* 誇りを持つのはいい、誇ってはいけない
 誇りの持てない人こそ誇りたがる? それ以前に、誇りとは、どういう意味だろう。
ネット辞書によると、「その者自身の具体的な長所や美点に対する心理」「名誉に思えること」
自信がないと、虚勢でそれを現出させがちになる。隠せばこそ誇りとして、熟成されるが、ついつい、
見せて誇ってしまうのが、人間の性である。他人を見ていると、それが分かるが、自分のことになると!
誇りの逆が卑屈だが、これを、この言葉に当てはめると、「落ち込むのは仕方がない、卑屈になるな」
になる。 ほおっておけば、老いるほど卑屈になる!
   * 人と違う生き方は孤独のようだが、実りは大きい
 意識するしないにかかわらず、それぞれが人と違う生き方をしている。ただ、人を意識しなければの話。
スポーツジムのヨガに週2〜3回、二年半、参加してきたが、少し暗がりの中で毎回のように言われるのが、
「各々のマットは、各々の全世界です。周囲の人を意識しないで、自分だけの世界に入って下さい!」である。
実際に参加していると、殆どの人が、忠実に自分の世界に入りきっているのが分かる。 人と違う生き方は、
人を最小に意識した生き方ということになる。その第一歩が、人と比較しないこと! その為には、まずは、
自分の好きなことを長年かけて続けること。それには孤独の世界を大事にしなくては。
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4598, 読書という体験  ー1
2013年10月18日(金)
           「読書という体験」 岩波文庫編集部 (編集)
 読書を体験として捉えるところが面白い。それも色いろな分野の識者の体験談?だから惹きつけられる。
   ーアマゾンの内容 よりー 
【 熱い気持ちで読んだ本で経験したことの方が、実際に経験したことより今日の私にとっては何倍も大切な
  思い出になっているのだ ―香山リカ「読書だって“人生経験”」(学者、作家、)ー 
  ジャーナリスト、俳優など、三四人の多彩な筆者による、さまざまな読書という体験。】
 まずは、読んだことのある著者から取り上げていくが、特に藤原正彦の内容が良い!
   * 教養を培う  ―私の「読書ゼミ」 藤原正彦 
《 NHKによる最近の読書調査を見ると、中学生.高校生がいかに本を読まないか、あらためて愕然とする。
 平均読書時間は一日に数分である。一方、テレビに費やす時間は、平日が約二時間、休日が約四時間である。
高校生三人のうち二人は、一ヵ月に一冊も読まないという。読書以外に、文学、歴史、思想といった教養を身につける
方法はほとんどないから、このままでは早晩、日本は無教養な人々で埋めつくされることになる。
 教養がなくとも、日常生活をつつがなく送り、幸せな人生をまっとうすることはできる。その意味で教養とは
個人的なものと言えよう。 教養がどうしても必要なのは、長期的視野や大局観を得たいと思う時である。
「長期的視野や大局観を持つとは、時流に流されず、いったん自分を高みに置き、現象や物事を俯瞰しつつ考察する
ということ」である。 このためには若いうちから、「現状」を離れ大きな枠の中で人間や社会の本質に迫ることに
慣れねばならない。そこで、時空を超える唯一の方法、すなわち読書により、古今東西の偉人賢人の声に耳を傾け、
庶民の哀歓に心を震わせる、ということが必要となる。このような読書の累積が教養である。
 長期的視野や大局観は、リーダーとなる人の絶対条件である。我が国の政治や経済政策がいつまでたっても
うまく機能せず、社会や教育が少しずつ荒廃していくのは、リーダー達の大局観の欠如による。
大局観がないと、常に時流に流され、右顧左眄し、対症療法に走るということになる。
大局観欠如の背景には、かつてあった教養主義の衰退、読書離れがある。
 リーダーだけが教養を積んでいれば、国民一般はどうでもよいかというと、そうはならない。我が国が民主主義を
とっているからである。国民の総意に基づいて物事を決めるのだから、その国民に判断力がないと大変なことになる。
民主政治は衆愚政治になりはてる。 読書離れは、民主主義を最低の政治形態にまでおとしめ、日本を滅ぼす。... 》
▼ この危機感から筆者は、大学で八年前に読書ゼミを始めた。主に一年生を対象とした週90分、半年間のこのゼミは、
