つれづれに

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今日のYoutube
http://www.youtube.com/watch?v=2_qm6aTUlYc
http://www.youtube.com/watch?v=4y-ZjPaZaVg

 今朝、重い雨雲の中で、途中までもとポタリングに出る。
信濃川まで行ったら、土砂降り。 何とか、大手通のアーケードまで
たどり着いた時、信号が赤。 強引に突破したのはよいが、
次の瞬間、横転。3メートル位、自転車ごと横すべり。
しこたま、両脚と右手を殴打。それでも打撲と擦り傷で済んだ。
 心臓は高なり、呼吸が数分乱れ、頭は真っ白。
頭は大丈夫だった。 その後、打った箇所の腫はなく、何とか午後、
スポーツセンターに行ってきた。自転車で、横転したのは子供の頃に
一度あったきり。 ロードバイクは、サドルが高く、車輪が細いので、
雨道に極端に弱いのを、初めて知った。 それで、そろりそろりと
帰ったが、更に二度も横転、何とか打撲は、なかった。
 もう一台のマウンテンバイクは、重心が低く、車輪の幅が広いので横転はしにくい。
いつか、やるだろうと思っていた、転倒、これほど激しくするとは! 
恐ろしい経験だった。 「いい歳をして・・」である。まだ、両足と左肩が痛む。
自業自得である。まだアーケド内の歩道でよかったが、
車道に車が絡んだら命ものである。

 昨日は、シネマの日。 TVで何度かみた『ATARU』の劇場版、やはり若者向け過ぎて、
物足りないとうところだが、まあ、時には、こういうのも良しとするか。 75点!
    http://www.ataru-eiga.com/index.html

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3112,返済猶予法案の成立から見えてくること! ー5
2009年10月12日(月)
 初めは、この返済猶予法案は難しいだろうとみていたマスコミなどの観測を尻目に、
あれよあれよのうちに成立しそうである。4~5年前とは180度違う様相になってきた。
アメリカの都合の良い基準に強制されて弱った会社を整理するのが金融庁の役割で、
徹底的に弱者切捨てを指導してきたのが、今度はこれである。
 去年の9・15から、日本では恐慌が静かに深く浸透している。これを前提に考えないと、
この法案がアッサリと成立する流れになったことが理解できない。 
だから、先々週の土曜日の亀井静香と、TV側の学者との認識の差になるのである。
輸出入ともマイナス40パーセント減は現在も続いているし、メーカーなどの現場は三分の一か、
良くて二分の一の稼動率は今も変わってない。政府が十数兆円の景気刺激をしても、現場サイドの声は
「何時まで続くか知れたもの。回復の兆しなど全くない」としか、聞こえてこない。
弁護士などから入ってくる話といえば、「来年の2~3月に、持ちこたえられない会社が一挙に崩壊する
可能性がある」である。 等々を考えると、これは亀井静香が強引に進めている法案というより、
「この対策をしないと、恐慌から大恐慌に移行する可能性がある」と捉えてよいのではないか。
また、これは地銀以下?の当面の救済にもつながる。それだけ日本経済は弱体化している。 特に地方は。
更に民主党が掲げて実行を始めるマニフェストで地方の公共事業のストップは、景気の落ち込みに拍車をかける。
自民、官僚、ゼネコンマフィアなどの構造汚職体質を破壊する反面、弾き出された失業者が増加する。
その直撃を受ける中小・零細企業に対しての受け皿の法案という面もある。
何度も書くが、2001年の9・11テロから右下がりになり、何とか輸出で持ちこたえていた日本経済も、
去年の9・15のリーマンショックで、大打撃。 何とか緊急の資本注入も、あと数ヶ月で力尽きようとしている。
それを今度は下から支えるのが、今度の法案である。 設備投資産業にとっては神風である。
当方は、それでも新潟駅前再開発があるので、法案が成立しなくとも何とか切り抜けられそうだが、
もし再開発が無かったら、この法案は神風になっていたはず。
最近のマスコミの論調も、この法案の慎重論が少なくなっている。 やっと、気がついたのか?

