つれづれに

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 今日のYoutube

 どうも、世界経済の変調が表立ってきたようだ。
ロシアと欧米の対立が欧州経済、とりわけドイツ経済に
大きくに悪い影響が出てきたようだ。
 まずは、今日明日の株式市場がどうなることか!

 エボラ出血熱、これも恐ろしい問題。 
これをテロに使われたら? エボラの細菌を持って、
ニューヨークにいって、自分に感染させ、まき散らしたら、
手の施しようがない。
 旅行代理店など、戦々恐々だろう。
もう、アフリカは影響を受けているだろうし・・・




・・・・・
2023, 「私」のための現代思想  -12
2006年10月17日(火)

                ー読書日記

 ーまずは五章の「生きる意味は何か?」の概略をまとめてみるー

私たちが「生きる」ということは<他者>との関係を基点として、
《私》がつくり上げた論理の基盤=「超越確実言明」を通して
居場所を確保していくことである。
<社会>の中で「自分の居場所をつくる」ための闘いは、
同時に<私>が正しくありつづけるための場所を確保するための闘いです。

   「超越確実言明」は《私》によって支えられているが、
    その《私》というと、「他者」によって引き受けられています。
    他者による《声》が「私」に届いたとき、そこに「共振」が発生します。
    《私》の存在を支えているのは、<他者>でしかないからです
   「共振」は伝播し、その「不完全性」を緩やかに補うことができる。

   「不完全性」は少しずつ補正していくことができます。
   「真の正しさ」ではなく、「より正しい」方向へ世界を変化させていくのが、
   「生命体」というシステム全体の方向性です。
    それが「生きる」ということです。

ーー

第五章 「私」が「生きる/死ぬ」ということの意味
                       -?

ー「ともに闘う」ということー

*-ドゥルーズの「あいだにおけるー闘い」ー

<他者>との関係は、私たちの存在の基盤であり、また、私たちが
束縛から逃れるための「基点」である、ということです。
私たちの居場所は闘うことによって、《私》の価値と《他人》の価値とが
衝突することによってしか居場所を作ることはできません。
これが「あいだのおけるー闘い」である。

    *-「外部における闘い」と「内部における闘い」-

    「あいだにおけるー闘い」に対して、
    「外部における闘い」とは、
    <私>の内部の<価値>の変化をもたらさない闘いです。
   (それは同時に《私》が構築した<価値>である)
    そして「外部における闘い」を回避することは可能であり、
    それも「闘い」の一つの形態です。
    しかし外部の戦いでも出会っても、《私》は《私》との「あいだにおけるー闘い」
    を行っているはずです。私が「外部において処理をする」と推測する「闘い」は、
    必ず<私>の内部に取り込まれます。
    
    この外部と内部における闘いのいずれかが、<言葉>を用いて行われます。
    そして、《私》がつくり上げた論理の基盤 =「超越確実言明」を基盤として、
    ある<言葉>がそれと矛盾すると考えられたときに私たちは闘います。
   <社会>の中で「自分の居場所をつくる」ための闘いは、
    同時に<私>が正しくありつづけるための場所を確保するための闘いです。
    私たちは、「正しくない場所」に立ったままで「正しくある」ことはできません。


ー「正しい」ということー

   *ー「真の正しさ」ではなく、「より正しい」方向へー

    世界は常に間違っている。「真の正しさ」に到達などできませんし、
   「真の正しさ」に到達など元々ありません。
    しかし私たちは、それを少しずつ補正していくことができます。
   「真の正しさ」ではなく、「より正しい」方向へ世界を変化させていくのが、
   「生命体」というシステム全体の方向性です。
    私たちは<他者>と「ともに闘う」ことによってのみ、
   「正しくある」ことが出来るということを意味している。

*私たちの「正しさ」は「超越確実言明」が支えているー

私たちの「正しさ」は真理によって支えられるのではなく、
「超越確実言明」によって支えられています。
しかし私たちの論理回路は不完全であるが、
「不断の努力によってその性能をフルに活用し、常に論理を再構築しようと
努力するか否か」という点で、その闘いが必要である。
闘いのあるところに「振動」が発生します。
その振動は「共振」となり、伝播し、その「不完全性」を緩やかに補うことができる。


   *《私》の存在を支えているのは<他者>であるー

   「超越確実言明」は《私》によって支えられているが、その《私》というと、
   「他者」によって引き受けられています。
    他者による《声》が「私」に届いたとき、そこに「共振」が発生します。
   「私」は《私》の存在を引き受けてくれる者たちの感情に敏感です。
    それは「存在を共有している」と呼べるような状態だからです。
    私たちは、このような共振を受け取ったとき、<私>の論理的な基盤になる

   「超越確実言明」の一部さえ捨てることができます。
    なぜなら《私》の存在を支えているのは、<他者>でしかないからです。
    
 ーーー
 
 「正しさ」を支えている「超越確実言明」
 それは《私》によって支えられているが、その《私》は「他者」によって
 引き受けられている。その共振が<私>の基盤になる!と言うが、
 「独り」というのは、
 あくまで<私>と<他者>との関係でしかない!
 ということか?
 それはアラスカン・ハイなどの経験してみると解ることだ!
  