 以後毎年開いているという。この内容について次回に取り上げる。 武澤ゼミの武澤教授の指導に似ている。
 事例の現象に隠されている本質は、かなりの読書量がなければ、理解不能のものばかり。基礎教養が、人格をつくり、
 それが問題を解決する。私のゼミの事例研究の前の一年は徹底的に指定された本を読まされるが、私は二年目からの参加。
 ひと月もしないうちに、己の絶対量の読書不足を自覚する。二年目の彼らに全くついていけない。それが時間が経つたび、
 ジワジワ効いてくる。それまでの読書量の絶対量の不足。この自覚が武澤ゼミの、いや学生時代の最大の収穫。
 卒業時には、ノイローゼ気味でコンプレックスの塊になっていた。特に都会生まれの学生は、読書の必要性を知っていて、
 絶対量を読んでいる人が多い。 卒業の越年を真剣に悩んだ結果、社会生活に入ってから、毎日、二時間の読書を
 続けることを心に決め、それが現在まで続いている。そのことで、心の個室を持つことができた。足の踏み場もないが・・ 
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4223, 神は妄想である ー4
2012年10月18日(木)
 神は妄想である ー4                        
    * パスカルの賭け              ー「神は妄想である」 リチャード・ドーキンズ著 
 学生時代に読んだパンセの「パスカルの賭け」を読んだとき、いやに納得したことを憶えている。
と同時に「裸の王様の真の姿に目をつぶって黙っていた方がお得」という、いかがわしさも感じとった。
イスラム教、キリスト教ユダヤ教の文明の対立が激しくなる中、無神論も、堂々と主張すべき時期に来ている。
パスカルの賭けも、あまり語られてないが、当然である。  ーその辺の記述の箇所を抜粋ー
≪ 仏の偉大な数学者ブレーズ・パスカルは、神が存在するという確率がどんなに小さくとも、神の有無について間違った推測を
したときの報いには、かなり大きな非対称性が存在すると考えた。< あなたは神を信じた方がいい、なぜなら、もしあなたが
正しければ永遠の幸福という利益を得るが、間違っていたとしても、いずれにせよ失うものはないだろう。それに対して、
もしあなたが神を信じないとして、それがまちがっていることが判明すれば、あなたは永遠の苦しみを得ることになるが、
正しかったとしても、何の利得もない。悩む必要がないのは明らかだ。神を信じなさい。 >である。けれども、この論証には、
はっきりとおかしいところがある。信じるというのは政治問題とは違って、あなたがどうするか決定できるものではない。
少なくともそれは、自分の意志で決定できるようなものでも、自分の意志で決定できるようなものではない。私は教会へ行くか
どうかを決定できる。私はニカイア信条を唱えるかどうかを決定できるし、聖書に手を載せて、そこに書かれているすべての言葉を
信じると宣誓するという決定をすることができる。しかし、これらの行為のどれ一つとして、私が信じていないものを実際に
信じさせることはできない。 ‘パスカルの賭けは、神を信じているふりをするための論証でしかありえない’。
そして、あなたが信じると主張する神は全知という類の存在ではない方がいいだろう。さもなければ、神はその偽装を見抜いて
しまうだろうから。「何を信じるか」ということが自分で決定できるものだという馬鹿げた考えは、ダグラス・アダムズの
『ダーク・ジェントリーの全体論的秘密探偵社』において、みごとにからかわれている。そこにロボットの電子僧侶が登場するが、
それは「あなたにかわって物事を信じてくれる」、労働節約型の装置である。 宣伝によれば、デラックス型は、
ソルトレイク・シティ[モルモン教の本拠地]では信じないようなことを信じさせることができる」というふれ込みの商品だ。
しかしいずれにしてもなぜ私たちは、「神を喜ばせたいならば、しなければならないのは彼を信じることだ」という考えを、
そんなに簡単に受け入れてしまうのだろう? 信じることの何がそれほど特別なのだろう? 神が親切、寛容、あるいは謙遜、
あるいは誠意という報償をくれるだろうというだけのことではないだろうか。≫
 ▼ 「信じることで、神から親切、寛容、謙遜、誠意という報償を与えられるだけで、十分過ぎる」ことも確かである。
