つれづれに

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Youtube
http://www.youtube.com/watch?v=P-OghZ-fLZs

 今朝、今年初めての早朝のミニサイクリング。
 少し曇っていて降りそうだったが、とにもかくも信濃川近く
 まで行くことにした。土手は、雪は無くなっていた。
  例年より半月は早い。


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2005年03月18日(金)
1445, 小学校中退、大学卒業

ある雑誌の中に花柳幻舟の文章が載っていた。
「家元制度に疑問を感じて傷害事件などを何回かおこした問題の多い舞踏家」
という印象がある。が、そのテーマが面白そうなので読んでみた。
その特異の生立ちと、その世界に引き込まれていった。
その文章の一部を抜粋する。
ー1994年、父は逝ってしまった。
旅芸人として私とともに闘い、極貧の中を生き抜いてきた私の同期であり、
芸の師父は、私を残して、あっさり逝ってしまった。
父が私を残して逝ってしまったあと、私の周りの人たちは、まるで櫛の歯が抜けるように、一人、
また二人と去っていく。私のどん底の精神状態を百も承知でのトンズラには、私は激怒した。
ガソリンを一杯にしたポリタンクを持ち、深夜の道をたった独り、
それらの人の家の前に立ったこともある。・・・・・・
父の死によって、大海の中で羅針盤を失い、自死を本気で考えた。しかし、なぜ今死ぬのか、
自死の理由を自分の中で検証し、悲壮感や絶望感を、主観的でなく、客観的に、
確たる自死の理由をつかみ、父の元に元気に行きたかった。
大きな模造紙を買ってきて、自死の理由を思うまま書いてみた。
父を失った喪失感、裏切られた絶望感、あれこれ考えていくうちに、
劣等感、疎外感という文字が表れた。私自身思ってもみなかったことだ。
幼いころ、旅回りの先々で学校に行ってもろくろく勉強をしていないため、テストに
遭遇しても全く理解できず0点。旅役者ということも重なって、疎外され、虐めにあう。
それが「トラウマ」であることがハッキリした。
この「傷」と向き合って、この傷を癒して、元気になって父の元に行こうと
私は決心し、小学校中退でも入れる「放送大学」に入学をした。
入学したといっても、並大抵のことでなかった。
教室から逃げ出したり、深夜飛び起きて、おお泣きしたり、
まさに心の「傷」の後遺症が噴出して、心のバランスを保つのに必死であった。
大學の勉強に少し自信がもてるようになってきたころ、
負けん気の強い私は、どうせやるならと、司法試験にチャレンジするため、
法曹界へ90㌫の人を送り出しているという有名専門校に入った。

                        つづく 
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2004年03月18日(木)
1079, 晴れ間の出来事 ーつれづれなるままに
車に乗っていて、信号待ちをしていると、家の軒先のガレージで犬が自分の毛布を
引っ張っていた。日陰から陽があたっている場所に移動していたのだ。
犬のその微笑ましい姿に笑ってしまった。
以前、犬に手を上げて挨拶をしたら、何と手(足)を上げて挨拶をかえしてきた。
私は犬が大好きなのだが家内が大嫌いで、家で飼うことが出来ないのが残念だ。
十姉妹と一緒に入れていたインコを、違うカゴに移したら、インコが焦って
入り口を其処にあった小さな棒でこじ開けようとしたこともあった。
動物を見ていると時々信じられない行為をすることがある。
先日、久々の日曜日の晴れ間に土手を歩いた。この時期、居残り鴨(残り鴨)が、アチコチに
5~6羽づつ群れをなしていた。彼等は人家近くは逆に安全であることを知っているのだ。
この時期の散歩は冬を越えた何ともいえない春の芽ばいがよい。
近くの河の桜の花の芽がチラホラ目だってきた。ニュースで、福岡のソメイ桜が
咲き始めたといっていた。東京の桜も今週中にも開花するとか。
給料前の開花は、花見の客目当ての業者には大きなマイナスという。そういえば去年、
京都に深夜バスで見にいってきた。盛りを過ぎていたが、それでも良かった。

