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巨人も、一勝も出来ずに終わってしまった。
原監督も、そろそろ監督寿命が尽きてきた。 変わり時である。
決断は、あの男しか出来ないが、どうだろう? 無理か!
エボラ出血熱、どこまで広がりをみせるのか?
もしかしたら、今年の最大のニュースになるのかも。
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2025, 「私」のための現代思想 -13
2006年10月19日(木)
個体としての、物質としての「私」は、「存在を引き受ける者」によって
《私》となり、最初の「超越確実言明」を行うということです。
簡単に言えばー
「私}を認める者の存在ーを通して《私》になる。
その一番最初は、普通は母である。初めの他者が母である。
両親によってタップリ愛情を注がれた子は、初めの出会いで、
その存在基盤が強固になるのである。その基盤の上に「超越確実言明」
が成立し、《私》は強固になっていくのです。
両親の愛、特に母親の愛は《私》の基盤を決定する。
「ごうの虎」の年に生まれた人は気が強い!という言葉を
聞かされて育った女性が、それが「超越確実言明」になってしまえば、
気が強くなってしまうのも当然である。
代々婿取の家系での長女で、A型で、ごうの虎年生まれで、男子高校を卒業で、
中途半端な短大卒で、両親にタップリ愛情を注がれて育った、ときた分には、
亭主としてたまったものでない。
誰の話??、何の話?? 強固の《私》の基盤の人の実例の話です。
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第五章 「私」が「生きる/死ぬ」ということの意味
*「共振」のエネルギー -
私たちにとって<他者>とは、私たちが<出会い>を経験したすべての人たちです。
私たちが出会い、その存在を知りえた相手は、それがたとえ直接には顔を
見たことのない人であっても、既に亡くなっている人であれ、「私」にとっての
<他者>であり、この「私」の存在を引き受ける者となりえます。
出会いのあるところ、多かれ少なかれ、必ず共振が発生します。
そして、それによって《私》にエネルギーが与えられます。
このエネルギーは、消費されない時は、「私」の内部に滞留し、
消費された時には、「外部への振動」となってあらわれます。
人は、生きている限り、共振しつづける存在です。
*「私」が《私》となる瞬間 -
初めて母親の声を聞いたとき、
「私」が個体としてこの世界に生まれてきて初めて「私」=《私》は
「私は私が母の声を聞いたことを知っている」という「超越確実言明」を行います。
これは、言明の正しさの基礎となる「超越確実言明」のうちで最初に発生するのが、
「私が存在する」ではなく、「ある他者が存在する」であることを意味しています。
そしてこのとき同時に、《私》の存在の基盤が与えられます。
それは、「私」が《私》になる瞬間です。
個体としての、物質としての「私」は、「存在を引き受ける者」です。
個体としての、物質としての「私」は、「存在を引き受ける者」によって
《私》となり、最初の「超越確実言明」を行うということです。
「超越確実言明」の強度は、論理的な正しさによるものではなく、
「《私》の存在」の強度に支えられています。
そして「《私》の存在」の強度は、
「<他者>による引き受け」によってその力を増していきます。
頑健な「超越確実言明」の上には、堅牢な「論理」を構築することができます。
そのようなとき、その論理によって構築される<言葉><価値><物語>
<世界>は、頑強な「個別の正しさ」を持つことになります。
*弱い「超越確実性言明」-
逆に、<他者>によって「厚く引き受けられない」とき、
「《私》の存在」は強度を弱め、「超越確実言明」も弱いものと
なっていきます。そうすると「超越確実言明」を基盤として、
その上に<価値>や物語>をつくり上げることが難しくなってしまいます。
前に書いた、「仮面」を思い出してみてください。仮面と、その下の顔の関係です。
「仮面」が役割であり、「その下の顔」が「私は~である」という形式の
「超越確実言明」です。
芝居を上手く演じるには、ある程度その「舞台」、つまりは<世界>に
没入しないと上手くいきません。「没入できる」ということは
「戻ることができる」ということが前提です。それは、「私が~である」
という「超越確実言明」にしっかり支えられている状態であれば、
役割から降りることもできるし、役割に没入しても、「仮面の下の私」を
無くしたりしません。
ーーー
仮面を見極め、仮面を演じる、これを趣味にするのも
面白いだろうが、傍から見れば下手な三文役者の姿がみえみえである。
「超越確実言明」がしっかりして、役を演じているのが、あの代議士たち。
ちゃうちゃう、絶対違います!と、天の声が聞こえてくるが!
