* 80までは生きれると思っていたけど!
 ある飲み会で一年ぶりに出会った男が、出会いがしらに、「最近、切腹をした。もう長生きが出来そうもない。
片足、いや両足を棺おけに入った。80歳までは生きると思っていたけど!」と悲鳴。やり手?だが、人の弱点を
見ると見境なく攻撃をする性格で、三年半前の私の倒産劇以来、三度の会で、続けて露骨な嫌味を言っていた。
 三度目の会で、悪いことに?目前の座席。早速、攻撃が始まった。「俺は学が無いので、哲学などは
分からないけどや〜」と、薄笑い。その言葉には(その様は何だ)との皮肉が込められていた。 
それまでの二度は、聞き流していたが、この言葉にはカチッときた。 
 5年程前の話になるが、本人の趣味の茶器づくりりが認められ、銀行のロビーに飾られ本人が有頂天だった頃、
その人と親しい知人から、「あの男、私生活も、茶器づくりも、仕事もスランプらしい」と聞いていた。
たまたまポタリングをしていると、車が停まり、当人が話しかけてきた。それが偶然、本人の会社の前。
「まあ、お茶でも飲んでいけや!」と誘われるまま、事務所に行ったところ、応接室に茶器が並んでいて、
素人としてはナカナカの出来栄え。「何でもよいから一つ、くれないか」というと、快諾。その数日後、
自慢の豪邸?に家内と行くことになった。その時の茶器の御礼に何かと考えた時思い出したのが彼のスランプ。
初心者用に噛み砕いた哲学を説く池田昌子の「14歳からの哲学ー考えるための教科書」を持っていった。
それを逆手にとって、皮肉を言ってきたのである。
 酒の勢いもあって「茶器は、作者の魂の顕現そのもの。あなたが茶器づくりなどでスランプというから、
ヒントにと本をあげたのだ! スランプ解消には『魂そのものが何か』が分からなくてはならないはず・・ 
『魂を叩き込むとは、自分の持っている全てを作品に叩きつけることだろう。』」と、怒鳴りつけていた。 
其処にいた、ほかの何人かも、私の言葉に同調。その直後、幹事が会の予算が足りないと当人に資金補助を
頼みに来たところ、内ポケットの数万を私の前に投げつけた。もし金に貧していたら深く傷ついただろうが・・ 
あまり経験出来ない面白い遣り取りだった。それから一年ぶりの再会で、これ。余命数ヶ月?に感じられた
深刻な様相だったが、それは恐ろしいだろう!
 哲学の最大の問題は「死」。余命を突然告げられ、まず考えるのが、 ☆死ぬとは、如何いうこと?
☆自分が本当に消え去るなど有得ない! ☆自分の生き様は、これで良かった? 等々、心は七転八倒。 
最後の最後は当人の心奥の問題だが。 去年の5月の随想日記、4429,ー「死ぬのが怖い」とはどういうことか?
ー前野 隆司著の「死の恐怖を克服する七つの登山道とは」を読めば、少し気が休まるだろうが・・ しかし、
こういう類は予習しておくしかない。他人事でないのが、この内なるブラックスワンの死の問題。 
 先日、ある30人位のデナーの席で、三年前に旦那を亡くした還暦過ぎの女性と、70歳過ぎのアマチュア
カメラマンと、私の家内と同席をした時の話。還暦過ぎの女性が旦那を見送った具体的話題をして、本人も
ガン持ちと告白した。その女性が、私たちに「変な話をして御免なさいね!」というから、「別に全く問題は
ないです。この年齢になら言葉として表現するか、しないかですよ」と、答えた。70過ぎのカメラマンも
奥さんを最近見送り、自分も何時、再発するか分からない、と達観?した様子だったが、内面は、穏やかでは
なさそう。 即興になるが、「男は黙って、サッ、コロ、キエル」である。 そして誰も居なくなる。
死の問題、一に準備、二に準備!である。こういう話は、語りだせばキリがない!
