つれづれに

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今日のYoutube
http://www.youtube.com/watch?v=RB63_Tc28Uk

 大晦日になった。注文してあるイタ飯屋の御節を取りに行って、
今夜は家内と二人の年越しになる。 紅白は、この10年以上、見たこともない。
そういえば、来年の手帳を買ってない。、これから蔦屋にいくか~
 今年は無事平安の日々が続いた。これで充分である。あと半月で68歳。
あと一年で、古希になる。齢い70 古来希なりである。
長く生きてきた!という感がしてきた。これから10年の動乱が大変な反面、
面白そうだが・・・ 

 
 

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1368, 今年を振り返るー総括
2004年12月31日(金)

毎年、同じような言葉で始る。
「今年も、あと一日になった」である。
それが誰もが抱く感慨だろう。
地球が怒っているのではないかと思われるほど、次々と災害に襲われた。
その幾つかを記録として書いてみる。

・インド洋で、とてつもない大きな地震がおこった。
震度はM9で、阪神大震災の1400倍のエネルギーというから想像を超えている。
地球を津波の余波が三回したという。
被害は10ヶ国をこえて、現在のところ10万人というが、
まだまだ増えるだろう。

TVで多くの映像が流れているが、見ていても恐ろしい。
何人かを飲み込んで流されている映像もあった。

明治29年の明治三陸地震の2万2千人の被害を軽く超える惨事で、
20世紀来、エネルギーとしては4番目の大きさという。
やっと、中越地震の余震が収まりかけてきたと思っていたら、
この大震災である。

台風は例年の3倍もあり、やっと落ち着いた時に、中越地震
そして、このスマトラ地震である。
全くどうなっているのだろう。

・暗い話だけでは片手落ちになるので、明るい話は
オリンピックで日本が久しぶりに多くのメダルをとったことである。
強いところに、集中的に強化をしたのが功を奏したという。

・地方の景気も相変わらず、良くはない。
特に新潟県はその中でも一番悪いところである。
これに台風による水害と、この中越地震である。
復興景気といっても土木が少し良い位で全体的には決して良くはない。
日本全体から見ると、明るい兆しが見えてきた。
その要因として、政府の力、外部要因、内部要因からみると、
外部要因は、中国向けを中心とした輸出の伸長である。
内部要因は、液晶・プラズマの薄型TVやDVD、
そしてデジタルカメラに象徴されるデジタル家電のブーム。
中国とデジタルの頭文字の「CD景気」は、この1、2年で反転する
ようなことはないだろう。
しかし中国景気は、日本の地方に直接・間接の大きな影響を与えている。

・この十年間2~3回は海外旅行をしていたが、今年は一回であった。
年末にと思っていたが、この中越地震である。
これがなければインドネシアか、タイと考えていたので、助かったのかも。

プロ野球問題、西武鉄道の問題、ダイエーの解体の決定、など
多くの問題が噴出した年でもあった。
情報化・グローバル化による時代の変化が、ますます激しさを増して
時代を変えた年といってよい。

・身近の人で亡くなったのは、取引先の朝日広告の五十嵐恭一さんである。
会社の事務所に一番多く訪ねてきた人である。
年に数回は、個人的に飲みにいっていた。
多くの取引先をまわっているので、景気とか時流の情報に敏感であった。
親戚では、亡くなった人はいなかった。
伯父叔母も、あと数人になったこともあるが。

・仕事の方も、相変わらず下方圧力は大きいが、今年の10月の後半で
底うちをしたようだ。
と同時に中越地震の復興関係の宿泊のためミニ・バブルになり、
予算を何とか達成可能になった。

今年はやはり何といっても
中越地震が一番の出来事であった。
忘れられない年になった。

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2003年12月31日(水)
1001, 今年の総括

今年も大晦日になってしまった。
恒例の今年の総括をしてみよう。
 
ー個人的の問題では
・今年の身近な物故者は
 高校の同級生の‘スーパーツチダ'の社長をしていた土田恒夫君が亡くなった。
 一番死にそうでない男であったからショックであった。
 親戚では母方の従姉の連れが亡くなった。
・海外には二回行った。
 この数年三回であったので、少し物足りなさが残った。 
 アラスカとアイスランドである。
 これで41回である。
 当面の目標の50回にはまだだが。
 60歳までに、というのは無理になった。
 大不況の中、今年は特に行くのを躊躇をしたが、後になれば何と
いうことはない。
 行けない状況に行くからこそ価値があるのだが?
・国内では、京都に一泊のバスツアーと鎌倉に行く。
産能大で「一時間講義」をする。
 いい思い出になった。
・ 新潟の引越しを考えるが、決断が出来ない。
ウオーキングは一日平均1万4千歩を確保した。
 数年前より1万5千歩より1千歩減らしている。 
・新しい習慣として「ありがとう」を1千回平均言うことが加わった。

ー会社は
・去年11月に始まった売り上げの落ち込みが進む。
 今までは他山の石だったが。世間並みになったとはいっていられない。
・来年の事業構造の転換に向けて、支配人と副支配人をホテルの
 ラインから外して本部付け(新規プロジェクト開発部)にする。
 久々に仕事に本気になる。新規事業の準備が進む。

ー国際社会では、
イラク戦争があった。
 その後テロが進む。またフセインが捕まる。
・またSARDが流行、世界がパニック状態になる。

ー国内では
・景気がますます悪化、特に地方経済は救いがたい状況になってきた。
 りそな銀行足利銀行が国家管理になる。
衆議院選挙で二大政党化が顕著になった。
 それぞれが選挙公約をするマニフェストという言葉が流行する。
 自民党は仮面を変えてしぶとく残った。
 
