つれづれに

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 昨日のシネマは、『ドラキュラ〇」を見てきた。
評価は80~85点というところか。 面白いことは面白いが・・・

 今朝は、雨でポタリングは無し。
散歩から、自転車に移行したためか、どうも、少し歩くと腰が痛くなる。
今月から、スポーツジムで、30分は歩くことにするが・・・ 



・・・・・・
2767, こころと脳の対話 -3
2008年11月01日(土)

   面接や新入社員教育の時には、河合隼雄と同様、
  「中心をはずさないで、無心になって対象の人と相接する」しかない。
  そうすることで、心だけでなく、心の中心点の奥の魂同士がクロスをすることができる。
  そこまでしないと、相手のことが理解できないのである。 美人とか、センスや、頭の良さなど属性になるのである。
  河合は当たり前のことを素人向けとして、解りやすい事例を出しただけ。 
  相手の中心点だけを見ると、逆に性格とか、片親とかの属性が浮きだって見えてくる。 
  そこまでいくには、経験を重ねるしかない。  それにしても、色いろな心の病があるものだ。

 「 こころと脳の対話 」 河合隼雄 茂木健一郎
    第三回 魂を救う対話 
       *相手の「魂」だけを見つめる
 P-160 
茂木 「中心をはずさない」って、僕、すごく大事なことのような気がしてきたんです。というのは、『五輪書』には、
   たしか、相手のどこかに注意を置いてはいけない、というようなことが書いてあるんですね。やっぱり同じ感じですか。
河合  同じです。それからね、これは僕が人にほめられた最高の賛辞というか、
   「うれしくてしょうがないからあちこちでしゃべっているんですけれどね、どないうてほめてくれたかというとね……。
   その人は、「離人症性障害」っていう、大変なノイローゼなんです。現実感覚がなくなるんですね。
   こういう場所にいても、みなさんが生きている人間に見えなかったり、それからこういうふうに手を振っても、
   本当に自分が手を動かしているのかわからない。すっこい苦しいけど、誰もわかってくれない。
   自殺する人も多いんですけれど。でも外見はふつうで、ちょっと見てもわからない。
   そういう離人症になられた人が、自分が現実感覚がないのをなんとかしたいと思うから、人と接近するわけね。
   その人、きれいな女の人やったから、恋人がいっぱいできて、また、いっぺんに二人も三人もつくったらしいから、
   恋人同士が殴り合いしたり、劇的なことが周りでいっぱい起こっているんだけれど、その人は全然、劇の外にいるわけです。
   そうでしょう、現実を生きてないわけだから。 その入が、あちこちのセラピストのところに行ってみても、
   どうしてもうまくいかない。何入かのあとで、私のところにこられた。 私のところにこられて、治るまで五年ぐらい
   かかったんですよね。「本当にありがとうございます」とお礼をいわれたときの言葉がおもしろいんですよ。
   「いちばん初め・先生に会ったときに、この先生で自分は治ると思った」
   「どうしてですか」 「いままでの先生と全然違った」 「どう違った?」
   「私が部屋に入ってきたとき、先生は、私の顔にも服装にも、全然関心を示されなかった」
   というのは、ものすごく美人ですから。服もきれいなのを着ておられるんだけれど、その服も見てないし、顔も見てない。
   おそらく、二日後に道で会っても絶対わからないだろうと思うぐらい、なにも見ておられなかった、と。
   「ああ、そうですか」「それだけじゃありません。先生は私の話の内容に、全然、注意しておられませんでした」(笑)
   「僕、何をしてましたか」 「何をしておられたかというのは、すごくむずかしいんだけれども、あえていうなら、
   もし人間に『魂』というものがあるとしたら、そこだけ見ておられました……」
   ----
   解) 魂、とは何かを、ここで大きなヒントを感じ取ることが出来る。 心、こころ、魂。 産まれ、生き、死ぬ。
    そして死んだ後も、何かしら続いていく生存中のエネルギーの痕跡が‘魂’ということ。 
     《ナショナルというブランドに松下幸之助の魂が入っているとか・・・》それも、これも宇宙の藻屑だが。
    二十数年前に、ある本で<正中心一点無>という言葉を知った。 中心を外さない、と同じ意味だろう。