 今まで「結局は独りさ!」と、
 粋がっていた私は何だったのでしょうか? 
                 ただ(。・ω・)ノ☆゚+.アホ!
   
            \(^▽^*)バイ!
   
   ・・・・・・・・・
   ・・・・・・・・・
   
 2005年10月17日(月)
1658, 北イタリア旅行記-7


ツアーの楽しみの一つに、普段なら会えない人と会えることがある。
一度会ったら二度と会わないから、気楽に何でも話せる。
共通点は旅行愛好家ということで、お互いの情報交換が気楽にできる。

その中で色いろな人生が、それぞれ垣間見ることができる。
また、私たちも彼らから同じ視点から見られているのだろう。

今回は、北イタリアという場所ということもあり欧州派がそろった。
アフリカとか、南米とか、シルクロードなど殆ど誰もいったことがない。
反面、欧州には隅々まで行っている人達ばかりで、殆ど話がかみ合わなかった。

特に、イタリア愛好家が何人かいて、イタリアへの深い愛情を感じた。
好きなものは好きなのだ。
イタリアに行けば、その理由はよく解る。
ローマ帝国から続いている長い文化が味わいがある。
どの街を見ても深い文化と歴史を感じることができる。

イタリアとは関係ないが、面白い人がいた。
趣味として、デジタルビデオを番組風に編集してしまうのだ。
元映像カメラマンの人で、編集には熟知しているから可能だという。
過去に30本以上も番組として完成して、DVDに収めてあるという。

5~6枚この旅行に持ってきて、ミニDVDデスクで見せてもらった。
奥さんが劇団にいた人で、ナレーターをして共同制作をしている。
NHKなどで放映している海外ものの番組の内容と同レベル?である。

まず映像を編集して、
ナレーションの内容を考え、
バック音楽を選定し、
45分位にまとめ上げなくてはならない。
集中して三週間はかかるという。

それにしても、旅行者として羨ましい限りである。
そのテープを旅行代理店のツアー説明会に提供しているようだ。
代理店にとって、宣伝用の番組をつくるのには数百万円は最低かかるから
それを借りることができれば便利である。
「一人位、ツアーに半額位値引きしてでも?」と、考えるのは私の卑しい考えになる。

何よりも、つくっている本人が一番楽しいだろう。
一度つくれば、コピーは簡単である。
ボランティアとしても、誰からも喜ばれる。
今回も、希望者に送ると全員から住所を聞いていた。

同行のツアー仲間にしてみれば、夫婦のビデオカメラマンを引き連れていったと同じ。
この夫妻にとって、最高のものを与えることで喜ばれ繋がりができる。
自分も楽しみ、そしてそれが因縁のある人達に最高に喜ばれる。
人生の最高の楽しみになるはずだ。
世の中は広いし、人生の達人がいる。

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2004年10月17日(日)
1293, 「閑」のある生き方ー読書日記 -3

「今ここに」を、更に考えてみる。
ー前回では
「空」を時の上から解釈して、「即今」、
 平たくいえば、ーただいまーと解釈した。
 「空」がわかるというのは、その「ただいま」がわかるということである。
 
 この「ただいま」を手に入れなくてはならぬ。
 この「ただいま」を無限そのものだと悟るとき、零すなわち見元の式が成立する。
「今ココニ」を丸ごと心で把握するなら、そこには、
 あとに残る過去も先に待つ未来もなく、ただ永遠の今があるだけということに気づく。
 空と時を合わせて「一念」というほうがよい。
 hereーnow が、それである。
 ーを抜粋し、そして感想を書いた。
 
 今回は、その即今の凝縮した瞬間はどういう時か考えてみる。
 感動、感激、至高体験歓喜、感謝の時といえよう。
 その瞬間が「今ここ」を実感する時である。
 その瞬間を経験した時、それが永遠に通じている感覚がする。
 それが「永遠の今」である。
 
 感動の時、その瞬間は自分の中に永遠に残る切り取られた時である。
 この経験をするため、この瞬間を経験するために、生まれてきたといってよい。
 それまでの全てを超えた体験する飛躍の時である。
 その「今ここ」は、悟りの世界でもある。
 この中に、感激、至高体験歓喜、感謝が含まれる。
 いや、これらの言葉の中に、それぞれが含まれる。
 
 「今ここ」は、決してプラスの時だけでない。
 挫折をした時、死を宣告された時、絶望を味わった時、身近の人の死の時、
 等々、あげることが出来る。
 意識の深くに陥ってしまう時といってよい。
 その時は意識は研ぎ澄まされ鋭く自分を切り裂く。
 
 「今ここに」を意識している時は、宇宙の中心に立っている時であり、
 宇宙と直接つながっている瞬間である。 
 
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2003年10月17日(金)
926, 180円ラーメン

 新潟市内で目についた180円ラーメン店に入ってみた。
180円のラーメンと、色いろなトッピングを付けたラーメンと、
餃子とチャーハンのセットがメニューの基本であった。
ー何処のラーメン屋もそうだが。

