『人生、しょせん気晴らし』中島義道
   * 信念に生きることは割りに合わない!
 信念に生きると、当然、摩擦が起きる。それをバネに信念の芯を強めるか、
修正するしかない。 信念を貫いた人生には充実感が残る。
≪ Q: 先の暗い人生でも生きるべきでしょうか?
 私は58歳の零細自営業者です。同世代の先生なら説明する必要はないと
思いますが、学生時代から頑迷に反体制を信条として、就職や年金とは無縁の
生活を送ってきました。そのことに後悔はありませんが、困ったことに働ける
年齢を越えて生きのびそうな予感がするのです。いまさら、官にたよって生活
保護を受けるなんて恥ずかしくて出来ませんし、この歳になって信念を曲げて
まで生きる気もしません。自殺は解決手段ではないと読んだことがありますが、
私はこれから到底よくなるとは思えない苦渋の日々を寿命が尽きるまで生き
なければならないのでしょうか。あるいは、何としても生きるべきでしょうか。
その理由があるのでしたら教えてください。
  A: 「信念」を生きるとは割の合わないものです
 これも同じようなご相談で、一見どう答えていいか難しそうですが、
私の回答は至極簡単です。自分の「美学」があなたにとって何より大切なこと
でしたら、これまでせっかくがんばってきたのですから、国家の面倒を今後も
いっさい辞退して、潔くホームレスになってしまってはいかがでしょうか?
そして、どこまでも自分の美学を全うして死ぬことです。 私が法学部を捨てて
哲学に身をささげようとしたときは、先生から「自殺率は高いですよ」と
言われました。33歳で誰も待つ者のいないウィーンにひとり私費留学した
ときも、ドクター論文が書けなかったら戻ってはこれない、死ぬしかないと
思いました。 たとえ誰もほめてくれなくとも、いやバカだ、アホだ、と罵倒
されても、それがあなたの「生き方」なんですから、それでいいではないですか。
本物の「信念」とはそういうもの、そういう割の合わないものです。
だから(場合によって)感動的なのです。ソクラテスが最後の最後で脱獄して
しまったら(そういう誘いは多かったし、それは可能であった)、弟子のプラトン
はじめ彼のことなどすっかり忘れてしまっていたことでしょう。単なる
「合理的な爺さん」で終わっていたことでしょう。とはいえ、私は自分の信念を
貫き、ついに毒杯を仰いだソクラテス的生き方を賛美し勧めるつもりは毛頭ない。
もうひとつの合理的な爺さん的生き方もなかなかいいのではないか、と思って
います(私だったら迷うことなく脱獄します)。つまり、昨日までの反骨精神など
きっぱり捨てて、たったいまからは国家や政府あるいはボランティア団体から
すべての「援助」を貪欲にむしり取るのです。あらゆることを巧利的かつ合理的
にとらえなおし、「豊かな」老後に備えるのです。あっという間に変身する
生き方も、なかなか颯爽としていいものですよ。こちらは、ソクラテス型に
対して、ホッブズ型とも言えましょう。俺が人々と暗黙の社会契約を結んで
国家を承認したのは、自分にとって利益があるかぎりであるから、国家が俺に
死刑を請求したら、さうさと逃亡するのが当然だ、という考えです。
どうです、なかなかさっぱりしていていいでしょう? ≫
▼ 「功利的、合理的に生きる」という信念もある。サッサと事業断念を
 して「合理的爺さん」で終え、「節目を打った」と独り嘯いても、
「お前さんのそれは『日々是口実』でしかない」「これが私の生き方だから」
という「口実」が湧き出る。こと信念については、独り呟き続けるしかない!