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2007年11月01日(木)
2403, 恩送り
             (゚▽゚*)♪  ('-'*)オハヨ♪
 ある本に「恩送り」という言葉があった。よい言葉である。もともと江戸時代にあった言葉で儒教的、仏教的な味わいがある。
 それが明治以降西欧的な考え方が入り、死語になってしまった。親が子供にしてやったことは、子供もまた順繰りに子
 孫代々受け継いでいくもの。それが血統であり家系として引き継がれていくものである。最近は「家」そのものが崩壊傾向にあり、
 個人に重きを置くようになったが、それでも個人として「恩送り」を必要ということである。
  最近「Web 2・0」で、情報公開が大きな流れになっているが、これも類似したものである。

  ー電子辞書のウキィペディアによるとー

「恩送り」をとは、自分が誰かから受けた親切・善意・思いやりなどを、与えてくれた人へ直接返すかわりに、別の、
必要としている人達に送る事である。又、それにより善意が社会を巡り、様々な善き連鎖が社会全体へと広がってゆく事も指す。
これに似た言葉として、「恩返し」があるが、それは字の通り恩を受けた人に直接に恩を返すことが、
これだと二人の閉鎖的な関係で終わるが、「恩送り」という考え方・実践ならば、返す相手が限定されていないので、
親切を送り出す相手や、親切の内容は、自在に無理なく選ぶ事が出来る。従って比較的短い期間・時間の間に、
具体的に親切をこの世に"現実化"させる事が出来る。 人々が「恩返し」にこだわらず「恩送り」も選択肢とする事で、
社会全体としては、"現実化" し "流通" する親切の量が、圧倒的に多くなるのである。
これは1人1人の視点でも、日常的に自分が出会う親切の量が増える事を意味する。

井上ひさしNHKの番組『井上ひさし福祉都市を語る~イタリア・ボローニャの共生社会』において
 以下のような主旨の事を語っている。
ー 江戸時代に、「ご恩送り」という言葉がありました。
ご恩返しは、贈り物を送ったり返したりで、関係は2人しかないわけです。
ご恩送りは、誰かから親切を受けたら、これを親切を受けた誰かに返すのではなくて、
他の人に渡していくんですね。そうすると、江戸に100万人いるとしますよね。
1日に一度ぐらいは親切を受けることはありますよね、一瞬のうちに江戸の町に100万の恩
というものがバーッといくわけです。 それをお互いに回すわけですよね。
 ・・・(中略)最近ではある程度の年齢の人たちだけでなく、学生などにも
このような考え方が広がってきている。特に旅好きの青年、ボランティア活動に熱心な
青年などには顕著にこのような考え方を持ち、日々実践している者も多々見られる。ー
 ---
  -以上だが、それでは「恩」とは、どういう意味なのだろうか? 漢和辞典を引くと
  (1)めぐみ・なさけ・いつくしみ・あわれ・ありがたく思う
  (2)「心」と「因」を合わせたもの。因とは、わけ・もと・おこり。
  (3)恩は心をよせること。人に対していたむ心。
  (4)大は人で、人が囲いの中にいることによって、安心していられる。
  (5)人がふとんに寝ている形で、安心・やすらぎの意。
  要約すると「人に対して慈しみの心を持つこと」である。 
 そうすると「恩送り」とは、それぞれが慈しみの心を持てば、互いに安らぐことが出来るということになる。
 私の場合、特に両親から大きな恩を受けたが、それを如何に自分の子供に「恩送り」をするかが今後の大きな課題。 
 連れ合いが入るから難しい問題もある。 生きている限り何らかのカタチで社会から恩を受けている。
 だから、できる範囲のチャンスには可能な限り「恩送り」をするように務めればよい。
 しかし恩送りをした相手に期待はしないことだ。 したと同時に、その価値は激減する。 
                      ホンジャ バイ!(゚▽゚*)ノ~~
・・・・・・・・
2006年11月01日(水)
2038, 躁鬱病について -6   オッ(*^○^*)ハ~ヨウサン!
 「夫はうつ、妻はがん」
    ―夫婦で苦境を踏み越えて ー ?  小川 宏 著