・・・・・・
4599, 閑話小題 ー座りオシッコの話
2013年10月19日(土)
  * 座りシッコの話
 昔は無かったスタイルに、「洋式便器」での男の「座りオシッコ」がある。 二年ほど前になるが、
TVのバラエティーで、「男の洋式便器のオシッコの使用時に、周辺に撥ねちらす量が思いのほか多く汚い」
ことを、テーマににしていた。その飛び散るさまを色付きの水で、同じように放水し、周辺に飛び散った水滴先を
実証してみせていた。それを見た家内が、「今日から、あなたも始めて!」と強く言われて数回、試みたが、
何かオカマ?みたいで、数回で止めた。でも、注意をしてみると、やはり? 数ヶ月前にみたシネマで、老妻に
先立たれ独り暮らしを始めた主人公が、一度、座ったが、もういい!と、立ちスタイルで始めた姿が印象的だった。 
 近くのスポーツジムに通い始めて二年半になるが、盆暮れと祭日を除いて週5日間の昼間、休まず通っているが、
数ヶ月後に気づいたのが、男子更衣室の洋式トイレで、前の人が使ったあとの下蓋が下りたままが多いこと。 
ところが、日が経つにつれ、その頻度が多くなってきて、今では三分の一。これからすると使用後、上蓋を下げる
人もあるから、半分近くが座りシッコをしていることになる。当初は、こんなところで、何?をすることもないのに!
と思っていたところに、例の映画をみて成るほど!と気づいた次第。 で、最近、家では心掛けることにしたが
一週間もすると、当初の抵抗感がなくなるから不思議。 それも中性化の一つか? 最近の子供は自宅では殆ど?
座りスタイル?  で、私は自宅ではするが、SJで、しないのは、実際にジムでも実施している
半数の人と比べ、公共心が劣っていることになる。 でも、あそこで、座る気も起きないが。
   * 二代目・電動アシスト自転車
 ブレーキが前後とも壊れ、来春予定していた電動アシスト自転車を購入してから、一ヶ月足らずになる。
これまではマウンテンバイク(MTB)だったが、今度ものはクロスバイク。値段は4年間で電動アシストの
普及もあり、全体的にみて3〜4割は値下がりをした。MTBはスポーツチェーン店の通販で買った中国製。
やはり故障続きであった。しかし、電動アシストの楽しさは十二分に味わうことができ、既に1万キロは走った。
冬期を除いた毎朝、一時間、年間200日は乗るので、一回百円とすると、償却は済んだことになる。
実感としての価値は、300円〜500円はある。で、新しいクロスバイクは、値段が二倍、一日200円になるが、
価値は充分にある。雨の日にスリップをして、転倒したが、車さえ気をつけ注意をすれば、それほど危険でない。
毎朝、10キロ以上は乗って5日に一回の充電で済んでいる。クラッチを最大の重さにして、電力を使うパワー
にして乗っているが、ロードレーサー並みの速さ。少しオーバーに表現すると、地上を走る車輪付きの
グライダーか、水上を走るミニエンジン付きヨットという感覚である。で、兼用して乗るつもりだったが、
一度MTBに乗ったが、もう乗る気がなくなり、昨日、知人に引き取って貰った。
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4224, 閑話小題 ー地軸様 
2012年10月19日(金)
   * 地軸様
 何度か書いたことがあるが、30年来、近くの土手を散歩しているうちに橋の上で呼吸法を取入れた深呼吸を
するようになった。大きく息を吐き出しながらシャガミコム。その時に地球の芯に気を落とすイメージを持つ。
そして、そこから大きな息を吸い上げながら立ち上がり、今度は空に向かって気を吐き出すイメージで息を出す。 
それを一回につき7〜8回、続けていたところ、擬人化した地球軸に話しかけるようになった。「おはよう!」
「久しぶり!」とか。 ところが何回かするうちに、逆に地軸の方が、「よう、昨日は散歩に来なかったな!」
「より深く呼吸しろよ!」と思いもよらない切口で呼びかけてくる。 サルトル的にいえば、「対自」と
「即自」の、掛け合いになる。ところが何時もの散歩道のコースに、大規模な道路拡張工事が始まり通行止。 
そこで違うコースを迂回して歩いているうち、電動アシスト自転車を購入した。試しに信濃川の土手を長岡大橋
から大手大橋を一周したところ、この景色と空気に魅されてしまった。三年前のことである。それをキッカケに
早朝ウォーキングがミニ・サイクリングへ変わってしまった。ところがチャリだけでは、物足りなくなり、
大手大橋を渡る時にヒキチャリをしながら歩くようになった。 暫くすると、その地球軸が再び話しかけてきた。
「久しぶりだね、まあ、下世話なことなど考えてないで、ここを歩いている時は360度のパノラマを味わえよ!」、
「もっと深い呼吸をしな!」「わたしとせっかく出会えたのだから、私からエネルギーを、もっと吸い上げろよ!」、
「何か考える時や、音楽を聞く時には、わたしが同一になったイメージを持つと、感覚が鋭敏になる!」
(ワシにも聴かせろ)とか、なかなか面白い。 スポーツセンターで、ウォーキングマシーン上でiPodの
音楽を聞きながら運動している時などイメージすると、音楽に集中できる。で、この擬人化した地球軸に何か
名前をつけてやろうと、この数日で考えた名前が、「地軸様」。知らない人が、これを読んだら、
「この男、ついに頭にきたか」と思うだろうが、私にとっては、20年以上の対話の過程がある。 
自分の魂を擬人化した「真魂様」でもよい。常に話相手として擬人化して対話すれば、それで深い自己対話になる。
問題は意識してやるかどうか。アブラハム、キリスト、釈迦などは、このエネルギーの大元と繋がっていたのでは? 
