閑話小題 ~YouTube【ユーチューブ】とは…

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   * YouTube【ユーチューブ】
 このところ、TVの視聴は三分の二は、ユーチュブを見ている。
どれもこれもが面白い材料がつまっている。その内容は、現地で生のまま配信
されているため新鮮である。年齢もあってか、部屋にこもる機会が多いことも
あっても、ここにチャネルを合わせると、何等かの満足できる内容がある。
グーグルの傘下に入ったことで、一挙に普及したというが… このコロナ禍で、
在宅が多いこともあって、投稿内容が激増し、シリアスになったような。
動画のため、難しい説明もないところが非常に良い。
  ~そこでネット検索すると~
≪2005年に設立されたアメリカのインターネット動画配信サイト。誰でも動画
 を簡単にアップロードし共有できるためインターネット利用の拡大とともに
急速に普及,2006年検索サイト最大手のグーグルが買収したことによって,
既存の放送メディアやコンテンツプロバイダーからの配信を受けること
になり,爆発的に拡大した。社会的・政治的影響力も無視できない有力サイト
になっている。動画の権利問題等,未解決の問題も多い。 ≫
 ―
▼ それぞれの分野の映像を魚に例えると、YouTubeは、漁船から直接、販売
するのと同じようなもの。中に、市場、魚屋など一切に入らないため、面白い筈。
それも人気順の為、世界中の生の実態が、そのまま、映像として提示される。
後は、ÝouTuberの腕次第。これでは、地上局、BS放送局が叶う相手ではない。
これまでは、素人が趣味としていたのが、プロ集団が、本格的に参入してきた。
自宅でも、10年前に飼った小型インコが、枝で前回り回転の芸がある。
調子に乗ると20回は回転する。面倒なので撮影してないが、これを投稿すれば
間違いなく? マスコミが飛びつく筈…? 

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7046,閑話小題 ~現場は… やば! -2
2020年06月29日(月)
    * コロナ禍の生現場
 以前と違い既に隠居の身、居酒屋、スナックに行く機会が少ない。
そこでYoutubeを切口に、歌舞伎町の居酒屋経営者の生の声を‘街を彷徨う
人達の事情’をインタビューする。そこで、小さな飲食ビル前で佇む初老の男
に話しかける場面。その居酒屋の社長で、コロナ禍の厳しい現状を語りだした。 
 ~その内容とは…
【 歌舞伎町で商売を始めて40数年。大たい4~5年で7~8割が自然淘汰される。
 店内に篭り働きづめのため他店の事情に疎い。…この危機はリーマンショック
とは比較ならない程、厳しい。この数年で、9割が淘汰されると推測される。
その残りの1割になりたいが… 従業員は、他の駅前店を加えると28人。
何とか生活を成立させたい。数日前からあけた店は、以前の1~2割しか売上は
戻らず、一年後に、5割戻るか否かだが、厳しいだろう!】と、悲壮感が色濃く
漂っていた。
 歌舞伎町といえば、日本有数の色町。目的の店に行く事前、事後に居酒屋に
立寄って気勢をあげる。働くには面白いのだろうが、ここも御たぶんにもれず
最悪の事態。  <現状を把握すれども、理解も納得もできず!>
世界中が現在、経験していること。現在、問題なのが、ほぼ全ての業種、業態
に関係していること。規制解除後も、売り上げ回復がゼロか、1~2割ほど、
「自分だけでないから、自分だけは大丈夫」という落し穴の「正常性バイアス
歌舞伎町の居酒屋社長も、この「正常性バイアス」が、深く根づいている。
中越地震の古町に、行くつけの店に顔を出すと、「一週間に一人だけドアを
開けただけ、あんたが二人目」と、涙ぐんでいたことがあったが… 今回の、
これは、絶望に近い黒鳥の到来。
 ―
 ネット検索で「歌舞伎町 一人佇む」と入力をすると、
以下なる文章が出てきた。なる程、これほど3密の劇場が、現に存在していた。
【 東京・新宿歌舞伎町の路地裏にひっそり佇むストリップ劇場「DX歌舞伎町
ミュージック劇場(通称:デラカブ)」6月30日、39年の歴史に幕を下ろした。
 歴史ある劇場の最終日を見届けた風俗情報誌『俺の旅』の生駒明・元編集長
は当日をこう振り返る。「最終日は48席の客席を優に超える100人以上が行列を
なして待っていました。劇場専属の踊り子も舞台に上がり、とても感動しましたね」
 その会場に普段は固く禁じられている「カメラ」が初めて入った。消えゆく
ストリップ劇場の姿を記録に残したいと立ち上がった京都のピンク映画館
『本町館』で働く太田耕耘キ氏が、ドキュメンタリー映画『デラカブ活動写真』
を企画し、自主制作した経緯を語る。】 とあった。 歌舞伎町が、生々しく、
存在していた。