・・・・・・
4814,Quirt <内向型人間の時代> ー3
2014年05月20日(火)
           <内向型人間の時代> スーザン・ケイン著
 * ‘誰からも好かれる人’の興盛
 毎日が淡々として、読書、スポーツ、TV鑑賞、パソコンに明け暮れる日々。
ますます内向的人間になっている。私の年齢と、時代が、そうさせていると
いう実感がある。一般的に、外交的人間の評価が高いが、実際に生きる上で、
内向的か外交的が良いのかは、その人自身の問題になる。誰からも好かれる
タイプは、時代によって大きく変わってくる。特に、現在、何が外交的か、
内向的かの根本から定義を変えなければならない。 ーその辺りからー
《 社会学者のウィリアム・ホワイトは1956年の「組織のなかの人間」で、
親や教師がどのようにして内気な子供を矯正しようとしたかについて述べている。
「ジョニーは学校にうまくなじめません。 担任の先生が言うには、勉強の
ほうはまあまあなのに、社交性の面がはかばかしくないとのことです。
友達はひとりか二人だけで、どちらかといえばひとりでいるのが好きだそう」 
ある母親がホワイトにそう話した。そうした教師の干渉を親は歓迎すると
ホワイトは書いた。「少数の変わった親を別にすれば、たいていの親は学佼が
子供の内向酌な傾向など偏挟な異常を直そうとすることを歓迎している」
親がそういう価値観を持つのは、思いやりがないせいでも鈍感なせいでも
なかった、たんにわが子に「現実の世界」と向き合う準備をさせようとした
だけだ。成長して大学に入った職に就けば、わが子は集団のなかで上手に
立ちまわらなければならない。大学の入試担当官が求めているのは、特別な
学生ではなく、外向的な学生だった。1940年代後半に、ハーバード大学
ポール・バック学長は「繊細で神経質」や「頭でっかちな」学生よりも
「健康的で外向的な」学生を入学させるべきだと言明した。1950年には、
エール大学のアルフレッド・ウィットニー・グリスウォルド総長が、理想の
エール大生は「しかめ面の専門家ではなく、円満な人間だ」とした。さらに、
ホワイトがある学長から聞いた話は印象的だ。「学生たちの推薦状を読んで
いると、大学が何を望んでいるかだけでなく、四年後に企業の採用担当者が
何を望むかまで考慮するのが常識になっているのを感じると総長は語った。
『外向的で活動的なタイプ』が好まれるそうだ。『つまり理想的なのは、
平均してして八十から八五点の成績を取り、課外活動に熱心な学生である。』
『抜群の成績』でも性格が内向的な学生はあまりこのまれないという。
この学長は20世紀半ばの理想的な従業員は沈思黙考ではなく、セールスマン
的な性格を持った外交型であることを適確に把握していたわけだ。・・・ 
要するに、科学者の仕事は研究するだけでなく、販売を手助けすることでも
あり、相手に調子を合わせる態度が必要になってくるというわけだ。 》
▼ 地方から上京してきて、都会育ちの洗練された外交的人たちを知った時の
驚きは、はかり知れないものだった。暇さえあれば、的確な間合いで、ダジャレ
を言い、笑いを取る。それに比べ、地方出身者は言葉が重く、無口な人が多い。
ジョーク、ダジャレで、その場を明るく和やかにするセンスはゼロ。
更に内向的になっていくか、身につけるか分かれる。 私の場合、まず
カーネギーの『人に好かれる六原則』の一つずつを身につけるしかなかった。
1、相手に誠実な関心を寄せる。
2、笑顔を忘れず前向きに。
3、名前を覚え、意識して名前を呼ぶようにする。
4、聞き手に回り、聞き上手になる。
5、自分ではなく相手の関心を話題にする。
6、その人を心から大切に思う気持を伝える。
 これを半年〜一年かかって身につけた結果、多くの友人に囲まれるように
なった。 しかし、仮面に嫌気をさして、直ぐ止めてしまった。何故、自分を
偽るのだろう、相手中心の話題ばかりで、自分を抑えなくてはならないのか!と。