魂とは、内的宇宙=地軸様。
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3859, 釈迦でさえ非難される
2011年10月19日(水)
 釈迦にさえ、非難するものがいた。そのものに、釈迦は「あなたが私に腐ったものを与えたとして、
それを私が受け取らなかったら、それは誰のものになるか考えてみよ。それは、あなた自身のものだろう。
それが、私の答えである」と言ったという。この言葉を知った時、何か内なる拘りの多くが消えた気がした。 
要は、自分の受けとめ方で、第三者の非難は、その人自身の問題を投影しているに過ぎない。 それをマトモに
受けとめるから、その辺の輩の言葉に傷を負ってしまう。要は、自分の信念となる「絶対言明」を確立してあれば、
他人の傷口から出てきた膿の言葉から、自分の傷口に毒が入ってこない。釈迦の言葉には納得できるものが多い。 
この時節、釈迦の言葉は心に沁みる。 老年になると、無知は老害となる。
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* 思いわずらうな。 なるようにしかならんから、今をせつに生きよ。
* 沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、少し語る者も非難される。
  つまり、世に非難されない者はいない。
* もし、清らかな心で生きている人がいたとしたら、幸福はその人の後に、かならずついていく事でしょう。
* 思慮のある人は、奮い立ち、努めはげみ、自制・克己によって、激流も押し流す事が出来ない島を作りなさい。
* 善をなすのを急ぎなさい。善をなすのにのろのろしていたら、心は悪を楽しむようになります。
* 水が一滴ずつでも滴り落ちるならば、水瓶でも満たすことが出来るのである。
* 他人の過失を見る必要はありません。
* 他人のした事と、しなかった事を見るのではなく、自分がした事としなかった事だけを見るようにしなさい。
* 自分で自分を、励ましてあげなさい。
* まず、自分を正しく整えてから他人に指摘しなさい。
  そして、他人に指摘したことは、自分も実行しなければなりません。
*「わたしは愚かである」と認められる者こそ、賢者である。逆に「自分は賢者である」と思っている者こそ、
  愚者と呼ぶにふさわしい。
▼《 思いわずらうな、なるようにならんから、今をせつに生きよ 》 この言葉は、還暦を過ぎてからの
 生きる道しるべの言葉。《「わたしは愚か」と認められる者こそ、賢者。逆に「自分は賢者である」と思って
 いる者こそ、愚者と呼ぶにふさわしい》は、上から目線で、教養の無さの目盛りになる。上記の一つずつが、
 日々の自分に対する戒めといっていよい。
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3494, 金が高騰
2010年10月19日(火)
 ここにきて金が高騰している。リーマンショック時には1トロオンイシス900ドル代だった金価格が、
先日1380ドルをつけた。何と二年で40パーセントの値上がり、年率で2割づつ上がっている。国内価格は
円高のため27パーセント、それでも値上り幅は大きい。ゴールドマン・サックスは一年後には1650ドルまで
値上がりを予測する。 二年後に3000ドルの予測もある。8年前に金の上場投資信託ETF)が出来て、
そこを通して機関投資家や個人の投資資金が流入している。その残高も5年前の5・6倍に膨らんでいる。 
リーマンショックによる世界金融危機が一番の値上がり要素。各国は危機乗り切りのため通貨をばら撒いたため、
投資家などに通貨不信がおきて金投資に向かっている。「実はユダヤ資本が上げるだけ上げておいて、一挙に
売りを浴びせられる」という説は、先日ここで書いた。  (字数の関係でカット2011年10月19日)
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3119、久々のジョーク ー6
2009年10月19日(月)
 ▼ 少女が女になるにはどれくらいかかる?    ひとつき
 ▼ 長年牧場の仕事をしてきた親方が、弟子を連れてしば刈りに行った。「親方。この木、じゃまだから
 切ってしまいましょう」「待て!50年前、わしはこの木の下で、男として初めての体験をしたんじゃ。
 思い出の木じゃ。残しておいてくれ」「へえ。そうなんですか。親方も隅におけないなぁ。じゃあ、あっちの木を
 切りましょうか」「待て!その初めての体験のとき、あっちの木の下で彼女の母親がじっと立っておった。
 やはり思い出の木じゃ。残しておいてくれ」「親方……。もしかして初めての体験のとき、相手のお母さんに
 ずっと見られてたんですか?」「そうじゃ」「お母さん、黙ってなかったでしょう。何て言いました?」「モー」
 ▼ とあるパーティの席でのこと。母親に連れてこられていた三歳の男の子トニーが、突然母親に向かって
 「おしっこしたい」と大声で叫んだ。息子の無作法に母親は思わず顔を赤らめ、彼にそっと言った。