最近は「超越確実言明」の出来てないのが、多くなっている。
元々いたが、目立たなかっただけか?
(。・ω・)ノ☆゚+.バイ!
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2005年10月19日(水)
1660, 「人生の実りの言葉」-1
読書日記
「中野孝次」著の「人生の実りの言葉」がよい。
その冒頭の「愛」についての言葉が胸に突き刺さる。
愛について、これだけ解りやすくストレートに語っている言葉も珍しい。
まずは、その一説を書いてみる。
ーーーー
1、愛について
わたしの誕生を司った天使が言った
喜びと笑みをもって形作られた小さな命よ
行きて愛せ、地上にいかなる者の助けがなくとも
ウィリアム・ブレイク (著者訳)
The Angel that presided o'er my birth
Said, "Little creature, formd of Joy&Mirth
"Go love without the help of any Thing on Earth"
わたしがこの詩句を知ったのは、ドイツの作家H・E・ノサックの小説
『盗まれたメロディー』を訳しているときだった。
小説の中ではこれは流行歌の歌詞としてさりげなく出されていたのだが、
わたしはただちにこの言葉の魅力にとらえられた。
こんなに直戟に愛というものの性質を示した言葉があるだろうか、とおもった。
この詩句の要である”Go Love”という二つの単語を一つにしたところに、
この詩のすごさがあるのである。
一方的な、自発的な、無限の無償の行為としての愛の性質が、
そのことによってくっきりと描き出された。
ノサックはこの詩句の背後にはこんな思いが潜んでいるのではないかとして、
『絶望のむこう側にだけ、ひょっとすると、他人を助ける可能性があるかもしれぬ。』
という章句を書いているが、たしかにそういう冷えきった荒涼たる背景の中から
このほとばしるような命令「行きて愛せ」が発せられたような気がする。
ブレイクは愛の詩人と言っていい。
ひとの悩みを見て
自分も悲しまずに おれようか?
ひとの嘆きを見ながら
いたわり 慰めずに すまされるか?
「ひとの悲しみを」寿岳文章訳
そういうブレイクの生涯の思いを圧縮した言葉が、ここに引用した
”Go Love”だとわたしはおもう。
こういう言葉は一度心につきささると忘れられないものになる。
そして折々に心のうちに浮かびあがって、われわれの人生をみちびく。
それが真なる言葉の力だ。
ーーーー
以上だが、
この「行きて愛せ」という言葉は実に力強い。
ひさびさに素晴らしい言葉に出会った。
いま一度復唱してみよう
わたしの誕生を司った天使がいった
喜びと笑みをもって形作られた小さな命よ
行きて愛せ、地上にいかなる者の助けがなくとも
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2004年10月19日(火)
1295, 地球交響曲 第四番 ー1
先日、BS/TVで、第四番を放映していた。
地球交響曲第一~第三番は、知人の紹介で(自主公演を)新潟、長岡などの
公共施設の会場で見ていた。
TVでの放映は殆どされてないようだ。
このシリーズで言わんとしていることを要約すると、
ー地球は、それ自体が大きな生命体であり、全ての生命、空気、水、土などが
有機的につながって生きている。
これをGAIAというが、そのテーマを背景に、この地球の素晴らしさ
を紹介していると同時に、環境破壊の実情を提示している。
第四番では、霊性について、以下の4人を通して、地球の賛歌を歌っている。
・ガイア理論の提唱者のジェームズ・ラブロック、
・沖縄の版画家の名嘉 睦稔
・タンザニアでチンパンジーの研究家の ジェーン・グドール
・そして、ハワイのさーふぁー ジェリー・ロペス
である。
第四番(いや、このシリーズで)の内容を要約すると、
