開いた!
ついに国内に新インフルエンザの感染者が出て、そして拡大が始った。
時間の問題ではあったが、これからは何処まで感染者が増えるかの問題になる。
感染者が増えていく過程で、菌が悪性化するから問題。予測どおりにゴールデン
ウィーク明けの10日足らずで、日本も世界並みに感染が始った。
問題は高校生であるところ、多くの生徒の間に感染している可能性がある。
更に家族などからネズミ算的に感染してる可能性がある。 スーパーや電車など
人混みの多い所は要注意。マスクは殆ど感染に効果がないというし、
よく手を洗うしか予防がない。ウガイは10分以内の菌にしか、
効果がないという? しないよりは、良いのだろう。  
 (字数制限のためカット2011年5月18日)