この本で有名人で「うつ病」から脱出した人や、亡くなってしまった人を何人かあげている。
脚本家の倉本聰、俳優の木の実ナナ高島忠夫、気象士の倉嶋厚などである。
皇太子妃の「適応障害」も、専門家の話によると「うつ病」という。
世界を股にかけたキャリアの女外交官が小さな籠に入れられ、男児が生まれない重圧の中で、
ノイローゼになるのは当然のこと・・倉本聰とラジオの対談で病気の話を聞く機会があった。
それによると20歳代から欝を繰り返し、さらに二十数年前、北海道の富良野に居を移してからは、
毎日のように自殺を考えていたという。 その地に適応するまでの苦闘が思い知れる。

自殺で亡くなった人は、桂枝雀ポール牧嵐寛寿郎などがいる。精神科医の大原健士郎氏との対談で、
「小川さん、自殺未遂者が息を吹き返した時の第一声の言葉かわかりますか?」と訊ねられて、
「多分生きていて良かったと言うんじゃないですか?」の答えに、 先生曰く、
「そういう人はわずかで・・・ほとんどの人は、助けて!といいます。」 自ら命を断とうとした人が、助けて!
とは矛盾しているが、先生は「誰でも命への執着があるので、そういう言葉を発するのです」という。
最近のアメリカの研究では、成人の糖尿患者のうち20?が「うつ病」になると報告されている。
日本では糖尿患者は普通の人の三倍の確率になる統計がある。またガン患者の25?も「うつ病
になるというから、気が滅入る状態になった時は、気分の転換が必要、生真面目もほどほどに!ということだ。