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6679,閑話小題 ~卒・50周年の集いに参加して
2019年06月29日(土)
   * 卒50周年の同期の会、見聞録
 リタイアをして8年と3ヶ月。日常という岩穴の生活が日々を覆っている。
それに不満もないが、年一の海外ツアーや、何やらの忘年会で、市外への外出で、
何とか気を紛らわしている。大学の粋な計らいで、10年単位で、同期生の会が、
学食で立食パーティー方式で開催されている。20、30、40周年の集いに参加して
きたが、これが何とも感慨い深いものがある。小・中・高校の付属校卒を中心に
閥があるようだが… 地方出身とは、明確のラインが引かれている。地方から
わざわざ上京しなければならないハンディなどで、どうしても疎遠の傾向になる。
何故か、私たちの年代の出席が異常に高くて、前回は400人、今回は340人。
総長の挨拶で、連絡がついた中で死亡確認が160名。大よそ3割が鬼籍に入って
いると。72,73歳が一堂に、340人も集まる会は、恐らくギネスブックものと。
 
 立食パーティーでは、この10年近く、毎年、同級会に参加してきたためか、
顔見知りが殆ど、他にクラブ、ゼミなどの友人などが、話しかけに来てくれ、
一時間半はあっという間に過ぎた。ただし、何故か欧州旅行の友人は皆無。
今年の暮れも忘年会には出席予定だが、一回ごとに一期一会の感が強くなる。 
 60周年記念は、生きているかどうか。生きていたも地方からは肉体的にも?
今回は、『集団の生前葬』っていうところか。それにしても、リッチの世界。
二次会は、新潟に16年近く転勤できていたクラブ仲間だった飲み友達と、喫茶店
で一時間ばかり、前週に行われたクラブのOB(私は欠席)の話を中心に雑談して
帰路に…。 
 
 それ以前の話になるが、地元の駅の改札前で、切符の紛失に気づき大慌て… 
そこで、歩いてきたコースを200m逆行したところ、発見、事なきをえた。
冷や汗がドッと出たその慌てぶりには我ながら驚いた。その迂闊さは、明らかに
年齢と平平凡ぼんとした日常からくるもの。 最近、肉体も精神も、捩じれ、
緩んでいるためか、自己嫌悪に陥ることが多い。年齢と共に、内内にエネルギー
が向かう傾向が強くなり、社会的適応度が益ます低くなっている。老いという
ことは、こういうこと。 ところで、山手線で、一つ空いていた席に向かうと、
80歳過ぎの御婆さんが、強引に割ってきたため、身を引いた瞬間、目の前の
オバサンが、スッと席を立ち、譲ってくれた。 そう私も老人だったことに、
気づいた次第。 それも腰痛で、少し歩くと、前屈みの73歳の! 
 その時節じゃ、ショウガナイとしても。何か認めたくはない。

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6316,閑話小題 ~今年も半期の終了
2018年06月29日(金)
   * 半年ですか半年
 ・あと数日で、半期を経過ですか! ハヤッで、面白いように日々が過ぎ、
この繰返しのまま死んでいくのも良しである。 このブログに毎日、一テーマ
をを書上げることと、TVで、ドラマと映画、世界の秘・異郷の大自然を見る
ことで充分満足している日々… 御幸せで有難い御隠居生活。慣れてしまえば、
この状況も住めば都。ヘドロの要素は付録と割切り、人と比較しないことを旨
とした閉じ籠り? 
 ・3ヶ月(現役当時は1~2月)に一度飲んでいた酒友が自宅前で転倒し骨折。
で、この半年間、何十年ぶりに居酒屋とカラオケに一切行くことがなかった。
これが一番の出来事ですか。行かなければ行かないで、この年齢では当然。
別に飲み出歩きたいと思わない。これは海外旅行も同じ。
 ・不幸では、3番目の姉の連れ合いが85歳で、高校の同期生が亡くなった。 
この年齢になれば、無事経過こそがベストの出来事。健康面は腰痛以外は良好。
毎週金曜日の「シネマ通い」は、一月末以外は、皆勤。今日を含めて24回に。
SJ通いは、7年以上、週5日、皆勤に近かったが、最近、月曜か土曜日を休む
ことにした。早朝のポタリング(ミニ・チャリ)1時間に、2時間の運動は、
健康的過ぎ、これでは推定死亡年齢?を遥かに超え、「死ねない病」になる
恐れが出てきた。予定では、あと2年半だが、このままでは…