人付き合いが良くなった反面、自分を抑えすぎて、日々、息苦しくなっていた。
その後、所属した武澤ゼミの影響もあった。
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2013年05月20日(月)
4447, 早朝座禅 −
          「早朝座禅ー 凛とした生活のすすめ」山折哲雄
  *「死生観」から「生老病死観」へ
 信長の時代から終戦までは人生50年の時代であった。それから僅か50,60年
もしないうちに人生80年の時代になってしまったが、それまでの死生観では、
30年も多く生きる時代に対処できなくなってきた。それが異常な自殺者の増加
というカタチで出ている。そこで問題になるのは老いと病に対する対処の仕方
である。ここで著者は「死生観」から「生老病死観」への対応が必要という。
ガンになれば、以前なら老人病で助からない自然死に近い扱いであったが、
治療で乗り越えるケースが多くなる。しかし、治療で生き延びた方が幸せかと
老と病に対する問題が出てくる。そして、それが自殺の増加につながってくる。
  ー まずは、その辺りから、抜粋してみるー 
≪ 人類は「人生五〇年」の時代を長く続けてきた。日本の場合、一九四七年の
平均寿命は男性が五〇歳、女性が五四歳だったが、その二〇年前や三〇年前は
織田信長が、桶狭間で、「人生四〇年」だったかというと、そんなことはない。
あの織田信長が、桶狭間の戦げてんゆめまぼろしごといの前夜に「人間五十年、
下天の内を比ぶれば、夢幻の如くなり」という冒頭の一節で知られる幸若舞
「敦盛」を舞ったのは、一五六〇年のことである。その時代からほんの数十年前
まで、四世紀から五世紀もの長きにわたって、人間の寿命は五〇年だったわけ。
 現代人は、平均寿命が徐々に延びるのが当たり前だと思っている。だが、
それはごく最近になって生まれた「常識」にすぎない。何百年にもわたって、
「人間の寿命はおよそ五〇年」というのが世の中のスタンダードだった。
 したがって「人生八○年」というのは、人間社会にとって「常識破り」の
大変化だといっていいだろう。人の一生がいきなり従来の一・五倍以上に膨張
したのだから、その急激な変化が人間の心理に影響を与えないはずがない。
当然、何らかの不適応が起きるだろう。現代人のうつは、その不適応のひとつ
なのではないだろうか。 というのも、「人生五〇年」と「八○年」では、
人間のライフサイクルがまるで違う。人生五〇年の時代は、働きづめに働いて、
気がついたときには死が目前まで迫っていた。だから「人生観」のことを
「死生観」とも呼んでいたわけだ。だが、人生八○年になるとそういうわけには
いかない。さんざん働いて定年を迎えても、死を迎えるまで二〇年、三〇年もの
時間が残されている。ゆっくりと老い、衰えや病気とつき合いながら、徐々に死に
近づいていくわけだ。そのライフサイクルは、「生か死か」というシンプルな
ものではない。「生」と「死」のあいだにある「老」や「病」を受け入れざるを
得ないのが「人生80年」の時代である。その場合、人生観は「死生観」だけでは
足りない。「生老病死観」とでも呼べるような、新たな人生観、もしくは人間観
のようなものが求められるわけだ。 ≫
▼ 両親の最期に、二人を看取ったこともあり、生老病死を近くで見たが、
 いざ自分が、その時期に近づくと、一人称と二人称の、あまりの開きに驚く。
身体はあちこち痛むし、心は暗くなる。世の中は、決して老人に優しくない。
それと身近が次々と亡くなっていく中、死の不安の問題が出てくる。所詮は、
全てが死んでしまうのが分かっていてもである。考えようによって、以前は僅か
だったが、現在は殆どが、長生長者。生老病死をじっくり味わうことができる。
どう味わうかは「生老病死観」になってくる。その中で、やはり自分一人の世界を
持ち、味わうことが求められる。現在は情報化の時代、その気になれば幾らでも
味わう対象が手に入る。そうなると、それまでの準備があるか?
