四四太郎の霊日記 ー11

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                ~~~ヾ(^∇^)おはよー♪
週一度、娑婆に出るという習慣さえ出来れば、ワシも大体言いたいこをは言え、
まあ有り難いことである。 ところで、そろそろ解りかけてきたことだろうが、
ワシは、お主とは別人格ということ。
もちろん、こうしてお主に語りかけるのだから、当たり前だが。
といって、お主の先祖であり、子孫のお主の脳を通して語るのだから、
普通の別人格という訳ではない。まあ、それは折に触れて語るが。

ところで、ワシらの時代には自由とか、平等という言葉すらなかったんじゃ。
その言葉は、外国から来た考えで、ワシらは上下の関係が全てであった。
それと、自由とは何だか解らないところがある。 まあそれはそれでよい。 
霊のワシはお主の霊を通して「いま、ここ」のお主に語りかけているだけなのだ。
だから、お主の霊の奥底から語りかけていると言ってよいが、
しかし別の人格である。

ワシの立場からすれば、霊だけになってから、当時のワシとお主はホボ同じに
思えるのだ。400年前に「これ、それ」とか、腹が減ったとか、腹が立つとか思っているワシと、お主が現在同じことを思っているのと、何処が違うのだろうか。
ただ、娑婆の現象が違っていても、そんなもの霊だけになってしまえば、
同じになるのじゃ。だから、ワシがこうして語りかけているのも、お前の頭を
通して語りかけているのも、同じようなものでしかない。

ここで、ワシの立場から言わせると、毎度同じことの繰り返しになるが、
娑婆の実相は泡沫でしかない。 といって実相を見誤るでない。
そこには何時も、警告が含まれているのである。
それは何の警告か? 枝葉末節と本質とを混同してしまう過ちを警告しているのだ。
それが娑婆というもの。 その反面に枝葉末節の中にこそ、真実があるのだ。
このように鳥瞰すると、偉い人間より、その辺の普通の人間の味わいこと興味が湧く
のである。 お主の40年近く前の日記で、誰々のことや、何処何処で食事をした
とか、飲みに行った話があるだろう。それこそ、改めて振り返ると懐かしいし、
当時の殴り合いをしたことこそ、如何でもよいことじゃなくて、素晴らしいことだろう。
それをワシが御主に言いたいことなのじゃ。 そういう、両親がいて、姉がいて、
友人がいて、酒を酌交わすこと、そのことが価値があるのだ。
喧嘩をしろ、酒を飲んで騒げ、本を読め、何でもすること、それが重要なのだ。
じゃあ、またな!!        
         (   )ノ~(  )ノ~(  )ノ~~バイバイーッ!!