 「これからはおしっこをしたくなったら『歌を歌いたい』と言ってごらん。そうすれば私はお前がおしっこを
  したいのだとすぐ分かるからね」「『歌を歌いたい』だね?うん、わかった。これからはそう言うよ」   
 そして、その日の夜― 父親と母親の間に寝ていたトニーは、おしっこをしたくなって目を覚ました。
 そこで父親を起こして「歌を歌いたい」と言った。何も知らない父親はびっくりして言った。
 「夜中は歌を歌う時間じゃないよ。明日まで我慢しなさい」 しかしおしっこが漏れそうなトニーは、
 どうしても今じゃないとだめと言う。 そこで父親は仕方なくこう言った。
 「じゃあ、布団の中でいいから、お父さんの耳元で静かに歌ってごらん」
 ▼ 友人に裏切られ、全財産を失い、荒れた暮らしで体を壊し、不治の病に冒され、ひとり寂しく死の床に
 ついている男がいた。 突然、目の前に妖精が現れて言った。 「どんな願い事でも構いませんので、あなたが
 かなえたい事を3つ言ってください」 男は即答した。「友情と財産と健康が欲しい!」そして、感激し男は続けた。
 「ありがとう!もう何と言ってよいのか..」「いいえ、どういたしまして」妖精は答えて言った。
 「こちらこそ、アンケートに御協力いただき、ありがとうございました」
・・・・・・・・・
2754, 世間とは、一人ひとりの人間の繋がり
 2008年10月19日(日)
「世間」については何度も「身近な数人の縛り付けられた小さな常識の網でしかないと!」と、
否定的な意味で扱ってきた。それでは「世間」とはいったい何か?を、岸田国士が「恐怖なき生活について」で、
次のように書いている。
【「社会」という概念とは一致しないが、その道徳と習慣と、特に群集心理によって支配される意志表示とを
 重くみた考え方で、それはまた、自己保存のほかなんらの理想をもたず、非情ともいうべき形式的な掟の上にたち、 
 すぺての異分子的存在を排撃する本能のきわめて目立つ、地域的、時代的に限られた一社会を指すものと思われる。】
 と・・・、 簡潔で分かりやすい。≪世間=非自由≫と割り切って、沈み込まないように意識をしてきた。
 しかし、次の 佐野洋子の「私の猫たち許してほしい」の文章に出会い衝撃を受けた。
【 ある時、通りの下から二人の女の声が聞こえた。一人は相手をたしなめているようだった。もう一人はその人
 よりも若いらしく、とぎれがちにいいわけをしているようだった。ずいぶん長い間、ひそひそと立ち話をしている
 けれど、ことばは聞こえなかった。あるいは二十歳の私には、水商売の女の人たちの話に興味がなかったのかもしれない。
「あなたそんなことをしていると、世間が狭くなるよ」ということばだけがはっきり聞こえた。そしてあとは静かに
 なってしまった。私は、「世間が狭くなる」ということばを初めて聞いた。「世間」ということばが、私の知って
 いる「世間」ではない様子をして、ありありと私に見えてきた。私には「世間」というものは、目に見えない
 ものであった。漠然と私をとりまいているものであり、少し古めかしい、少し私を束縛するものであり、
 とりはらいたいものであった。その時はじめて、私は‘世間というものが、一人ひとりの生きている人間の
 つながりである’ということを理解した。】が具体的で分かりやすい。これからすると、世間を否定することは
 人間を否定することになる。   (字数の関係でカット2010年10月19日)
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2007年10月19日(金)
2390, インターネット社会の凄み        オッ☆ o(≧▽≦)o ハァァァァァァ♪
連日のようにインターネットを介在したサイト犯罪が話題になっている。
自殺サイトの自殺依頼による殺人、見知らずの男がサイトを介在して集まっての殺人事件、円天というネズミ講
応用の詐欺もサイトを巧妙に利用したものである。「フラッシュ・モブ」という新しい現象も起きている。
インターネットを通じて広く呼びかけられた群集が公共の場に終結し、あらかじめ申し合わせた行動を取る即興の集会。 
  (字数の関係でカット2009年10月19日)
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2006年10月19日(木)
 2025, 「私」のための現代思想  −13       オッ(*^○^*)ハ〜
個体としての、物質としての「私」は、「存在を引き受ける者」によって《私》となり、最初の「超越確実言明」
を行うということです。簡単に言えばー「私}を認める者の存在ーを通して《私》になる。
その一番最初は、普通は母である。 初めの他者が母である。両親によってタップリ愛情を注がれた子は、
初めの出会いで、その存在基盤が強固になるのである。その基盤の上に「超越確実言明」が成立し、《私》は
強固になっていくのです。両親の愛、特に母親の愛は《私》の基盤を決定する。「ごうの虎」の年に生まれた人は気が強い!
