読書日記 ~『無知の科学』だってさ! -1

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    <『知ってるつもり――無知の科学』
       スティーブン スローマン(著),フィリップ ファーンバック(著)>
   * 無知の科学と真正面から言われても
「無知」を科学するとは… 「何だ何だ」である。ソクラテスが「無知の知」で、
もの知りの仮面を削ぎ落し、それ故に死刑に処せられた。この18年間にかけ、毎日、
記憶しておきたい情報をテーマとして物語風にして書き続けてきた。
その都度、思うことは、これで残さないと、永遠に消え去ってしまうこと。
この作業の最中に…「理解したつもりが、実は大して解ってなかった事実。
デジカメで文章を写真に撮ったのを文字変換したのをコピぺしていたが、途中
から可能な限り手打ちのキーボードでに変えた。亀のようにノロノロと打込む
プロセスが考えることになることに気づいたため。バカならバカの方策がある。
 過ってみた映画を再びみても、その大筋以外は、ほぼ理解してなかったことを
思い知る。映画の舞台設定には膨大な情報が入っている。それを見るには、数回、
見ないと解らない。 
 この随想日記は、ネットによる記憶の外在化で、何とか理解を深めている。
会社清算をしてから現在に至る8年で、娑婆の脳が透けて見えるような錯覚に
何度も陥ってきた。 知能レベルの人?が、世間話で知り得た噂を、勝手に
創作し、決めつけている彼らの脳内をスキャンしたように見える面白さがある。
殆どの理解が、「知っているつもり、何も知らない思い込みでしかないこと…。
これを現実の事象で経験する味わいと、己の無知と重ねて見る愉しみ。
そういうこれも、思い込みでしかない。
< 余命半年、3ヶ月を宣言されて死ぬまでの間に、それまで生きてきた人生を
 経験するらしい。残された時間の中で、それまでの人生を思いやるとき、
実は何も知らない事実に、思いあたる。 秒読みに入ってこそ、見えてくる思い
あたる自分の壁。我たちは、曖昧でキチンと整理されてない抽象的知識の中で
生きてきたことに… 一部の身のまわりのことしか知らなかったことに驚愕する。 
その知っている内容さえもオボロな知識でしかないことに思い知る。
法事、同級会なでの「黙るしかない集まり」の傍で聴いていると、自分そのもの。

    ~Amazon、商品内容より~
≪ ●インターネット検索しただけで、わかった気になりがち。
 ●極端な政治思想の持ち主ほど、政策の中身を理解していない。
●多くの学生は文章を正しく読めていないが、そのことに気づいていない。
  人はなぜ、自らの理解度を過大評価してしまうのか?
それにもかかわらず、私たちが高度な文明社会を営めるのはなぜか?
気鋭の認知科学者コンビが行動経済学から人工知能まで各分野の研究成果
を総動員して、人間の「知ってるつもり」の正体と、知性の本質に挑む。
 思考停止したくないすべての人必読のノンフィクション。 ≫

▼ 「無知学」を読んでいて、まず気づいたことは、ライフワークの
 <秘・異郷ツアーでまわる地球観光>である。 その先で想うことは、
・何も地球上の一部しかを知りえてないこと。
・日常の現実世界は、分厚いサングラスを通して見ているに過ぎないこと。
・知らぬ間に共同幻想の一員でしかない自分を、確認するため、わざわざ、
 ここまで、合せ鏡で、その一端を垣間見ていること。
この切口が新鮮なことは、自分が65年間、右上がり思考の末二、アッサリと
倒産の憂き目にあったこと。しかし、底から見えてきた己の無知への認識。
それ故に、そこ(底?)から見えてきた、世界への無知の先の広がりの見識。
変態女(別に中村うさぎ西原理恵子じゃないが… それも正面に受止めて、
その世界を垣間見て楽しむ。それも世界にはある多彩さが地球にはある。