  信仰は自分で自分の首を縛るだけか、長年の歴史に耐えた教えに『良心』を育て導く道理が入っているため信じるに足りるか。
  キリスト教圏だった、自分の子供には無神論より有神論者を選ばせるのは頷ける。亀井勝一郎の「愛の無情」でも読み返すか。
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3858, 幽霊を哲学してみる
2011年10月18日(火)
  先日、ある人と食事をしていた時の話題。《 最近、自分には学校とか病院の前に屯をしている霊が見えることがある。
貴方のブログに、そういう感覚があると書いているが、このことを如何思うか? 最近、気晴らしにパワースポットに
行くのが趣味になっている。長岡には、そういうスポットは何処にあるのか? 》という内容。 それに対する私の返事は、
《 ブログに書いてあるとおり、38年前に父親が亡くなった時から10数年、シックス・センスが身についた時期があった。
 実際に経験してみて、こういうものかと思い知った。 子供の頃から両親や姉などが、幽霊の話を真剣な顔をしているのを聞いて、
 他愛無い話と子供心に思っていた。ところが、父が亡くなった直後に「父親の死にたくない不安の気持ちが夢の中で乗り移り、
 我に返った時に、父親の魂が自分に乗り移ったような奇妙な経験」をした直後から、幽体離脱や、奇妙な偶然の一致などが
 多く続くようになった。 これだけは、実際に経験してみないと分からないこと。
  しかし10数年前から哲学に興味を持ち読み続けてから、その感覚が薄れてしまった。特にカントを知り、何度も読み込むうち、
 霊の正体が理屈で分かりかけてきた。 私はカレーを食べると汗が人一倍出る。そのためカレーをイメージしただけで汗が出たり
 カレーの臭いさえしてくる。 これは、嗅覚がカレーの言葉に刺激されるからである。 それと、あなたが見える幽霊に似ている。
 そこに幽霊がいるのではなく、貴方の中にある幽霊の刷り込みの感覚が働くためである。 それが分かると、シックス・センスは、
 その入り口で遮断される。 人間の脳は、生物が20億年かけた生命の歴史が刻まれている。 霊も、その類である。》であった。
霊に関しては、そんな簡単に言い切れるものではない。 過去を振り返ると分かることだが、我々は共同幻想の中にある。 
人生は幻想の中で浮遊していているだけ。見える人には見えて、見えない人には見えない。 その見えるも脳の悪戯? 
ふと考えついたのが「目覚めた状態で見える夢」という言葉。そうすると、やはり幻覚、幻想になる。
カラオケスナックは、酒で脳を麻痺させ、映像と歌謡曲で幻想の世界を作り上げる場所。 映画館も、小説も同じこと。
 たまたま、二年前の同月同日に「 生きる幻想 死ぬ幻想 −2」を書いていた。 
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3493, 人生、よもやま話 ‐2
2010年10月18日(月)
 幼児の頃は、聞くもの見るもの全てが新鮮で遊びの対象になる。 まだ憶えているのが、初めて海を見たときだった。
長岡から当時の列車で一時間足らずの柏崎で見た青い海と、潮風の臭いと、漁船と、近くの箱に入った魚に驚いた。 
同じ歳の親戚の男の子が海岸近くにいて、近くの寺に夏ごと泊り込みで遊びに行っていた。
 実家では店のビル全部が遊び場であった。 また幼稚園に入ってから直ぐに何人かの友人が出来た。その一人が焼鳥屋の息子。
家に行くと焼き鳥の仕込みをしていた親父さんが、イオリで焼いて食べさせてくれた白モツの味は今でも忘れられない。
その店(鳥梅)は、現在もある。 そのうちに、郊外にプールが出来て夏になると通っていた。 歳の離れた兄が5メートルの
飛び込み台の上から逆さまに足を持って 吊り下げられた恐怖心は生々しい。 その頃の楽しみの一つが祭りの屋台である。
その幾つかに家族で行ったり、一人でも行っていた。 特に「チケンサマの祭り」が多くの屋台や、植木の店がたつ。
そこで一軒ずつを一日かけて見るのである。 その中で、金魚と鯉の出店が気に入りだった。父は「贅沢は敵」の明治気質の人、
三輪車以外の玩具など殆ど買って貰えなかった。 そのため、祭りでも何かを買う楽しみではなかったが、普段には見れない