 群れから自分から離れ、「ひとり」になれるかどうか。
手っ取り早いのが、早朝の座禅、瞑想になる。長生きは辛く面白い!
・・・・・・
4073, 哲学で自分をつくる ー2
2012年05月20日(日)
     「哲学で自分をつくるー 19人の哲学者の方法 」瀧本 往人(著)  
 以下の人たちの哲学を一通り理解し、ダイジェスト的に説明出来れば一応、
哲学の歴史の一端を理解出来たことになる。対象が哲学の初心者に向けられて
いるので、門前の小僧にとってシンプルで分かりやすい。ーはじめにーより
≪  本書に登場する哲学者と、哲学史上の位置づけは、以下のとおりである。
 �哲学は、ソクラテスからはじまる。
�近代西洋社会を支えたのは、デカルト、カント、へーゲルの哲学である。
�根本的な近代批判を展開したのは、マルクスフロイト、二ーチェである。
�二〇世紀の哲学を構築し直したのは、フッサールベルクソン
 ウィトゲンシュタインである。
�二〇世紀の哲学を反転させたのは、スピノザハイデガーメルローポンティ。
 ※スピノザは一七世紀の人間であるが、影響という意味でここに配置。
�二〇世紀哲学は、実存主義構造主義の対立、つまりサルトルと、
 ソシュール、レヴィストロースの対立に代表される。
�二一世紀の哲学は、フーコーデリダドゥルーズからはじまる。
 一般的な哲学入門書と似たような構成をとっているが、確固たる哲学の教義
 体系に必ずしも沿ってはおらず、「近代」以前の哲学や西洋以外の哲学に
ついてもあまり言及していない。また、哲学の知識や技術を伝授するような目的
で書かれたものでもない。ここで言う「哲学」とは、今生きている私たちの
「常識」的な考えの「見直し」。「常識」を「否定」「非難」しているわけでない。
 あくまでも「見直し」は、哲学で言うところの「批判」である。その結果、
あなたがこれまでの「常識」と違った考え方を持てるようになったならば、
本書の目的は達成されたことになる。もちろん、「常識」も大事である。
 鵜呑みにするのがよくないだけである。いろいろと考えた末に、「常識」
的な考えに立ち戻ってもかまわない。「常識」以外にも別の視座を持ち、
力強く二一世紀を生き抜けるよう、願ってやまない。  ≫
▼ この近代哲学の区分けも分かりやすい。著者は、常識的考えの「見直し」
 という点を強調しているが、哲学は本来そういうこと。 共通するのは、
あくまで入門書のため。現在ギリシャが経済を含め破綻しているが、欧米の
行き詰まりの象徴であるギリシャ哲学の行き着いた果て。人間の心の奥には
不安、悩みが常に沸きあがっている。目先の安易の解決を図ろうとせず、
一度、世間的常識から手を切ることだ。勝手なエゴイズムにならない
ようにしながら、考え抜いて肯定的に生きるべきである。
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3707, ジャズについて −5
2011年05月20日(金)
  ー 「音楽の本」三枝成彰著 より
 ジャズといえば、日本人の私にとって、「アルカポネがいた20世紀初めの
大都会の下町の酒場で、マフィアとか、チンピラの屯している中で、数人の
演奏者が奏でている曲」というイメージがある。実際に、ジャズの歴史に残る
巨人たちは、そこから名をなすことになる。以下の三人も、ジャズに興味が
薄い私でも知っている名前である。
 * "不良の巣窟"に生れのホーキンス、レスター・ヤングカウント・ベイシー
【 p・189ー アメリカ中西部のミズーリ州カンザス・シティ、まさに
‘不良の巣窟’だった街に目を移してみよう。アメリカでは二〇年から三三年
