つれづれに

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  今日のYoutube

 6年前の、同月同日の随想日記の内容。まだ生々しい環境下だ
 からこそ、こういう言葉と出会えたのである。書き残す秘儀である。
 
 <釈迦にさえ、非難するものがいた。そのものに、釈迦は「あなたが私に腐った
  ものを与えたとして、それを私が受け取らなかったら、それは誰のものになるか
 考えてみよ。それは、あなた自身のものだろう。それが、私の答えである」と
 言ったという。この言葉を知った時、何か内なる拘りの多くが消えた気がした。>
 



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3859, 釈迦でさえ非難される
2011年10月19日(水)
 釈迦にさえ、非難するものがいた。そのものに、釈迦は「あなたが私に腐った
ものを与えたとして、それを私が受け取らなかったら、それは誰のものになるか
考えてみよ。それは、あなた自身のものだろう。それが、私の答えである」と
言ったという。この言葉を知った時、何か内なる拘りの多くが消えた気がした。 
要は、自分の受けとめ方で、第三者の非難は、その人自身の問題を投影している
に過ぎない。それをマトモに受けとめるから、その辺の輩の言葉に傷を負って
しまう。要は、自分の信念となる「絶対言明」を確立してあれば、他人の傷口
から出てきた膿の言葉から、自分の傷口に毒が入ってこない。釈迦の言葉には
納得できるものが多い。この時節、釈迦の言葉は心に沁みる。
老年になると、無知は老害となる。
 ーーー
* 思いわずらうな。 なるようにしかならんから、今をせつに生きよ。
* 沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、少し語る者も
  非難される。 つまり、世に非難されない者はいない。
* もし、清らかな心で生きている人がいたとしたら、
  幸福はその人の後に、かならずついていく事でしょう。
* 思慮のある人は、奮い立ち、努めはげみ、自制・克己によって、
  激流も押し流す事が出来ない島を作りなさい。
* 善をなすのを急ぎなさい。善をなすのにのろのろしていたら、
  心は悪を楽しむようになります。
* 水が一滴ずつでも滴り落ちるならば、水瓶でも満たすことが出来る。
* 他人の過失を見る必要はありません。
* 他人のした事と、しなかった事を見るのではなく、自分がした事と
  しなかった事だけを見るようにしなさい。
* 自分で自分を、励ましてあげなさい。
* まず、自分を正しく整えてから他人に指摘しなさい。
  そして、他人に指摘したことは、自分も実行しなければなりません。
*「わたしは愚かである」と認められる者こそ、賢者である。 逆に
 「自分は賢者である」と思っている者こそ、愚者と呼ぶにふさわしい。
▼《 思いわずらうな、なるようにならんから、今をせつに生きよ 》 
 この言葉は、還暦を過ぎてからの生きる道しるべの言葉。
《「わたしは愚か」と認められる者こそ、賢者。逆に「自分は賢者である」と
思っている者こそ、愚者と呼ぶにふさわしい》は、上から目線で、教養の無さ
の目盛りになる。上記の一つずつが、日々の自分に対する戒めといっていよい。
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3494, 金が高騰
2010年10月19日(火)
 ここにきて金が高騰している。リーマンショック時には1トロオンイシス
900ドル代だった金価格が、先日1380ドルをつけた。何と二年で40%の
値上がり、年率で2割づつ上がっている。 国内価格は円高のため27%、
それでも値上り幅は大きい。ゴールドマン・サックスは一年後には1650ドル
まで値上がりを予測する。 二年後に3000ドルの予測もある。8年前に金の
上場投資信託ETF)が出来て、そこを通して機関投資家や個人の投資資金が
流入している。その残高も5年前の5・6倍に膨らんでいる。リーマンショック
による世界金融危機が一番の値上がり要素。各国は危機乗り切りのため通貨を
ばら撒いたため、投資家などに通貨不信がおきて金投資に向かっている。
「実はユダヤ資本が上げるだけ上げておいて、一挙に売りを浴びせられる」
という説は、先日ここで書いた。  (字数の関係でカット2011年10月19日)

