つれづれに

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 今日のYoutube
http://www.youtube.com/watch?v=gc9jFmkjizQ&feature=related

 今日は母の15回忌になる。 ということは1996年の9月24日に亡くなったということ。
当時は、バブル崩壊から一時期持ち直しつつあった。しかし橋本元首相が、金融引き締めで
何もかも壊してしまった。 そして、2001年の9・11、2008年の9・15の歴史的イベントが起きて、
世界恐慌の初期段階に入りつつある。 あと10年は続くだろう。 


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産経新聞の正論が面白い!
【正論】
立命館大学教授 大阪大学名誉教授 加地伸行

■敬老を弱めた借り物の個人主義
 つい4カ月前のこどもの日、本欄に「子虐待の原因は家族崩壊にあり」と題する一文を草したばかりであるが、最近、老親の死を役所に届けず、遺体と同居しつつ、あるいは他所に遺棄して、しかも亡き親が生前に受給していた年金をそのまま受給し続けていたという事件が続々と発覚している。そのようなことを平気でする子どもなのであるから、おそらく親虐待の果ての死であったであろう。
 これはもはや、家族崩壊とは次元を異にする所業である。
 しかしながら、こうしたケースは最小限にとどめなければならない。というのは、このような所業がこれから増える可能性なしとしないからである。なぜか。また、それはどういう意味か。
 5月5日付の前稿で、こう述べた。欧米の[自律・自立・自己責任の下の]個人主義は、それだけで成り立つわけではなくて、唯一最高絶対者である神という抑止力があった。逆に、神への信仰なき者には抑止力がないので、似(え)而非(せ)個人主義者すなわち利己主義者となる、と。一方、東北アジアの[無償の愛に基づく共同体としての]家族(一族)主義においては、家族の秩序を維持する抑止力として、各家に祖先があった。祖先を敬愛しない者は、一族と無縁な利己主義者として追われる。
 ≪戦後教育で家族主義稀薄化≫
 さて、日本の場合、明治からの近代化とは、実は欧米の模倣だった。個人主義はその典型。だが、それまでの一族主義から一気に個人主義化するのは不可能だった。そこで中間的に世帯中心の家族主義に小型化し、一方、社会的には個人の権利を守るという、家族主義、個人主義半々の折衷化を図り絶妙のバランスを取ってきた。
 ところが、敗戦後、日本国憲法個人主義のみを前面に出し、家族主義を放逐した。その極致が憲法第24条「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し…」である。
 もっとも、当時は家族主義がまだ生きており、この条文はさして影響力はなかった。しかし、戦後教育が進む中で、この条文がしだいに実質化されてゆく。それと反比例して祖先を中心とする家族主義が弱体化していった。
 ≪宗教の抑止力なく利己主義に≫
 もちろん、真の個人主義が確立されてゆくならば、それはそれでよい。しかし、そのようなことはあり得なかった。なぜなら、日本には利己を許さぬ抑止力としての絶対神というキリスト教的風土はなく、また、伝統的な抑止力としての祖先への敬愛も失われていったため、学校における個人主義教育は、ほとんど利己主義者養成と化して今日に至ったのである。
 この利己主義者はだれも信じない。友達も愛も不要。信じるのは自分と金銭とだけである。
 さらに問題があった。日本人は道を極めることを徳とする。それは正しい。ところが、多くの日本人は、「道を極める」ことを「道の型を極める」というふうに、様式化してゆきがちだ。例えば「茶道を極める」はずが「茶道の型を極める」ことになりやすい。
 個人主義も同様だ。個人主義の精神を体得できず、その様式化、その型、実は利己主義の追求になりやすい。個人主義の戦後教育がその典型であった。
 真の個人主義者であるならば、自己決意の下、老親を見捨てることはない。あるいは、真の家族主義者であるならば、己れの生命との同一体として、老親を見捨てることはない。まして、虐待することは、個人主義的にも家族主義的にも、道徳的にあり得ない。けれども、現実には、多くの老親がつらい晩年を迎えつつある。
 ≪形式的な取り込みのツケ≫
 過日、あるシンポジウムで、あるパネリストがこんな実話を紹介した。両親を虐待していた夫婦が庭に小屋を建てて両親を住まわせた。両親亡き後、小屋を壊そうとすると、夫婦の子が「壊さんといて。いつかパパ、ママが住む所だから」と言ったと。満場、しんと静まり返ったのが印象的だった。
 老親を廃棄しての年金詐取という今回の事件に対して、やれ確認の制度が不備だの、やれ家族は危険だの、やれ精神病理の…などという論評が続いている。
 それらは、木を見て森を見ない一面的な感想に過ぎず、そのようなことをいくら述べても、どす黒い現実に対して無力である。
 問題は、本質にある。すなわち、日本の近代化が欧米文化に対するひたすら観念的な形式的取り込みを中心にしてきたツケが回ってきたということなのである。比喩的にいえば、欧米人は頭(知性)も体(感性)もともに個人主義。中国人、朝鮮民族は、自力の近代化がなかった、いや、できなかったので、頭も体も依然として伝統的家族(一族)主義。これに対し、日本人は外面的近代化に熱中したので頭は個人主義、体は家族主義と、分裂している。この分裂は本質的に結合できない。
 とすれば、個人主義のみを第一とせず、両者の真実とその選択に対する寛容とを、学校で教育するほか解決の道はない。今日の敬老の日にあたり改めてそれを思う。(かじ のぶゆき)