ー21世紀は、人類にとって“霊性”(スピリチュアリティ)が求められる時代になる。
“霊性”を持たない人類の営みが、我々人類だけでなく、この地球の全生命の未来を
危うくしている。彼ら4人は、霊性に対して謙虚になるべきと説いている。
彼らの言う“霊性”とは、
「自分は、母なる星ー地球(ガイア)の大きな生命の一部分として、
今ここに生かされている」力のことである。
その内なる“霊性”に目覚めることによって、人は謙虚になり、
日々の出来事に対して、感謝の気持ちを持って対処できるようになる。
見えないものを見る力、聴こえない音を聴く力さえ甦ってくる。
霊性は、まず自分自身を幸せにするのだ。
内なる”霊性”に目覚めるのに、旧来の宗教が必要ではない。
「全ての人の中に“霊性”の芽が必ずある」という信念、
これこそ、“霊性”に目覚める無限の道が開けるのです。
それと、「この“霊性”の芽は、育まなければ開花しない」
“霊性”と“自我”は同じ力の裏と表です。
人間に与えられた最大の特性です。
放っておけば「自分さえ幸せであればよい」に向かいます。
だからこそ、“育む”ことが必要である。
ただ、その為に簡単なマニュアルはない。
なぜなら、“霊性”は究極的には、ひとりひとりが、自分自身の力で、
自分自身のやり方で開花させてゆくものだからです。
21世紀に生まれ育つ子どもたちのために、今の私たちに何ができるか。
「地球交響曲」という映画を通して、世界の何人かの人々の生き方、考え方を
提示し続けたい。
彼らの生き様が、子どもたちの“霊性”を育むのに役立つか否かはわかりません。
ただ、「子どもたちの中に必ず存在する、内なる”霊性”を激励する」という
強い想いを持って、この映画を作り続けている。
必ずしも、直接子どもたちに語りかける、という手法はとりません。
なぜなら、子どもたちの“霊性”を育むのは、映画そのものではなく、
子どもたちの日常に直接触れている大人たちの中の“霊性”であるからです。
このようなビジョンをもって、21世紀最初の「地球交響曲第4番」を
この4人を通して提案している。
ー以上が、龍村仁監督の主張である。
見ていて、ただただ感動の連続の内容であった。
彼らの生き様と言葉が鋭く心に突き刺さってくる。
地球という星に対する愛情、これは神への愛である。
次回は、
ガイア理論の提唱者のジェームズ・ラブロックについて書いてみる。
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2003年10月19日(日)
928, 介護関係の現状
介護関係の施設や法律を調べ始めて二ヶ月経つ。
一日一日が新鮮な情報が、どんどん入ってくる。
その情報の一つ一つがパズルゲームを解くようだ。
開発担当のSさんの母親が現在進行中の介護の状態である。
私も亡くなった母親が軽い老人性痴呆症になり、5年間半の介護経験を持って
いる。
この分野には事業チャンスがあるが、立ち上げに時間がかかる上に
法律関係が各省ごとに絡んでいて躊躇する。
ホテル業に重なるところが多いので、類推が可能なことが利点である。
箱物ー建物と設備とソフトが一体になっている。
そこを一つずつ解きほぐしていけば、意外と簡単なのだろう。
まだまだ全体把握に時間がかかる。
・老齢者専門のアパート・一DKマンション・マンション
・上記の一階に介護業者と食事サービス業者をテナントで入れるもの
・本格的に介護業者を建物の中心に入れて介護を重点にするもの
・3ヶ月までは臨時に介護をするーショートステーのサービスをするもの
・昼だけをみるーデーサービス
・重度の痴呆の老人を収容する特別老人ホーム
などなどである。
この二ヶ月間、そのタイプの殆どの施設を見てまわってみた。
難しく考えないで簡単に考えないと、頭が混乱してしまう。
ホテルの視点の切口で、参入できるかの見極めがポイントになる。
判断には最低半年から一年近くの情報収集が必要であろう。
