つれづれに

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   今日のYoutube

 スポーツジムに通いだして4年と2ヶ月になる。
昼過ぎに行き、二時間ほどして帰ってくる。
 柱は、週三回のヨガと、週に5~6回のイージーライン。
イージーラインは6つのマシンと、その間に6つ並んでいる
ステップ台を最大、12人が二周するエアロである。
それに青竹エアロを一回と、ウォーキングマシンを2度歩く。
これに早朝の自転車散歩が一時間で、体調はベスト。

 精神的には、安定しているが、それでも、一寸したことで苛立ち
が隔週は起きる。 週に一回、酒と肴をスーパーで買うことと、
シネマに行くことと、図書館通いが、ストレス解消になっている。
けっこう、この仏間にあるパソコンをメインにした空間が、落ち着く。
 小さな仏像とか、マリア様の像とか、布袋様の像とか、
ネパールで買った仏具があって、何ともいえない賑やかな、
雑然とした、空間になっている。 午前、午後、5~6時間は、
パソコンや、読書に、時間を忘れ没頭している



・・・・・・
4460, 99・9%は仮説、ですか~ -2
2013年06月02日(日)
    「99・9%は仮説 ー思いこみで判断しないための考え方」竹内薫
 何事も99・9%が仮説と思えば楽だが、99%の人は深く考えず、現象が事実と信じ、
仮説の意味すら理解できない。それでも生きていけるのが娑婆。常識を疑ってみないし、
親や周辺、TVなどの常識の殆どが仮説。そういう私も、考えている殆どは他の人の
仮説を読み、聞いて、自分の仮説を立て修正しているに過ぎない。
  第一章 世界は仮説でできている
≪ 科学にはじまって、歴史も芸術も政治も経済も、いや、人生のあらゆる場面も、
実は仮説に塗り固められている。そして、そういった実態に気づくか気づかないか
によって、世界の見え方はガラリと変わる。世界の見え方が変われば人生も変わります。
・・科学だけではなく、わたしたちをとりまく世界も、実は仮説に満ちあふれています。
親から教わることも、教科書に載っていることも、いずれもがあたりまえだと思って
いる常識や習慣や定説も、ぜんぶがぜんぶ、ただの仮説にすぎない。
そして、仮説であるからこそ、覆がえすことも可能なのです。・・
 ・・・ ケプラーは、ティコが遺した膨大かつ精密な天体の観測データをもとに、
新たな軌道を計算し直しました。すると、コペルニクスの地動説では説明しきれない
微妙な誤差があることがわかったのです。 その誤差がなぜ生じるのか? 
ケプラーは、そのデータをあらためて詳しく分析し、星の軌道が完全な円ではなく
楕円であることをみつけたのです。この発見は、まさに最後の一撃でした。
地球はもはや宇宙の中心でもなければ、その軌道は完全な円を描くわけでもない。
 つまり、「神が棲む世界」をコナゴナにしてしまったわけです。楕円の発見は、
地動説とともに世の中の宇宙観を一八○度ひっくりかえした、まさにエポック
メイキングなできごとだったのです。・・ 問題は、ガリレオをあざ笑った教授
たちにしても、プトレマイオスにしてもである。コペルニクスでさえも、
後の時代からみるとまちがった常識にとらわれていた、ということです。
それは、現代に生きるわれわれでも同じです。今日、常識だと思っているものが、
明日、天才科学者の出現によってまちがいであると判明するかもしれないのです。
 つまり、常識というやつは意外にもろいのです。常識はくつがえるものなのです。
ですから、この本では、そういった常識のことも「仮説」と呼ぶことにしたいと
思います。常識は仮説にすぎないのです。プロローグの飛行機の例をみても
わかるように、「科学的根拠」があると思われているものも、案外なにもわかって
いなかったりします。われわれの世界観、われわれが親から教わること、学校で
教わること、そういったものは、すべて仮説にすぎません。≫
▼ 「自分が考えてきたこと、信じてきたこと、全てが仮説(思い込み)
しかなかった」とは、ショックだが、哲学に興味を持ってから、常識をのっけ
から疑うようにしてきた。それが哲学の第一歩だったが、自分の思っていた
99・9%が思い込みとは驚き。その観点で改めて人生を振り返えると、
「手前勝手の思い込みダンス」が見えてくる。
・・・・・・
4086, 本格的に始まった? 世界恐慌
2012年6月2日(土)
ギりシャのユーロ離脱だけではなく、スペイン、イタリア、フランスなども
世界恐慌を引き起こす火種となってきた。しかも、これら各国で「反緊縮」に
国民が熱狂、財政再建が機能していない。それは国債暴階の危機が高まっている