までは禁酒法の時代だった。禁酒法はかえってアル・カポネに代表される
ギャングを生む土壌をつくった。カンザス・シティは、こうしたギャングたち
が経営する密造酒場やダンスホールが栄えた街で、ジャズもまたそうした
場所を賑わせることになる。カンザス.シティのジャズを代表するのが、
コールマン・ホーキンス(一九〇四〜一九六九)とレスター・ヤング
(一九〇九〜一九五九)という、スタイルがまったく対照的だったテナーサックス
奏者の二大元祖だろう。ホーキゾスは、アップテンポの曲では豪快に荒々しく、
バラードでは甘く柔らかく、低音域から高音域まで緩急自在なトーン・
コントロールで、サックスを単なる伴奏楽器からソロをとれる楽器へ押し上げた。 
三〇〜四〇年代のニューヨークでは、たいていのテナー奏者がホーキンスを手本
とした。 一方、レスター・ヤングは、同時代人としてホーキンスの色に
染まらなかったところに、その独自性がある。彼はニューオリンズ、メンフィス、
ミネアポリスと渡り歩いて、カンザスシティカウント・ベイシー楽団で頭角を
現わす。そのテナーサックスは、ホーキンスのリズミカルな力強さよりも、
まろやかでメロディアスなフレージングを特徴とした。二人ともスウィング・
ジャズ時代に全盛期を迎えたが、のちのビバップ時代のアーティストとも共演。
ホーキンスのテナーは、スウィングの衰退後しばらく鳴りをひそめていたものの、
五〇年代後半、ジャズの復古ブームとともに蘇り、力強い豪快なトーンの健在
ぶりを示してビバップ派を驚かせた。しかし晩年は深酒に溺れ、栄養失調による
餓死同然の状態で最期を迎える。レスター・ヤングはシンガーのビリー・ホリデイ
(一九一五〜一九五九)との共演でも知られ・ビバップ時代以降は、スタン・ゲッツ
をはじめとするクール派の白人アーティストの間に熱狂的な信奉者を生んだ。
彼は軍隊生活で人種差別にあったことなどからその神経を病み、やはり酒と
ドラッグの助けを借りることが多くなって、晩年のセッションはしばしば
深い憂馨をたたえたものになる。、 カンザス・シティのジャズといえば、
なんといっても、カウント.ベイシー(一九〇四〜一九八四年)と彼の楽団を
抜きにして語れない。カンザス・シティ。そのカンザス・シティを拠点に活躍
していたカウント.ベイシーも、のちに楽団を率いてこユーヨークに進出する。
エリントンとベイシー。期せずしてビッグ・バンドの両雄がニューヨークで
相対し、人気を二分する。いや、三十年代に入って禁酒法が廃止されると、
カンザス。シティの歓楽街の灯も消え、そこを拠点にしていた他の腕こき
ジャズメンも相次いで、この街をさり、ニューヨークへと向かうことになる。
以後、ジャズの中心地はニューヨークになっていく。 】
▼ 当時の黒人はスポーツかジャズマン位しか名をなす機会がない世界。
 そこで名をなすのは至難の技の筈。その曲に魂が入っていて当然。
 ・・・・・・・
3342, 医師と看護婦の危ない関係
 2010年05月20日(木)
 いまさらの話だが、医師と看護婦の危ない関係が表面化してしまった。
下世話の話だが、何処かの同級会で「あの何某、医師になって順調に出世
しているが、彼の話だと看護婦は、○○放題?だと!」。酒席で酔っ払って
いるので、言っている方も、聞いている方も、ほぼデマ?として本当とは思って
ないが、「そういうこともあるんだ?」と、半信半疑で聞いたことがある。
看護婦の立場からみれば、医師にみそめられるのが理想系だが、医師の立場
からすれば、同じ医師か、その世界の娘と結婚をするか、医師のネーム
バリュー?で自分より格上の家の娘を対象にする。
(字数制限のためカット 2012年5月20日)