一昨日、柏崎で「結婚式場業者がショートステーに事業転換をする」
という新聞記事を読んで、柏崎の知人の紹介で見てきた。
ブライダルの売り上げが数分の一に激減したため、転業せざるを得なかったようだ。
それでも、決断は素晴らしい。
社長が付きっ切りで説明してくれた。
本格的なもので3億の投資といっていた。
創業社長だから思い切った切り替えが出来たのだろう。
いろいろ勉強になった。
売り上げの激減に驚いてしまった。
当方の落ち込みなど可愛いものだ。
いま世の中は私の想像を超えた変化が起っていると、この二ヶ月でつくづく
思い知った。
景気の落ち込みと既成の事業の本格的崩壊だ。
捨て身で、狂ったようにリストラー事業構造の転換ーをしないと、
即死をしてしまう事態といってよい。
本気にならなくては生きていけない時代である。
「今更何をいっているのか!」という声が聞こえてきそうだが。
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554, 人生に目的はあるだろか?-2
- 2002年10月19日(土)
ある雑誌に、たまたま数日前に書いた[[人生の目的」について
書いてあった。まさに偶然の一致であった。
京セラの会長の稲盛和夫氏の[[何のために生きるか」
の一文である。
ーー人生の目的とは、心を高めることです。心を純化する。
心を浄化する。人間性を高める。人格を高める。
これが人生の目的です。
波乱万丈の現象に遭遇しながら、その現象に対処しながら、
自分の魂を磨いていくこと。それが人生の目的です。
これを具体的に言い換えると、世のため人のため尽くすことです。
世のため人のため尽くすことが人生の目的と考えてきたが、
心を高めることが、人生の目的であった。
そのために仏教の六波羅蜜の修行をしなくてはならない。
一生懸命に働くことが、利他の心を持つことが、
そのまま人生の目的になるーー
仏教的な人生の目的というところか。
果たしてそうだろうか?奇麗事でしか思えないが。
別に心など磨かなくても、知らずに磨かれているいるものだ。
心の純化などいうことは、汚れているから言いたくなるのではないか。
汚れのない若い乙女に人生の目的など必要ないことになる。
もっとも磨かなければ汚れた小母ちゃんになってしまうか。
今日死ぬ明日死ぬのギリギリの人がこれを読んだら、
そうだそうだといわない筈だ。
戦争で逃げ回っている人もそうだ。
「なにを甘ったるい事を言っていやがる」と思うであろう。
苦しい時に心の修行と思えるのは素晴らしいが。
けっして心の純化だけが目的でないはずだ。
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[191] 種銭
2001/10/19
事業を興そうとした時、まず問題になるのが事業資金である。
俗に言う種銭である!これが硬くないと芯にならない。
資金の芯が甘くなると、事業そのものが甘くなる。
二代目とか婿養子が事業で失敗するのが、それが解ってないケースが多い。
松下幸之助しても、中内功も出発点でそれなりに財産があった。
全くなかったのは私がしっている範囲では、山種証券を興した山崎種三と、
国際興業を興した小佐野賢治と、ニュー大谷の大谷某ぐらいだ。
そのくらい種銭をつくるのが大変で時間がかかる。
20歳の頃読んだ山崎種三の自伝がおもしろかった。
「米屋小僧をしていた時、鼠を捕まえて警察に持っていくと僅かな報奨金が
もらえた。米屋なのでいくらでも鼠がいる、毎日鼠とりで捕まえ警察に持って行った。
親方の許可を得て、その金でヒヨコを買った。落ちている米をヒヨコにやり育て、
鶏から卵をとって、それを金に変えこつこつ貯めた。それを元手で成長しそうな株を買った。
そうしてそれを拡大して株師になり株の取引会社までつくった」
それをよんだ時、ハッとした。
父親が恐らくその話を知っていたのではと思ったからだ。