ことをいう。要は、マイナスに向かって本格的に動き出したということだ。
ただ、アメリカをはじめ、各国のトップが密に連絡をとっているので、何とか
目先を乗り切っている。彼らは、その結果が如何に悲惨な事態になることを
知っているので、必死なのである。学者やエコノミストのコメントを中心に、
この記事の内容を幾つか紹介してみる。ある日、突然、国債、株価の暴落が
遅くて年内、 早ければ今月中に起こる可能性が強い。 せめて年末までは、
持って欲しいが・・ ー以下の内容は、シビアである。
●「これから世界経済、日本経済がどうなっていくか。それはひとえに、
ギリシャ債務不履行がどのような形で起こるかにかかっている。
もしギリシャでコントロールされないデフォルトが起これば、世界経済は
不況に入り、日本経済にも巨大なインパクトとなる。(リーマン・ショック
のあった)2008年後と同じくらい経済が悪くなるかもしれない。
そんな最悪のシナリオがありえる状況になってきた」(ニューヨーク州立大
客員教授などを歴任した知日派ジャーナリストのリチャード・カッツ氏)
●「いま我々はグレイト・デプレッション(大恐慌)に入ってしまった。
 世界が繁栄していると思っていたのは実はバブルに過ぎず、過剰に
 なった負債がクラッシュしたことで恐慌へ突入してしまった。
 最悪のシナリオは1930年代の大恐慌の完全な繰り返しである。
 ファシズムが台頭、政治対立が生まれる状態だ。不況が10年も20年も
 続くことになるだろう」(ウェスタシドニー大のキーン教授) 
● ノーペル経済学賞受賞歴のプリンストン大学教授ポール・クルーグマン
 氏が5月中旬に書いたニューヨーク・タイムズのプログに、6月から
 ヨーロヅパで起こるであろうシナリオが書かれている。 際に見てみると、
 その内容は衝撃的だ。「何人かで謡し合っていて、次のような結論に
 落ち着いた」として、クルーグマン氏はこう綴る。「ギリシャはユーロ
 から離説、おそらく来月だろう」「スペインの銀行とイタリアの銀行から
 巨額の資金が引嚢}出される。銀行はドイツに資金を移動させようとするだろう」
 「銀行は国外への資金の移動を禁じられ、現金引出しが制限される可能性もある。
 あるいは同時になるかもしれないが、銀行を磁綻から救うためにECB(欧州
 中央銀行)が巨額融資をする」「ドイツがイタリアとスベインに対する巨大な債権
 を受け入れるのに加え、戦略を大幅に変更するか、あるいはユー口の終わり」
●「ザ・エコノミスト誌東京支局長のヘンリー・トリックス氏は、
ギリシャがユーロを離脱することになれば、‘第二のリーマン・ショック
のような事態が起きてもおかしくない。しかもリーマンのときは成長著しい
中国が世界経済の救世主となったが、いまの中国は韓国サムスン 幹部が
「中国での売り上げが予想以上のスピードで下落している」と言うほど
景気が失速しているから、同じような役割は期待できない。 世界の中央銀行
もすでに大量のお札を刷り過ぎているから、前のように大きくは動けないだろう一
と今回の危機の深さを指摘する。
● ニューヨーク大学ビジネススクール教授のジョゼフ・ファウディー氏は、
アメリカでは、ギリシャがユーロから離脱したらリーマン・ショックのような
出来事が起きると懸念されてる。スペイン、ポルトガルが次の標的になり、
さらにイタリアがユーロを離脱することになれば、世界経済に巨大な衝撃を
与えることになる。 もちろん日本経済は影響を避けられない。
まずトヨタSONYの収益が減少する。
▼ 裏山の高台(事業から撤収)から、見える大津波は、どえらい規模。 
 まだ海辺で内海を眺めている集団が目に入る。グローバル化した社会の
恐ろしさが、まだまだ理解できない。こうは言っているが、
実際は想像を遥かに絶するだろう。
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3720,ジャズについて -12
2011年06月02日(木)
 * 革命か目茶苦茶か -評価が二分された「フリー・ジャズ」    
                  ー 「音楽の本」三枝成彰著 より
■ オーネット・コールマンからジョン・コルトレーンまで ーP/203
【 一九五九年から翌年にかけ、アルトサックス奏者オーネット・コールマン
(一九三〇~?)は、『ジャズ来るべきもの』『フリージャズ』という
タイトルのアルバムを発表していくことになる。これらはジャズ・ファン
のみならず、アーティストの間でさえ、「ジャズの革命だ」「滅茶苦茶を
やってるだけだ」と評価を二分した。大方のリスナーには調子はずれの
ちんぷんかんぷんな音楽にしか聴こえない彼の演奏は、当然ながら大衆的な
支持は得られなかった。しかし、六〇年代の"反体制気運"とあいまって、