 特別美味いわけでもないし、といって不味いわけでもない。
ただちょっと食欲の無いときや昼飯に食べるのに丁度良い店である。
近所にあって欲しい店でもある。
ポイントは何といっても値段の安さである。
美味しさの追求が今までのラーメン屋の課題であった。
しかし気楽に食べられる値段に対しての盲点が出来ていた。
不味くもない廉いラーメンを腹を足すだけの目的で食べたい時の方が
実際のところ多い。

 現在ラーメンは500円が相場である。それが3分の1である。
いま価格破壊の波にさらされてなかったのがラーメン屋である。
このラーメン店をBSTVで一ヶ月前に紹介していたのを見たことがあった。
関西系で「ラーメン一番」という名前である。

要約をすると
・目標は1千~千四百店。
・ラーメンのマクドナルドをモデルにしている。
・この値段で提供しようとしたら、徹底的な機械化と大量出店が必要。
・「金鉱を掘り当てたようなもの」との社長のコメント。
 全国は無店地帯
等々であった。

 そういえば何処かの讃岐うどんの店の関係者が「100円」の讃岐うどん
メニューに目玉商品として取り入れたら、20?の売り上げアップになったと
話していた。このラーメン屋があちこちに出来たら一般消費者は既存のラーメン
の値段に疑問を持ち始めるだろう!

 いま新規に開店する店は、スーパーセンターやドラックストアー
など価格破壊の店ばかりである。

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552, 人生に目的はあるのだろうか?
- 2002年10月17日(木)

この年になると人生の仮決算期に入ってくる。
「自分の人生はハタシテこれでよかったのだろうか?」
「人生に意味などがあるのだろうか?
 有るとすればなんだろうか?」

そういう話が最近面白くなってきた。
人生の目的とは漠然と考えてみるとー

・真にしたい事を見出して一生をかけてやりとおす事。
・そして全エネルギーをかけ一瞬一瞬を生き抜く。
・家庭をつくり、子供を育てあげるなど基本的な人生を生き抜くこと?
・誰かが困っている事を事業やボランテアを通して救うこと。
歓喜を何度か経験して「この生を受けて本当に良かった!」
 と全身で感じ取ること。
・死ぬ時、本当に良い人生を過ごせたと思える生き方。

意味ある人生とは、こういうこと??
知ること、行動する事、創ること、そして愛すること??

これが絶対だというものは無いだろう。
一番良くないのは、人生を生きてきて最後に後悔すること?
倒産や挫折で最後に号泣すること?
それも人生である。

飯喰て、糞して、ただ死ねばよいか!!
意味などクドクド考えるな!この馬鹿!
所詮は自己正当化か!?

これが落ち!
いや違う??

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[189] ツアーのプラスとマイナスを考えてみる
 2001/10/17

ーマイナス面ー

・添乗員、エージェンシーの意図のまま、飛行場に集まり、そのまま機上のひととなる。

・そのうち外国の街に着く。そこに当地のガイドが待っており、そのグループは
 外国のエージェンシーのガイドにわたされる。
 そしてお膳立てされたホテルにバスで行く。

・翌日から予定表どおり、市内観光に博物館に繁華街に公園へとぞろぞろと行列。

・ホテルでお仕着せの食事をして、そして飛行場まで無事送ってもらい
 成田に帰ってくる。
 
 「ツアーで旅行する人は主体も無いし、知性もなにも感じられない」
あるもの書きの本の冒頭に書いてあった内容であった。
その人は自称ー知性の塊と自認している人である。
慶応の大学院を出て、ケンブリッジ客員教授をしていたそうだ。
日本の一応知性人と自認しているらしい。
ツアーをほとんどしたことがないと思われる。
時間をまとまって取れる立場にいるから、それぞれの立場が理解できない。

ープラス面ー    

・10数年前よりツアーの利用の仕方が全く変わった、進化したのだ。
 ツアーでなくてはできない事、行けないところに行くように変化した。

・使い分けをするようになった。
 添乗員なしで当地のガイドと空港で会い、そして翌日から手配どうりに
 動くパッケージもある。

・アフリカのサファリキャンプは普通の人はツアーでしか危険でいけない。
 ナイロビなどは単独では、数十回の旅行をしていても危険である。
 こういうところは4~5名でも全く知らないもの同士でサファリができるのだ。
 外国に行ったことがない人でも、ケニアでキャンプができるのである。

・考えられないほど安い金額で内容は詰まっているのである。

・環境からいって一般の人は2週間が、日本から離れられる限度だ。
 その中に如何に安く、価値ある商品パッケージを出せるかが、
 エジェンシーの役割になっている。

 私はツアーが大好きだ。
 ある目的地に行きたいという主旨のもと、全国からあらゆる人が集まる。
 そしてその縁のもと一緒に時を共有し、また別れていくのがよいのだ。

 個人では絶対に行けない、かつ行く気もしない地に、同じ思いの人と行けるからだ。
 一日あたりの旅費をみると、国内旅行と大して変わらない。