 来年は、会社も国も待ったなしのリストラの年になる。
 
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 2002年12月31日(火)
 627,パタゴニア旅行記ー9

ー絵を描く人ー

今回の旅行で素晴らしい絵を描く女性がいた。
見るところプロ並みの絵を描いていた。
画家の安野光雅に小学校の絵の担任でもたれたと嬉しそうに言っていた。
いつも面白い話をしてくれて、「先生お話!」皆が囃したてていたとか。
今から考えると情緒教育をしていたのではないかと言っていた。

何十種類のクレヨンを持ってきて30~40分位で仕上げてしまう。
見ていても気持ちが良いぐらい綺麗に仕上がっていく。
あの位巧く書ければ本人も気持ちが良いだろう。

主人の方はカメラマニアでお互い自分の世界に没頭しているのが
バランスが取れていて良い。
ある意味で理想的な夫婦の形に見えた。

絵を描くということは対象に対し観察眼が鋭くなるし脳に残る。
私も60歳になったら、クレヨン画の勉強をしようかと考えてしまった。
旅行では一人はデッサンをする人がいるが、この位本格的の人は珍しい。
個展を開いたり、自宅のリビングに額に入れて折々楽しんでいるとか。

ところで話は変わるが、ご主人に写真の撮り方を学んだ。
・対象をしっかり見定めて
・両脇をしめて
・片目でファインダーを片目はその外をみて
・足を少し開いて
・撮る瞬間は息を止めること
・時に木や花を通して風景を入れる
・外国の場合意識してその土地に住んでいる人をいれる

等々であった。
雲一つでもその地域しか見れない色や形がある。
夕景の太陽の色とそれに映える雲もそうだ。
同じ景色でも経験を積んだカメラマンの目は鋭い。
私などいつもマニアの後について回っている。
旅行は日常から離れる事ができ、色いろな知識と経験を積める!  

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2001年12月31日(月)
286、良質の人材とは-

「ビージョナル・カンパニー」という本を知人に紹介され、
その後その人と酒を飲んだ。ある目的のために人材を集めるのでなく、
まずよい人材を集め、それから何をやるか決める、という逆の見方である。
考えてみればその方が正論である。

ある人材が何人か出会い、さて何をやるかを考えそれをやり遂げていく。
その上で明確な目標をきめていく方が筋が通っている。

酒を飲みながら、それではよい人材とはどういう才能をいうのだろうか?
という話の内容になった。酔っ払いが話しているのだから、
いい加減の内容であったが、それでも結構真実をついていた。

「自分で問題を見つけ、それを解決する手順を考え、
着実に実行やり遂げる能力である。」それがその時の結論であった。

そう考えると、私も悪い人材ではないと少し安心した。
そういう目で周辺を見渡すと、なるほどと思う。両親、兄、姉、義兄も元上司、
友人を見渡せた。大学時代のあの男、高校のあの男、なるほどと思った。

その視点で見たとき、よい人材といえる人はごく僅かである。
その点で誰もが安心してよいのではないか。

その時、その知人が言うに、「ビジョンとは、夜旅をしている人が星を目安にして、
自分の位置を確認する。その人の一つの星がビジョンでないか。
それを時々確認しながら一山二山乗り越えていくことではないか」
なるほどといやに合点した。

日本的に言えば「志を持つ」ということか。
来年は自分の若いときの志はなんであったかを、早々考え直してみよう。

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 ある時間の断片
12月31日  1968年

あと10分で1968年も終わる。
学生時代最後の年になる。
今年を振り返ると、色いろなことがあった。
・三月下旬から2週間、石川君と一緒に、卒論の「流通革命」を書くために
大阪の船場のメリヤス問屋に住み込みで流通の現状を見てきた。
生々しい旧来の世界と、そこに蠢く人間がいた。
・帰って直後に、欧州旅行の川崎と深井と松村と九州旅行に出かける。
先ずは川崎の家に行って一泊をする。ところが川崎は事故がおきる予感が
すると言って、急に旅行から降りた。三人で今度は名古屋の酒向の家に行く。
家に泊めてもらって、その夜は高級中華料理店で最高級のご馳走だ。
こんな美味しい中華料理は初めてであった。それから九州に行く。
九州の鹿児島で聖心女子大のグループと落ち合う。
1泊2日の薩摩の彼女等との旅行は一生忘れられないだろう。
・そして4月に父に「もしアメリカに行きたかったら、全ての費用を
出してやるから留学をしてこい」と急に言われた。その気になったが、
英会話に通うこと2ヶ月で、急ごしらえの留学は無理と断念をした。
そこでの自己葛藤があった。
・またその時期に、石川に勧められて「武沢ゼミ」に入った。
これは私にとって前の年の欧州旅行とともに大きな出来事であった。
・そして急遽ジャスコオカダヤと長崎屋を受験。
両社とも合格する。ジャスコオカダヤに決める。
・夏休みは、卒論のための本を十数冊買い込み読む。
9月に二週間、10月に一週間、新潟県の六日町の禅寺の「雲洞庵」
で、集中するために籠る。
・11・12月は、かなり頭を使いすぎたため不安定な時期になる。
去年に続き今年は、これからの人生での土台になる事があった。

ーそう書いているうちに、あと三十秒で今年も終わろうとしている。
・・・
ここより今年である。
1969年になった、学生から社会人の年になるのだ。
今度は自分独りの力で生きていかなくてはならないのだ。
頼れるのは自分だけである。
人生は三つの戦いがある。
自分、他人、そして自然との戦いだ。
先ずは自分に打ち勝たなくてはなるまい。
信念としての決意は「自分に打ち勝つこと」だ。