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2747, 仙台視察の二日間ツアー? に参加して
2008年10月12日(日)
 商店連合会の仙台市の商業事情の視察バスツアーに参加してきた。
これまで地元の名士様と群れるのをタブーにしてきたが、全て無料と、仙台が一極化で顧客を集めているのを
ニュースで見ていたこともあり、有難い誘いと参加してきた。 時系列に日程と概要を書いてみると・・・
 28人乗りの中型観光バスで、総員17名で、まずは牛タンの専門店で昼飯を食べ、仙台の商工会議所に訪問。
仙台の実情を聞いた後に、駅周辺の繁華街を見て周り、一度ホテルに戻って、18時から宴会。
2時間飲んだあとは、30分ほど飲食ビル街を散策後、国分町のトアル店に入る。少し高級そうで
6千円位の店と思ったが、「うちは飲み放題で4500円よ!」と言われ安心して、ダブルの氷割りを5~6杯を飲む。
客種は背広族のエライさんみたいな人たちばかり、二時間ほどいたが、一ゲンの客二人に最後までママが相手をしてくれた。
仙台の夜の雰囲気を味わってホテルに戻り、ベッドで熟睡。 翌日は一次会・二次会と飲んだ割りに二日酔いはない。
バスは運動量が多いからアルコールを吸収・消化しているのだろう。
 翌朝は仙台駅から飛行場への直通アクセスの電車に乗る。20分あまりで便利でよい。
その後、一月前に出来たばかりのアウトレットの専門店が120軒集まっているSCへ行く。
あか抜けをしたセンスのよいSCである。 何気なくみている内に、ビジネス鞄と柄物のシャツを衝動買い。
鞄は6万円の半額だが、一目みて気に入って購入。 少し高そうなジャケットも買いそうになったが、止めた。
昼飯は昼飯代と貰った1000円で、マグロ丼を食べたが、丼の中身の半分がマグロの刺身でビックリ、中トロが多くて大満足。 
帰りのバスでは、一番前の座席に座って缶ビールを三本飲んでしまった。 新潟に泊まろうと思ったが、
缶ビールのお陰で?里心がつき、真っ直ぐ帰る。 これが、今回のアラスジ。
 土産など買ったことがないが、今回は、仙台の『萩の月』を買って帰る。
 仙台は東北6県の首都化のため、土地が大きく値上がりしていることは聞いていたが、駅近くの商店街も、
周辺からの顧客で賑わっていた。 仙台の町内会の連合会の会長の鼻息に、なるほどと感心した。
しかし、バブルの反動と、いずこも同じ郊外の大型SCの影響は、いずくも同じである。
町内会の会合や、連合の寄り合いには参加したことがないので、旦那様的な雰囲気の中で、ただただ大人しく?していた。 
一言一言が、私の常識からかけ離れた言葉の中、40年前の世界にタイムスリップした感覚。
それはそれで立派と感心してしまった。今回、iPhoneを持っていって、株の暴落をリアルタイムで知ることが出来、
ベンリなものだと再認識した。それより、頭は世界恐慌になるかどうかの瀬戸際、視察より、そのニュースが
気になった二日間であった。

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2007年10月12日(金)
2383, 私の嫌いな10の人びと -2
                 中島 義道 (著)       ー読書日記
まずは、この本をダイジェスト的に書いてある最終章をコピーしてみる。
「世間の感受性に漠然と合わせて、無批判的に従っている人が嫌いで、自分の固有の特性に基づいて
考え抜き鍛え抜いているかが決め手」というが、哲学者じゃあるまいし、殆どの人間は目の前、生きることに精一杯のはず。
この哲学者にかかったら、世の中の大部分の人は嫌われる対象になる。しかし、その辺の「世間人」を見ると、そうだそうだ!
と肯いてしまう。自分の弱さをしりつくしている我が身は、大多数の中で自分だけは違う!
と心の奥で呟いているだけでしかない。 好き嫌いはその人の固有の問題だから気にすることはない。
ーー
私は本書では、むしろ大部分の現代日本人が好きな人、そういう人のみを「嫌い」のターゲットにしたのです。
それは、さしあたり物事をよく感じない人、よく考えない人と言うことができましょう。
「よく」とは自分固有の感受性をもって、自分固有の思考で、という意味であり、ですから世間の感受性に漠然と合わせている、
世間の考え方に無批判的に従っているような人は嫌いだということ。すぐさま反論が出そうですので、さらに説明しますと、
・感受性において、思考において怠惰であって、勤勉でない人、
・「そんなこと考えたこともない」とか「そういう感じ方もあるんですねえ」と言って平然としている人、
・他人の感受性を漠然と自分と同じようなものと決め込んで、それに何の疑いももっていない人、
・他人が何を望んでいるか正確に見きわめずに「こうだ」と思い込んでしまう人です。そのさい、その人の喋る言葉が鍵となる。
・定型的な言葉を使って何の疑問も感じない人。
・自分の信念を正確に表現する労力を払わない人。
・周囲から発せられるその時々のサインを尊重せず、自分の殻(安全地帯)の中に小さく閉じこもってしまう入。
( 字数の関係上、カットします-2008年10月12日)
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2006年10月12日(木)
2018、「私」のための現代思想  -10
                           