   * ワールド・サッカー、予選通過
 昨夜は、熟睡していた0時過ぎに、近所の絶叫の『ター!』の大声で眼が
覚めた。家内は隣で爆睡。そこでTVをつけると、終了10分前。アジショナル
タイムを入れた一番のサワリの20分を幸運にも観ることが出来た。
前日のドイツ敗戦を日本に当てはめる解説は誰もしてなかったが、紙一重で、
同じ道を辿る可能性があった。ドイツが終盤に放ったゴールが悉く外れ、
逆に二点入れられ敗戦。その再現かとヒヤヒヤしてみた。
 裏番組で『セネガル対コロンビア戦』の結果では、予選敗退の可能性が
あったため、微妙な采配が必要だった。次戦7月3日まで楽しみが延びた。

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5584,60歳までに、人生を前倒しをしていて!
2016年06月29日(水)
 70歳を過ぎた現在、「60歳までに人生を前倒しをしていて良かった!」と、
つくづくと思うことしばしば。以下にコピーしたの13年前の文章を読返すと、
1年後に中越地震、その3年後に刈羽柏崎沖地震、4年後の2008年に、リーマン
ショック、更に8年後に東北大震災が、たて続いた。その結果、私も、まさかの
事業整理に至った。 作家の曽野綾子が、「人生の良いところは、60歳まで」
といっていたが、体力も考慮すると、成るほど正しいと実感する。 
 以下の内容を書いて13年間、友人、知人、親族が次々と倒れ、亡くなった。
病に倒れて発する共通の言葉は、「まさか、自分が! これから、ノンビリ
するつもりだったのに!」である。 死に直面した時の恐ろしさと動揺は、
「人生に、やり残した無念」があると増幅する。 とすると、老後の残務整理は、
それを探し、潰していくこと。そうこう考えると、【して失敗した後悔より、
しなかった後悔の方が遥かに大きい】ことになる。  一般的に、
「してしまった後悔1に対して、しなかった後悔が3」ではないか。どうだろう?
 30年分を10年に圧縮して生きた50歳代は、充実感があって実に面白かった。
60歳代の最大のイベントが、会社整理だったが、3・11もあって、未練も後悔も、
最小になっていた。両親の晩年に同居していたこともあって、「その都度、
計画的に楽しんでおくべし」という、人生の何たるかを、後姿から学んでいた。
この教えを学んで実行していたのは大きい。10年前と、13年前に書いてある
文章を読返してみると、計画通りに、遊び、楽しむ必要性を知っていた。
その時々に、真面目?に学び、楽しみ、遊んでおけ、ということ。
 辛いことも多かったが・・ それも楽しみの内。
――――
2003/06/16
50歳の頃ー1
  -60歳までの人生
 曽野綾子の本で『人生の良いところは60歳まで』という文章があった。
丁度私が50歳の時であった。50歳で、母親を見送り(亡くなり)人生の
損益分岐点を超えたという思いがあった。あとの人生を如何生きようかという
自分への問いかけをしていた。その翌年、下の子供と家内と3人で南米の
ギアナ高地に出かけた。テーブル・マウンテンのキャンプ場で、夕陽を見ながら
息子と日本酒を飲みながらふと思った、「自分の人生の元は充分にとった」と。
 その時に考えたのは、
曽野綾子の『人生60歳までがよいところ』なら、それ以降の人生を60歳
までに詰め込んで生きよう!『人生の純益』を60歳までにとってしまおう」と。
・海外旅行をそれまでに50回行くことー不景気で無理か?
・人の目を気にしない生き方を更に徹しよう
・好きな事を可能な限りしよう 等、生き方を変えようと。
しかし曽野綾子は60歳少し前の文章である。
その時、母の生き方を見ていたこともあり、まだ解っていないと思っていた。
本当に良いのは60歳からというのを母から教わっていたが、しかし
「60歳以降の前倒しにする決心』は良いと解釈した。 
 その翌年にネパールに行ったとき、67歳の初老の人から人生の秘訣を