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3119、久々のジョーク ー6
2009年10月19日(月)
  少女が女になるにはどれくらいかかる?
       ひとつき
 ~~
 長年牧場の仕事をしてきた親方が、弟子を連れてしば刈りに行った。
「親方。この木、じゃまだから切ってしまいましょう」
「待て!50年前、わしはこの木の下で、男として初めての体験をしたんじゃ。
 思い出の木じゃ。 残しておいてくれ」
「へえ。そうなんですか。親方も隅におけないなぁ。じゃあ、あっちの木を切りましょうか」
「待て!その初めての体験のとき、あっちの木の下で彼女の母親がじっと立っておった。
 やはり思い出の木じゃ。 残しておいてくれ」「親方……。もしかして初めての体験のとき、
 相手のお母さんにずっと見られてたんですか?」
「そうじゃ」「お母さん、黙ってなかったでしょう。何て言いました?」
      「モー」
 ~~
 とあるパーティの席でのこと。母親に連れてこられていた三歳の男の子トニーが、
 突然母親に向かって「おしっこしたい」と大声で叫んだ。息子の無作法に母親は思わず顔を
 赤らめ、彼にそっと言った。
「これからはおしっこをしたくなったら『歌を歌いたい』と言ってごらん。
           そうすれば私はお前がおしっこをしたいのだとすぐ分かるからね」
「『歌を歌いたい』だね?うん、わかった。これからはそう言うよ」
   そして、その日の夜――
 父親と母親の間に寝ていたトニーは、おしっこをしたくなって目を覚ました。
そこで父親を起こして「歌を歌いたい」と言った。 何も知らない父親はびっくりして言った。
「夜中は歌を歌う時間じゃないよ。明日まで我慢しなさい」
しかしおしっこが漏れそうなトニーは、どうしても今じゃないとだめと言う。そこで父親は
仕方なくこう言った。「じゃあ、布団の中でいいから、お父さんの耳元で静かに歌ってごらん」
 ~~
 友人に裏切られ、全財産を失い、荒れた暮らしで体を壊し、不治の病に冒され、ひとり寂しく
死の床についている男がいた。 突然、目の前に妖精が現れて言った。 「どんな願い事でも構い
ませんので、あなたがかなえたい事を3つ言ってください」 男は即答した。「友情と財産と
健康が欲しい!」そして、感激して男は続けた。「ありがとう!もう何と言ってよいのか..」
「いいえ、どういたしまして」妖精は答えて言った。「こちらこそ、アンケートに御協力
いただき、ありがとうございました」
 
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2754, 世間とは、一人ひとりの人間の繋がり
2008年10月19日(日)

