つれづれに

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 昨夜は長岡駅裏の居酒屋で飲み会。
地元で飲むのは秋以来になる。
駅裏のスナックを一軒寄って、22時に帰ってくる。
 正月あけと、連休前の平日ということもあって、
二軒とも、あまり客入りは悪いようだった。
 以前だったら、あと1~2軒は行っていたが、
もう、そんな元気がない。



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1376, 日常最上
2005年01月08日(土)

書店で「日常最上」という言葉に目が吸い寄せられた。
日常の何げない生活の中にこそ、実は最上の時間であるという意味である。
それに気がつくのに、何年かかったことか。

この随想日記に「22・23歳の日記」を書き写してきたが、三十数年ぶりに
読み返してみると、当時の「日常の何げない些細な友人との会話や議論、
そして感情の起伏や感動全て」が光り輝いていたことに、初めて気づく。

現在でも日常の些細なことが全てが実は最上ということに気がつけば、
毎日が充実した生活を過ごせるのである。
あの35年前に、そのことに気がついてはいなかった。
それを今にあてはめて考えてみればよい。

逆に言えば、日常にドップリつかってる俗世間を否定するのではなく、
その俗世間そのものを味あうことがも必要である。

以前読んだ本で、印象的な内容があった。
「神様に過去の、ある一日に戻してあげる」
と言われた人が、昔のある日に戻ったという。
両親・兄弟がいて幼馴染の友達がいて、何げない全てが光り輝いていたという。
何故その時、それに気がつかなかったというと、
「どうでもよい事」ばかりに気がいっていた為だった。

日常最上は「生きていること、そのこと」が素晴らしいということである。
悩みも、恐怖も、不安も、怒りも、全てが最上ということに、気がつくことである。
「生まれてこなければよかった!」なぞ言語道断である。

そう思える人が多いが。
他人から見たら、そう思われているのだろうが。

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2004年01月08日(木)
1009, 心を軽くする言葉

 何気なく図書館で借りてきた本を読んでいたら,ある項目にこの言葉があった。
そうそう手軽に「心が軽くなる言葉があるのだろうか」と思いつつ読んでみて、
ナルホドと思ってしまった。この随想日記も考えてみたら、自分の心を軽く
する効用がある!
心を軽くする映画シリーズは「男はつらいよ」であるが、少しテーマから外れるか。

 私自身にとって「心を軽くする言葉は何だろうか」と考えてみた。
「何とかなるだろう、何とかならなくなったら、何ともならないでよい。
ただ問題の中心点からは眼はそらさないこと、最善を尽くすこと。
何があっても卑しくはならない事、そして人を騙さないこと」ということか。

 この本の中で、ある女性には魔法のような呪文があるという。
引用の引用になってしまうが。

「どうにもならないことは、どうでもいいことだ」

 この一説を目にしたとき、スッと肩の力が抜けたという。
努力のかぎりを尽くしたのに成果が出なかった。
といって、誰かを傷つけた訳でなし、死んだわけでもない。
どうしても必要なものなら何とかなったはずだから、どうにもならなかった
ことは、それだけのものでしかなかったのだろう。
これがその人の解釈だという。
本人にとって正しく魔法の呪文だったのだろう。

 この文章を書いていて、気がついたが今実行している「ありがとう」という
言葉の呪文こそ、「心を軽くする」言葉である。
ウォーキングをして、1千あたりからスッと気持が軽くなるのが解る。

 この本ではシンプルな例として
・「しない後悔よりする後悔」
・「時間はすべてを解決する」
・「小さなことは気にしないことだ。そしてすべてのことは小さなことだ」
 があった。
 
 ところで、この不景気ほんとうに心が重くなる。
心のレッスンと受け止めて、日々過ごしているが。 

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2003年01月08日(水)
 640 ,ラスベガス

去年の年末にBSTVでラスベガスのショーを連日放映した。
その華やかさにただただ驚いた。
NHKの紅白より豪華で格段の差があった。
センスといい規模といい比べること自体が可笑しいといってよい。
アルゼンチンでタンゴのショーを見て圧倒されたとき、ラスベガスの
ショーはこんなものでないのだろうと思った。