10年ほど前になるが、近くに住む私の従兄弟が「うつ病」で自殺した。
見ていて残された者にとって、これほど不幸なことはない! 深い心の傷で、一生の哀しみになる。
自分独りで自分の傷口を治療するしかないが、無理と解ったら医者に行くのが一番良い。
それができるようだったら、ノイローゼにはならないだろうが・・そういえば、ノイローゼという言葉を最近聞かなくなった。
自律神経失調症という言葉に変えられたのか!「正中心一点無」という言葉を少しは理解していれば、
心の負担は軽くなるのに・・・・般若心教につながるが ー自殺から生還した人の話を聞いたことがある。
「地獄の苦しみ」という、肉体的にも神経的にも・・ 地獄の底から這い上がってくるのだから、そうだろう!
                    (*^ワ^*)i バイバイ               
・・・・・・・・・ 
2005年11月01日(火)
1673, うそつき -1              ー 読書日記
  「うそつき」 ―うそと自己欺まんの心理学  
                  チャールズ・V. フォード (著) 
この本は面白い!自分の心理の底奥深く食いこんでくる。
「人は誰しもうそをつく」という解りきったことを、あらためて突きつけられると、ひるんでしまう。それほど、
「うそ」は誰も扱いがむずかしいテーマである。 実際、夫婦でも友人でも「うそ」を上手に織り込んでいないと、
その関係は崩壊してしまう。要は真実を語り、その中に適当にうそを織り込むからこそ人間関係は上手くいく。
「うその基本的技法は相手の聞きたがっていることを語ることである」という言葉に、結婚詐欺師と宝石屋の営業マンが思い浮ぶ。
ただ、相手のシンデレラ・コンプレックスを満たしてくれる王子様を演じればよいのだ。
餌は、理想的な結婚と宝石という石ころである。私は、可能限りうそは言わないことをモットーとしてきた。
この本を読みながら、「うそを言わないことで多くの他人を傷つけてきたのではないか?」という疑念が出てきている。
 ー以下は、本書の概要であるー
精神科医である著者はあらゆる角度から「うそ」の実体を探りだそうとする。
哲学的にも含蓄に富んだ書物である。うそはよくないと知りつつ誰もがうそをつく。
儀礼的なうそから病的なうそまで、心理学・脳科学・生理学などで検証した「うそ学入門書」といえよう。
この本は、うそというものに対して道徳上の判断を持ち込んでいない。 うそは「人生の主要部分、
おそらくは中心部分をすらなすもの」で、それが善か悪かは、あくまで他者との関係において決定される。
うそを覚えるのは、人間の成長上重要なプロセスであり、対人関係を円滑に運ぶためにもうそが不可欠だという。
自負心や精神の平衡を保つには自己欺瞞(ぎまん)が必要で、多くのうつ病患者は、自分自身にうそをつくことが苦手だと。
その危険性についてもじっくり検証、慢性的にうそをつく子どもは将来犯罪に結びつきやすいとか、
うそつきには遺伝的傾向が見られるといった、深刻な研究結果も披露している。
われわれの生活は数えきれないほどのうそに囲まれている。そのひとつひとつが人間を知る手がかりなのだ。
友人や家族のうそを責める前に、もう一度相手のことを見つめなおしてみるとよい。
ー自分の心は自己欺瞞で成り立っているかもしれない。 だから狂わないでいられる?
 ーーー
人間においては「うそ」は普遍的に見られる行動である。 そして、ある一定の自己欺瞞は健康な精神状態を保つためには 
むしろ必要なものであるという、あまり認めたくないような現実がある。一読して深く考えさせられる見解が多い。
「過去の記憶」が多分に誘導で変わる危険性がある、という指摘が鋭い。
次回には、この本の印象的・刺激的な文章を抜粋してみる。          
                       ー つづく
・・・・・・・
2004年11月01日(月)
1308, まさか、地元で大地震!ー7

先週の金曜日、新潟に一泊のあと自宅の近くに帰ってきたところ、200m先にある、
長岡高校と長岡大手高校の周辺が、自衛隊やマスコミの車で、ものものしい雰囲気に一変していた。
一昨日(土曜日)の朝、散歩をしていたら自衛隊の大型ヘリが住民を搬送している
のが見えた。長岡高校のグランドが、ヘリの基地になっていた。
近くの大手高校が山古志村の避難場所になっているようで、自衛隊が朝晩、運んでいるようだ。
長岡も被災地であるが、自宅近くの倒壊の家はない。
生命の危機は全くなかったし、秘境旅行を十数年してきた為か、目の前の死の恐怖以外は不感症になっている。 
しかし彼等のヘリで運ばれている姿をみて、被災地の真っ只中にいるという実感が少しわいてきた。
こういう経験は感じ方(受けとめ方)で、全く違ってくる。昨日の夕方、同じコースを歩いてみたら、もう終わった雰囲気。
人生一度のあるかどうかの出来事であるが、何か実感がまだ湧いてこないのは如何してだろうか。
新幹線が長岡~新潟間を開通すれば、ほぼ元の生活に戻ることもある。 個人的には30~40万位の損失か。 
石灯篭の復旧に15万の見積もりが、とりあえず確定したものだが。 今朝方も、震度4ぐらいの地震があった。 
まだ予断が許されないが、間隔は空いてはきている。