「世間」については何度も「身近な数人の縛り付けられた小さな常識の網でしかないと!」と、
 否定的な意味で扱ってきた。それでは「世間」とはいったい何か?を、岸田国士が「恐怖なき
 生活について」で、次のように書いている。
【「社会」という概念とは一致しないが、その道徳と習慣と、特に群集心理によって支配される
 意志表示とを重くみた考え方で、それはまた、自己保存のほかなんらの理想をもたず、非情とも
 いうべき形式的な掟の上にたち、すぺての異分子的存在を排撃する本能のきわめて目立つ、
 地域的、時代的に限られた一社会を指すものと思われる。】と・・・、簡潔で分かりやすい。
 ≪世間=非自由≫と割り切って、沈み込まないように意識をしてきた。
 しかし、次の 佐野洋子の「私の猫たち許してほしい」の文章に出会い衝撃を受けた。
【 ある時、通りの下から二人の女の声が聞こえた。一人は相手をたしなめているようだった。
 もう一人はその人よりも若いらしく、とぎれがちにいいわけをしているようだった。
 ずいぶん長い間、ひそひそと立ち話をしているけれど、ことばは聞こえなかった。
 あるいは二十歳の私には、水商売の女の人たちの話に興味がなかったのかもしれない。
「あなたそんなことをしていると、世間が狭くなるよ」ということばだけがはっきり聞こえた。
 そしてあとは静かになってしまった。 私は、「世間が狭くなる」ということばを初めて聞いた。
「世間」ということばが、私の知っている「世間」ではない様子をして、ありありと私に見えてきた。
 私には、「世間」というものは、目に見えないものであった。漠然と私をとりまいているものであり、
 少し古めかしい、少し私を束縛するものであり、とりはらいたいものであった。その時はじめて、
 私は‘世間というものが、一人ひとりの生きている人間のつながりである’ということを理解した。】 
 が具体的で分かりやすい。 これからすると、世間を否定することは人間を否定することになる。
 もしかしたら、一番大事な要を間違えていたのでは?と、少し不安になってきた。 母が度々、
 気の短い私にを諌めて「自分からわざわざ世間を小さくするようなことをするな」と注意されていた。
 人の一生は、それほど多くの人と縁があるわけでない、せっかくの繋がりは大事にしなければ。
 もっと、世間(=つながり)を大事にすべきだった、ということだ!
 世間とは他人である。「他人」については哲学書を読み込んできたつもりだが、世間=つながり、
 という初歩的な意味すら理解してなかったとは、驚きである。 当たり前のことのはずだが!