 それを知るには、自分を可能な限り旅をさせないと!
――
5615,かわいい自分に旅させよ ー①
2016年07月30日(土)
             <『かわいい自分には旅させよ』浅田次郎著>
   * かわいい自分に旅させた ~A
 40~50歳代にかけて40回、合計51回。家内と遇わせて?90回、海外旅行に
出かけたが、その殆ど格安パックツアー。 夫婦で月あたり10万の贅沢。
10万×360回。一点豪華主義?で 何とか可能にしてきた。凡そ家屋敷一軒分。
あと5回で家内と合計で、100回になるが、年、二回なら可能だが、無理? 
肉体的には、厳しいだろうが、問題は気力と、体力と、?。
 10億円の現金と、どちらを選ぶかといえば、間違いなく旅行を選ぶ。
では100億なら、どうする? さあ、どうだろう? 旅行可能が5年とみて、
半分の50億、年に10億を使ってみたいが、私には無理か。そうこう考えると、
10億の価値は充分あった実感がする。「かわいい自分に旅させよ」のフレーズ
は、さすが作家。 別腹の人生が、そこにもう一つあるような。
≪ 私は感動を求めて旅に出る。いや、あえて求めずとも旅は必ず感動を
 もたらしてくれる。感動に出会ったとき、日ごろ金や時間や手間を惜しんで
旅せぬ自分を愚かしく思う。誰のためでなく、かわいい自分のために旅する
のである。 先人たちは不便な旅をしていた。しかしその一方で、悠長で
あるがゆえ深い旅の味わいを知っていたはずである。
 今やその気になりさえすれぽ、日本中どこであろうとあらかた日帰りが
できるのだが、その手軽さ気軽さのおかげで私たちは、まるで漫然と映像でも
眺めるような旅をするようになった。
 非日常の世界を訪れ、感動する。本物に触れ、五感をふるわせる。
先人たちの不便で悠長な旅、あるいは知らぬことぱかりの子供のころに体験した
旅とは、そうしたものであった。もし今日の旅の便利さはそのままに、本来の
そうした感動を得ることのできる旅があるとしたら、どんなにすばらしいだろう。
より深い日本を求めて旅に出たい。いにしえの旅人と刻を同じくし、溜息を
分かち合えるような、深く美しい日本にめぐりあいたい。 私たちは生まれ
育ったふるさとについて、知らないことが多すぎるのだから。≫
 ――
▼ 旅は、非日常の世界であり、日常と違った世界が別次元で流れている。
 そして、自分の世界も、その一つでしかないことを教えてくれる。
それと、感動である。「ここ、いま、じぶん」を、感動は焼き付けてくれる。
「この感動を、ほぼ大部分の人は、知らないで死んでいくのだ。もしかして、
自分も、その一人だったかもしれない!」という激しい感情と、その世界との
同化である。この「かわいい自分には旅させよ」のフレーズのとおり、この
感動を、自分に与えてくれのは自分だけである。 ~つづく

――――
5617,かわいい自分に旅させよ ー②
2016年08月01日(月)
           <『かわいい自分には旅させよ』浅田次郎著>
   * かわいい自分に旅させよ ~B
 40歳代に入って直ぐの頃、『年一回の海外に出ること』を決めた。
そして、半ばも過ぎた頃、それを年二回に切り替えた。20歳から20数年間、
ストレスの多い「創業」の為の転進を繰り返してきた。何事も現実に直面
すると、火事場のバカ力が生じてくる。その奇跡に近い偶然を拾い上げて、
その場を切り抜ける。しかしストレスは並大抵ではない。その沈殿がピーク
になっていった頃である。その解消剤にツアーのストレスと感動が、合理的で
あることに気づいた。早朝の読書習慣と、散歩、そして、海外ツアーが、
何とか、自分を支えてくれた。 半年単位、一年単位で、そのストレスを、
払い落とすしかない。そこで、「秘境・異郷ツアー」のストレスで、それを
削ぎとるしかなかった。それが、結果として、心の、いや魂の財産になった。
 ~以下の部分は、「苦労でなくなった旅を、自分に与えよ」と勧める。
 ≪ 「かわいい子には旅をさせよ」という格言は、今や死語であろう。
 かつては苦労の代名詞であった旅行も、世の中がすっかり便利になった今日
では娯楽の王者となってしまった。もしかしたら今の若者たちは、この言葉の
意味を「かわいい子には娯楽を与えよ」と曲解しているかもしれぬ。
 たしかに旅は苦労ではなくなった。ただし、経験としての価値が損われた
わけではない。人間は経験によってたゆまぬ成長をとげるものであるから、
苦労を伴わずに経験を得ることのできる今日の旅は、子供よりもむしろ大人に
とっても好ましいかたちになったと言える。この福音に甘んじぬ手はあるまい。
「かわいい自分には旅をさせよ」である。金だの時間だの手間だのと、旅に
出かけぬ理由を思いつくのは簡単だが、よく考えてみれぽ金は貯めるものでは
なく使うものであり、時間はあるなしではなく作るものであり、手間を惜しむ
は怠惰の異名に過ぎない。つまり旅に出てはならぬ合理的な理由は、実は何も
ないのである。 ≫
▼ 秘境への旅の決断と実行は、非常に抵抗が生じる。まず、家内が、激しく
 抵抗する。そこで一人参加を決意すると、家内も渋々、決意するパターンの
繰り返し。で、抵抗感が強いほど、その内容は、濃厚で味わい深い物語になる。
しかし、極限を超えた経験のオンパレード、可愛い自分へのプレゼントになる。