珍しいものを見るのを楽しみとしていた。 その癖が現在で残っている。 あまり物が欲しいと思わないのは、そのため。
新しいデジタル商品を除けば、見るだけで満足してしまうから安上がり。骨董品を見るのは好きだが、それを欲しいと
思ったことはない。所詮は倉庫のゴミでしかないことを知っているから。 美術館で見れば充分である。
 そうこう考えると、なるほど「魂の故郷は幼児の頃の思い出」というのは肯ける。人生は記憶で彩どられている。
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3118, 生きる幻想 死ぬ幻想  ー2
2009年10月18日(日)
「生きる幻想 死ぬ幻想 」岸田 秀 (著), 小滝 透 (著)  ー読書日記
  * 一神教批判をめぐって
 多神教の日本人と一神教徒の欧米・アラブ人とは肌の色だけでなく、根本的に考え方が違う。
一神教徒は多神教の多い黄色人種や黒人を元もと見くびっているのである。宗教そのものは、本来そういうもの。
だから、今さら、そういう異種の人と割り切り付き合うしかない。 外国旅行をしていると、辛らつな人種差別を
感じとることは度々である。 今さらのことだが。 アメリカは、中近東にサウジアラビア、東洋に日本という
赤色と黄色の属国があるとしか捉えていないのである。いざとなるとCIAが陰湿な謀略を属国日本に仕掛かける。
  〜以下の文章を読むと、その辺のことが、よく見えてくる〜
 Pー6  ユダヤ教キリスト教イスラームは、同じ「一神教の神」を奉じる兄弟宗派です。
一般に「旧約聖書」と呼ばれているのはユダヤ教聖典で、これはキリスト教イスラーム聖典として認めています。
キリスト教にとっては『旧約聖書』プラス『新約聖書』が聖典であり、イスラームは『旧約聖書』と『コーラン』が聖典です。
同し神様を奉じているのに、どういう角度で見るかによって、歴史的に分派しているわけです。ですから、この三つの宗教は
セム一神教」とか「アブラハムの宗教」と呼ばれている。このうちユダヤ教は、一応ユダヤ民族と呼ばれる人々の
民族宗教」で、あまりほかに拡がっていかない、むしろ閉ざされていく傾向を持っていますが、キリスト教イスラーム
「普遍宗教」として民族・文化を超えて拡がっていこうとする。 これが非常に問題を起こすのです。
一神教というのは基本的に自分たちの神だけが真実の神である、と主張しているわけですから、他の宗教には非寛容です。
実際、他の神々を否定し、殺していきます。そして極端に言えば、自分たちの神を信じない者は人間ではないと考える。
ところが一神教徒にとって最も大きな敵は、同じ一神教の他宗派なのです。多神教徒は、劣った連中、迷妄の徒だと思って
下に見ることができますが、同じ一神教の仲間だと、そうは行きません。これはちょうど左翼の中で一番敵視して闘ったのは、
むしろ国家権力やブルジョワ階級よりも、同じ活動をしている分派の方だったのと同じ心理です。
 解釈を違えた者同士は、まったくの異教徒よりもっと敵となるんです。
 P−50 僕の仮説では、人間はもともと黒人で豊かなアフリカに住んでいた。ところがそこに色の白いアルビノ
生まれて、それが差別されて、中東やヨーロッバに追いやられた。そういった差別された連中がまたエジプトでも差別されて
生み出したのが一神教であって、もともとユダヤ教は恨みがましい宗教だという説です。自分たちが差別され、
虐げられてきたから、他に対して攻撃的になり、他を差別する。ユダヤ教は、さきほども言ったように、エジプトで奴隷になって
いた入々が、モーゼという英雄に一つにまとめられて、パレスチナに逃亡してきて、現地の神々を追い払ってつくった宗教ですし、
キリスト教も、ユダヤ教徒のなかで差別されていた人たちがつくり、ローマ帝国の中で差別された人々に広まった宗教です、
だから万軍の主という神や、復讐の神といった、自分たちを差別する連中をやっつけてくれる神を作り上げたのです。 
キリスト教がヨーロッパに拡がったというのも、ヨーロッパの特に北部は、非常に自然が過酷で、そこに追いやられた白人たちは、
人類史的に見れば、ひどく悲惨な目に遭っています。だからこそ、ああいう磔になって死んだ人が教祖であるような宗教が、
ヨーロッパ人にとっていちばんフィットしたのではないかと思います。教祖は人々が同一視できるというか、自分を