いっさいの音楽的規則や形式にとらわれず、なんでも自由に演奏する
フリー・ジャズ・スタイルを生み出す。このフリー・ジャズ・スタイルは、
コード(和音)による進行がないばかりか、小節の制約すら取り払われたもの。
結果、メロディーやスウィング感も失われていく。古典派からロマン派と
続く中で美しいメロディーとハーモニーを奏でたクラシックが、近代.現代
に入って失われていったが、あえていえば、ジャズでも同じことが起こった
といっていいだろう。オーネット・コールマン以外では、テナーサックスの
アルバート・アイラー(一九三六~一九七〇)やアーチー・シェップ
(一九三七年~)、ピアニストのセシル・テイラー(一九三〇~)などが、
こうしたプリー・ジャズの流れの中で語られるアーティストである。
ジャイアント・ステップス一(五九年)、「マイ・フェバリット・シングス」
(六〇)、「至上の愛」(六四)というアルバムにより、ジャズ史上もっとも
偉大なサックス奏者として、多大な影響を及ぼしたジョン・コルトレーン
(一九二六~一九六七》も忘れてはならない。
「字数制限のためカット2012年6月2日」
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3355, 人みな骨になるならば ー13
 2010年06月02日(水)
  * なぜドラマみたいでないのか
 これがシビアで面白い。 自分はいうに及ばず兄姉などの人生を覗くと、
決してドラマのような人生などない。そこにあるのは夢も希望もないリアル
の人生である。時にドラマみたいなのもあるが、それは喜劇か滑稽な悲劇である。
  ー まずは Pー27から抜粋してみる ー
≪ 前から不思議に思っていることだが、われわれの実人生はどうして
 こうもドラマみたいでないのだろう。なぜ次々に恋愛や心ときめく出会いが
ないのだろう。これは容姿がいまひとつといった大多数の平均的な人にとって、
そうしたラヴ.アフェアエアは青年期にそれらしいものが二、三あれば御の字で
平凡でみすぼらしいものである。かりに大恋愛の末に大団円を迎えたにしても、
そのあとに退屈な毎日がだらだら続くであろう。そのうちヒーローは歯周炎を病み、
ヒロインは亭王の前で平気で放屁をするようになる。もし現実の男女が数奇で
劇的な大恋愛に陥っても、かれらの日常をずっとカメラで追っていけば映画と
して最悪の作品になること必定である。洗顔歯磨きに十分もかけるし、風呂には
二十分も入る。くちゃくちゃ咀噌し、いきんで排泄する。最悪なのが睡眠で、
数時間も横になったままである。絶世の美男美女が演じたとしても、観客と
してとても半時間以上はつきあいきれるものではない。そこで編集が必要になる。 
だらだら続く日常性の部分をカットし、しかも肝心のストーリーがつながる
ように見せ場だけは拾い上げていく。これを工夫すれば、われわれ凡人の一生
であっても一作や二作ぐらいはドラマ化できないものではない。映画なら
二時間前後にまとめないと観客の集中力を保てない。ということは七十年の
時間から二時間だけをピックアップするのである。しかし、実人生とか
リアリティというのは七十年のほうにあって二時間のほうにはないのである。 
だから二時間にまとめられたドラマは作りものであり、退屈な散文的な
七十年のほうがリアリズムなのだ。 活劇や冒険となると、そもそも凡人
が経験できないもの、いや経験したくもないものである。
現実の警部補だと担当できる殺人事件は数件か、せいぜい二、三十件どまりで、
そのほとんどが単純な激情犯ゆえすぐつかまる。しかるに小説やドラマの
名探偵名刑事たちは数十から数百の殺人事件にでくわし、そのいずれも
が奇々怪々な難事件なのである。しかも、どういうわけか解決する。
SFの宇宙船で事故や怪物にでくわさないものはない。フィクションだから
しかたがないと言えばそうなのだが、ノンフィクションやドキュメンタリー
であっても編集してあるからには、実人生から遠いこと恋愛物と大同小異。≫
▼ 逆に「なぜドラマみたいでなければならないか」という問いが立つ。
自分の人生を脚色して自分を納得したいのが人間の弱さ。すべて仮想でしか
ないと冷めた目で周囲を振り返れば、ドラマも何もあったものではない。
ドラマはつくりものだが、そっちの方が現実と思いたいのである。実際に
カントは、対象を認識するのではなく、自分の認識が対象を決めると看破した。
ドラマはつくりもので、ストーリーを主にした抽象画のようなもの。 
敢えて言えば主体的に生きていることがドラマみたいにしてくれるのである。
だから主体的に生きなけれならない。人生を振り返ると、緩慢だがドラマ