先日図書館で借りてきた本に偶然そのラスベガスを書いてあった。
浅田次郎の「絶対幸福主義」である。
彼は仕事の頭の切り替えにラスベガスに年5^6回行っている。
そこでこの街をわかりやすく描写している。

ーラスベガスというのは、カジノだけでなくホテルもレストランも、
全体が堅気ではない。すべてが遊び場、夢の世界なのです。
だから24時間、私を別の自分にしてくれる。
こんな街は世界に二つとないでしょう。
何を求めて年に5回も行くかというとリフレッシュのためです。
いやリライフー生き返る・蘇生するという造語を言わせてもらう。

まずホテルからして面白い。私が滞在しているのは「トレイジャーホテル」ですが。
その名のとおり、コンセプトが「宝島」。で、地下のフロアーに行くと海賊が
ウロウロしているんです。隣の「ザ・ミラージュ」は、ホテルそのものが
ジャングルになっている。
その隣の「シーザーズ・パレス」は、古代ローマそのままの内装なんであります。
街そのものがワンダーランド。ディズニーランド顔負けであります。
意外と思われる方も多いでしょうが夫婦や家族ずれで来るとさらに楽しいところだ。

どこに行ってもきれいだし、治安がいいし、買い物をするにも世界一というほど
ショップが揃っている。洒落たレストランもそこらじゅうにある。
この街の健全性に、私は感動してしまいました。
と同時に、いかに日本人が博打を罪悪してるかを再確認しました。
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等々、目に浮かぶような描写である。
俗っぽく言えば
「如何にお金を持つことが大事であるかと、またそれを使うには能力が必要」
ということだ。

私の場合は秘境旅行を、そのままこの文章に当てはめることができる。
「こちとらは、ニセモノのジャングルや古代ローマや宝島じゃないぞ。
本物なのだ」というのも金と能力の限られた人間の負け惜しみだ。
一度ラスベガス行ってみたくなった。
何時も乗換えで飛行場から遠く街を眺めていたがこんな楽しい街なら
行ってみたい。
金をたっぷり持った人種に圧倒されて帰ってくるのが目に見えているが。

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 2002年01月08日(火)  
 294、正面突破しかないのでは?

今の日本は6掛け規模に収縮になるべき立場にある。
何をもって6掛けかはただ勘であるが、間違いはない。
今の生活を維持をしようとして、それを嫌がりどんどん銀行から金を借り、
雪達磨式に借金が年収の10倍以上に増えていった家庭の状態と仮定できる。

今もその範疇より一歩も出れない状態にある。
「こうすれば、よくなるという」視点より脱却しなくてはならない時期に来ている。
やはりクラッシュに向かって正面突破しかない。
もっとも自然にそうなっていく。しかし今の評論家のほとんどが、
この視点から一歩も出ていない状況である。

ソ連の崩壊までの前提と、それ以降の前提が全く変わってしまった。
アメリカの優待の立場が消滅してしまった、その事実が解ってない。
解っていてもどうにもならないのだ。
この10年ああすれば、こうすればと小出しにいろいろやってきて気づきはじめた。
一度清算しなくては、これを小泉首相が建前で言った。
しかし見ていると、まだ腰が引けている。

恐らくクラッシュがおきるだろう、いやおき始めたと言ってよい。
仕方がない、いや長期的にみたらよいことだ。大津波がきている、
しかし全ての知恵を使って各自が自助努力するしかない。
恐ろしいことだが!近じか地元の大手の建?業が倒産するとの噂も入ってきた。

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1月8日  1969年

9時過ぎに起床。
10時半に両親と料理屋の「青木楼」へ行く。
11時から実家の店の新年会だ。
70人ほどの会であった。
大広間にこれだけ集まるとさすがに凄い。
終了後店の二人の女性とボーリング場に行く。
その後4人が来る。
6人の女性とのボーリングは楽しい。
その後、ゴーゴー喫茶に行く。
一時間で切り上げて一人で帰ってくる。
家に変えると、株屋の田中さんがきて父と話をしている。
22時に就寝。