そこへ投げ入れることができるような存在である必要がありますから。
 〜〜
 多神教一神教が戦えば、間違いなく後者が勝つことは、歴史が証明している。
 多神教にとって、一神教もその一つだが、一神教は他の神を認めないのだから、心根が全く違う。
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2753, ジム・ロジャーズの金融危機インタビュー
 2008年10月18日(土)
ライダーの投資家で知られてる、ジム・ロジャーズが、この金融危機についてインタビューしていた。 
  ー以下は字数の関係でカットー2010年10月18日
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2007年10月18日(木)
2389, こころの旅  −3         c⌒っ *・∀・)φ【才八∋ゥ♪】
  「こころの旅」神谷 美恵子 (著)
 第一章、人生の出発点の中の
 −人生の諸段階ーの説で、八段階の半分の四段階が11歳までに区分されている。
更にいえば、5歳までに三段階が終わっているのである。これからみると、小学校で既に勝負がついているのである。
いや、もっと厳密にいえば、小学校入学時に質として、もう範疇に分けられていたのである。以前、最終区分前の中学校の成績順が、
そのまま人生を決めていると書いたが、エリクソンによると小学校でホボついていることになる。そう小学校も中学校と同じことが言える。
一番、二番、三番、四番とその後の消息を聞くと、そのまま拡大した人生である。私は4番位であったが、男で7番以内で地元に
帰ってきたのは私だけである。といって兄弟でもえらく違うから、一概にはいえないのだろうが。 大學の時に当時の親友だった男に、
「お前は竹のようなヤツだ。遊ぶが、ある所までいくと元に戻って自分の姿勢は崩さない」と言われたが、それが子供の時からの親の
生きる姿勢を見てきたからである。それでも自分の殻を必死に破ろうとしてきたが、これでこのザマである。
 以下は、その人生の諸段階の部分である。意味は深い!
 (以下、字数の関係でカット2008年10月18日)
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2006年10月18日(水)
2024, ある「煉獄」の中にて             才八∋ウ_〆(∀`●)
これからの内容は本人の同意を得て書いている。
(もし本人の同意なくして書いたとしたら、本人を著しく傷つけことになる上に、裏切り行為になる。
 本人曰く「母の苦労を多くの人に知ってもらえるから、書いてもよいです!」・・)
   (以下、字数の関係でカット2009年10月18日)        
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2005年10月18日(火)
1659, 北イタリア旅行記−8
 ー旅行雑感−1
 旅行中に、色いろな思いや出来事に行き会うことが多い。ただ、文章にするには如何書いてよいものかと切り捨てている
 場合が多い。
以下は字数の関係でカットー2013年10月18日
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2004年10月18日(月)
 1294, 県知事選挙ーつれづれ
昨日は県知事選挙。 実のところ、ギリギリまで誰に入れたら良いか焦った。
以下は字数の関係でカットー2012年10月18日
・・・・・・・
2003年10月18日(土)
927, 「楽しく生きるには」−読書日記
 学生時代の日記帳を見ていて気がついたことは、「人生楽しく」をそのまま実行していたことだ。
その点では今と変わりはない。 よく読むと、議論をしているか、本を読んでいるか、遊んでいるか、酒を飲んでいるかだ。
 以下は字数の関係でカットー2008年10月18日
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553, 基調色

  • 2002年10月18日(金)

私に着こなしの事を語る資格はない。しかし、実質的合理的な着方なら話せる。背広やブレザーは自分の基調色を決めておく。
(以下、次数制限のためカット2011年10月18日)