のようにも思えるのは記憶がドラマ仕立てに都合よく変えてくれるから。
それもヘロヘロ。精一杯生きていれば、それだけでドラマになると信じたいが。
  ・・・・・・・・
2980,超円高社会  ー3
 2009年06月02日(火)
* 危篤状態の日本の実態     「超円高社会」 水澤潤著 ー読書日記
《第5章 政府が破綻しても日本は生き残る》の 
   ー危篤状態に陥った日本政府ーが現在の実態を捉えるに解りやすい例え話。
 国民もマスコミも、その深刻な事態の実感が薄いようである。
NHKが毎週のように土曜日などのゴールデンタイムに、特番を組んで報道しているが・・。
頭の軽い、その辺の人が?「マスコミは騒ぎすぎだから消費が冷え込む」とかいうが、
そんな事態とは違う。 明治維新幕藩体制が終わり、日本という国家ができた、
あの節目より大きな変わり目である。現在の日本は危篤状態の重病人。 
そこに急に大嵐が来た中で重病人に、火事場の馬鹿力を出せという。そうしないと
死にますよという。 しかし、この20年近く、もう力を使い尽くして、重体に
なっている身。その辺を、上手い例え話で説明しているのである。(P-112)
【 ブライマリーバランスという意味不明の言葉を、おそらく多くの人が耳に
したことがあると思う。日本政府が「2011年度に回復する」ことを公約として掲げて
きていたこの言葉だが、いったいそれが回復すれば、どんな良いことがあるのだろうか。 
        「字数制限のためカット2011年6月2日」
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2616, サルトルを考えてみる  ー3
 2008年06月02日(月)
ーまずは、あるサルトル入門書に書いてあった、
 サルトル批判と人気衰退の理由の箇所を抜粋してみよう。
 *サルトルへの批判と、忘却の原因とは
サルトルの影響力は、サルトルの死後急速に低下したが、それは「構造主葉」
という新しい思想が現れたことが大きい。構造主義は、スイスの言語学者ソシュール
言語学文化人類学などが結びつき、1960年代に作られた新しい思想である。
レヴィ・ストロースジャック・ラカンミシェル・フーコーアルチュセールらが
その代表者とされた。構造主義は、モノではなく関係を重視するところに特徴がある。
またこの思想は、主体(私)としての人間に、たとえば言語のような、関係の網の目と
しての構造が先立っている、と考える。構造主義は、西欧近代哲学全体を、主体と
しての人間を中心とする人間主義(ヒュー・マニズム)として批判した。またそれは、
人間を作るのは歴史ではなく構造だとして、マルクス主義に代表される進歩的歴史
主義を批判した。サルトルの思想は、実存における選択を強調する点で「主体主義」
ヒューマニズム」の哲学とみなされ、またマルクス主義を評価していた点で
「歴史主義」の哲学ともみなされた。要するに、サルトルは、それまでの古い西欧
哲学の代表としてやり玉にあげられたわけである。構造主義の後には、
ジャツク・デリダジル・ドゥルーズらの「ポスト構造主義」が話題となったが、
サルトルはしだいに批判されるというよりも忘れ去られるようになっていった。
デカルトヘーゲルの哲学は西欧近代哲学を代表するものであり、批判されながらも
古典として今も読まれ続けている。ところが、サルトル哲学は、古典にもなりえない
二流のものとされてしまい、ほとんと読む人がいなくなってしまった。サルトルは、
もう時代遅れの思想家なのだろうか、そして本当にサルトルを乗り越えたのだろうか、
この二つが、サルトルを見直した後の疑問である。 サルトルは「偽の知識人」を
徹底的に批判した。「偽の知識人」は普遍性の番人を自称し、高みから大衆を導く
気になっているが、個別的などの戦争を停止させようとせずにただ一般的な平和の
望む、などという。 彼らは植民地の人たちを人間以下のものとして排除することで
成り立っている。こういう知識人の問題は、我々の問題である。閉じた場所の外へ、
世界へ関係するとき私たちは真の知識人になるのである。
▼ 以上だが、この批判を読むと、サルトルは時代遅れの鼻持ちならない
 フランス人と切り捨てられるのも解る。人間を作るのは歴史ではなく構造だと
主張し、西欧近代主義=白人中心主義自体ということを看破したした構造主義
土台になったことも見逃すことはできない。 現フランス大統領サルコジが、
サルトルのマイナスの現象とみることも出来る。 30数年ぶりに、サルトル
門書を数冊読んでみたが、現代にも十分通じるところがある。果たして、
サルトル現代社会は乗り越えたのであろうか? NO!であることだけは
事実のようだ。構造主義と、ポスト構造主義について、今度取り上げてみたい。