「『孤独』とともに『自由』が発生する」の極みは一人旅であろう。
そういえば自由は孤独の極みにあった。過去を振り返ってみて、孤独の極みのときに一人旅に出ていた。
そして結婚と同時に自由は狭まり、孤独(感)も激減した。互いに首輪をつけて紐を握られ、握ってしまったからだ。
「自由になりたい」というが、自由ほど厳しいものはない。自由にはまず「個の確立」が要求されるからだ。
 <他者>了解不可能性というが、これは同時に<自己>了解不可能性になる。
 「誰も自分を理解してくれない」と、悩んでいるとしたら、それは悩んでいること自体が、無知からきている。
  もし誰かに「理解してもらっている」と思ったら、一時的な妄想を抱いているだけのこと。
 いい歳をした男どもが、群れているのをみると気の毒になる。程度と比較の問題で、誰もが群れなければ生きてはいけない
 ことも事実・・  それも人生だが!孤独の人ほど、それが人間の自然の姿である。孤独とは、他者と一線を画すこと、
「自らの分」を他者と画すことである。 和して同ぜずの精神である。 和して同じたとき自由が狭まる。
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第四章 「私」にとって「他者」とは何か-?
     ー孤独と自由ー
「存在する」が「存在者」という「かたち」をとることによって、何が発生するか、レヴィナスは「孤独」が発生すると言います。
「私」は<他者>の「声」の存在を通して「境界」の存在を察知するのみです。 その境界の中で芯としての《私》に気づきます。
自分の外部が存在し、そこに<他者>が存在するのですが、それは<他者の了解不可能性」のよって推測されているに過ぎない。 
このとき《私》は、入り口も窓も無い「閉ざされた部屋」の中にいることを知ります。 これがレヴィナスのいう「孤独」です。
その部屋の中で、《私》はいろいろな概念をつくります。 なに不自由なく暮らすことができます。
しかし、親も子供も、友人も恋人も、そこに「存在しているように」見えるのですが、それは単なる「映像」でしかありません。
彼らは全て<他者>であり、それは恐らく壁の向こうに側にあるだろうとしか思えません。
境界が発生することによって、「孤独」とともに「自由」が発生します。「存在する」ということを「液体である」
という状態にたとえるなら、そこには「自由」は存在しません。なぜなら、それは「全にして一」の存在であり、
動きは取れない状態。どのような場合に「自由」が存在するのでしょうか。それは境界によって他と仕切られた状態になった時です。
それは「孤独」の別名でもあります。その時《私》は居場所を決めることができるのです。つまり、自由とは「個別である」
を前提としているということです。このイメージは、「存在」という海の中で、結晶化した「存在者」が、
孤独に浮かんでいるというようなものです。
境界を「外側から」規定するのが<他者>であり、「内側から」規定するのが「超越確実言明」ということになる。
この境界の範囲が「自我の範囲」であり、それを内側から支える行動(言語行為)によって維持されています。
ー《私》による「境界」の維持ー
 境界は《私》によって維持される必要があります。《私》は「正しい居場所」を求めてこの世界を移動しますが、
 そのとき境界は、積極的に守られる必要があるということです。
 それを達成するのが、ウィゲンシュタインの「超越確実性言明」です。
 境界を「外側から」規定するのが<他者>であり、「内側から」規定するのが「超越確実性言明」になります。
ー<他者>了解不可能性ー
( 字数の関係上、カットします-2009年10月12日)