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2003年03月18日(火) 713,
「メシのタネはどこに行った」        ー読書日記
 邱 永漢 著の「メシのタネはどこに行った」が面白い。現在の日本の現状を
わかりやすく書いてある。東南アジアや中国にその工業生産地の地位を奪われ、
まさに地方は空洞化で劣化の道を歩んでいる。首都圏が世界に向けての工業地帯ー
企画と高品質化を提供する発信基地となり、地方からシフトの変更をしている。
 地方の時代といわれたが、一瞬で終わってしまい、いまや寒風が吹き荒れている。
もう二度と春は来ないであろう。次ぎの日本鉱脈を探っているが、海外に資本と
ノウハウをもっていくしかない。「国がどうなるかと考える前に、
自分が如何したらよいか考えるべきだ」と日本人一人一人につきつけられている。
みんなで大損をして再出発の時である。
フローが細ってしまえば、ストックは減るのは当たり前のことである。
 ー以下はあるホームページの要約のコピーである。
以下の要約を何回か読めば大筋がわかる。
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「メシのタネはどこに行った」邱永漢
1.工業的豊作貧乏のトップ・バッター日本
 日本の富の大半は工業生産によってもたらされたものであり、工業生産が付加価値を
生み出す限り、日本経済は安泰だったし、サラリーが貰えなくなる心配はなかった。
それどころかサラリーは年々上がり続け、円高のせいもあるが、遂にアメリカを追い越して、
世界のトップに立ってしまった。それでも世界中にマーケットがあり、
メイド・イン・ジャパンを売り込める余地が残っている間はまだよかった。
ところが全く予期していなかったことが起こった。輸出で財を築いた日本だが、
輸出で稼いだお金で日本国中が資産インフレになると、一大消費ブームが巻き起こったのも
束の間、国内消費が壁にぶつかってしまったのである。
1989年の株高を頂点として日本の株価も地価も反落に転じたが、それがきっかけになって、
日本が不況に陥ったわけではない。実は工業化社会に転じてからの日本が欠乏と不足を充たして
ほぼ飽和点に達し、豊作貧乏に見舞われるようになったことが日本に大きな変化をもたらしたのである。
日本の景気を左右するのは実は国内の消費動向であって、輸出の好調、不調ではないのである。
消費の減退は日本経済に重くのしかかっており、お金の流れそのものを変えてしまったのである。
実はそうした認識を私自身もつい最近までは持っていなかっ た。
これはひょっとすると60年に1度あるかないかの大恐慌かもしれないと考え直すようになった。
今の日本で起こってい ることは世界で類例のないことであり、日本がトップ・バッターとして
世界ではじめての経験をしているということにほかならない。では世界に先んじて日本が
おかれている社会条件は何かというと、いち早く工業化に成功して、世界のトップを行く工業先進国に
なったということである。その成功によって世界中で最も稼ぎの多い富裕国になったわけである。
工業化によってつくり出された過剰生産は人間自身がストップをかけない限り、
ライバルが敗退して姿を消すまで続く。従って一時的な勝者はあっても、永遠の勝者はなく、
息の長い殺し合いが繰り返されることになる。
ダイエーやマイカルやそごうの業績不振を見れば、過剰生産のもたらすデフレが企業を
どういう形で痛めつけるか、いやでもわかってしまう。欠乏と不足の時代は終わってしまった。
これから工業化による豊作貧乏の時代が始まろうとしている。

2. 日本の大企業がメーカーでなくなる日
物の不足した時代と物のありあまる時代を昨日の続きの今日と考えてはいけない。
供給が完全に需要をオーバーし、物が売れないことが目立つようになると、値段を下げるか、生産を
コントロールするか、二つに一つもしくは、同時に二つとも手を打つか、以外に方法がなくなってしまった。
戦後の日本が豊かになったのは工業生産に従事することによって付加価値を生み、富を創造する
ことができたからだが、同じことをやっているうちに付加価値を生まなくなってしまったら、
鉱石の出なくなった鉱山、湯の出なくなった温泉になってしまったようなものだ。今回必要とされている
コスト・ダウンは既に省エネと省力の限界をきわめたあとに更に要求されているものである。
従って、生産工場をもっとコストの安い外国に移動するか、現地の生産工場に生産を委託して、
それを自分たちのルートにのせて売るか、二つに一つの選択枝しか残っていないところまで
一挙に追い込まれてしまったのである。

3.職人日本を襲う戦後最大の危機
日本人はものづくりには熱が入るが、財産を運用してふやすということについて全くと言って
いいほど無関心だった。それに比べると、中国人は物づくりより金づくりに熱心だから、自分で
物をつくるよりも、右のものを左に動かすことによってその差額を稼ぐことに力を入れてきた。
日本に比べて工業化が遅れを取ったのは、むしろこうしたお金優先の思想がブレーキになっていると
言ってよいだろう。先ず中国人にとって工業化は金儲けための手段だから、効率が高くてあまり
時間がかからない方法を選ぶ。そのために資本や技術も外国に頼ることをためらったりしない。
世界中の資本と技術がますます中国に集中すると見て間違いないだろう。
また、技術やノウハウを外国に頼りすぎるので、少なくとも近未来では、独自のブランドを
つくりあげることは難しく、極端に言えば、諸外国の委託工場に徹することになる。
日本人の場合は、現地の生産に資本と技術を投じるのだから、そこからの利益が日本企業の
収入になるし、また国際間の格差を利用した流通過程からあがる収入も日本企業の収入になる。
労賃として支払われる分と税金分が現地に落ちるだけで、成熟した日本の取分は資本と経営が
もたらした分に集約されることになる。
日本人はグローバル化の中で自分たちの生産者としての役割をはっきり見定める必要がある。
日本のメーカーは今後も世界的規模で生産を展開して行くのか、
それともユニクロのように計画とデザインは日本でやって加工は現地企業に任せるべきなのか、
二者択一を迫られるところまで来てしまったのである。
足元の明るいうちに流通分野だけ残して生産過程から退去する道を選ぶべきだろう。

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2002年03月18日
旅行中につき書き込みなし
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<おわらい>
『それどころ じゃない !』
 ある男、友人のお見舞いに行きました。「どうじゃな。具合は」「う・・。ぐ・・」
あちこちチューブでつながれた友人は、しゃべることもできません。
「かわいそうじゃのう。息子さんに何か伝えたいことがあったら、
この紙に書いてくれ。わし、ちゃんと持って行くぞ」「ぐぅっ!!!」「どうした!どうした!」
その友人急いで走り書きしたかと思うと、急にぐったりし、帰らぬ人となってしまいました。
お通夜の日、その息子に会いました。「あんたに伝言はないかっちゅうて聞いたら、
死ぬ1分前にこれを残した。よっぽどあんたに伝えたかったらしい」
「え・・。これが僕への伝言ですか」「たのむからチュウブを踏みつけた足どけてくれ!」