教えてもらった。「私は43歳までに必ず死ぬ家系であった。それを前提にし、
そこまでに人生のすべてを燃焼し尽くした。その一つに日本を全てを家内と
娘と3人で回り尽くした。しかし死ななかった。その後は世界にチャレンジを
始めて、ほぼ全てをまわり尽して現在もこうして生きている。短命の家系の
前提がなかったら人生をここまで味わいつくせなかった!」。 深い人生の示唆
であった。「60歳までに人生の全ての前倒し」を自分の生き方に取り入れた
直後であったから、尚のこと心に響いた。あと2年半で、その60歳である。
「それでは60歳以降如何いう生き方をするのか?」。
元を取ってしまったので、逆にあとは一日一日をじっくりと味わって生きる
ことができるのではないだろうか。そして、それまで経験をしたことのない
分野を探し出しチャレンジすることである。その意味では、逆に広い世界に
飛び出せるのではないかと考えている。
 最近、景気後退ー恐慌一歩手前になってきたり、SARSやテロなどで
アフリカや中近東には以前ほど気楽に行けなくなってきた。
この時勢に優雅に海外旅行などともいっていられなくなってきた。
あの時点にやはりギアチェンジをしていて良かったと思っている。
――――
2006/05/23
1876, 10年後に後悔する事とは?
             おはよ~!(*^ワ^*)i 
あるHPを見ていたら、次の言葉に引きつけられた。
「10年後に後悔しそうなことをリストアップして、それを潰していく
生きかたをする」である。(七田チャイルドの七田真氏と本田某氏の対談)
 私が十年前に考えたことは、   (。-`ω-)ンー
「50代の10年間で60歳以降の人生を全て押し込んで生きる」である。
20~30年間を50歳代の10年間で全て前倒しにする、と。
それがこの程度の変化でしかなかったのか?。 という自問自答は残るが。
現在になって振り返ると、先まわしをして良かったと思っている。
後悔しそうなことを潰していく生き方は消極的に思えるが、
「消極的な生き方(後回しーその大部分は中途半端)が一番後悔する」
とリストアップすれば、逆に積極的な生き方が出来る。  
 想定可能なマイナスをあらかじめ潰すのは、最善の行為と同じか、
それ以上である。後悔することは、その時は気がつかない行為か、判断ミス
が最悪だったということ。 それが想定可能かといえば、可能である。
ということは最善の準備と同じぐらい大事なことになる。
                          (‐”‐;)
ところで10年後に何を後悔するだろう?
一期一会と、何ごとも真摯に立ち向かえば後悔することはないはずだが。
いや10年前に事業で時代の先行きを、より悲観的に読んでいれば
もっとシビアな手が打てたはず。
 ー面白おかしく「10年後の最悪の後悔」をイメージをしてみた?
・酒を飲んで暴れて、家内に愛想をつかれて離婚。
 現在は年金で、何処かの街の安アパートで冷酒を飲みながら懺悔の日々・・
 それでも冷酒を飲んでいるのだから、懺悔にはならないか?-ω-`A) フゥ…
・死んで、この世にいない。誰も、もうこの男のことを憶えていない。
 二人の子供も、あの父親のことだけは思い出したくもないと墓参りもない。
(しかし、自分がいないのだから後悔しようがないか!)                 
脳梗塞で入院しているが、気が短く、毒舌が冴え、
 同室の患者や看護婦から嫌われて自閉症気味。
・考えていたより遥かに、日本という国家の疲弊が酷い状態。
 10年前に海外に思い切って財産や生活の場を代えておけば
 よかったと、毎日の生活の追われる日々。
ありそうな10年後の姿である。より深く時代を読まなくては!
酒にも、病気にも注意しなくては!    
―――
~2016年6月29日・記
この2年後に、リーマンショックが起きて世界経済は大混乱をした。
その煽りを受けて、3年後に事業清算に至ったが、何とか、それまでの
生活の延長上にある。大病もなく、この随想日記を書き続けている。