という言葉を聞かされて育った女性が、それが「超越確実言明」になってしまえば、気が強くなってしまうのも当然である。
代々婿取の家系での長女で、A型で、ごうの虎年生まれで、男子高校を卒業で、中途半端な短大卒で、両親にタップリ愛情を
注がれて育った、ときた分には、亭主としてたまったものでない。誰の話??何の話??強固の《私》の基盤の人の実例の話。
 −−−
第五章 「私」が「生きる/死ぬ」ということの意味−?
  *「共振」のエネルギー −
私たちにとって<他者>とは、私たちが<出会い>を経験したすべての人たちです。 私たちが出会い、その存在を知りえた相手は、
それがたとえ直接には顔を見たことのない人であっても、既に亡くなっている人であれ、「私」にとっての<他者>であり、
この「私」の存在を引き受ける者となりえます。出会いのあるところ、多かれ少なかれ、必ず共振が発生します。
そして、それによって《私》にエネルギーが与えられます。このエネルギーは、消費されない時は、「私」の内部に滞留し、
消費された時には、「外部への振動」となってあらわれます。人は、生きている限り、共振しつづける存在です。
 *「私」が《私》となる瞬間 −
初めて母親の声を聞いたとき、「私」が個体としてこの世界に生まれてきて初めて「私」=《私》は
「私は私が母の声を聞いたことを知っている」という「超越確実言明」を行います。
これは、言明の正しさの基礎となる「超越確実言明」のうちで最初に発生するのが、
「私が存在する」ではなく、「ある他者が存在する」であることを意味しています。
そしてこのとき同時に、《私》の存在の基盤が与えられます。それは、「私」が《私》になる瞬間です。
個体としての、物質としての「私」は、「存在を引き受ける者」です。
個体としての、物質としての「私」は、「存在を引き受ける者」によって《私》となり、
最初の「超越確実言明」を行うということです。「超越確実言明」の強度は、論理的な正しさによるものではなく、
「《私》の存在」の強度に支えられています。そして「《私》の存在」の強度は「<他者>による引き受け」によって
その力を増していきます。頑健な「超越確実言明」の上には、堅牢な「論理」を構築することができます。そのようなとき、
その論理によって構築される<言葉><価値><物語><世界>は、頑強な「個別の正しさ」を持つことになります。
 * 弱い「超越確実性言明」−
逆に、<他者>によって「厚く引き受けられない」とき、「《私》の存在」は強度を弱め、
「超越確実言明」も弱いものとなっていきます。そうすると「超越確実言明」を基盤として、
その上に<価値>や物語>をつくり上げることが難しくなってしまいます。
前に書いた、「仮面」を思い出してみてください。仮面と、その下の顔の関係です。
「仮面」が役割であり、「その下の顔」が「私は〜である」という形式の「超越確実言明」です。
芝居を上手く演じるには、ある程度その「舞台」、つまりは<世界>に
没入しないと上手くいきません。「没入できる」ということは「戻ることができる」ということが前提です。
(字数の関係でカット2010年10月19日)
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2005年10月19日(水)
1660, 「人生の実りの言葉」          読書日記
中野孝次」著の「人生の実りの言葉」がよい。その冒頭の「愛」についての言葉が胸に突き刺さる。
愛について、これだけ解りやすくストレートに語っている言葉も珍しい。 
 ーまずは、その一説を書いてみる。
 (字数の関係でカット2013年10月19日)