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2007年10月19日(金)
2390, インターネット社会の凄み
                 オッ☆ o(≧▽≦)o ハァァァァァァ♪
連日のようにインターネットを介在したサイト犯罪が話題になっている。
自殺サイトの自殺依頼による殺人、見知らずの男がサイトを介在して集まっての殺人事件、円天と
いうネズミ講の応用の詐欺もサイトを巧妙に利用したものである。「フラッシュ・モブ」という
新しい現象も起きている。インターネットを通じて広く呼びかけられた群集が公共の場に終結し、
あらかじめ申し合わせた行動を取る即興の集会。狭義には、2003年5月にニューヨークで企画された
集会と、その後これを真似て世界各地で企画されるようになった一連の集会のことをいう。 
それに関して、産経新聞の記事の中に面白い内容があった。
  ーその概要とはー
  (字数の関係でカット2009年10月19日)
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2006年10月19日(木)
2025, 「私」のための現代思想  -13
                      オッ(*^○^*)ハ~
個体としての、物質としての「私」は、「存在を引き受ける者」によって《私》となり、最初の
「超越確実言明」を行うということです。簡単に言えばー「私}を認める者の存在ーを通して《私》になる。
その一番最初は、普通は母である。 初めの他者が母である。両親によってタップリ愛情を注がれた子は、
初めの出会いで、その存在基盤が強固になるのである。その基盤の上に「超越確実言明」が成立し、《私》は
強固になっていくのです。両親の愛、特に母親の愛は《私》の基盤を決定する。「ごうの虎」の年に生まれた
人は気が強い!という言葉を聞かされて育った女性が、それが「超越確実言明」になってしまえば、気が強く
なってしまうのも当然である。代々婿取の家系での長女で、A型で、ごうの虎年生まれで、男子高校を卒業で、
中途半端な短大卒で、両親にタップリ愛情を注がれて育った、ときた分には、亭主としてたまったものでない。
誰の話??何の話??強固の《私》の基盤の人の実例の話。
 ---
第五章 「私」が「生きる/死ぬ」ということの意味-?
  *「共振」のエネルギー -
私たちにとって<他者>とは、私たちが<出会い>を経験したすべての人たちです。私たちが出会い、
その存在を知りえた相手は、それがたとえ直接には顔を見たことのない人であっても、既に亡くなって
いる人であれ、「私」にとっての<他者>であり、この「私」の存在を引き受ける者となりえます。
出会いのあるところ、多かれ少なかれ、必ず共振が発生します。そして、それによって《私》にエネルギー
が与えられます。このエネルギーは、消費されない時は、「私」の内部に滞留し、消費された時には、
「外部への振動」となってあらわれます。人は、生きている限り、共振しつづける存在です。
 *「私」が《私》となる瞬間 -
初めて母親の声を聞いたとき、「私」が個体としてこの世界に生まれてきて初めて「私」=《私》は
「私は私が母の声を聞いたことを知っている」という「超越確実言明」を行います。
これは、言明の正しさの基礎となる「超越確実言明」のうちで最初に発生するのが、
「私が存在する」ではなく、「ある他者が存在する」であることを意味しています。
そしてこのとき同時に、《私》の存在の基盤が与えられます。それは、「私」が《私》になる瞬間です。
個体としての、物質としての「私」は、「存在を引き受ける者」です。
個体としての、物質としての「私」は、「存在を引き受ける者」によって《私》となり、最初の
「超越確実言明」を行うということです。「超越確実言明」の強度は、論理的な正しさによるものではなく、
「《私》の存在」の強度に支えられています。そして「《私》の存在」の強度は「<他者>による引き受け」に
よってその力を増していきます。頑健な「超越確実言明」の上には、堅牢な「論理」を構築することができます。
そのようなとき、その論理によって構築される<言葉><価値><物語><世界>は、頑強な「個別の正しさ」
を持つことになります。
 * 弱い「超越確実性言明」-
逆に、<他者>によって「厚く引き受けられない」とき、「《私》の存在」は強度を弱め、
「超越確実言明」も弱いものとなっていきます。そうすると「超越確実言明」を基盤として、
その上に<価値>や物語>をつくり上げることが難しくなってしまいます。
前に書いた、「仮面」を思い出してみてください。仮面と、その下の顔の関係です。
「仮面」が役割であり、「その下の顔」が「私は~である」という形式の「超越確実言明」です。
芝居を上手く演じるには、ある程度その「舞台」、つまりは<世界>に没入しないと上手くいきません。
「没入できる」ということは「戻ることができる」ということが前提です。それは、「私が~である」という
「超越確実言明」にしっかり支えられている状態であれば、役割から降りることもできるし、役割に没入
しても、「仮面の下の私」を無くしたりしません。            
 ーーー
仮面を見極め、仮面を演じる、これを趣味にするのも 面白いだろうが、傍から見れば下手な三文役者の姿
がみえみえである。「超越確実言明」がしっかりして、役を演じているのが、あの代議士たち。ちゃうちゃう、
絶対違います!と、天の声が聞こえてくるが!最近は「超越確実言明」の出来てないのが、多くなっている。
元々いたが、目立たなかっただけか?        
                      (。・ω・)ノ☆゚+.バイ!
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2005年10月19日(水)
1660, 「人生の実りの言葉」-1
               読書日記
中野孝次」著の「人生の実りの言葉」がよい。その冒頭の「愛」についての言葉が胸に突き刺さる。
愛について、これだけ解りやすくストレートに語っている言葉も珍しい。 
 ーまずは、その一説を書いてみる。
1、愛について
 わたしの誕生を司った天使が言った 喜びと笑みをもって形作られた小さな命よ
 行きて愛せ、地上にいかなる者の助けがなくとも ( ウィリアム・ブレイク )
わたしがこの詩句を知ったのは、ドイツの作家H・E・ノサックの小説『盗まれたメロディー』を訳して
いるときだった。小説の中ではこれは流行歌の歌詞としてさりげなく出されていたのだが、わたしはただちに
この言葉の魅力にとらえられた。こんなに直戟に愛というものの性質を示した言葉があるだろうか、とおもった。
この詩句の要である‘Go Love’という二つの単語を一つにしたところに、この詩のすごさがある。
一方的な、自発的な、無限の無償の行為としての愛の性質が、そのことによってくっきりと描き出された。
ノサックはこの詩句の背後にはこんな思いが潜んでいるのではないかとして、
『絶望のむこう側にだけ、ひょっとすると、他人を助ける可能性があるかもしれぬ。』
という章句を書いているが、たしかにそういう冷えきった荒涼たる背景の中から
このほとばしるような命令「行きて愛せ」が発せられたような気がする。ブレイクは愛の詩人と言っていい。
 ひとの悩みを見て  自分も悲しまずに おれようか?
 ひとの嘆きを見ながら いたわり 慰めずに すまされるか? 「ひとの悲しみを」寿岳文章
そういうブレイクの生涯の思いを圧縮した言葉が、ここに引用した”Go Love”だとわたしはおもう。
こういう言葉は一度心につきささると忘れられないものになる。
そして折々に心のうちに浮かびあがって、われわれの人生をみちびく。それが真なる言葉の力だ。
 ーーーー
以上だが、この「行きて愛せ」という言葉は実に力強い。
ひさびさに素晴らしい言葉に出会った。 いま一度復唱してみようわたしの誕生を司った天使がいった
喜びと笑みをもって形作られた小さな命よ行きて愛せ、地上にいかなる者の助けがなくとも