・・・・・・             
5219,閑話小題 ~中学校の古希会
2015年06月29日(月)
   * 中学校の古希の会
 一昨日、湯沢のニューオータニで長岡市立東中学校の『古希の会』に参加。
一次会が17時から19時半、二次会が、その直後から別会場で開かれた。
9割が、そのまま移動。 参加総勢が61名で、女性34名、男性27名の割り。
同期360名のうちの二割弱になるが、年齢からみて多い参加者である。
男は大よそ4分1が亡くなっている。 私のクラスは、52名中、10人出席。
男6名、女4名。市内在住の男は、私1人の参加。県外が4人になる。 
死亡は、男27名中7人、女性は2人。 喜寿は、恐らく今回の半分だろう。
連れ合いの看護や、当人自身の問題で欠席が多々あるという。 卒業以来、
初めて会う人が同クラスで二人で、教師と、自衛隊を勤め上げていた。
様々の人生模様があるが、出席者は比較的恵まれた人たちだろう。大病で、
ゲッソリした人が何人かいた。 自衛隊、教師、病院の薬剤師、日立、小松、
など仕事はさまざま。古希となると、元肩書きなどの意識が消えているので、
昔の時代に立ち戻りやすいようだ。多く人が「古希の実感ゼロ」という。
 司会を自から申し出たが、思いのほか緊張してしまったのに驚いた。
直前に500mlの缶ビールを飲んだこともある。その上に、一線から引いて、
何かが緩んでしまったということか。17時から19時半まで一次会。
その後、近くのスナック風の宴会場で二次会が開かれた。私は20時53分
の新幹線で帰ってきた。これだけの同期の人が集まるのは、これが最後。
喜寿は、この半分~三分の二だろう。 翌日の二日酔いは全くなかった。
後は急勾配の坂、70歳代が控えている。特に、男にとって厳しい。
 そこで、「あと10年は生きるつもりだったが・・マサカ」の坂が?
私なら「あと5年は・・ マサカ!」になる。プラマイ3歳だから、
二年半を無事なら想定内、先は短い! とにかく古希の関所を超えた!

・・・・・・
4854,「事業人生を決心して45年」の語り直し ー24
2014年06月29日(日)
   * 転進の決断と、次への構想
 そこで、新潟駅前の更地と、現在のアクロスプラザ近くの角地の更地を
有効に生かすことが急務と考えた。その角地は兄名義、新潟駅前は私名義。
背に腹は変えられないと、考えに考えた結論が、兄名義の更地を売却し、
新潟駅前に、ビジネスホテルにした遊休資産の活用である。その一角に
当時の稼ぎ頭の学生服を入れる構想。結論からいうと、鉛筆ビルの衣料
量販店の建替えは、時代の要請ではなかったことに逸早く気づいていた。
 但し転用可能のビルでもある。兄は、当初に打ち上げたファッション衣料
チェーン化に集中すべきと主張!私と意見が分かれた。
「もし、やりたいなら、出ていってやれ!」と。そこで思い出したのが、
ここに戻った時点で、「実兄との問題もあり、5年間が目安!」と公言して
いたこと。「身の引き時!30歳代前半からみて、ここで決断をしないと、
姉夫婦と同じトラブルを、実兄とすることになる。同じエネルギーなら、
新規事業に集中する方が遥かに有利」と、直感が働いていた。あのままでは、
間違いなく相打ちになった。2~3ヶ月に一度の名古屋、岐阜、大阪、岡山
などの仕入れで、各地のビジネスホテルに泊まっていた。その仕入れ後に、
同行した同僚との現地の料理屋での一杯が楽しみになっていたが、食事代は
限られている。そこで、安いホテルを探し、その差額を加えるしかない。
その出張が宿泊客のニーズを知る立場になっていた。 産地の岐阜駅周辺
にも、客室主体のビジネスホテルがあって、そこを定宿にしていた。
立地は二等地だが、ユニットバスのある格安ホテルである。さらに現在は
無くなったが、倉敷に大学校庭をイメージした、レンガをモチーフにした
スケェアガーデンホテルがあった。そのイメージをレンガ外装に、客室主体に
したホテルと、学生服ショップを併設させれば、間違いなく大当たりする!と。
で、何度か実兄と衝突をするうち、半年後を期限にと、思い切った次の創業
の決断をする。あの兄に本当に本店が? その後、20期、全て赤字で消滅。
他人事ではない! 激変の時代、利益を出すのは本当に大変である。 
これを書いて見えてきたのは、私も、実力相当の結果に終わったこと。
それと、引き時のタイミングの見極めの難しさ、である。