――――
5637, かわいい自分に旅させよ ー③
2016年08月21日(日)
            <『かわいい自分には旅させよ』浅田次郎著>
   * 芸術とは
 ここで著者は、芸術について簡潔に述べている。ツアーの行き帰りの
主要都市(ロンドン、パリ、フィレンチェ、マドリッド)にある、美術館、
博物館で、世界的名画や美術品を見て周って、感動の蓄積が多く残っている。
それが自分を大きく変えていた。大自然の絶景の感動とは別に、美がその
まま表現された芸術作品に同化しているうち、美への感動が、魂そのものを
高めてくれることを実感した。 芸術とは、本来、そういうものである。
≪ 美しいものを美しいままに表現することが芸術。
 それを「言葉」でなそうというのが文学。
さらに、それを「物語」という形式で表そうというものこそ、小説です。
理屈も何もいらない。そこに理屈を持ち込もうとしたから、芸術は退行した。
これは芸術の都に住むパリジャンの罪です。
 医学が肉体の病を癒すように、芸術は心の憂いを除くためのものであると、
僕は信じています。だからこそ芸術は尊い
 芸術家がそうした本来の使命を忘れて芸術なるものを衒い始めたときから、
アニアックな、アカデミズムの一部に成り下がった。たとえば神が作り給う
た天然のように、誰がどう見ても理屈抜きに美しいものの存在を、僕らは
見失おうとしているのではないでしょうか。
 自然は美しい。もちろん、その自然の中の人間の営みも、僕はそれらを
小説として表現するにあたり最も直截的な感情表現である「ユーモア」と
「ペーソス」を用います。それが小説家としての僕の方法だと思うから。
 僕には夢があります。
バチカンで、ルーブルで、フィレンチェで、僕は奇跡を見ました。
ミケランジェロは明らかに、古代芸術家を超えた。文明の進化とともに
衰弱する芸術家の宿命の中の、これは奇跡です。
 彼が一本の鑿で、一個の大理石の塊にうがち出した奇跡を、僕は一本の
筆で、一枚の紙に書き表したい。限りない感動を、かけがえのない美を。≫
 ▼ 美の中で、20歳前半の一瞬咲きほこった女性の美しさもナマモノ
  だからこその美しさがある。ただ、あまり話さない方が良いのが多いが。
 女性だけでない、動物の美しさもある。花の美しさもある。誰が、設計
したのだろうか。美はバランスというが、美そのものを感じ取る感覚が
見る側に必要になる。これは質量を多くコナスことで磨かれ、高めることが
可能である。「人間は何のために生まれてきた?」の答えとは、
大自然と、人間がつくり出した創造物に触れ、感動するため、生まれて
きた!」である。心の憂いで覆われ濁った、「今、ここ、私」の目の汚れを
取り除くため芸術がある。セッカク貰った命、もっともっと、味わなくては!
 
――――
2016/08/22
かわいい自分に旅させよ ー④
           <『かわいい自分には旅させよ』浅田次郎著>
   * オヤジのためのラスベガス
 直木賞作家の浅田次郎がラスベガスに嵌り、その内実を書いた内容。
一度、行ってみたかった都市。 数年前に、グランドキャニオン、ヨセミテ
イエローストーンなど大自然を 楽しむ『アメリカ西海岸国立公園の旅』。
大自然のほかに、ラスベガス・サンフランシスコ などのコース。
 ところが出発前日、公務員ストで、急遽、中止のため断念したことがあった。 
映画でラスベガスを舞台に多くの場面を見てきたが・・ 
 ≪ ラスベガスのカジノはデカい。「無限」と表現してもいいくらいである。
 たとえば今回の取材で協力して下さった「MGMグランド」一つを例にとっても、
総面積4777坪、ゲームテーブル150台、ゲームマシン3073台、だそうであるから、
「見渡す限りの鉄火場」と言ってよかろう。 この種のメガホテルが、
ブルヴァードを挟んでみっしりと建ち並んでいる。この規模はまさに「無限」。
 日本人の視野でこれを小さくしてはいけない。常々思うのだが、日本人
ギャンブラーはたいはてい狭い場所に嵌まっている。毎日を旅打ちの気分で、
カジノからカジノへとさすらうのがラスベガスの醍醐味である。
 ゲームの種類はあまたあるが、最もラスベガス的といえぱ、やはりマシン
であろう。ルーレットやブラックジャックは世界中どこのカジノに行っても
同様に遊べるが、スロットやポーカーマシンを打ち倒すとなれば、規模のある
ラスベガスでなければならない。そうした意味から、私は同行者にはたいてい
マシンを勧めることにしている。レーティングさえ守っていれば、あんがい
怪我が少いのもこれだからである。
 日本人的なレーティングといえば、25セント台、もしくは1ドル台であろうか。
ただし上限は一勝負3000ドルという怪物まであって、こうなると一時間で億の
金が動く。神域のごときハイリミット・エリアでは、このスーパーマシンの前に
座って淡々とゲームを続けるハイローラーの姿を拝むことができる。見ている
だけで有難い。
 ヨーロッパのカジノではテーブルに根を生やしている私も、ラスベガスでは
ほとんどマシン・ギャンブラーである。十年前はおそるおそる1ドルマシンから
デビューしたのだが、このごろではハイリミット・エリアの常連になって、
めでたく宿泊代も飲み食いもタダになり、空港までは送迎のリムジンが付く
ようになった。 常宿はかつて「ベラッジォ」だったのだが、数年前に
「ヴェネッィアン」に鞍替えした。日本人ギャンブラーが比較的少く、
使い勝手もサービスもよいホテルである。≫
▼ 賭け事に向いてない私にとって、異次元の世界の話。だからこそ面白い。
 日本では、コンビニの売上高より多いと言われているパチンコ店が、郊外に
ある。韓国も日本から上陸したパチンコ店も、その熱狂ぶりに、禁止された。
ラスベガスといえば、『ハスラー』など、多くの映画の舞台になっている。