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2004年10月19日(火)
1295, 地球交響曲 第四番 ー1

先日、BS/TVで、第四番を放映していた。地球交響曲第一~第三番は、知人の紹介で(自主公演を)新潟、
長岡などの公共施設の会場で見ていた。TVでの放映は殆どされてないようだ。 このシリーズで言わん
としていることを要約すると、ー地球は、それ自体が大きな生命体であり、全ての生命、空気、水、土
などが有機的につながって生きている。これをGAIAというが、テーマを背景に、この地球の素晴らしさ
を紹介していると同時に、環境破壊の実情を提示している。
第四番では、霊性について、以下の4人を通して、地球の賛歌を歌っている。
・ガイア理論の提唱者のジェームズ・ラブロック、   ・沖縄の版画家の名嘉 睦稔
タンザニアチンパンジーの研究家の ジェーン・グドール
・そして、ハワイのさーふぁー ジェリー・ロペス である。
第四番(いや、このシリーズで)の内容を要約すると、
ー21世紀は、人類にとって“霊性”(スピリチュアリティ)が求められる時代になる。
霊性”を持たない人類の営みが、我々人類だけでなく、この地球の全生命の未来を危うくしている。
彼ら4人は、霊性に対して謙虚になるべきと説いている。彼らの言う“霊性”とは、「自分は、母なる
星ー地球(ガイア)の大きな生命の一部分として、今ここに生かされている」力のことである。
         (字数の関係でカット2008年10月19日)
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2003年10月19日(日)
 928, 介護関係の現状

 介護関係の施設や法律を調べ始めて二ヶ月経つ。一日一日が新鮮な情報が、どんどん入ってくる。
その情報の一つ一つがパズルゲームを解くようだ。開発担当のSさんの母親が現在進行中の介護の状態である。
私も亡くなった母親が軽い老人性痴呆症になり、5年間半の介護経験を持っている。
この分野には事業チャンスがあるが、立ち上げに時間がかかる上に法律関係が各省ごとに絡んでいて躊躇する。
ホテル業に重なるところが多いので、類推が可能なことが利点である。 箱物ー建物と設備とソフトが一体に
なっている。そこを一つずつ解きほぐしていけば、意外と簡単なのだろう。まだまだ全体把握に時間がかかる。
・老齢者専門のアパート・一DKマンション・マンション
・上記の一階に介護業者と食事サービス業者をテナントで入れるもの
・本格的に介護業者を建物の中心に入れて介護を重点にするもの
・3ヶ月までは臨時に介護をするーショートステーのサービスをするもの
・昼だけをみるーデーサービス
・重度の痴呆の老人を収容する特別老人ホームなどなどである。この二ヶ月間、そのタイプの殆どの施設を見て
まわってみた。難しく考えないで簡単に考えないと、頭が混乱してしまう。ホテルの視点の切口で、参入できる
かの見極めがポイントになる。判断には最低半年から一年近くの情報収集が必要であろう。一昨日、柏崎で
「結婚式場業者がショートステーに事業転換をする」という新聞記事を読んで、柏崎の知人の紹介で見てきた。
ブライダルの売り上げが数分の一に激減したため、転業せざるを得なかったようだ。それでも、決断は素晴らしい。 
社長が付きっ切りで説明してくれた。本格的なもので3億の投資といっていた。創業社長だから思い切った切り
替えが出来たのだろう。いろいろ勉強になった。売上げの激減に驚いてしまった。当方の落ち込みなど可愛いもの。
いま世の中は私の想像を超えた変化が起っていると、この二ヶ月でつくづく思い知った。景気の落ち込みと
既成の事業の本格的崩壊だ。 捨て身で、狂ったようにリストラー事業構造の転換ーをしないと、
即死をしてしまう事態といってよい。本気にならなくては生きていけない時代である。
「今更何をいっているのか!」という声が聞こえてきそうだが。