・・・・・・・・
2003年11月01日(土)
941, 何事もない日の日記

 はっきりいって今日は何も書くことがない。何事も書くことがないときは、何もないことを書くのも面白いと考えて、
それをテーマにして書いてみる。 テーマがまったく見当たらないことは月に一~二度位ある。
そういう時は、中途半端で終わっているパソコン内のメモ帳の中から引っ張りだして書き足す作業をする。
その場合は書いているうちに、違うテーマが出てくる。
何もないといっても、周囲を見渡せば幾らでもテーマがあるはずだが、毎日だとやはり全く浮かばない日が出てくる。
大体が前日荒筋を書いて、翌朝の5時半にパソコンに向かい30分近くかけ書き直しをする。
その後一時間近く散歩をした後、風呂に入りその後いま一度見直してホームページに貼り付ける。
それでも後でふりかえると誤字・当て字がある。 しかし貼り付けた後の達成感は格別である。
常に頭の中は記者モードになっていて、何か明日書くネタはないかという目ができている。
「これは文になる」と勘が働いた瞬間、文章の起承転結の構築を始めている。
私の場合、文章化をすることが自分の人生に深く生命を与えることになっている。
自分の文章を読み返すということは、過去の自分の生命と会話をしているということが実感で解る。
毎日1年前、2年前の随想日記を一緒に貼り付けているが、その時は真剣に読み返すことにしている。それが内省にもなっている。

・・・・・・
567、ケーススタデー   ー1
  ー 2002年11月01日(金)

 前回書いた学生時代のゼミの内容を書いてみる。 人生で、このゼミの訓練が非常にプラスに働いた。
人事管理の具体的事例研究で、討論でその本質を探る手法ー
各部所で起きたトラブルの問題点の原因と解決を考える内容である。
・一週間前に翌週分の「トラブルの現象」の問題のプリントを渡される。
・それを次のゼミで各自が自分の意見を述べる。
・それにしたがって議論を始めるのだ。
・それが終わった時に、そのベストの原因追求と解決案の内容を示されるのだ。そしてゼミの結論との誤差を話し合う。
幼児期から両親の自営していた生の会社のケースを見ていた事と、8人兄姉の末っ子で常に状況を
冷静に見ていた為か、自分の意見があたるのだ。寮生活でイロイロのトラブルもみていたのもあった。
その為か自分のゼミにおける立場が確立さていた。
それよりも、現象の中にその骨組みをさがして、自分なりの組み立てをする面白さを知った。
これは後で事業を起こすときに非常に役に立った。人間関係に対して、直感的に論理だって構図になって瞬間に
出てくるのが最大の武器になった。良質な上司には可愛がられるが、逆のケースの場合は大変な事態になってくる。
この男は何を考えているのかを不安になるらしい。自分はサラリーマンは絶対に無理と社会に入って直感した。

・・・・・・
「205」春画
 ー2001年11月01日(木)

 子供の時から、一番上の姉より家に春画があることは聞いていた。それが寝室を改装した2年前に隠し??より出てきた。 
かなりの価値ものかと色めきたったが、カタカナが混じっていた。 明治以降のものだろうから、期待は全く出来ない。 
税務署対策用だったようで、金庫に入れておき、踏み込まれた時に、何気なく見せるものだったとか。
 ー効果は充分あったそうだ。
 今はそんなものは、ポルノとインターネットに打ち込めばいくらでも出てくるが、昔は珍しいものだったらしい。
姉からは結婚前に見せられたとは聞いていないが、昔はこういうのが一家に一冊あって、結婚前にこっそり見せてたと
聞いた事がある。絵とすればかなり綺麗でいいものだ。浮世絵で歌舞伎役者の顔を表情豊かにかいてある。
写楽春画にヒントを得たのでは?とも考えてみたが、如何であろうか?全然いやらしく感じないのは、私の歳のせいか。
 そうそう、学生時代にヨーロッパを旅行した時、ス ポルノそのものよりも、北欧の女性の美しさに驚ろいた。
世界に誇る日本のポルノのサイトを、立花隆のインターネットの本に書いてあった。
確か「東京トップレス」とか、股つまらないことを書いてしまった。