・・・・・・・
554, 人生に目的はあるだろか?-2
 - 2002年10月19日(土)
ある雑誌に、たまたま数日前に書いた「人生の目的」について書いてあった。
まさに偶然の一致であった。京セラの会長の稲盛和夫氏の[[何のために生きるか」の一文である。
ーー人生の目的とは、心を高めることです。心を純化する。 心を浄化する。人間性を高める。
人格を高める。これが人生の目的です。波乱万丈の現象に遭遇しながら、その現象に対処しながら、
自分の魂を磨いていくこと。それが人生の目的です。これを具体的に言い換えると、世のため人のため尽くす
ことです。世のため人のため尽くすことが人生の目的と考えてきたが、心を高めることが人生の目的であった。
そのために仏教の六波羅蜜の修行をしなくてはならない。 一生懸命に働くことが、利他の心を持つことが、
そのまま人生の目的になる。仏教的な人生の目的というところか。果たしてそうだろうか?奇麗事でしか
思えないが。別に心など磨かなくても、知らずに磨かれているいるものだ。心の純化などいうことは、汚れて
いるから言いたくなるのではないか。汚れのない若い乙女に人生の目的など必要ないことになる。もっとも
磨かなければ汚れた小母ちゃんになってしまうか。
今日死ぬ明日死ぬのギリギリの人がこれを読んだら、そうだそうだといわない筈だ。
戦争で逃げ回っている人もそうだ。「なにを甘ったるい事を言っていやがる」と思うであろう。
苦しい時に心の修行と思えるのは素晴らしいが。 けっして心の純化だけが目的でないはずだ。

・・・・・・・
 [191] 種銭   2001/10/19
事業を興そうとした時、まず問題になるのが事業資金である。俗に言う種銭である!これが硬くないと
芯にならない。資金の芯が甘くなると、事業そのものが甘くなる。二代目とか婿養子が事業で失敗するのが、
解ってないケースが多い。松下幸之助しても、中内功も出発点でそれなりに財産があった。
全くなかったのは私がしっている範囲では、山種証券を興した山崎種三と、国際興業を興した小佐野賢治と、
ニュー大谷の大谷某ぐらいだ。そのくらい種銭をつくるのが大変で時間がかかる。20歳の頃読んだ山崎種三
の自伝がおもしろかった。
「米屋小僧をしていた時、鼠を捕まえて警察に持っていくと僅かな報奨金がもらえた。米屋なのでいくらでも
鼠がいる、毎日鼠とりで捕まえ警察に持って行った。親方の許可を得て、その金でヒヨコを買った。
落ちている米をヒヨコにやり育て、鶏から卵をとって、それを金に変えこつこつ貯めた。それを元手で
成長しそうな株を買った。そうしてそれを拡大して株師になり株の取引会社までつくった」
それをよんだ時、ハッとした。父親が恐らくその話を知っていたのではと思ったからだ。